佐藤振壽の手記は南京事件をどう記録したか

佐藤振壽は東京日日新聞(現・毎日新聞)の従軍特派員として上海戦から南京攻略戦に向かう第百一師団に帯同した写真記者で上海戦から南京攻略戦の過程で記録した写真と戦後に書いた手記(『上海・南京 見た 撮った「従軍とは歩くこと」』が公開されています。

佐藤振壽は従軍記者(従軍カメラマン)であることから、その性質上、軍の内部の立場から見た記録しか残されていないため、南京事件を知る資料としては限界がありますが、その手記には上海戦から南京攻略戦に至る過程において日本兵によって行われた暴虐行為についても若干触れた部分がありますので、その一端を知ることのできる記録の一つであることは間違いありません。

では、佐藤振壽の手記は上海戦から南京攻略戦に至る過程で日本軍によって行われた暴虐行為をどのように記録したのか確認してみましょう。

佐藤振壽の手記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年11月30日「まだ食用になる部分が」、同年12月7日「取り残しが多かった」

佐藤振壽の手記『従軍とは歩くこと』の昭和12年11月30日と同年12月7日には、日本兵による略奪(掠奪)とその略奪(掠奪)品の粗略な扱いを示唆する記述が見られます。

〔中略〕追撃が急だったせいか、日本兵が豚を一頭仕留めたが、銃剣で股の部分だけを削いで行ってしまった。見るとまだまだ食用になる部分がある。筆者はハンチングナイフで丹念に切り取った(以下略〕

出典:佐藤振壽『従軍とは歩くこと』 昭和12年11月30日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ576頁上段

〔中略〕途中、民家で小休止すると、民家の外で兵隊がブタを殺した。股のあたりの肉をそぎ取るのだが、銃剣では思うようには取れない。取り残しが多かったので、筆者はハンチング・ナイフで残った分をいただいた。初冬を迎え温度は低くなっているので、腐る心配がないから飯盒につめこむ〔以下略〕

出典:佐藤振壽『従軍とは歩くこと』 昭和12年12月7日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ586頁上段

ここでは、11月30日と12月7日の両日に豚(ブタ)を殺して肉を採取していますから、日本軍が進軍の過程で家畜の豚(ブタ)を略奪(掠奪)して食料にしていたことがわかります。

この点、豚(ブタ)を殺しただけで略奪(掠奪)したとは断定できないではないかと思う人もいるかもしれません。

しかし、その「徴発」に際して対価となる現金や軍票を支払ったり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した紙を残して司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなど、正規の手続きで「徴発」していたなら文支通り「徴発」なので違法性はありませんが、つぎのような証言にもあるように正規の手続きで「徴発」した兵士はまずありません。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

上海戦から南京攻略戦に至る進軍の過程では兵站が無視されたことから糧秣は当初から軍全体で現地調達(徴発)の方針がとられましたが(※たとえば→第六師団の戦時旬報は南京事件をどう記録したか)、日本軍将兵の間では「徴発」と称する略奪(掠奪)が蔓延したことは様々な資料から明らかにされているわけです。

したがって、この佐藤振壽の手記にある豚(ブタ)の記述も略奪(掠奪)によるものであるのは明らかなわけですが、その豚(ブタ)は現地住民が大切に育てた家畜であって、家族を養うために必要不可欠な大切な財産です。

日本軍兵士は「まだ食用になる部分が…(11月30日)」「取り残しが多かった(12月7日)」とあるように、自分が持てるだけ、自分が食べるだけの部分を切り取るためにその豚(ブタ)を略奪(掠奪)して殺していますが、仮にそれが日本人の豚(ブタ)であったなら、そこまで粗略に扱わなかったのではないでしょうか。

もしも、その豚(ブタ)が日本人が飼う家畜であったなら、たとえそれが掠奪(略奪)であったとしても、その市民の貴重な財産を無駄にしないように、余すことなく切り取って感謝しながら食糧にしたはずで、この「まだ食用になる部分が…(11月30日)」「取り残しが多かった(12月7日)」とある記述のように、ぞんざいな扱いはしなかったはずです。

日本軍兵士は上海戦から南京攻略戦に至る過程において、中国人の大切な家畜をこうして略奪(掠奪)しながら進軍しましたが、この「まだ食用になる部分が…(11月30日)」「取り残しが多かった(12月7日)」の記述からは、中国人に対する優越感情が如実に表れている気がします。

そうした中国人に対する差別意識・優越感情が、南京攻略戦において繰り返された略奪(掠奪)や放火、強姦や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為に繋がって行ったのではなかったでしょうか。

(2)昭和12年12月14日「軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ」

佐藤振壽の手記の昭和12年12月14日の「八十八師営庭の中国兵”処断”」の部分には、明らかに日本軍による組織的な虐殺と分かる記述が見られます。

八十八師営庭の中国兵”処断”

〔中略〕中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている、彼らの前には五メートル平方、深さ三メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。
 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
 左の穴は上半身裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合のかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。
〔中略〕後で仲間にこの時のことを話すと、「カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか」と反問された。「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。

出典:佐藤振壽『従軍とは歩くこと』 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ610∼611頁

ここでは、日本軍の部隊が「百人くらい」の敗残兵を捕らえて「後ろ手に縛」ったうえで、そのおよそ半数を中国軍から鹵獲した小銃で銃殺し、残りのおよそ半数を銃剣を使って「背中を突き刺し」て殺害しています。

しかし、敗残兵を捕らえたならそれは国際法規上は捕虜として扱わなければなりませんが、ハーグ陸戦法規は捕虜に人道的配慮を要請していますので処刑することはできませんし、仮にその捕虜に何らかの非違行為があったとしても軍事裁判にかけて罪状を認定しなければ刑罰を執行できませんから、軍法会議を省略して「”処断”」しているこのケースは明らかに国際法規に違反する不法殺害にあたります(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

佐藤振壽はこの手記の12月16日の部分で

私が自身をもって書くことができるのは、この眼で見た八十八師の営庭での敗残兵の”処断”だけである。

出典:佐藤振壽『従軍とは歩くこと』 昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ618頁下段

と述べていますので、佐藤振壽が現地で見た日本兵による虐殺は本人のこの証言を信じるとすればこの事例だけに限られますが、佐藤振壽の手記のこの部分は陥落後の南京で日本兵による百人規模の大規模な虐殺があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(3)昭和12年12月下旬「日本兵が銃床でなぐりつけ」

佐藤振壽の手記の12月下旬について記した部分には、捕虜の虐待に関する記述が見られます。

〔中略〕正月用品と思われる四斗樽の菰かぶりが貨物船からクレーンでつり下ろされ、それを中国兵捕虜が運んでいたが、うっかり地上に落としてしまった。これを見た日本兵が銃床でなぐりつけるのを目撃したが、何もそこまでしなくてもと思わせられた。〔以下略〕

出典:佐藤振壽『従軍とは歩くこと』 :偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ630頁上∼下段

この点、ここに「中国兵捕虜」とありますが、日本軍が南京で避難民にまぎれた敗残兵を選別したいわゆる「兵民分離」では杜撰な手続によって多数の民間人が兵士と間違われて捕らえられたことがわかっていますから、この「中国兵捕虜」の中にも少なからぬ一般市民が含まれていたのは確実なのでその点は注意が必要です(※この杜撰な兵民分離の詳細は『水谷荘日記は南京事件をどう記録したか』『増田六助手記は南京事件をどう記録したか』『井家又一日記は南京事件をどう記録したか』などの記事で紹介しています)。

ところで、ここでは捕らえた捕虜を使役させているうえ「銃床でなぐりつけ」ていますが、この事例に関しては2つの国際法違反を指摘できます。

① 違法な使役の違法性

まず、ここでは貨物船から下ろされた荷物を中国兵捕虜に運ばせていますが、当時の国際法規は捕虜や一般市民を使役させる場合は労賃を払うことが義務付けられていましたので(捕虜の使役はハーグ陸戦法規第6条、市民の使役はハーグ陸戦法規第52条)、使役させるなら賃金を支払わなければなりません。

しかし、他の兵士の日記や証言を読んでもわかるように、日本軍が南京において使役させた現地民や捕虜に適正な賃金を支払ったケースはまずありません(※使役に関しては牧原信夫日記(牧原信夫日記は南京事件をどう記録したか)や歩兵第66連隊の戦闘詳報(歩兵第六十六連隊の戦闘詳報は南京事件をどう記録したか)などにも記述があります)。

佐藤振壽手記のこの部分は使役に対して賃金を支払ったのか明確ではありませんが、まず間違いなくハーグ陸戦法規に違反した違法な使役があったと言えるでしょう。

② 捕虜の虐待に関する違法性

また、ここでは使役させていた中国兵捕虜を「銃床でなぐりつけ」ていますが、捕虜や現地民に対しては人道的に取り扱うことが要請されていますので、こうした虐待は明らかな国際法規違反です(例えば→ハーグ陸戦法規第4条)。

したがって、この点で考えても、佐藤振壽手記のこの部分は南京の日本軍でハーグ陸戦法規に違反する違法な虐待があったことを裏付ける記録と言えます。