蔣公榖の日記(陥京三月記)は南京事件をどう記録したか

蔣公榖は日本軍による南京攻略戦に際して、南京市街で日本軍の敗残兵掃討に遭遇した南京守城軍の軍医で、当時目撃した事柄を日記形式で記した『陥京三月記』が、南京大虐殺の中国側資料『侵華日軍南京大屠殺資料』(江蘇省古籍出版社)の中で公開されており、その日本語訳が偕行社の『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅰ』に掲載されています。

では、この蔣公榖の日記(陥京三月記)は南京事件をどう記録しているのか、確認してみましょう。

蔣公榖の日記(陥京三月記)は南京事件における日本軍の暴虐行為(略奪・放火・強姦・虐殺)をどう記録したか

(1)1937年12月12日「防守部隊と退却兵が衝突し双方に死傷者が出た」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月12日には、総崩れになった中国兵と下関(シャーカン)を守る守備兵との間で衝突が起きた情景を次のように記録しています。

〔中略〕話によれば挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し双方に死傷者が出たとのことであった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ630頁

南京城が陥落したのは13日ですが、南京城を守備する中国軍は12日の夕方に司令官の唐生智ら上級将校が下級兵士に徹底抗戦を命じて逃走してしまったことから統制が失われてしまい、総崩れとなって敗走を始めました。その敗走する中国軍が集中したのが揚子江対岸の浦口への唯一の脱出口だった下関に通じる挹江門です。

他方、挹江門を守備する部隊(中国軍の第三六師二一二団)は軍から守備兵の退却阻止命令(※第三六師の指揮官だった宋希濂氏の回想によれば残存部隊は各所で日本軍の包囲を突破して撤退するよう唐生智から命じられていたらしい)を受けていましたから、挹江門に殺到する敗走兵や一般市民を阻止するべく押し戻そうとしました。これが敗走兵にパニックを招いてしまい、双方の間で銃撃戦に発展してしまったのです(笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 92頁、99頁)。

なお、この蔣公榖の日記(陥京三月記)からは離れますが、この混乱の際は城壁からの墜落死もあったとの記録もあります。

唐将軍はその夜南京より脱出し、南京全市は混乱の坩堝と化した。下関および揚子江江岸は狼藉を極め、中国軍の遺棄した、銃剣、小銃弾皮帯、軍服、自動車、貨車等々で足の踏み場もなかった。無数の車両は燃え盛り恐るべき火事場と化していた。下関および揚子江江岸に通ずる城門は既に閉鎖されていた。恐怖に慄う兵士達は縄、ゲートル、皮帯、布等を城壁にかけ鈴成りになっていた。多くの兵士が墜死した。

出典:ティンバーリイ著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 27頁※ティンバーリイの友人が上海の友人に送った手紙から引用

また、これも蔣公榖の日記(陥京三月記)からは離れますが、当時南京で軍の用務員として雑務をしていた唐広普氏は、12日に挹江門に逃れた際に見た光景を、取材に訪れたジャーナリストの本多勝一氏に次のように証言しているそうです。

門には国民党軍の戦車が一台破壊されて頓挫し、周辺は死体が層をなしていて、それをふみこえていく大群衆の人波がぎっしりと隙間なくつづいていた。〔中略〕このとき群衆の一人から聞いた話だと、門の下に頓挫していた国民党軍の戦車は、群衆をふみつぶして逃げようとしたため、「抵抗もせずに真先に逃げるとは許せない」と、国民党軍の兵卒が手榴弾を投げ込んだ結果らしい。大群衆は国民党軍の兵卒も市民もごたまぜだったが、どちらかといえば市民の数の方が少ない印象で、特に女性はあまり見なかった。

出典:本多勝一『日中の二人の生き証人』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 47頁

ちなみに、この唐広普氏はこの翌日に日本軍に捕らえられて1週間ほど他の捕虜と共に寝られないほど狭い建物にすし詰めの状態で監禁されたあと、処刑のため日本軍によって他の捕虜とともに長江(揚子江)岸に連行されますが、揚子江に浮かぶ海軍軍艦による機銃掃射と陸軍の機関銃による射撃から奇跡的に致命傷を受けずに済んだことで虐殺の現場から辛うじて生還しています(※この点の詳細は→本多勝一『旧蒋介石軍用務員の体験(日中の二人の生き証人)』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店参照)。

もちろん、この挹江門だけでなく下関や揚子江の河岸では日本軍による捕虜の処刑が行われて膨大な数の中国人が殺されますので、そうした地域に捨てられた膨大な死体のほとんどすべてが日本軍による虐殺によるものであることには疑いがありません。

ただ、その死体の中に中国軍同士の衝突によって生じた死体があったことも、この蔣公榖日記(陥京三月記)や唐広普氏の証言から事実であることがわかります。

(2)1937年12月12日「中流で沈没するか、敵に撃たれて死ぬか」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月12日には、揚子江を渡河しようとした中国軍の敗残兵が日本軍に射殺される情景を次のように記録しています。

〔中略〕渡し船さえないので江岸に沿って西走し反って敵兵に襲撃されてしまった。勇敢な何人かは浮木につかまって渡江しようとしたが、その運命は誠に悲惨で、中流で沈没するか、敵に撃たれて死ぬかのいずれかであった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ630頁

この記述は、無抵抗な敗残兵が日本軍によって皆殺しになるさまを良く表現しています。

先ほども説明したように、下関には逃げ場を失った敗残兵や一般市民が殺到しましたが、そもそも使える船は少数しかなかったうえそのわずかな船も軍の幹部らが使いますから下関に逃げて来た人々は、その辺に散らばる廃材を集めて筏を組んだり、箪笥などの家具を浮べてそれにしがみつき、対岸に逃れようとしました。日本軍の南京攻略戦は包囲殲滅戦だったので、逃げる場所は揚子江の向こう岸しかないからです。

しかし、揚子江には日本海軍の近藤栄次郎少将率いる第十一艦隊が多数の砲艦や駆逐艦を浮べていましたから、浮かべた筏や家具にしがみつく敗残兵は艦上から狙う機銃掃射の恰好の標的となります。陸上から迫った陸軍の射撃で殺された人も多くいたでしょう。

そうして、膨大な数の敗残兵がこの日記で描写されたように殺されていったのです。運よく日本軍の銃撃を逃れられた兵士も急流にのまれたり、12月の凍てつく水の冷たさに凍えて死んでいきました。

もちろん、こうした殺害は当時の国際法規から考えても許されるものではありません。

ハーグ陸戦法規は交戦者に人道的な配慮を取ることを要請していますから、統制を失った敗残兵に対しては降伏を勧告して投降を促し武装解除して解放するか捕虜として扱わなければならないからです。

ましてや、この事例のように武器を捨てて河に浮かぶ廃材や筏にしがみつく中国兵は抵抗する意思を喪失した無害な敗残兵なのですから、そうして逃げる敗残兵は救助して捕虜として保護するべきであって、射殺など許されるものではなかったのです(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

こうした無抵抗の敗残兵の殺戮は、当時の国際法規から考えても法的な正当性を持たないものであって「不法殺害」以外の何物でもありません。この部分の記述は、当時の日本軍が無抵抗な敗残兵を殺戮した「虐殺」を裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

(3)1937年12月12日「これらの火災は全て自ら放火し」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月12日には、下関に敗走してきた中国軍の敗残兵が軍の建物に放火する光景を次のように記録しています。

交通部は火事となり火勢が強く空一面を赤く染めていた。これらの火災はすべて自ら放火し、破壊したものであった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ630頁

南京陥落によって崩壊した中国軍は下関から揚子江を渡って逃走を図りましたが、施設を残すことで戦略上の優位性を日本軍に与えるのを嫌った中国軍は、撤退する際に自ら建物に火を放ち破壊することもありました。この記述はそうした火災を描写したものでしょう。

陥落した後の南京では、暖をとる目的や掠奪(略奪)・強姦の証拠隠滅目的、あるいは愉快犯的なケースなど日本軍将兵による放火が後を絶ちませんでしたので、南京で燃やされたほとんどの建物は日本軍の暴虐行為によるもので間違いありませんが、割合的にはごく少ないものであったにしても、こうした中国軍による火災があったことも、また事実だったと言えます。

なお、中国軍の放火については1937年12月10日付けのザ・チャイナ・プレス紙も9日付けロイター電として報じています。

〔中略〕南京の人口密集した埠頭である下関の通りは、中国軍の放火により火炎に包まれた。〔後略〕

※出典:The China Press(1937年12月10日)(ロイター電12月9日)※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ645頁下段

もちろん、そもそも日本軍が南京攻略戦を起こさなければ、こうした中国兵による放火自体も起きなかったことは言うまでもありません。

(3)1937年12月12日「ひと握りの獣のような裏切者が混乱に乗じて」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月12日には、潰走する一部の敗残兵による南京市内での非違行為を次のように記録しています。

〔中略〕近くの小道からは時折り、鋭い助けを呼ぶ声が聞こえてきた。これはひと握りの獣のような裏切者が混乱に乗じて通行人に害をなすものであった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ630頁下段

陥落後の南京では日本兵による掠奪(略奪)や強姦、市民に対する暴行/傷害/殺人など非違行為が延々と繰り返されましたが、陥落直後の南京市内では、統制を失った中国兵による非違行為も一部では行われたことがわかっています。

ただし、これは陥落前の南京で既に治安が悪かったということではありません。当時南京にいた外国人も、陥落前の南京の治安状況を次のように報告していますから、陥落前の南京では中国軍の軍紀は保たれていて治安も良好な状態が維持されていたと考えるべきでしょう。

十二月一日南京市長馬超俊氏は難民区の行政責任を我々に交付し、同時に四百五十名の警察官、三万担の米、一万担の麵粉、塩および十万ドルの助成金交付方許可を手交し、事実我々は間もなく八万ドルを確実に受け取った。首都衛戌指令唐智生将軍も心からこれに協力し、難民区中の軍事施設を撤去しるとともに軍紀と秩序の厳正を保った。十二日の日本軍の入城以前までこの状態が保たれた。たまたま掠奪事件もあったが、少数の食物に限られていた。〔中略〕中国軍は十二日午後総退却を開始し、陸続として南門より城内になだれこみ、またあまたの士兵は難民区を越えてきたが、無軌道な行動はなかった。

出典:ティンバーリイ著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 25∼26頁※ティンバーリイの友人が上海の友人に送った手紙から引用 ※なお、文中「十二日の日本軍の入城以前」とありますが南京陥落は13日です。この引用部分の前の箇所には「この手紙の中に書かれた事実あるいは手紙の日付と時日の点で食い違いがあるかも知れないが」と断りが入れられていますので、13日の誤りか12日の時点で日本兵の城内侵入があったと誤認したのかもしれません。

南京の中国軍では、陥落前日の12日夕方に唐智生ら軍幹部が逃走したため兵士の統制が失われてしまいましたから、指揮系統が崩壊したためにこうした「ひと握りの…裏切り者」が生じたのでしょう。

もっとも、南京陥落時に中国兵に掠奪(略奪)など非違行為があったことは確かですが、それはここにも言及があるように「ひと握りの」兵によるものにすぎませんし、一部の兵に「獣のような」非違行為があったとしても、そのほとんどはその日の食料を得るための「少数の食物」の窃盗であったり、避難民にまぎれて日本兵の掃討から逃れるために民家に侵入して平服を盗んだりするなど命をつなぐための限定的な範囲で行われたにすぎないことは留意すべきです。

これに対して日本軍の掠奪(略奪)が食料のみならず貴金属や現金、骨董品や家財道具などありとあらゆる財物に及んでいただけでなく、強姦や虐殺など苛烈な暴虐を繰り返していたたのですから、日本軍の犯罪行為がいかに常軌を逸したものであったか分かるでしょう。

しかも、先ほど述べたように、そもそも日本軍が南京攻略戦を起こさなければ、こうした中国兵による非違行為も起こされずに済んだわけですから、その本質的な部分を理解しておく必要があります。

(4)1937年12月12日「既に潮の如く、路上を埋めつくしてやって来た」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月13日には、南京市内に雪崩を打つように侵入してきた日本軍の様子を次のように記録しています。

〔中略〕私は九時頃、ちょっと敵兵を見た。彼らは江南公司のバスに鈴なりに乗って上海路を経て北方に走り去った。辛うじて大使館に逃げこんで来たある人は「中山路上の敵兵は既に潮の如く、路上を埋めつくしてやって来た」と話した。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ630∼631頁

この13日は南京が陥落した日ですから、この大使館に逃げ込んだ「ある人」は、陥落に乗じて日本軍兵士が城内に殺到してきた様子を目撃したのでしょう。

南京はその後、日本兵によって掠奪(略奪)や強姦など非違行為が繰り返されることになるわけですが、歴史修正主義者からは「陥落に際して日本軍は入城する部隊を制限したから狼藉が起こされるわけがない」などの意見も聞かれます。

しかし実際には、南京に殺到する部隊の中にこうして「潮の如く、路上を埋め尽くしてやって来た」日本兵も数多くあったことが、この記録からわかります。

(5)1937年12月13日「敵兵がやってきて、ほしいままに略奪を行った」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月13日には、南京市内に雪崩を打つように侵入してきた日本軍の兵士による掠奪(略奪)の様子を次のように記録しています。

我々は難民区の金銀巷、燿華里に避難したが、安んじて留まれると思っていたところ、はからずも、敵兵がやってきて、ほしいままに略奪を行った。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ631頁

南京陥落は13日ですから、その陥落した当日の時点ですでに日本兵による掠奪(略奪)が横行していたことが、この記述からわかります。

日本軍の南京攻略は表向きは蔣介石の国民政府に苦しめられる南京市民を「解放」するとの大義名分で進められましたが、その「解放」した市内に雪崩を打って侵入した「皇軍」は、「解放」した直後から南京市民の商店・家屋に侵入し掠奪(略奪)を繰り返していたわけです。

掠奪(略奪)される南京市民からしてみれば、当時の日本軍は盗賊団以外の何物でもなかったでしょう。

(6)1937年12月14日「凶暴な顔つきの者がやって来て、館内に押し入ろうとする」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月14日には、南京市内で敗残兵掃討を行う日本軍兵士の様子を次のように記録しています。

朝起きると銃声が断続して響いていた。それは敵兵が一般民衆を射撃するものであった。窓外の敵兵をのぞいてみると、三々五々群れをなして路上をしきりに行き交っていた。時には凶悪な顔つきの者がやってきて、館内に押し入ろうとする気配を感じた。消息によると難民区外での殺害の情景は残酷の極みであった。区内では昨日朝から既に略奪が始まっていた。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ631頁上段

この時点で執筆者の蔣公榖はアメリカ大使館の秘書の執務室に隠れていましたが、大使館が集中していた地域は安全区(難民区)として指定され、南京内外から戦禍を避けるために逃れてきた一般市民が多数避難していました。

そのため日本軍は、難民区の避難民に紛れ込んだ敗残兵を掃蕩するべく、避難民から敗残兵を選別するいわゆる「兵民分離」を行いますが、この兵民分離が「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ等で選別するなど極めて杜撰だったため、多数の一般市民が兵士と間違われて連行されてしまうことになります(※この兵民分離の詳細は水谷荘日記に詳しく記録されています→水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)。

そしてその連行された一般市民と敗残兵は日本兵によって射殺あるいは刺殺・斬殺されていますから、この日記に記述された「銃声」や「殺害の情景」も、そうした日本軍の敗残兵掃討を描写したものに他なりません。

もちろん、たとえ敗残兵掃討であろうとハーグ陸戦法規は捕らえた捕虜に人道的配慮を要請していますから、そうした処刑は国際法違反ですし、仮に敗残兵に非違行為があってもこれを処刑するには軍事裁判(軍法会議)に掛けて裁判で罪状を認定しなければなりませんから軍事裁判(軍法会議)を省略して処刑している点で、そうした敗残兵の処刑は国際法規から考えて明らかに「不法殺害」です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

ましてや杜撰な兵民分離で一般の市民まで処刑しているわけですから、紛れもない戦争犯罪に他なりません。

この記述は、当時の南京で日本兵による国際法規に違反する「不法殺害」すなわち「虐殺」があったことを裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

なお、日記には「凶悪な顔つきの者がやってきて、館内に押し入ろうとする気配を感じた」とあり、この時点で日本兵の侵入はなかったようですが、この米国大使館ではその後日本兵による掠奪(略奪)の被害にあったことが上海派遣軍の参謀長として従軍した飯沼守の従軍日記に詳しく記録されていますし(※詳細は→飯沼守日記は南京事件をどう記録したか)、日本軍の公式電報には中国人女性に対する強姦事件(未遂)が起きたことも記録されています(※詳細は→日本軍の電報/申送り等は南京事件をどう記録したか)。

こうした日本軍の非違行為は比較的安全だと思われていた外国大使館でも盛んに起きていたのですから、南京内外の民家の惨状は推して知るべしと言えるでしょう。

(7)1937年12月15日「自動車数台を無理矢理に持ち去られてしまった」

蔣公榖の日記(陥京三月記)は1937年12月15日にも日本軍兵士の掠奪(略奪)の様子を次のように記録しています。

〔中略〕朝方黒っぽい制服を着た敵の特務員が来館し一人の新聞記者がこれと応酬したが結局、自動車数台を無理矢理に持ち去られてしまった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ631頁下段

この記述からは、日本軍兵士が米国大使館に押し入り、居合わせた新聞記者の制止を押しのけて自動車数台を掠奪(略奪)されていったことがわかります。

この点、歴史修正主義者は「中国人の日記など信用できるか」とこの記述を中国側の捏造だと思うでしょうが、先ほども挙げたように米国大使館での掠奪(略奪)は日本軍の将兵による日記等、日本側の史料でも数多く記録されていますので、そうした意見は暴論です(※参考→飯沼守日記は南京事件をどう記録したか日本軍の電報/申送り等は南京事件をどう記録したか)。

中国側史料にも日本側史料にも記録のある掠奪(略奪)を否定するというのなら、歴史修正主義者が南京攻略戦自体も「なかった」と主張する日もそう遠くないかもしれません。

(8)1937年12月16日「一日に必ず七、八回は現われて略奪を繰り返した」

蔣公榖の日記(陥京三月記)は16日にも日本軍兵士の掠奪(略奪)が続きます。

〔中略〕難民区内各家に対しては一日に必ず七、八回は現われて略奪を繰り返した。後には来ても何もとるものが見当たらぬので箱や容器類を打ち壊した。彼らは門を入るや否や、せわしく「門をしめろ」と命じ、もし少しでも対応が遅れると、突き刺した。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ631頁下段

この記述からは、13日の陥落後に悪化していく治安の状況と、避難民の切迫した状況がよくわかります。

自分の住む家に1日に7~8回も掠奪(略奪)を目的とした集団が押し入ってくる状況を想像してください。しかもその集団は銃を持っていて、気に食わないことがあれば直ぐに銃剣で突き刺し、女性がいればその場で、あるいは拉致して輪姦するのです。

そうした地獄のような毎日が、13日の陥落からずっと続いていて、この時点の蔣公榖はまだ気づいていませんが、その地獄が翌年の2月まで延々と続きます。

しかも、当時の南京は数万の日本軍に包囲されていますから、避難民たちに逃げ場はありません。地獄以外の何物でもなかったでしょう。

(9)1937年12月16日「毎日、敵が勝手に放火焼却を繰り返して」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月16日には、日本軍兵士による放火の記録が見られます。

〔中略〕十三日以来毎日、敵が勝手に放火焼却を繰り返しており、今日も南城一帯を望見すると十八個所が燃えていた。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ632頁上段

日本軍兵士による放火は日本軍将兵が現地で記録した日記や手記、戦闘詳報などにも多数記述がありますので、この記述は現地にいた被占領者側からもそうした日本軍による放火の事実を裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

この点、日本軍が起こす火災は暖をとる目的が最も多かったようで、この蔣公榖の日記(陥京三月記)にも、1938年2月17日の箇所に次のような記述が見られます。

〔中略〕敵は軍毛布も完全でなくオーバーもない。着用の服は破れてぼろぼろである。入城の当初、法幣を探しもとめる以外は専ら布団や下着を奪ったり、到るところで火をたいてあたり、また多くの家屋を壊して燃やしたりした原因の大半はこれである。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ637頁上段

日本軍の南京攻略戦は1937年の夏に始められた上海攻略戦から続けられたうえ兵站も無視されましたから、そうした東京の参謀本部や軍中央の作戦立案の杜撰さが、兵士の放火を招いたとも言えます。

なお、日本軍を原因とした火災は、こうした暖をとるための放火や焚火の不始末による失火が多かったようですが、掠奪(略奪)や強姦、殺人の証拠隠滅目的で火を付けたケースも少なくありません。

この記述の中で見えた「十八箇所」の火災も、もしかしたらただ燃えているだけではなく、その下では一般市民が殺されていたかもしれません。

(10)1937年12月17日「ガレージをこじあけて…また館内に入って…」

蔣公榖の日記(陥京三月記)は、17日も日本軍兵士の掠奪(略奪)が続きます。

〔中略〕夜になると果然敵兵数人がおでましになり、まず地下のガレージをこじあけて一台の自動車を押して持ち去り、続いてまた館内に入って強引に二台を引っ張って行った。〔以下略〕

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ632頁上段

日記によれば、これらの車は「館内職員や仲間の外国人たちが預けていったもの」とのことですが、日本軍は中国軍のものであろうと市民のものであろうと外国人のものであろうと、あらゆる財産を掠奪(略奪)していたことがわかります。

この点、南京陥落の際は中国軍の兵士による掠奪(略奪)もあったことから、歴史修正主義者の中には「中国軍だって略奪してるだろ」と言う人もいるかもしれませんが、中国兵の略奪は食糧や市民に紛れ込むための平服などその日生きるために不可欠な物品に限られますので、致し方のない面があります。

しかし日本兵は、そうした食糧など生きるために必要なものにとどまらず、こうした自動車や貴金属、現金などあらゆる財産を掠奪(略奪)しているのですから同情の余地はありません(※こうした食料以外の略奪については→井家又一日記は南京事件をどう記録したか日本軍の電報・申送り(申継書)は南京事件をどう記録したか)。

日本兵が手を染めた掠奪(略奪)は、夜盗と何ら変わらないでしょう。

(11)1937年12月18日「七、八十歳の老婆も八、九歳の幼女も」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月18日には、日本軍兵士による強姦の生々しい実態が記録されています。

〔中略〕焼く、殺す、掠めるのほか、さらに婦女暴行という汚ない残酷な行為が加わった。老幼を問わず女でさえあれば、七、八十歳の老婆も八、九歳の幼女も彼らの乱暴を免れることはできなかった。最も残酷なのは輪姦で、ある者は一〇回も輪姦を受けた。そのうえ強姦された後、なおも彼らの殺戮を免れることは難しかった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ632頁下段

この記録からは、日本軍兵士が幼女から老婆まで見境なくレイプを繰り返していたこと、また事が終わったあとにその女性を何の躊躇もなく殺害していたことがわかります。

強姦した後に殺害するのは、ただの面白半分か、そうでなければ証拠隠滅の必要があるからでしょう。

たとえば、米国人経営の店で中国人女性がレイプされた事件では、アメリカ大使から日本側に抗議がなされて外交問題にまで発展し兵士が懲罰を受けていますので(※詳細は→飯沼守日記は南京事件をどう記録したか)、強姦の事実が憲兵隊に伝わって軍法会議に掛けられるリスクを危惧する兵士の中には、いっそのこと殺害してしまえと考える者も少なくありませんでした。

そしてこうした強姦は、下級兵士だけでなく部隊の幹部が率先して行っている点も重要です。この点について、蔣公榖の日記(陥京三月記)は翌1938年2月17日の箇所で次のように述べています。

〔中略〕強姦略奪や種々の暴行は常にまず幹部が率先これを行うから、兵士はさらに気ままに行なってはばかることがない。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ637頁下段

尉官級・佐官級の幹部が率先してレイプするのですから、部隊全体が強姦集団と化して罪悪感のかけらも感じないまま輪姦を繰り返すわけです。

なお、歴史学者の吉田裕氏によれば『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会編纂委員会編)に陥落当初の南京には憲兵が一人もいなかったと記述されているそうですから(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 165頁)、南京攻略戦で繰り返される日本兵の強姦に軍司令部が全く対処をとっていなかったことがわかります。

日本兵による強姦事件の総数は不明ですが、「南京の治安が改善された」として昭和13年2月上旬に日本側が南京に設置された難民区(安全区)を閉鎖して難民区から市民が追い出された後も一日で100件にも上る強姦事件が認知されたと言われますから(※笠原十九司『南京事件』岩波新書209頁)、それまでの期間に起きた強姦事件は天文学的な件数になるはずです。

しかも、こうして繰り返される強姦については、昭和13年(1938年)の3月に慰安所が設置されてからようやく強姦が少なくなっていったとの紅卍字会南京分会副会長による証言がある一方(※洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集 1』吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 158頁参照)、日本軍の主力が他所に転進して兵士の数が減少したのに比例して相対的に強姦等の事件も減少したとの外国人の証言(※ティンバーリイ著〔訳者不詳〕『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 59頁)、また「前線部隊の迅速な移動によって、日本兵の残虐行為は量的には減少したが、質的には減少していない」とする1938年3月4日付のドイツ外交官による本国(ベルリン)宛ての報告や(※石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 218頁)1938年3月21日付で「秩序はふたたび悪化してきている」としたスマイスの記録などもあり(※石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 230頁)、さらには当時南京市内で日本軍による暴虐行為を目撃した郭立言氏は、治安が安定したのは4~5カ月経ってからと証言していますから(本多勝一『中国人生存者の証言』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 216頁)、南京陥落後数カ月間はそうした蛮行が続けられたことは間違いありません。

もちろん、そうして強姦された被害者の中には、日記のこの部分のように殺害されてしまった女性も少なくなかったでしょう。

蔣公榖日記(陥京三月記)のこの部分は、南京で日本兵が起こした膨大な数の強姦事件と虐殺の事実を裏付ける貴重な記録の一つと言えます。

なお、日記中に「ある者は一〇回も輪姦を受けた」とある部分の少女は、南京の鼓楼病院に保護された際にアメリカ人宣教師のマギー牧師が対面しています。その際撮影した写真についてマギー牧師は「この18歳の少女は1カ月も拘留されて連日強姦され、あらゆる種類の性病をうつされた」と解説しています(※笠原十九司『南京事件』岩波新書201頁)。

30年ほど前、女子高生を拉致して1か月間輪姦し殺害してコンクリートで固めて遺棄した事件が大きく報道されましたが、そうした事件が毎日のように繰り返されたのが日本軍による南京攻略戦だったと言えるのではないでしょうか。

(12)1937年12月18日「死体を収めさせることもせず痛飲した後立ち去った」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月18日には、日本軍兵士による虐殺事件も記録されています。

〔前略〕彼の老父は七十七歳で非難を拒み家内に留まっていた。午後、突然朱さんの号泣の声が聞こえてきた。その前に彼の老父は敵の兵の手にかかって惨殺されていたのだ。〔中略〕米国籍教員・魏嬢が付き添い見舞に行ったところ、軒下にその死体が横たわっているのを発見したものだ。多くの敵兵が屋内を占領して大声をあげ歌い騒いでいた。彼らは死体を収めさせることもせず痛飲した後立ち去った。〔以下略〕

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ633頁上段

この殺害された老父は77歳と記述されていますから、もちろん敗残兵ではありません。日本兵は、その77歳の全く無害な中国人老父を殺害しただけでなく、遺体を引き取りにきた親族を無視して酒盛りに興じていたというのですから、とても人の所業とは思えません。

南京では日本兵による敗残兵掃討で兵士と間違われた多数の一般市民が処刑されていますが、そうした敗残兵掃討とは全く関係ない場所でも、軍とは全く関係のない年老いた老父がこうして殺されていったのです。

もちろん、これは氷山の一角にすぎませんから、こうして殺害された市民は数えきれないほどいたでしょう。

当時の日本兵にとって、一般市民の命など虫を殺すのと同じぐらい容易かったのかもしれません。

(13)1937年12月19日「運転可能な当所の自動車はことごとく」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月18日にも、日本軍兵士による掠奪(略奪)が記録されています。

朝数人の敵兵が来て自動車を持ち去った〔中略〕運転可能な当所の自動車はことごとく今日までに敵によって掠めとられてしまった。この後は掠奪の目標が無くなったので、あるいは多少なりとも安心できるかもしれない。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ633頁上段

先ほども説明したように、蔣公榖が隠れていたのは米国大使館ですから、日本兵が米国大使館に繰り返し侵入し掠奪(略奪)を繰り返していたのがわかります。大使館ということで金目のものも多く、金銭に換金できる財物を片っ端から掠奪(略奪)していったのでしょう。

米国大使の詰める大使館でこの状況なのですから、一般市民の家屋で行われた掠奪(略奪)が相当に悲惨なものだったことが想像できます。

(14)1937年12月23日「軍人であると否とを問わず」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月23日には、日本軍兵士が敗残兵の掃討で行った杜撰な「兵民分離」と、その杜撰な兵民分離によって「兵士」と認定された人たちの残酷な処刑の実態が生々しく記録されています。

〔中略〕彼らが捜し捕えたのはすべて若者であって、それが軍人であると否とを問わずすべて「悪党」と見なした。一群ごとに拘留して一所にとどめ互いに縛りつけた。その後、彼等は決して簡単に銃殺したりはせず刀を用いて刺殺、斬殺したり火中に投じて焼き殺したりした。最も残酷なのは生き埋めである。〔以下略〕

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ633頁下段

日記のこの部分からは、日本軍による「兵民分離」の杜撰さと、その処刑が如何に残酷に執行されたかがよくわかります。

「兵民分離」とは、避難民の中から敗残兵を選別することを言います。当時の南京では日本軍の包囲殲滅戦によって逃げ場を失った中国兵が統制を失って敗走し軍服を脱ぎ捨てて市民の平服に着替え、難民区に避難した一般市民に紛れ込んで潜伏していましので、その敗残兵を危惧した日本軍が避難民の中から敗残兵と「思われる」兵士を選別して連行しました。

しかし、その兵民分離が極めて杜撰で、たとえば水谷荘日記では「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ等で選別したと記録されていますし(※詳細は→水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)、また増田六助日記(※詳細は→増田六助手記は南京事件をどう記録したか)や井家又一日記でも(※詳細は→井家又一日記は南京事件をどう記録したか)、同じように「敗残兵らしき奴」「怪しそうな者」「兵士に違いない者」などという曖昧な基準で片っ端から「兵士」と決めつけて連行し処刑したことが記録されています。

この蔣公榖の日記の記述からも、そうした杜撰な兵民分離によって多数の一般市民が連行され、処刑されたことが裏付けられると言えるでしょう。

また、この部分ではその「敗残兵」がどのように処刑されたのかも生々しく記録されています。「刺殺」は銃剣で刺したもの、「斬殺」は日本刀(軍刀)でいわゆる「試し斬り(据え物斬り)」をしたものでしょう。こうした「刺殺」や「斬殺」は、この日記だけでなく日本兵の斬殺から生き残った中国人の証言(例えば→本多勝一『南京への道』朝日文庫 208∼209頁)や日本兵が残した日記や手記などにも頻繁に出てきますので(例えば→中島今朝吾日記、泰山弘道日記等)、そうした処刑が実際に行われていたことが、この記述からも裏付けられると言えます。

〔中略〕漢奸二人を含む日本兵ら八人は、二人ずつが組になってこの四集団についた。こうしておいて軍刀による首斬りが始まった。つまり四人が首斬り係、漢奸を含む他の四人がその斬った首を拾って一列に並べる係となり、四組で首斬りの腕くらべを始めたのだ。三列の犠牲者たちは穴の反対に向かってひざまずく恰好ですわらされ、唐さんは一集団の最後の列(穴側)の一番端にいた。斬首係の日本兵は、最前列の東端から斬りはじめた。泣き叫ぶなかには、腰がぬけたようになって動けなくなった市民もいる。首が斬りおとされると、血しぶきと同時に胴体が倒れ、首はうしろに一列に並べられた。

出典:本多勝一『南京への道』朝日文庫 208∼209頁、本多勝一『五人の体験史』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 198∼199頁

「火中に投じて焼き殺した」の部分は、銃殺や刺殺した死体にガソリンをかけて辛うじて生き残っていた者を焼き殺したとか、捕虜を家屋に詰め込んで火を付けて焼き殺したなどという記述が日本兵の日記に頻繁に出てきますので、おそらくそうした残酷な処刑を目撃したか、目撃した人から人伝に聞いたものでしょう。

「生き埋め」についても、銃殺や刺殺した死体を掘った穴や塹壕などの中に放り込み、僅かに息をする者があっても構わず上から土を掛けたという日記の記述が見られますので、そうした残酷な殺害が実際にあったことが、この記述からも裏付けられます。

この蔣公榖の日記の記述部分は、当時の日本軍による虐殺が兵士だけでなく一般市民にも及び、しかもその虐殺方法も極めて残酷な手段がとられたことを示す貴重な記録と言えます。

(15)1937年12月23日「彼ら賊人はびっくりして、すぐ電話線を切断し、慌てて走り去った」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月23日にも、日本軍兵士の掠奪(略奪)の記述が見られます。

十二時過ぎ、一つ隔てた室の老朱が低い声で「敵兵がこそこそとやって来て、今執務室内で財物をあさっている」と知らせた。その結果はただ一個の腕時計と法幣六元を持ち去ったにすぎなかった。当時本院の電話ベルが(大使館の東部にある単線電話が通話可能)突然鳴りだしたので、彼ら賊人はびっくりして、すぐ電話線を切断し、慌てて走り去ったのである。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ633頁下段

19日の部分では「この後は掠奪の目標が無くなったので、あるいは多少なりとも安心できるかもしれない」とありましたが、その後も日本兵による掠奪(略奪)が後を絶たなかったことがわかります。

「法幣」とは紙幣(銀行券)のことなので、腕時計と6元(6円)の紙幣を盗んで走り去ったのでしょう。

この点、こうした現金や時計など貴金属の掠奪(略奪)は、日本軍の公式電報や日記などにも記述が見られますので(※例えば→日本軍の電報・申送り(申継書)は南京事件をどう記録したか井家又一日記は南京事件をどう記録したか)、そうした日本軍の公式記録や日記等の記述の真実性が、此処からも裏付けられると言えます。

日本兵の掠奪(略奪)は生きるために必要な食糧だけでなく生存にはまったく関係のない現金や貴金属、家具などにまで及んでいたのですから、盗賊や窃盗団と何ら変わりません。

この日記の記述も、当時「皇軍」と自称された日本軍の実態を明らかにする貴重な資料の一つと言えるでしょう。

(16)1937年12月26日「大通りに撒き散らして、人が争って拾うのにまかせる」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1937年12月26日には、南京市内で日本軍が行った「登記」の様子が次のように記録されています。

〔中略〕登記はひとくさりの手続をとれば、すぐ、証書を手に入れることができたが、今日からまた新しいやり方が始められた。まず、路に小紙片をとりに行く必要がある。その上面には鶴見、中島等の敵姓の文字が記されている。これをいいかげんな時に適宜大通りに撒き散らして、人が争って拾うのにまかせるのだ。これは全く我々を奴隷視したたちの悪い芝居である。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ634頁上段

この「登記」とは、避難民の中に紛れ込んだ敗残兵を一般市民から分離するために、住民の氏名や性別年齢などとともに体格容貌、人相まで登録(住民登録)させ、その登記に基づいた通行証(良民証)を交付した手続き(住民登録)のことを言います(※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ668頁参照)。

日本軍は、この通行証を持たない住民の南京居住を禁じることで、避難民に紛れ込んだ敗残兵を選別し掃蕩しようとしたわけです。

しかし、その登記のために必要となる「小紙片」は、避難民にとって自分の命を保障してくれる「通行証」の発行に必要なものなのですから、藁にも縋る思いでその紙片の受け取りに行ったはずです。

そうした命の不安に晒されていることを知りながら、当時の日本軍はその紙片を道路に撒き散らし、それに群がる市民を見て優越感にでも浸っていたのでしょう。中国人に対する蔑視感情にまみれた醜悪な日本軍の姿がよく表れています。

南京戦で日本軍によって起こされた数々の暴虐行為の原因には、当時の日本軍(とういうよりも日本国民全体)に蔓延していた中国人に対する蔑視感情、差別意識もあったと言われますが、このエピソードには当時の日本軍に実際にそうした差別感情があったことをうかがわせるものがあります。

この部分の記述は、南京を陥落させた日本軍が中国人をいかに見下していたか、当時の日本人にどれだけ差別意識が蔓延していたかを示す記録と言えるのではないでしょうか。

(17)1938年2月13日「金大女収容所は度々敵兵の強姦強奪騒ぎがあった」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1938年2月13日には、日本兵による強姦に関連する記録があります。

金大女収容所は度々敵兵の強姦強奪騒ぎがあったので米国人居留民が敵に抗議した結果、毎晩特務員一名が、警護のため派遣されることになった。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ636頁下段

「近大女収容所」とは難民区(安全区)に含まれる地域にあった金陵大学のことで、南京内外から戦禍を逃れてきた多くの女性を保護する収容施設となっていました。

しかし、そうして女性の避難民が多かったことが日本軍将兵に目を付けられてしまうことになり、強姦目的の侵入や拉致事件が毎日のように繰り返されるようになっていきます。

この記述も、そうした強姦や拉致事件が後を絶たなかったことを示す記録と言えるでしょう。

それにしても、この2月の上旬には日本軍が難民区(安全区)を廃止して避難民を難民区(安全区)から追い出した時期ですから、その時期になっても強姦事件が頻発しただけでなく、その時期になってようやく日本軍側が重い腰を上げて警備要員を派遣したというのですから、日本軍による治安意識の低さに驚かされます。

なお、前述したように難民区(安全区)が閉鎖された後も一日で100件にも上る強姦事件が認知されたと言われますから(※笠原十九司『南京事件』岩波新書209頁)、当時の日本軍は兵士の強姦事件に何らの対処もせず、強姦を黙認し続けたと言っても言い過ぎではないでしょう。

(18)1938年2月13日「番号を付して登録した数は既に十二万点」

蔣公榖の日記(陥京三月記)の1938年2月13日には、当時埋葬された死体に関する記述があります。

〔中略〕城内到る所に殉難の死体があり、特に水堤や空家辺りが最も多い。何日も前から紅万字会がその埋葬に着手し、金銀巷金大農場に深くて狭い壕を掘り、死体を重畳埋葬し土をかぶせて作業を終わった。聞くところによると、番号を付して登録した数は既に十二万点といわれる。

出典:蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ636頁下段

「紅万字会(紅卍字会)」とは、当時の中国で活動していた宗教系の慈善団体のことをいいます。

南京陥落後の南京市内外には戦闘だけでなく日本軍の敗残兵掃討で殺害(虐殺)された膨大な数の死体が放置されていましたが、その死体の埋葬は当時南京市で活動していた慈善団体が主に担いました。その慈善団体の一つがこの「紅万字会(紅卍字会)」です。

この点、この日記の文脈からは紅万字会(紅卍字会)が約12万体の遺体を埋葬したと報告しているように読めますが、東京裁判で検察側から提出された書証では、中国の諸団体が埋葬した死体について紅卍字会が43,071体、崇善堂が112,266体の合計155,337体あったとされていますので(洞富雄編『日中戦争大残虐事件資料集(1)極東国際軍事裁判関係資料編』青木書店378頁、380頁)(※井上久士『南京事件と遺体埋葬問題』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』95頁参照)(※藤原彰『南京大虐殺と教科書・教育問題』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 27頁)、この蔣公榖の日記(陥京三月記)が記録した「12万点」は、紅万字会(紅卍字会)だけが「番号を付して登録した数」ではなくて、他の慈善団体が「番号を付して登録した数」も含めた2月13日時点の総数だったのかもしれません。

もっとも、死体の埋葬はこの「紅万字会(紅卍字会)」だけではなく崇善堂など他の慈善団体も携わっていますし、現地の民間人が埋葬したものや、揚子江上で海軍に射殺されたり河岸から投げ捨てられ揚子江に流された死体も膨大な数に上りますから、この紅万字会(紅卍字会)が埋葬した死体の数は、あくまでも南京戦で殺戮された死体の一部でしかありませんので、その点には注意が必要です。

慈善団体が埋葬しなかった死体も含めれば、数えきれないほど多数の死体が当時の南京で捨てられていたはずです(※なお、南京における死体埋葬問題については井上久士氏の『遺体埋葬からみた南京事件犠牲者数』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 50∼76頁で詳しく論じられています)。

もちろん、これら「○万」という死体の中には純粋な戦闘による死者もあったでしょうし、前述したように中国兵同士で生じた衝突による死者もあるでしょうから、かならずしもこうした「○万」のすべてが日本軍による「虐殺」の犠牲者だったとは言えません。

また、中国近代史学者の石島紀之氏によれば、崇善堂の埋葬数については1938年4月以降における城外での埋葬数104,718体が埋葬隊の人数と比較して課題であることから疑義も呈されているようですから(※石島紀之『南京事件をめぐる新たな論争点』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 136頁参照)、当時の記録に残る埋葬数も厳密に正確なものではない部分もあるでしょう(※もっとも、崇善堂の死体埋葬記録への疑義は主に評論家の阿羅健一氏から出されていたようですが、歴史学者の井上久士氏が前掲の論文『遺体埋葬からみた南紀事件犠牲者数』の中において、阿羅氏が根拠とする崇善堂の活動停止期間等の認識に含まれる事実誤認を指摘しています→詳細は前掲『遺体埋葬からみた南京事件犠牲者数』を参照)。

しかし、この紅万字会(紅卍字会)や崇善堂のように具体的な埋葬数を記録した資料は他に類を見ない貴重なものであることに鑑みれば、これらの残された資料を全否定できるものでもありませんし、この1938年2月13日の時点で、これほど多数の死体の埋葬が報告されていたわけですから、当時の南京に膨大な数の死体が放置されていたことは否定しようがありません。

そして、当時の南京で日本軍によって多数の敗残兵や民間人が殺されたことがわかっていて、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページで論じたように、その処刑が国際法規に違反する「不法殺害」にあたることは否定できないわけですから、日記のこの部分の記述は、南京で膨大な数の中国人が日本軍によって「虐殺」されたことを裏付ける貴重な記録と言えます。