飯沼守日記は南京事件をどう記録したか

飯沼守(いいぬま まもる)は上海派遣軍の参謀長として上海戦から南京攻略戦に参加した陸軍少将で、当時現地でつけていた日記が公開されています。

南京虐殺事件では日本軍将兵による膨大な数の略奪/放火/強姦/虐殺があったとされていますが、個別の暴虐事件は末端の部隊によって実行されていますので、飯沼守の日記に個別の暴虐事件における具体的な描写はあまりみられません。

ただし、軍参謀であったことから捕虜の処断を行った部隊の報告などが入っていますし、派遣軍の中央からどのような指示がなされたかというところの記述も見られますので、大変興味深い資料であることは間違いありません。

では、飯沼守日記では南京虐殺についてどのような記述が見られるのか確認してみましょう。

【1】飯沼守日記は南京事件の「放火」「略奪(掠奪)」「強姦」「虐殺」をどう記録したか

(1)昭和12年9月6日「敵約600降伏セルモ敵対行為アリシ為殺ス」

まず、上海攻略戦の記述となるので「南京虐殺」には入りませんが、飯沼守日記の昭和12年9月6日に降伏した中国兵約600人を殺害した記述が見られます。

兵営ニ在リシ敵約600降伏セルモ敵対行為アリシ為殺ス 鹵獲品ノ後始末ヲ頼ム

〔中略〕

俘虜ハ何程アリヤ日本軍ハ之ヲ皆殺害シアラサルヤ等ノコトヲ外国新聞記者質問スルカ故ニ適当ニ俘虜ヲ後送セシムル如クセラレ度トノ武官室ノ意向ナルモ第一線ハ到底之ヲ顧ル余地ナキヲ以テ目下ノ処第一線ニ一任シアル旨武官室ニ電報ス

出典:飯沼守日記 昭和12年9月6日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ41~42頁

この点、ハーグ陸戦法規の第8条は、捕虜(俘虜)となった者は相手国の陸軍法規その他に服従すべきものとされていますので、日記に「敵対行為アリシ為」との記述があることを考えれば「敵対行為」をとった中国兵捕虜の殺害も許されるように思えます。

ハーグ陸戦法規第8条

俘虜は之を其の権内に属せしたる国の陸軍現行法律、規則及び命令に服従すべきものとす。総て不従順の行為あるときは俘虜に対し必要ナル厳重手段を施すことを得。

ハーグ陸戦法規

しかし、この日記の記述で600人の中国兵は「降伏セル」と記述されていますから、すでに武装解除させられていたはずの捕虜に仮に「敵対行為」があったとしてもその程度は深刻なものとは思えませし、武装解除されていたなら殺害することなく反抗者を鎮圧することができたはずです。

また、仮に「敵対行為」があったとしても、その処罰には軍法会議(裁判)が前提となりますから、拘束して裁判(軍法会議)に掛けて非違行為を認定してから処罰をすべきです(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

この点、「敵対行為」をとった捕虜の鎮圧が難しかったのではとの疑義が生じるかもしれませんが、捕虜にした600人の全員が「敵対行為」をとったと考えるのは不自然ですし、たとえば不当な処刑があったためその目撃者を消す意図で証拠隠滅を図ったなど、何らかの不正な意図が伺えます。

なにより、武官室(おそらく大使館の駐在武官)から「俘虜ヲ後送セシムル如クセラレ度」との意向を受けていたにもかかわらず、現場の派遣軍は「之ヲ顧ル余地ナキヲ以テ目下ノ処第一線ニ一任シアル」と、そもそも捕虜を収容する余裕がなかったと軍参謀が記録しているわけですから、そもそも捕虜をとらない方針が派遣軍においてとられていたことを考えれば、この600人の殺害も当初からその殺害が既定路線だったとの強い推定が働くでしょう。

もちろん、「敵対行為」があって捕虜となった中国兵から攻撃があったなら殺害もやむを得なかった可能性がありますので、この記述だけをもってその殺害が「虐殺」だったと断定することはできませんが、そもそも捕虜を収容することについて「余地ナキ」との対応をとっていたことに鑑みれば、この600人の捕虜殺害についてはハーグ陸戦法規に違反する「不法殺害」の疑いがかなり強いと言わざるを得ません。

先ほど述べたように9月6日は上海攻略戦なので狭義の南京虐殺にはカウントされませんが、上海攻略戦の時点ですでに軍中央が捕虜をとらない方針をとっていたうえ参謀長の日記に降伏した捕虜の全員を処刑した記述があるのですから、この後につづく南京攻略戦も”推して知るべし”と言えます。

(2)昭和12年9月9日「中ニハ手ヲ縛シタルママ殺シタルモノモアリ」

また、これも上海戦に含まれることになりますが、飯沼守日記の昭和12年9月9日には捕虜の処刑とみられる記述が見られますので紹介しておきます。

夜一〇・〇〇頃船ニ帰リ各方面ノ概要ヲ司令官ニ報告、司令官モ後備二大隊カ大体11D方面ニ上陸(軍艦輸送)シタルヲ聞キ非常ニ安心サル 敵ノ屍体各所放置サレアリ、衛生上モ又人道上(中ニハ手ヲ縛シタルママ殺シタルモノモアリト)モ不都合ナレハ焼却又ハ埋葬スル様処置セヨトノコト

出典:飯沼守日記 昭和12年9月9日※偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史資料集Ⅰ』47頁

この点、この記述からは司令官の松井石根から「各所に放置」されている「敵の屍体」を「衛生上」また「人道上」の観点から「焼却または埋葬するよう」に指示されたことがわかりますが、「手を縛りたるまま殺したる」とありますので、この死体が戦闘中に生じたものではなく、制圧した敵を武装解除して拘束し、電線かなにかで縛ったうえで処刑したものであることが伺えます。

しかし、いったん捕虜としたのであればハーグ陸戦法規に従って人道的な扱いをしなければならないので処刑することはできませんし、仮にその捕虜に何らかの非違行為があったとしても之を処刑するには軍事裁判(軍法会議)を省略することはできませんから、軍事裁判(軍法会議)に掛けることなく即座に処刑したことが伺えるこの死体は、明らかに国際法に違反する「不法殺害」によって生じたものだと言うほかありません(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この飯沼守日記のこの部分の記述は、上海戦において日本軍による「虐殺」があったことを示す貴重な記録と言えるでしょう。

(3)昭和12年10月17日「俘虜約60早速後方工事ニ使用シアリト」

飯沼守日記の昭和12年10月17日には捕虜にした中国兵の使役に関する記述が見られます。

9Dノ陳家行攻撃ニ於テ一昨日東端奪取ノ時ニ敵ノ屍体300、本日奪取ノ際敵ノ俘虜約60早速後方工事ニ使用シアリト

出典:飯沼守日記 昭和12年10月17日※偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史資料集Ⅰ』93∼94頁

「本日奪取ノ際敵ノ俘虜約60早速後方工事ニ使用シアリ」とありますから、上海派遣軍の第九師団が捕らえた60名の捕虜を後方の工事に使用したことがわかります。

しかし、捕虜の使役自体は禁じられていませんが、使役は「作戦動作に関係」するものであってはなりませんし(ハーグ陸戦法規第6条1項)、使役分に相当する労賃を支払わなければ(同条第3項)国際法規違反です。

ハーグ陸戦法規第6条

国家は将校を除くの外、俘虜を其の階級及び技能に応じ労務者として使役することを得。其の労務は過度なるべからず。又一切作戦動作に関係有すべからず。

俘虜は公務所、私人又は自己の為に労務することを許可せらるることあるべし。

国家の為にする労務に付いては同一労務に使役する内国陸軍軍人に適用する現行定率に依り支払い為すべし。右定率なきときは其の労務に対する割合を以て支払うべし。

公務所又は私人の為にする労務に関しては陸軍官憲と協議の上条件を定むべし。

不慮の労銀は其の境遇の難苦を軽減するの用に供し剰余は解放の時給養の費用を控除して之を俘虜に交付すべし。

ハーグ陸戦法規

もちろん、この部分は使役が「後方工事」とだけしか記述されておらず、軍に関係する工事と断定することはできませんし、労賃を支払っている可能性も否定できませんから、この記述だけをもってハーグ陸戦法規違反の使役があったと非難することはできません。

しかし、日本軍の部隊が捕らえた捕虜を苦力(クーリー)として使用し軍用の荷物を担がせて進軍したことは多くの日記や証言に見られますし、そうした苦力に賃金を支払ったという記録は見たことがありませんから、この飯沼守日記が記述に関してもハーグ陸戦法規が禁止する「作戦動作」に関係する工事で報酬を与えず使役したものと考えるのが自然です。

この部分の記述をもって国際法規違反の使役があったと断定することはできませんが、その可能性を高く推認させる記録と言えるのではないでしょうか。

(4)昭和12年12月1日「瓦斯ヲ使用セサルへカラスト」

飯沼守日記の昭和12年12月1日には毒ガスに関する記述が見られます。

午後兵器部長福原少将来部 下村第一部長ノ伝言トシテ瓦斯使用ハ国際関係上ハ困難ナキモ御宸念アラセラル丶ニ依リ成ル程之ナラハ瓦斯ヲ使用セサルへカラスト御思召スニ至ラサレハ御裁可アラセラレスト。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月1日※偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史資料集Ⅰ』146頁

「宸念」「裁可」とあることから毒ガスの使用に関する昭和天皇の意向を示すものと思われますが、「成ル程之ナラハ瓦斯ヲ使用セサルへカラスト御思召スニ至ラサレハ」とありますので、昭和天皇が毒ガスの使用に否定的な考えを持っていたことが伺えます。

しかし、これは裏を返せば「成ル程之ナラハ瓦斯ヲ使用セサルへカラスト御思召スニ至」るような事情があれば毒ガスの使用もやむを得ないと考えていたということになりますので、昭和天皇も毒ガスの使用を絶対的に禁じていたわけではないのでしょう。

この部分は、昭和天皇が毒ガス使用を否定的に考えながらも絶対的には禁止していなかったことを伺わせる記録と言えるのではないでしょうか。

(5)昭和12年12月19日「将校ノ率ユル部隊進入強姦セリ」

飯沼守日記の昭和12年12月19日には、南京を陥落(南京陥落は同月13日)させた日本軍による放火や避難民の強姦、外国領事館における略奪(掠奪)の記述が見られます。

憲兵ノ報告ニ依レハ十八日中山陵奥ノ建物ニ放火シ今尚燃ヘツヽアリ。又避難民区ニ将校ノ率ユル部隊進入強姦セリト言フ。(真偽確カナラサルモ)其他之ニ類スルコト及英、米大使館又ハ領事館ノ「トラツク」ヲ押収シ或ハセントシタル者アリテ注意事項ハ実行セラレアラス。本夜副長ヨリ参謀長ニ電話ニテ注意ヲ与フ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ162頁

この点、中山陵の放火に関しては日本軍によるものとは記述されていないので中国軍の可能性もありますが、中山陵は孫文の陵墓なので中国軍兵士が火を放ったとは考えにくいですし、中段に記述された強姦や後段に記述された押収(略奪)が日本軍によるものであることに鑑みれば、飯沼が憲兵からの放火の報告を日本軍兵士によるものと認識していたと考えるのが自然です。

なお、海軍の軍医大佐だった泰山弘道の従軍日記でも昭和12年12月18日の箇所に中山陵に関する記述が出てきますが、そこでは「中国人が此の陵を兵燹より守らんとせる心尽しの窺ふべきあり」と記述されていますので、そうした他の日記の記述を踏まえても、この中山陵に関しては中国兵による掠奪(略奪)や放火はなかったものと考えられます(※詳細は→泰山弘道従軍日誌は南京事件をどう記録したか)。

中山陵は陵墓で埋葬品等がありましたから、それを狙った日本兵が侵入して証拠隠滅のためか、あるいは暖をとる目的で放火したのではないでしょうか。

なお、第六師団歩兵第三十六旅団歩兵第二十三連隊第三中隊長の折小野末太郎の日記(※詳細は→折小野末太郎日記は南京事件をどう記録したか)や第九師団歩兵第六旅団歩兵第七連隊長の伊佐一男の日記(※詳細は→伊佐一男日記は南京事件をどう記録したか)、また第16師団参謀長から出された「南京ニ於ケル申送リ要点」(申継書)(※詳細は→日本軍の電報・申送り(申継書)は南京事件をどう記録したか)には、中山陵で日本兵による略奪(掠奪)や放火があったことが記録されています。

引用文最後尾の「本夜副長ヨリ参謀長ニ電話ニテ注意ヲ与フ」と記述された部分は、日本軍兵士による放火・強姦・略奪があったとの認定の下で注意を与えたものでしょう。

「避難民区」は南京市内外から避難してくる市民を収容するために外国公館などが集中していた南京市内の一角に設定された地域のことですが、本来安全でなければならない難民区においても日本軍兵士が掠奪や強姦目的で侵入して多数の非違行為を犯していたことは、この飯沼守日記以外の日記や手記、証言などでも明らかにされています(※難民区における日本兵の非違行為についてはジョン・ラーベやミニー・ヴォートリン、マギー牧師等、南京に残留した外国人の日記に詳しく記されていますのでそちらを参照してください)。

なお、こうした強姦が多く起きたことから19日には所謂「慰安所」を早急に設けるよう依頼したとの記述が見られます。

迅速ニ女郎屋ヲ設ケル件ニ就キ長中佐ニ依頼ス。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ162頁

「女郎屋」とは女性を集めて日本兵に性的サービスを行わせたいわゆる従軍慰安婦の「慰安所」のことですが、この南京戦をきっかけにして、軍から依頼を受けた女衒などが日本内地や朝鮮半島、占領した中国などで慰安婦を募集したり、あるいは人身売買や詐術などを用いて女性を集め日本兵の相手をさせたことはよく知られています(※この点は吉見義明の『従軍慰安婦』岩波新書に詳しい)。

ただ、ここで誤解してならないのは、日本軍が慰安所を設置したのはあくまでも軍隊内部で性病が蔓延して戦力が減退してしまうのを防ぐためであって、中国人女性を守るためではなかったという点です。

軍は慰安所を設置して軍医に定期的に性病検査させ避妊具の使用を義務付ければ性病をコントロールできると考えたので慰安所の設置を急いだわけです。

もっとも、慰安所を設置したものの強姦自体は減らなかったともいわれていますので(※この点も吉見義明の『従軍慰安婦』岩波新書に詳しい)、慰安所の政策的効果は限定的あるいはほとんどなかったと言ってよいのではないでしょうか。

ちなみに、この慰安所の設置については飯沼守日記の同月25日に「手筈整ヒ年末ニハ開業セシメ得ル段取リトナレリ」の記述がありますが、この点はこの後の「(8)」の箇所で詳しく触れることにします。

(6)昭和12年12月21日「捕虜一万数千ハ逐次銃剣ヲ以テ処分」

飯沼守日記の昭和12年12月21日には南京攻略戦の中でも大規模な虐殺があったとされる幕府山における山田支隊に関する記述が見られます。

荻州部隊山田支隊ノ捕虜一万数千ハ逐次銃剣ヲ以テ処分シアリシ処何日カニ相当多数ヲ同時ニ同一場所ニ連行セル為彼等ニ騒カレ遂ニ機関銃ノ射撃ヲ為シ我将校以下若干モ共ニ射殺シ且相当数ニ逃ケラレタリトノ噂アリ。上海ニ送リテ労務ニ就カシムル為榊原参謀連絡ニ行キシモ(昨日)遂ニ要領ヲ得スシテ帰リシハ此不始末ノ為ナルヘシ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月21日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ164頁

山田支隊は揚子江(長江)を渡河して滁県(滁州)方面に向かった第十三師団と鎮江で別れて揚子江(長江)右岸沿いを南京城北東方面に西上した別動隊で、南京城手前の幕府山あたりで投降してきた中国軍守備隊や南京から逃れてきた敗残兵や市民1万5千から2万人を捕縛したものの、揚子江(長江)河岸に連行して銃殺したことが中国側だけでなく日本軍兵士の日記や手記、証言等によって明らかにされています。

「将校以下若干モ共ニ射殺シ」とあるのは、中国兵が日本軍将校を射殺したわけではなく、揚子江(長江)河岸に連れていった捕虜を銃殺する際、捕虜に逃げられないようにするために周りを囲むように機関銃を並べて一斉射撃して処刑したため対面から撃たれた弾が味方に当たって死傷者を出したものです(※この辺りは”渡辺寛著『南京虐殺と日本軍』明石書店”で詳しく説明されていますので興味のある人はそちらを参照してください)。

飯沼守日記のこの「捕虜一万数千」の「処分」の記述も、その山田支隊において行われた1万5千から2万人の虐殺に関連するものでしょう。

この点、これも繰り返しになりますが、捕虜として捕縛したのであればハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮をしなければなりませんから処刑することはできませんし、仮に捕縛した捕虜に非違行為があったとしても、それを処刑するためには軍律会議(軍事裁判)を省略することはできませんから、裁判を経ない処刑は明らかな国際法規違反です(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

飯沼守日記のこの部分は、日本軍による虐殺があったことを裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

(7)昭和12年12月24日「皇道精神ヨリ見テ具合悪キ掠奪行ハル」

飯沼守日記の昭和12年12月24日には日本兵による略奪(掠奪)、放火の記述が見られます。

13D報告ー〔中略〕軍規風紀、皇道精神ヨリ見テ具合悪キ掠奪行ハル、特ム兵ニ特ニ多シ、断乎トシテ振作ヲ図ラントス。
江北ニ独立作戦後放火モ殆トナク気分稍之ニ向ヒツツアリ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月24日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ166頁

「D」は師団の略称で「特ム兵」と記述されていますので、おそらく弾薬等の輸送を担う兵站の兵士で特に略奪(掠奪)が多かったという報告が第13師団からあったということなのでしょう。

また、これとは別に、同日には第16師団が兵士の「粗暴」な行動に苦慮していたとの記述もあります。

16D報告ー〔中略〕死傷二一九四、北支作戦ニ比シ一○○○多シ、将校八八名、過剰兵員アリシ為将校及下士官ノ補充ヲ得ハ完成ス。粗暴ニ流レアル点アルモ引キ締メモ北支ノ経験モアリ十分ノ自信アリ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月24日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ166頁

「粗暴」が具体的に何なのかは記されていないので断定はできませんが、南京で問題となっていた「粗暴」は現地住民に対する暴行や傷害、殺人、あるいは掠奪(略奪)や強姦なので、そうした非違行為があったことは間違いありません。

加えて同日には次のような軍規風紀に乱れがあったとの記述もあります。

天谷支隊報告ー〔中略〕学校等ヲ利用シ宿営ス。軍規風紀十分ナラサルモ放火ハ無クナレリ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月24日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ167頁

南京攻略戦は冬に行われたため日本兵が占領地で民家に火を点けて暖をとったりすることが多くあったと言われています。「放火ハ無クナレリ」としていますから、天谷支隊では放火が特に目についていてそれが減少したものの、「軍規風紀十分ナラサルモ」としていますので、その他の非違行為(略奪や強姦など)は続いていてその引き締めに苦慮していたのかもしれません。

(8)昭和12年12月25日「女郎ノ処置モ内地人、支那人共ニ招致募集ノ手筈整ヒ」

飯沼守日記の昭和12年12月25日には、前述の19日の部分(※前述の「(5)」の部分)に引き続いて慰安所の設置に関する記述が見られます。

又女郎ノ処置モ内地人、支那人共ニ招致募集ノ手筈整ヒ年末ニハ開業セシメ得ル段取リトナレリ。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月6日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ168頁

「女郎ノ処置」が慰安所の設置にあたる部分ですが、前述したように陥落後の南京では日本兵による強姦が頻発したため兵士の性欲処理の施設として慰安所の設置が進められました。その準備が年末までには整うという趣旨の記述でしょう。

この点、「内地人、支那人共ニ招致募集ノ手筈整ヒ」とありますので、一見すると売春婦の求人を掛けて合法的に遊女を募集したように感じられますが、実態はそうではありません。日本軍が強制的に連れて行ったことがわかっていて、金陵女子文理学院のミニー・ヴォートリンや南京安全区国際委員会委員長のジョン・ラーベの日記には、次のように日本軍によって強制的に慰安婦の徴用が行われたことを記録しています。

あしたはクリスマス。一〇時ごろわたしの執務室に呼び出されて、――師団の高級軍事顧問と会見することになった。さいわい、大使館付の年配の中国人通訳を同伴してきた。ここの避難民一万人のなかから売春婦一〇〇人を選別させてもらいたいというのが日本軍側の要求であった。彼らの考えでは、兵士が利用するための正規の認可慰安所を開設することができれば、何の罪もない慎みある女性にみだらな行為を働くことはなくなるだろう、というのだ。以後は女性を連行しないことを彼らが約束したので、物色を始めることを承知した。その間、軍事顧問はわたしの執務室で腰を掛けて待っていた。かなりの時間が経過してから、彼らはようやく二一人を確保した。こうした物色が行われることを聞きつけて逃げ出した女性や、いまなお身を隠している女性もいると彼らは考えている。大勢の少女が次つぎにわたしのところへやってきて、残り七九人は品行正しい少女のなかから選ぶのか、と質したが、わたしとしては、私が言って阻止できるのであれば、そういうことにはならないはずだ、と答えるのが精いっぱいだった。

出典:ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』大月書店※1937年12月24日の部分77頁

難民は一人残らず登録して「良民証」を受取らなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられた(剔出)なのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分などふきとんでしまう。

出典:ジョン・ラーベ著『南京の真実』講談社 143∼144頁※1937年12月25日の部分

ある女性が、ここに避難している娘に会いに農村地域からやってきた。彼女の情報によれば、きのう彼女の近所の家いえから慰安のための婦人が大勢連れ去られたそうだ。

出典:ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』大月書店※1938年2月18日の部分175頁

飯沼守日記のこの部分は単に「女郎ノ処置」「募集」としか記されていませんが、その裏で多くの女性が日本軍に強制的に徴発されて慰安婦にさせられた事実があることは知っておくべきでしょう。

(9)昭和12年12月26日「33iノ一中隊カ千数百ノ捕虜ヲ獲処分シタル所」

飯沼守日記の昭和12年12月26日には、第16師団の歩兵第30旅団第33連隊で千数百名に及ぶ捕虜の大規模な虐殺に関する記述が見られます。

午後一・三〇殿下ノ御伴ニテ挹江門、下関、浦口、挹江門南側の地下室、太平門(33iノ一中隊カ千数百ノ捕虜ヲ獲処分シタル所)富貴山地下室、同砲台等ヲ見、五・〇〇前帰ル。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月26日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ169頁

「殿下」は上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦王親王(中将)のことで、朝香宮の視察に同伴したときの描写でしょう。

「太平門」は南京城の東側、紫金山の南山麓に通じる城門で第十六師団(中島今朝吾中将)の部隊が主に攻略を担当した場所ですが、「33i」は第33連隊を指しますので第十六師団の歩兵第三十旅団(佐々木到一少将)に編成されていた第33連隊(野田謙吾大佐)が「千数百」の「捕虜」を捕縛して太平門で「処分」、つまり処刑したということでしょう。

この太平門附近での捕虜の処刑については佐々木到一少将の私記や(詳細は→佐々木到一私記は南京事件をどう記録したか)、中島今朝吾中将の日記にも見られますので(※詳細は→中島今朝吾日記は南京事件をどう記録したか)、この記述と符合するところを踏まえれば記述に誤りはなかったものと推測できます。

そしてもちろん、先ほどから繰り返し述べているように捕虜の処刑は明らかな国際法規違反ですから、これは国際法に違反する違法な殺害であったとしか言えません(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

この部分の記述も、太平門附近で1000∼2000名にも及ぶ大規模な捕虜の虐殺があったことを裏付ける記録と言えるでしょう。

(10)昭和12年12月29日「掠奪シ且館員ノ居室等ヲ荒シ扉ヲ剣ニテ突キ刺シ」

飯沼守日記の昭和12年12月29日には、南京のアメリカやドイツ大使館において日本兵による略奪(掠奪)があり抗議を受けたことが記されています。

米英独伊等ノ大使館員、領事館員等来ルトノコトニ之ガ応対法研究中ノ所ヘ福井書記官(南京領事)来リ米大使館使用支那人ノ言ニ依レハ二十三日日本兵来リ支那人ノ持物ヲ掠奪シ且館員ノ居室等ヲ荒シ扉ヲ剣ニテ突キ刺シタリトカ独大使館ニテハ軸物ヲ掠奪セリトカニテ米人ヨリ領事館宛ノ手紙モ置キ行キタリ。困ツタコトヲスル者アリ全部ヲ真トスルコトモ出来サルモ善後策ヲ研究スル要アリ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月29日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ171頁

南京陥落時、米国大使館にはシカゴ・デイリー・ニュースの特派員アーチボルト・T・スティールがAP通信社のC・Y・マクダニルと共に避難していましたが、大使館使用人(中国人)の親族300人ほどが避難するために大使館に駆け込んできたことがドイツ大使館の外交文書で明らかにされていますので(※石田勇治編/翻『資料ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店30頁)、この飯沼守日記の「支那人ノ持物ヲ掠奪シ」の部分も、おそらく米国大使館に押し入った日本兵がそこに避難していた大使館使用人の親族の持物を略奪(掠奪)したものでしょう(※なお、外国公館における略奪(掠奪)に関しては日本軍の電報や他の兵士の日記にも記述があります。例えば→『日本軍の電報・申送り(申継書)は南京事件をどう記録したか』『上村利道の日記は南京事件をどう記録したか』)。

「独大使館ニテハ軸物ヲ掠奪セリトカ」の部分はドイツ大使館に侵入した日本兵が大使館内の財物を略奪(掠奪)したのだと思われます。

この件に関しては翌30日にも対応に追われていた記述がありますので、当時の軍中央が英米独伊等列強との外交関係に相当神経をとがらせていたことが分かります。

方面軍中山参謀来リ参謀長一人ニ対シ、今回ノ外国公館ニ対スル非違其他ノ不軍規行為誠ニ遺憾ナリトノ意味ノ伝達アリ恐縮ノ外ナシ。

出典:飯沼守日記 昭和12年12月30日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ171~172頁

また、この米国大使館への侵入に関しては外交問題に発展して正式に陳謝することに至ったことが翌13年1月29日の日記に記述されています。

米大使館ニ日本兵侵入事件ハ米本国ノ回訓ニ依リ参謀長カ「アリソン」ニ対シ陳謝スルカ、松井司令官カ米艦隊長官ニ、又ハ東京或ハ「ワシントン」ニテトノコト。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月29日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ185頁

陥落後の南京ではアメリカやイギリスだけでなく同盟国のドイツ大使館や公使宅まで日本兵が押し入って車や貴金属はもちろん、備え付けの家具等まで略奪していったことがわかっていますが、当然それは国際法違反にあたります。もちろん、避難した中国人の一般市民から略奪(掠奪)したのもハーグ陸戦法規に違反する重大な戦争犯罪です。

飯沼守日記のこの部分は、日本軍による略奪(掠奪)の事実を裏付ける記録と言えるでしょう。

(11)昭和13年1月4日「不逞徒ヲ捕ヘツ丶アリ」

飯沼守日記の昭和13年1月4日には日本兵による略奪(掠奪)かもしくは強姦の事実を推認させる記述があります。

憲兵ハ南京難民区域或ハ外国大使館等ニ潜伏シアル不逞徒ヲ捕ヘツ丶アリ、保安隊長、八十八副師長等主ナルモノナリ

出典:飯沼守日記 昭和13年1月4日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ175頁

同中佐ソ聯大使館ニ到リシ時裏手ノ大使カノ私邸ニ笹沢部隊ノ伍長以下三名入リ込ミ食糧徴発中ナリシト、今ニ到リ尚食糧ニ窮スルノモ不思議、同大使館ニ入リ込ムモ全ク不可解。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月4日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ175頁(※注:「同中佐」は特務部岡中佐のこと、「笹沢部隊」は独立機関銃第二大隊の笹沢中隊のこと)

飯沼守日記のこの部分からは、年が明けて1月4日になった後も外国大使館に侵入した日本兵がいたことがわかります。

外国大使館に侵入する目的は略奪(掠奪)が主ですが、この頃には既に日本兵に略奪(掠奪)しつくされて金目のものは残っていないはずなので、外国大使館は中国人の難民が多く非難していて女性も少なくなかったことを考えると、これらの日本兵は強姦目的で侵入した疑いが高いのではないでしょうか。

「今ニ到リ尚食糧ニ窮スルノモ不思議、同大使館ニ入リ込ムモ全ク不可解」とあるところを見ても、1月4日には既に食糧の補給はかなり改善されていたことが伺えますので、強姦目的以外で侵入する意図がわかりかねます。

日本兵による強姦は日本兵による暴虐行為が少なくなる2月以降も続いたことがわかっていますが、飯沼守日記のこの部分は、そうした日本兵による強姦が続いていたことを示す記録の一つと言えるのではないでしょうか。

(12)昭和13年1月6日「軍規風紀、未然ニ防止スル如ク十分注意スヘシ」

飯沼守日記の昭和13年1月6日には、軍規風紀の頽廃防止に注意を要すと記述された箇所があります。

国際関係、軍規風紀、未然ニ防止スル如ク十分注意スヘシ。総長、大臣ノ電報ニ対シ返電ヲ出シアリ。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月6日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ176頁

南京陥落は前年12月13日ですが、飯沼守日記のこの部分からは、ひと月が経っても依然として略奪(掠奪)や強姦、放火等の非違行為が後を絶たなかったことが分かります。

(13)昭和13年1月6日「憲兵隊四百名新編成」「別ニ両軍ノ憲兵各五十名宛」

6日には憲兵に関する記述も見られますので紹介しておきましょう。

中支那憲兵隊四百名新編成。別ニ両軍ノ憲兵各五十名宛。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月6日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ176頁

南京に進軍した中支那方面軍は南京陥落時点で憲兵が一人もおらず(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 165頁)、12月下旬になってようやく17名の憲兵を配置したそうですが、17名で万単位の日本軍兵士が占領する南京行政区を統制できるはずがありませんので、配置された憲兵は非違行為を働く日本兵を拘束するわけでもなく、むしろ憲兵が傍観者に終始することで略奪(掠奪)や強姦など非違行為が頻発したことが南京に残留した外国人の記録で明らかにされています。

五万以上の日本軍が南京を横行しているとき、憲兵はたった十七人しか到着しておらず、幾日たっても一人の憲兵の影も見出せなかった。後になって若干の日本兵が憲兵の腕章をつけて取り締まるようになった。が、これはむしろ悪いことをするのに便利で単に普通の下らぬ事件しか阻止しえなかった。我々の聞くところでは、強姦で捕まった日本兵は叱責されるほか何らの懲罰も受けず、掠奪を働いた兵隊は上官に挙手の敬礼をすればそれで事は済む由だった。

出典:ティンバーリイ著『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社65頁

北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、跪いて助けを求めた。わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることができない。

出典:ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳、笠原十九司解説)『南京事件の日々』大月書店 70頁※ミニー・ヴォートリンの日記 1937年12月20日の部分

「二月の五日か六日ごろ、軍の高官がやってきて、南京駐在部隊の将校、主として尉官級の将校、また下士官をあつめて、日本軍の士気のためにも、またその名誉のためにも、こういう状態は即時止められなければならないということを申渡したことを知ったが、それまでは何ら、有効適切な手段がとられたということ、また強姦その他の残虐行為を犯した兵士にたいして、処罰がおこなわれたということを聞いたことがない」

出典:洞富雄編『日中戦争史資料 Ⅰ』56頁※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 133頁※ベーツ博士の証言

飯沼守日記のこの部分をみると、年が明けて6日になってようやく憲兵隊の配備が進みだしたことがわかりますが、日本軍の暴虐行為はこれ以降も継続し2月に入ってから徐々に少なくなっていったと言われています。

なぜもっと早く憲兵を配置しなかったのか、理解に苦しみます。

(14)昭和13年1月12日「軍規風紀殊ニ国際問題惹起防止ノ御要望アリ」

飯沼守日記の1月12日にも日本兵による暴虐行為に関する記述が続きます。

幕僚長殿下ヨリ方面軍司令官へ条理ヲ尽セル軍規風紀殊ニ国際問題惹起防止ノ御要望アリ、各師団ニ更ニ注意ヲ附加シ伝達。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月12日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ178頁

「幕僚長殿下」は朝香宮のことでしょうか。「軍規風紀…御要望」とありますので1月12日になっても日本兵による暴虐行為が続いていたことがわかります。

ところで、ここで朝香宮は「殊ニ国際問題惹起防止ノ御要望」をしていますが、それは欧米列強との外交に支障が出ることを懸念しての「御要望」であることが伺えますので、そこに中国市民への憐憫や暴虐行為についての悔恨の気持ちは伺えません。

つまり朝香宮は、日本兵の暴虐行為から中国市民を守るために軍規風紀を改めようとしたわけではなくて、ただ単に日本兵の暴虐行為を放置すると欧米列強との外交に支障が出るのが嫌だから軍紀粛正を図っただけに過ぎないわけです。

もちろん、こうした中国人を蔑む感情は朝香宮だけでなく当時の日本全体に蔓延していたものですが、こうした中国人に対する差別意識が陥落後の南京で行われた大暴虐事件に繋がったのではなかったでしょうか。

(15)昭和13年1月21日「日本兵カ婦女1名ヲツレ出シ」

飯沼守日記の昭和13年1月21日には、南京のアメリカ領事から強姦(婦女の拉致)と略奪(掠奪)に関する抗議があったことが記録されています。

在南京米国領事ノ報告ニ依レハ、一月十五日~十八日ニ米権下ヨリ日本兵カ婦女1名ヲツレ出シ金陵大学ヨリ「ピアノ」ヲ壁ヲ破リテ持出シタリ。在南京外交官ハ無力、軍ハ其統制取レスト、在東京米大使ヨリ抗議アリト。今日尚如此兵アリトハ実ニ残念、然シ現ニ本日モ米国旗ノ在ル家ニ兵カ掠奪ニ入リ込ミ居ル処ヲ米書記官ト同行ノ憲兵取リ押ヘタリト言ヘリ。米ノ抗議モ真実ラシ。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月21日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ182頁

「米権下ヨリ日本兵カ婦女1名ヲツレ出シ」の部分は具体的にどこから女性を拉致したのかわかりませんが、「米権下」としていますので、アメリカ人の経営する店舗か大使館・領事館で働く使用人か、それらの建物に避難した避難民が日本兵に拉致されたのでしょう。もちろん、日本兵が女性を拉致する目的は一つしかありませんから、レイプされたのは間違いありません。

金陵大学は難民区(安全区)に避難してきた難民が多く収容されていた場所ですが、ピアノの掠奪(略奪)が記録されています。「壁ヲ破リテ持出シタ」と言うのですから窃盗団と変わりません。

こうして略奪(掠奪)した品物は上海に送られてお金に変えられたり輸送船で日本に送られたりしたそうですが、「皇軍」の実態はただの盗賊だったと言えるでしょう。

文中に「在南京外交官ハ無力、軍ハ其統制取レス」とあることから考えても、当時の日本兵の暴虐に対して南京にいた日本の文民(外交官)も軍人(憲兵)もまったく統制がとれていなかったことが裏付けられる記述と言えるのではないでしょうか。

(16)昭和13年1月26日「銃剣ニテ脅シ女二人ヲ連行強姦」「交ル交ル女ヲ連レ来リ金ヲ与ヘテ兵ニモ姦淫セシメ」

飯沼守日記の昭和13年1月26日には、日本兵による強姦と監禁凌辱、米国人への暴行の記述があります。

本夕本郷少佐ノ報告。米人経営ノ農具店ニ二十四日夜十一時頃日本兵来リ、留守居ヲ銃剣ニテ脅シ女二人ヲ連行強姦ノ上二時間程シテ帰レリ、依テ訴ヘニ依リ其強姦サレタリト言フ家ヲ確メタルトコロ天野中隊長及兵十数名ノ宿泊セル所ナルヲ以テ、其家屋内ヲ調査セントシタルニ米人二名亦入ラントシ、天野ハ兵ヲ武装集合セシメ逆ニ米人ヲ殴打シ追ヒ出セリ。其知ラセニ依リ本郷参謀現場ニ到リ、中隊長ノ部屋ニ入ラントシタルモ容易ニ入レス、隣室ニハ支那女三、四名在リ強テ天野ノ部屋ニ入レハ女ト同衾シアリシモノノ如ク、女モ寝台上ヨリ出テ来レリト、依テ中隊長ヲ尋問シタルニ中隊長ハ其権限ヲ以テ交ル交ル女ヲ連レ来リ金ヲ与ヘテ兵ニモ姦淫セシメ居レリトノコト。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月26日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ184頁

米国人の経営する商店に押し入った日本兵が留守番の中国人女性2名を強姦したうえ、そこを宿舎に指定された日本軍の中隊十数名が周辺で拉致した女性も合わせて輪姦し、助けに来た米国人2名に暴行を加えて追い返したのにあきたらず、軍参謀の調査をも妨害して凌辱の限りを尽くした日本兵の蛮行が生々しく描写されているのがわかるでしょう(※この米国人はおそらく大使館員のアリソンのことで、この事件は外交問題に発展して日本側が米国に謝罪と賠償を迫られています(アリソン事件)※笠原十九司著『南京事件』岩波新書 208∼209頁参照)。

南京では外国公館のあった地域が安全区(難民区)に指定され南京市の内外から多くの市民が避難していましたが、日本軍によって2月の初旬に難民区が廃止され避難民は強制的に難民区を追い出されています。

しかし、その難民区が廃止される直前の1月下旬においても全く南京の治安は改善しておらず、日本兵による強姦が絶え間なく続いていたのです。

なお、この件で憲兵の取り調べを受けた天野中隊の兵士らはその後軍法会議に送致されて一応は処分されているようで、この飯沼守日記の昭和13年1月29日と30日にその記述が見られます(※なおこの「天野事件(アリソン事件)」については上海派遣軍参謀副長上村利道の日記1月26日~29日の部分にも記録があります→上村利道の日記は南京事件をどう記録したか)。

小山憲兵隊長来リ天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、事件送致ニ就キ軍ノ意向ヲ聞ク。依テ中尉以下同宿ノ者全部ヲ送致スヘキヲ希望シ、殿下ニモ報告セリ。〔中略〕天野中尉出発ヲ差止メラレ何トカ穏便ノ取計ヒヲトテ来リシモ、男ラシク処理セヨト諭シテ帰ヘス。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月29日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ185頁

天野中尉以下十二名軍法会議ニ送致。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月30日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ186頁

強姦・略奪などの非違行為は口頭での注意で済ましてしまう例が多かったようですが、この件では米国人(アリソン)への暴行があり外交上の問題にまで発展してしまっため、アメリカの参戦や制裁を危惧した日本政府は頭を悩まされました。

六、南京駐在「アリソン」米国領事ニ関スル情報部長談(一月三十一日)

〔中略〕
一、事情ノ如何ハ別トシ日本兵カ「アリソン」領事ヲ殴打シタルコトハ誠ニ不幸ナル出来事ニシテ現場ニ於テモ既ニ本郷参謀ヨリ軍司令部ノ名ニ於テ本件発生ニ対シ遺憾ト陳謝トヲ表明セル次第ニシテ「アリソン」氏ハ之ヲ受入レタル趣ナルカ帝国政府トシテモ慈ニ本件ニ対シ衷心遺憾ノ意ヲ表明ス〔以下略〕

出典:外務省情報部『支那事變関係公表集(第二号・第三号)』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ457頁上段

そうしたアメリカの顔色を窺って軍法会議に附すことで体裁を取り繕ったのかもしれません。

(17)昭和13年1月29日「横領セル自動車及タイヤヲ通訳ニ売リ」

飯沼守日記の昭和13年1月29日には、強姦や傷害事件の他に、タイヤを横領して通訳の中国人に売りさばく日本軍兵士がいたとの記述が見られます。

法務部長ヨリ其後ノ事件ノ報告ヲ聞ク。強姦、傷害等ノ外特ニ甚シキハ横領セル自動車及「タイヤ」ヲ通訳ニ売リタル一団アリ。殿下モ之ニハ呆レテ何トカ注意ノ実行ヲ監督スル手段ヲ講セヨト命ゼラル。小山憲兵隊長ノ申出モアリ、補助憲兵ヲ増加シ憲兵ノ分遣所ヲ城内ニ増加スルコトトセリ。

出典:飯沼守日記 昭和13年1月29日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ185頁

「殿下」は、おそらく南京攻略戦において上海派遣軍の司令官だった朝香宮のことでしょう。

「一団アリ」とありますから、組織的に非違行為が行われていたことが分かります。憲兵の絶対数が全く足りておらず、軍規頽廃は極まっていたのでしょうが、この時期から憲兵の数も増えたこと、また駐留する日本兵の数が減少したことに比例して、その兵士が減った数だけ非違行為も徐々に減少していったと言われています(※笠原十九司『南京事件』岩波新書 209頁)。

12月の陥落前から軍紀粛正に気を配り、十分な数の憲兵を用意して入城していれば避けられていた強姦や略奪、放火や殺人・傷害等の非違行為は山ほどあったのではないでしょうか。

(18)昭和13年2月2日「昨夜ノ各国領事招待ハ彼等ヲ非常ニ満足セシメ」

飯沼守日記の昭和13年2月2日には、前日の1日に各国の領事を招いて接待した際の様子を次のように記録しています。

昨夜ノ各国領事招待ハ彼等ヲ非常ニ満足セシメタルカ如シ。一二・〇〇頃迄帰ラサリシト。

出典:飯沼守日記 昭和13年2月7日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ187頁

この部分は一見すると接待に招かれた外国の大使館関係者と和やかな宴会が開かれたようにも見えますが、この宴会の目的は何だったのでしょうか。この点、この宴会に出席した南京のドイツ大使館書記官ゲオルク・ローゼンが本国のベルリンに宛てて出した報告には次のように記されています。

いずれにせよ日本側は、われわれがそもそも本間少将〔※当サイト筆者注:日本軍による暴虐行為が諸外国にも知られるようになったためその防止を図るため東京から派遣されてきた本間雅晴少将のこと〕と話し合おうと考えていたすべての心配事や問題を派手な宴会で忘れさせようと努力した。宴会はわれわれの意義や苦情を封じ込めようとするあからさまな下心をもって開かれ、一度ならずワーグナーの「タンホイザー」開幕の場面が思い出された。愛くるしい芸者たちが、杯を飲み干す間も与えず酒の酌をし、将校たちはほどなく軍服の襟のボタンをはずし、歌才に恵まれた者も、そうでない者も歌に興じ始めた。芸者たちは、手もなくわれわれ一同の膝の上に腰を下ろし、この甘美な重荷から解放されるには、グラモフォンの楽曲にあわせたダンスに彼女たちを誘うしかなかった。日本軍将校や大使館員の中には、特大のセンセーションだと言って、二人の芸者がまだ処女だと憚りもなく囃し立てる輩がいた。

石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 143∼144頁※駐南京ドイツ大使館分館書記官のゲオルク・ローゼンが1938年2月2日付でベルリンのドイツ外務省に宛てて出した報告

つまり日本側は、日本兵の暴虐行為を止めさせるべく東京の軍中央から派遣されてきた本間少将も含めて、南京で暴虐行為の危険にさらされている中国人の救済に尽力している外国人たちを色仕掛けで丸め込め、その批判を封じ込めようと宴会を催していたわけです。

これが「皇軍」の実態だったのですから、あまりにもゲスすぎます。何をかいわんやです。

(19)昭和13年2月7日「此五十日間ニ幾多ノ忌ハシキ事件ヲ起シ」

飯沼守日記の昭和13年2月7日には、同日に行われた慰霊祭の終了後、慰霊祭の為に参集していた各部隊の隊長に対して松井石根司令官から次のような訓示があったことが記録されています。

一・三〇ヨリ派遣軍慰霊祭、終テ松井軍司令官ヨリ隊長全部ニ対シ次ノ要旨ノ訓示アリ。南京入城ノ時ハ誇ラシキ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭亦其気分ナリシモ本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。其レハ此五十日間ニ幾多ノ忌ハシキ事件ヲ起シ、戦没将士ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ、何ヲ以テ此英霊ニ見ヘンヤト言フニ在リ。殿下亦御列席=殿下ニ対シ奉リ誠ニ申訳ナキ気持ニテ帰来早速御断ヲ申上ク。

出典:飯沼守日記 昭和13年2月7日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ188頁

これを見ると、司令官の松井石根が「此五十日間ニ幾多ノ忌ハシキ事件ヲ起シ」と述べたことがわかりますが、その「幾多ノ忌ハシキ事件」が南京陥落以降に日本兵によって行われた強姦や略奪、放火や殺人、傷害等の非違行為を指していることは明らかですから、この記述からも陥落後の南京で日本兵による絶え間ない暴虐行為が繰り返されたことが証明されます。

そしてもちろん、司令官の松井石根にもその大きな責任があるのは言うまでもありません。松井石根は司令官としての不作為が大虐殺を生じさせたとして東京裁判で絞首刑に処せられていますが、同情の余地は全くないでしょう。

(20)昭和13年2月12日「掠奪強姦八十九件ヲ抗議シ来レリ」

飯沼守日記の昭和13年2月12日には、アメリカ領事のアリソンから掠奪や強姦などの多数の非違行為について抗議があったことが記されています。

福井領事ヨリ対米、傷害事件国旗凌辱事件ハ其事実アリトセハ陳謝スル旨ヲ軍ニ相談承認ス。〔中略〕米領事「アリソン」ヨリ一月二十八日以後二月一日迄ノ日本兵ノ非行トシテ掠奪強姦八十九件ヲ抗議シ来レリ。甚タ誇大ナルヘキモ日本兵ノ非行ハ憲兵ノ報告ノミニテモ数件アリ実ニ概観ニ堪ヘス。

出典:飯沼守日記 昭和13年2月12日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ190頁

飯沼守日記は「甚タ誇大ナルヘキモ」としていますが、米国領事のアリソンが認知できた非違行為だけでさえ89件もあるのですから、アリソンが認知できなかった無数の強姦や略奪も加えれば、実際には89件を超える甚大な数の非違行為があったはずです。

軍参謀の飯沼には報告が上がってきたものしか認知できないので当時の認識としては「甚タ誇大」と受け取ってしまうのもやむを得ない面もありますが、こうした状況把握の甘さが軍規頽廃に拍車をかけた一面もあったのではないでしょうか。

【2】飯沼守日記に記録されている南京攻略戦での空爆

南京大虐殺とは直接的には関係ありませんが、飯沼守日記には南京攻略戦に際して海軍が行った南京への空爆に触れた部分が多数見られます。南京への空爆も民間人が対象となった無差別攻撃で広義では「虐殺」の一部と言えますので最後にそれを紹介しておきます。

海軍ハ十六日以降大々的ニ南京空爆ヲ行フ外漢口南昌等奥地ヲ攻撃ス

出典:飯沼守日記 昭和12年9月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ53頁

海軍南京襲撃ノ成果 敵機二四撃墜 我損害四機
午後ノ南京襲撃成果 二十機ヲ以テ実施、反撃シ来レル敵八機ノ中五機ヲ撃墜セリ。此成果ハ飯田支隊ニテ公大飛行機ヲ占領セル為ナリ

出典:飯沼守日記 昭和12年9月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ58頁

海軍南京攻撃、正午頃十六機ニテ参謀本部、国民政府等爆撃、一機ヲ失フ、敵機反撃セス
午後一・○○頃約四十機ニテ再度飛行場其他、敵機四ヲ撃墜 南市ヲ爆撃ノ伴ハ司令官ノ意見ニテ中止ス

出典:飯沼守日記 昭和12年9月20日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ60頁