戦車第一大隊第一中隊は南京攻略戦に参加した戦車部隊で、当時の行動記録が公開されています。
行動記録は公式な記録なので略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などといった暴虐行為について具体的な記録はありませんが、敗残兵の虐殺を伺わせる記述が一部見られますので、南京事件の一端を知るうえで貴重な資料となっています。
では、戦車第一大隊第一中隊の行動記録は南京事件をどう記録したのか確認してみましょう。
戦車第一大隊第一中隊の行動記録は南京事件をどう記録したか
戦車第一大隊第一中隊の行動記録昭和12年12月14日の部分には、敗残兵の殺害に関する次のような記述が見られます。
1、午前九時三十分、前項命令ノ如ク行動ヲ開始シ歩兵第七聯隊ノ北部掃蕩地区ノ掃蕩ヲ実施シ主トシテ第三大隊ニ協力シ終日行動シ左ノ如ク多数ノ俘虜竝二兵器等ヲ鹵獲シ午後五時三十分終結地ニ帰還セリ
出典:戦車第一大隊第一中隊行動記録※昭和12年12月14日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』418頁下段
俘虜 二五〇名 乗用自動車 五台
小銃 ニ三〇挺 側車附自動二輪車 五台
〔中略〕
右ノ外掃蕩ニ際シ反抗ノ色アリシ敗残兵約七八十名ヲ夫々処分セリ掃蕩間ニ於ケル我損害ナシ
〔以下略〕
この部分では「俘虜 二五〇名」とありますので、敗残兵掃討の際に250名の敗残兵を捕縛して捕虜にしていることが伺えますが、「右ノ外」「敗残兵約七八十名ヲ夫々処分セリ」ともしていますので、その250名の捕虜とは別に70∼80名の敗残兵を殺害していることがわかります。
この点、その70∼80名の敗残兵を殺害した理由については「掃蕩ニ際シ反抗ノ色アリシ」としていますので、戦闘中の殺害であれば問題ないような気もします。
しかし、「反抗ノ色アリシ」とある点を考えると、実際にその敗残兵から攻撃があったわけではなく、単に「犯行」の気配があったと言うだけにすぎませんから戦闘中の殺害とは到底言えません。
また、その70∼80名の敗残兵を「処分セリ」とありますが、戦闘中の殺害を「処分」とは書きませんので、捕縛して武装解除した敗残兵を「処分(処刑)」したと考える方が常識的でしょう。
さらに言えば、それが仮に武力で抵抗する意思を持った敗残兵があったとしても、中国側では陥落前日の12日夕方には司令官の唐生智ら軍幹部が既に逃走していたことで軍の統制は失われており、勝てる見込みがないことを知らないまま散発的な抵抗を続けていただけであって、包囲殲滅戦だった日本軍の攻撃によって陥落した南京城の内外で逃げ道を塞がれて行き場を失い、盲目的な戦いをしていただけにすぎません(笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 109頁参照)。
ですが、そうであれば、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも述べたように、ハーグ陸戦条約の前文に置かれたマルテンス条項では、ハーグ陸戦条約に明確な規定のない場合であっても慣習、人道の法則、公共良心の要求に従って市民や交戦者を保護することを要請しているのですから、抵抗の意思を持つ敗残兵があったとしても、それら敗残兵を掃討の名の下に殺害するのではなく、投降を呼びかけて武装解除し捕虜として収容しなければならなかったはずです。
【ハーグ陸戦条約 前文(※「マルテンス条項」の部分のみ抜粋)】
一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は締約国は其の採用したる条規に含まざる場合に於ても人民及び交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則及び公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配の下に立つることを確認するを以て適当と認む。出典:ハーグ陸戦法規
ハーグ陸戦法規には「敗残兵を掃討してはならない」と規定されていませんが、だからといって敗残兵の掃討が無制約に許されるわけではなく、人道に配慮して良心をもって敗残兵に対処することが、当時すでにハーグ陸戦法規という国際法規で法的に求められていたわけです。
完全に包囲された絶望的な状況で勝てる見込みがないことを知らないまま抵抗を続ける敗残兵に対しても人道的な配慮をすることがハーグ陸戦法規出要請されていたのなら、たとえ「掃蕩ニ際シ反抗ノ色アリシ」状況があったとしても、その敗残兵に投降を呼びかけることなく「処分」したということであれば、この戦車第一大隊第一中隊の行為はハーグ陸戦法規前文の要請に違反する違法な「不法殺害」であったと言えます。
したがって、いずれにしても、この「敗残兵約七八十名ヲ夫々処分セリ」の部分は、ハーグ陸戦法規に違反する違法な殺害、つまり70∼80名の敗残兵に対する「虐殺」があったことを裏付ける記録と言えるでしょう。