歩兵第四十五連隊第二中隊は南京攻略戦に派遣された第十軍第六師団歩兵第三十六旅団に編成された部隊で、戦闘の際に記録された陣中日誌が公開されています。
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌は、公的な記録であるものの日本兵による捕虜の虐殺や略奪(掠奪)や強姦など軍規風紀に関する記述もありますので、南京戦で日本兵が具体的にどのような暴虐行為を行ったのか理解するうえで貴重な資料となっています。
では、歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌は南京事件をどう記録したのか確認してみましょう。
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌は南京事件をどう記録したか
(1)昭和12年12月10日「採暖及戦闘上必要ノ外放火ヲ厳禁ス」
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌の昭和12年12月10日の部分には「師団長注意」として次のような記述があります。
一、師団長注意
出典:歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌※昭和12年12月10日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』388頁下段
1、〔中略〕
2、採暖及戦闘上必要ノ外放火ヲ厳禁ス
3、〔以下略〕
第六師団の師団長は谷寿夫中将ですので、谷中将から「採暖及戦闘上必要ノ外放火ヲ厳禁ス」との指示があったことがわかります。
つまり、ここでは「採暖」と「戦闘」で必要な場合のほかは放火を厳禁するとしていますので、「採暖」目的の放火は禁じていないわけです。
しかし、「戦闘」はまだしも「採暖」の場合まで放火を認めてしまうのは、当時施行されていたハーグ陸戦法規の観点で考えても認められません。ハーグ陸戦法規は私有財産の尊重を定めているからです。
【ハーグ陸戦法規第46条】
第1項 家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の進行及び其の遵行は之を尊重すべし。
出典:ハーグ陸戦法規
第2項 私有財産は之を没収することを得ず。
「採暖」の場合まで民家に放火してよいとの指示があれば、兵士は民家の中で焚火して暖を取って家を燃やしても構わないということになりますが、そうした放火は明らかな戦争犯罪なのです。
南京攻略戦は冬に行われたうえ兵站を無視した進軍であったため冬用の軍服や燃料などの補給が受けられず、次にあげる蔣公榖の『陥京三月記』にも記述があるように、多くの兵士が上海から南京に至る途上で民家に火を点けましたが、それはこうした師団命令も関係していたのかもしれません。
〔中略〕敵は軍毛布も完全でなくオーバーもない。着用の服は破れてぼろぼろである。入城の当初、法幣を探しもとめる以外は専ら布団や下着を奪ったり、到るところで火をたいてあたり、また多くの家屋を壊して燃やしたりした原因の大半はこれである。
出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ637頁上段
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌のこの部分は、第十軍の第六師団で「採暖」目的の放火が師団命令として許されていたこと、また南京攻略戦に向かう部隊で民家の放火が相次いで行われたことを裏付ける記録の一つと言えます。
(2)昭和12年12月13日「捕獲射殺セリ」
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌昭和12年12月13日の箇所には、捕虜の虐殺に関する記述が見られます。
〔中略〕水西門北側地区ニハ未タ敗残兵アリテ我ニ向ヒ手榴弾ヲ投擲ス。捕獲射殺セリ。
出典:歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌※昭和12年12月13日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』389頁下段
水西門は南京城の南東部、中華門より北西の莫愁湖方面に面した城門ですが、陣中日誌はそこで抵抗する敗残兵を「捕獲」したうえで「射殺」したとしています。
しかし、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも述べたように、ハーグ陸戦法規は捕虜に人道的な配慮を求めていますから、いったん捕らえた捕虜を「射殺」することはできませんし、仮に捕らえた捕虜に何らかの非違行為があったとしても、それを処刑するには軍法会議に掛けて罪状を認定しなければ刑罰を科すことはできませんから、軍法会議を省略して「射殺」したこの事例は明らかに国際法規に違反する「不法殺害」にあたります。
したがって、陣中日誌のこの部分は、歩兵第四十五連隊連隊第二中隊において捕虜の虐殺があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。
(3)昭和12年12月14日「下関南側附近ニ到着セハ敵ハ既ニ敗退セリ」
歩兵第四十五連隊第二中隊の陣中日誌昭和12年12月14日には、下関(シャーカン)における敗残兵掃討について次のように記録しています。
〔中略〕午前十時三十分頃下関南側附近ニ到着セハ敵ハ既ニ敗退セリ。敵ノ軍馬十数頭ヲ捕獲セリ。
出典:歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌※昭和12年12月14日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』389頁下段
南京城北西部、挹江門を出た所にあたる下関(シャーカン)地区は揚子江対岸の浦口(ホコウ)への脱出路であったことから南京陥落時に城内に取り残された多数の敗残兵と逃げ遅れた一般市民が押し寄せましたが、筏を組んで渡航しようとする者は揚子江に浮かぶ日本海軍艦艇からの機銃掃射でことごとく射殺され、陸上に残った者は包囲する日本陸軍に捕らえられて処刑されたことが中国人の証言や兵士の日記等で明らかにされています。
この点、下関地域では数万人以上の軍民が殺戮されたと言われていますが、その殺戮については歴史修正主義者から戦闘によるものだから「虐殺」にはあたらないとの意見も聞かれます。
しかし、この歩兵第四十五連隊第二中隊の陣中日誌は、南京陥落から半日後の14日午前10時30分ごろにはすでに下関(シャーカン)に敵兵はいなかったと言うのですから、下関における殺害が「戦闘」によるものだったという趣旨の歴史修正主義者の主張に根拠がないのがわかります。
この歩兵第四十五連隊第二中隊の陣中日誌の記述は、下関地区における中国軍民の殺害が、戦闘によるものではなく日本軍が敗残兵掃討で捕縛したうえで処刑したものであったことを裏付ける記録と言えるのではないでしょうか。
(4)昭和12年12月14日「軍規風紀ノ維持ニ務ムルコト」
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌昭和12年12月14日には、軍規風紀の維持に努めるよう執拗に注意がされていたことを示す次のような記録があります。
〔中略〕一、宿営地ニハニ、三〇〇ノ避難民アリテ、之カ取締ヲ厳ニシ、特ニ軍規風紀ノ維持ニ勉ム。
出典:歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌※昭和12年12月14日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』389頁下段
〔中略〕一、宿営ニ当リ中隊長ノ注意事項
1∼4〔中略〕
5、軍規風紀ノ維持ニ務ムルコト。
6~9〔中略〕
10、避難民ノ家屋ニ立入ラサルコト。〔以下略〕
「特ニ軍規風紀ノ維持ニ勉ム」「軍規風紀ノ維持ニ務ムルコト」「避難民ノ家屋ニ立入ラサルコト」などと、複数個所に渡って軍規風紀に関する記述があることを考えると、南京を占領した第6師団の歩兵第45連隊において軍規風紀の乱れを強く警戒していたことがわかります。
この点、それは裏を返せば南京陥落に至るまでの上海戦から続く一連の戦闘の過程で日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為が頻発していたということですから、この記述も日本兵の暴虐行為の事実を伺わせる記述の一つと言えます。
(5)昭和12年12月15日「軍規風紀ノ緊粛ニ関シ充分ナル監督ヲ欠キタル」
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌は昭和12年12月15日も軍規風紀の乱れに関する記述が続きます。
一、会報事項
出典:歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌※昭和12年12月15日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』391頁上∼下段
(一)従来戦闘行動ノ急激ナルト給養ノ不足トハ止ムヲ得ス軍規風紀ノ緊粛ニ関シ充分ナル監督ヲ欠キタル為現今注意ヲ促ス事項少カラス、折角師団ノ功績ヲ益々光輝アラシムル為更ニ幹部ノ監督ヲ倍シ特ニ左ノ件ニ注意スルヲ要ス。
1∼3〔中略〕
4、給養ヲ系統的ナラシメ各個ノ徴発ヲ行ハシメサルコト。徴発ハ徴発規定ニ従ヒ実施スルコト。南京占領ヲ機トシ掠奪等ノ悪習ヲ一掃スルヲ要ス。
5、火ノ始末ニ特ニ注意スルコト。6、軍規教練ヲ実施シ軍規風紀ノ緊粛ニ資スルコト。
〔以下略〕
ここではまず「軍規風紀ノ緊粛ニ関シ充分ナル監督ヲ欠キタル為」としていますから、軍規風紀の監督が徹底されていないため兵士の非違行為に歯止めがかかっていないことがわかります。
前述の(4)でも指摘したように、上海戦から続けられた南京攻略戦では兵士の略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為が頻発しましたが、「掠奪等ノ悪習ヲ一掃スルヲ要ス」の記述からは、そうした日本兵による暴虐行為が南京陥落後においても止むことなく続いていたが裏付けられると言えるでしょう。
軍司令部に「悪習」と認識されるほど、日本兵による略奪(掠奪)や強姦などの非違行為が習慣的に繰り返されていたわけです。
この点、「徴発ハ徴発規定ニ従ヒ実施スルコト」とあることから、これ以降は略奪(掠奪)がなくなったようにも思えますが、次の記述にもあるように上海戦から南京攻略戦に至る一連の過程で「徴発規定ニ従ヒ」て徴発した兵士はまずありません。
元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。
出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁
然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。
出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言
兵士の日記や陣中日誌に書かれた「徴発」の実態は、ほぼその全てが略奪(掠奪)だったわけです。
歩兵第45連隊第2中隊の陣中日誌のこの部分は、南京占領後においても日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為が収まらなかったことを裏付ける記述と言えるでしょう。
(6)昭和12年12月19日「内務教育ヲ実施セシメ軍紀ノ緊粛ニ勉メタリ」
歩兵第四十五連隊第二中隊の陣中日誌は、昭和12年12月19日も軍規風紀に関する記述が続きます。
一、午前中武器被服ノ手入及各小隊毎ニ宿舎内ノ清潔整頓並内務教育ヲ実施セシメ軍紀ノ緊粛ニ勉メタリ。〔以下略〕
出典:歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌※昭和12年12月19日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』392頁下段
ここでは「内務教育ヲ実施セシメ軍紀ノ緊粛ニ勉メタリ」とありますから、陥落から一週間が経っても日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為が収まっていなかったことがわかります。
この部分の記述も、陥落後の南京で占領する日本兵による暴虐行為が頻発していたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。