第六師団は南京攻略戦に参加した第十軍に属する谷寿夫中将の率いた師団で、現地で記録した戦時旬報が公開されています(※「旬報」とは、一定期間の記録をまとめて出す報告のこと)。
では、この第6師団の戦時旬報は日本軍による南京攻略戦で起こされた暴虐行為についてどのように記録しているのでしょうか、確認してみましょう。
第六師団の戦時旬報は南京事件の暴虐行為をどう記録したか
(1)「今次作戦間ノ後方補給不可能ノ為」
第六師団の戦時旬報第15号の附録「第三 所見」には「補給給養地方物資」の項を設けて次のように報告されています。
【第六師団戦時旬報第15号附録「第三 所見」第11項「補給給養地方物資」】
今次作戦間ノ後方補給不可能ノ為湖東会戦ニ於テハ携帯糧秣四日分ヲ以テ十日間崑山転進ヨリ南京攻略迄ハ崑山松江及嘉善ニ於テ補給ヲ受ケシノミ(大行李到着セス)ニテ殆ント一カ月間ノ戦闘行動ヲナセリ此間主トシテ地方物資ノ徴発ニヨリ給養セリト雖モ嘉興ヨリ秣陵関ニ至ル間ハ師団重複セシ為第二線兵団トナリシ師団ハ地方物資ノ徴発困難トナリ師団ノ給養ハ著シク粗悪トナレリ一般ニ中支那方面ハ北支ト異ナリ精米豊富ナルヲ以テ作戦間ノ人糧ノ補給ハ容易ナルモ馬糧及調味品ニ乏シ
出典:第六師団戦時旬報第15号附録「第三 所見」第11項「補給給養地方物資」※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ590頁上段
この記録からは、南京攻略戦がその作戦立案当初から兵站を全く無視していたことがわかります。
作戦開始当初から「後方補給不可能のため」に「4日分の食糧で10日間の転進」を強いられたというのですから、その時点で兵站は全く機能していません。
それにもかかわらず、なんら兵站を改善しないまま南京に進軍した結果「ほとんど一カ月間の戦闘行動」の間は現地において「主として地方物資の徴発」で糧秣を賄ったあげく、他の師団と進路が重なってその徴発すら「困難となり」師団の補給が「粗悪とな」ってしまっています。
この「徴発」は、糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した紙を残して司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなどしておいたなら文字通り「徴発」となり「略奪」にはなりませんが、次のような証言があるように、そうした正規の手続きで「徴発」した兵士はまずありません。
元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。
出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁
然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。
出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言
また、南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。
一部の将校の中には徴発に際して代金を支払った記録もありますが(※例えば→梶谷健郎の日記は南京事件をどう記録したか)、そうしたレアな事例を除き、上海から南京に至る500㎞弱の距離に点在する村や街で膨大な数の日本軍の兵隊が掠奪(略奪)を繰り返して進んで行ったわけです。
もちろん、東京の司令部も糧秣を現地調達にすればこうした掠奪(略奪)が起きるのはわかっていますから、南京攻略戦自体が掠奪(略奪)を前提として進められていたと言えます。
そしてこうした本来違法であるはずの掠奪(略奪)を是認したことが、強姦や放火、暴行/傷害/殺人など様々な暴虐行為まで兵士の意識の中で正当化されることになり、南京アトロシティーズという世界史にも類を見ない大暴虐事件に繋がっていったのです。
この戦時旬報の記録は、南京攻略戦が当初から掠奪(略奪)を前提として進められたことを公式記録(公文書)が裏付ける、貴重な資料と言えるでしょう。
(2)「各部隊共殆ンド全部徴発ニ依リタリ」
第六師団の戦時旬報第15号の附録「第五 経理(乗船ヨリ南京占領迄ノ給養補給)」では「上陸後ノ給養法並糧秣補充」の項を設けて次のように報告されています。
【第六師団戦時旬報第15号附録「第五 経理(乗船ヨリ南京占領迄ノ給養補給)」第3項「上陸後ノ給養法並糧秣補充」】
各部隊ノ上陸後ノ給養ハ兵站ノ補給開始ノ日時、地点等不明ノ為給養装備セル糧秣及部隊ノ直接購買又ハ徴発セル糧秣ニ依ルコトセルモ住民遁走シアル為各部隊共殆ンド全部徴発ニ依リタリ
出典:第六師団戦時旬報第15号附録「第五 経理(乗船ヨリ南京占領迄ノ給養補給)」第3項「上陸後ノ給養法並糧秣補充」※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ592頁上段
ここでは「直接購買または徴発せる糧秣によることとしながらも」「ほとんど全部徴発によった」としていますが、前述したように南京攻略戦に参加した部隊で徴発した物資について対価相当の現金や軍票を交付したり、あるいは家人が留守の場合はどの財産を徴発したか所有者にわかるように明記して司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなどしたケースはほとんど皆無ですから、ここに記した「徴発」は実際には「掠奪(略奪)」だったことは明らかです。
ここでは「住民が遁走して見当たらなかったから止むを得ず徴発(※実態は掠奪(略奪))したんだ」との趣旨で報告していますが、懲罰対象にならないようにするために止むを得なかったという趣旨の報告にしたのでしょう。
この部分の記述も、南京攻略戦に参加した日本軍の各部隊が上海から南京に至る道中で掠奪(略奪)を繰り返したことを軍の公文書(公式記録)が裏付ける貴重な記録といえます。
(3)「立稲、籾等ヲ代用スルノ止ムナキ場合多カリキ」
また、第六師団の戦時旬報第15号の附録「第五 経理(乗船ヨリ南京占領迄ノ給養補給)」は(2)で引用した部分に続けて第5項に「各部隊ノ給養実施」の項を設け、次のように報告しています。
【第六師団戦時旬報第15号附録「第五 経理(乗船ヨリ南京占領迄ノ給養補給)」第5項「各部隊ノ給養実施」】
〔中略〕追送補給困難ヲ極メタル為給養ハ殆ント現地ニ於テ徴発セル糧秣ニ依リタリ幸ニ師団ノ作戦地域ニ於テハ至ル所精米ヲ徴発スルヲ得散在物資モ相当豊富ナリシ為南京攻撃間ノ外ハ人糧ニ於テハ大ナル困難ヲ感セサリシモ馬糧ノ徴発ニハ頗ル困難ヲ感シ馬匹ノ保健上憂慮スヘキモノアリシモ立稲、籾等ヲ代用スルノ止ムナキ場合多カリキ〔以下略〕
出典:第六師団戦時旬報第15号附録「第五 経理(乗船ヨリ南京占領迄ノ給養補給)」第5項「各部隊ノ給養実施」※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ592頁下段
この部分からも、上海から南京に至るまでの道中で繰り返された日本軍による「徴発」と称する「掠奪(略奪)」の実態が裏付けられます。
「物資モ相当豊富ナリシ」とありますが、兵士の日記や手記などには現地の人が飼育していた鶏や牛、豚などの家畜まで掠奪(略奪)してその日の食事にあてていたことが記録されていますので、上海から南京に至るまでの地域が肥沃な地方だったこともあり、様々な物資を掠奪(略奪)したのでしょう。
現地では農耕のために水牛を飼う家も多かったようですが、大砲などを運搬させるためだけではなく食糧にするために屠殺したケースも存在します(※例えば→山本武日記は南京事件をどう記録したか)。
そうして徴発した牛や馬、あるいは軍馬のための飼料の確保が困難だったとして「立稲」や「籾」まで馬に与えたとしていますが、「立稲」は刈り取る前の稲のことでしょうから、おそらくこの地域は二毛作ができる地域なので刈り取る前の稲を軍馬や牛に食べさせたのでしょう。「籾」は翌年に植えるための「種籾」の事でしょうから、翌年の田植えに必要不可欠な種まで飼料として掠奪(略奪)したことになります。
つまり当時の日本軍は、現地の人たちの生活のために必要な食料だけでなく、収穫前の稲や野菜や果物や、農耕生活の基盤となる水牛や次の年に植える種苗まで、ありとあらゆる物資を傍若無人に掠奪(略奪)し尽していたわけです。
こうして掠奪(略奪)が繰り返された上海から南京に至る道中の街や村では、多数の一般市民が拉致されて物資を運搬するための奴隷労働を強いられたり、中には殺される人もありましたが、仮に命を奪われることなく解放されたとしても、帰った家には何も残されていなかったでしょう。
家畜も種籾も、何もかも奪われた人たちの生活は困窮を極めたはずですが、もちろんそうした侵攻後に生じた犠牲は記録に残されることはありません。
この戦時旬報の記録は、南京攻略戦に参加した日本軍が戦場とした上海から南京に至る街や村で、何もかも食い尽くすイナゴの大群のように押し寄せて掠奪(略奪)の限りを尽くしたことを公文書(公式記録)として裏付ける貴重な資料と言えます。