前田吉彦日記は南京事件をどう記録したか

前田吉彦は、南京攻略戦に参加した第十軍のうち第六師団の歩兵第三十六旅団において歩兵第四十五連隊第七中隊小隊長を務めた陸軍小尉で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記が公開されています。

では、前田吉彦少尉の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

前田吉彦少尉の日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月11日「おいが引導してくるわい」

前田吉彦日記の昭和12年12月11日には、捕虜にした中国軍の少年兵を日本軍兵士が脇差で脅す描写が見られます。

十七、八歳の痩せた少年兵を引き立てて来る。
宮内軍曹が立ち上って「どれおいが引導してくるらい。わいだー敵愾心が眠っちょっでおいが斬っみすっで良く目を見開いておれ」〔当サイト筆者中略〕と云いながら腰に挟んでいる脇差の鞘を払う。
〔当サイト筆者中略〕見かねて思わず注意する。
「ハッ 一寸脅かしてやるんです」。構わん振をして「やッ」と振り冠って細首の後を叩く。可愛想にこの敵兵観念していたらしく打ち当てられた途端グナッとなって失心するのを引起してニヤッと笑って、「さァこれでお前の命は生き返ったぞ」と大威張り。こう云うのを見るとムシャクシャするもんだ。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月11日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ349頁上段

この点、この記述では捕虜にした少年兵を軍曹が脇差で脅しただけですから、これが少年兵の虐殺に繋がっていたわけではありません。

しかし、捕虜の斬殺が日本兵によって行われたことは多数の将兵の日記や証言で裏付けられていますので、ここでは脅しに使われたに過ぎない斬殺も、当時の日本軍では日常茶飯事だった行為です。この部分の記述は、当時の日本軍において斬殺が繰り返されていた事実の一端を示すものと言えるかもしれません。

当時の日本兵が、捕虜にした中国兵にどのような態度で接していたかよくわかる記述と言えるのではないでしょうか。

(2)昭和12年12月13日「兎狩り見たいだから夢中になる筈だ」

前田吉彦日記の昭和12年12月13日には、敗残兵の掃討に熱中する兵士との間で交わされた次のような会話が記述されています。

〔当サイト筆者中略〕夢中になっている監視兵の肩を叩く。「アッ、小隊長どん、それそこの田圃をどんどん逃げます」と指差す。成程灰色の軍服が一人二人とチョロチョロ走るのが見える。兎狩り見たいだから夢中になる筈だ。
〔当サイト筆者中略〕「オイお前等はもう撃つのは止め」。
「ハッ、判りました」と残念そうに銃を卸す。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ355頁上段

この部分は一見すると戦闘の中の敗残兵の掃討のようにも見えますが、小隊長の前田少尉が「もう撃つのは止め」と命じたところを踏まえれば、敗残兵からの差し迫った抵抗は伺えません。ちなみに、日記のこの部分の前の箇所でも敗残兵側からの抵抗に関する記述はありませんので、この記述の部分は日本軍による一方的な敗残兵の掃討だったのでしょう。

また、その掃討を「兎狩り見たい」と描写し、兵が「残念そうに銃を卸す」という記述からは、ほとんど無抵抗の敗残兵を娯楽でもあるかのように射殺していた情景が伺えますので、とても「戦闘」による殺害とは思えません。

そうであれば、この部分の記述は無抵抗の敗残兵を面白半分に殺していたということになりますが、当時の国際法規では無抵抗の敗残兵には投降を呼びかけて捕虜として扱い人道的配慮をすることが要請されていましたので(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)、その無抵抗の敗残兵を殺したというのであれば、たとえ敗残兵の掃討中であったとしても、国際法規上違法な殺害であったと言えます。

この部分の記述は、投降を呼びかけることなく、しかも面白半分に射殺した事案であるだけに「戦闘」による殺害ではなく、ただ無抵抗の敗残兵を殺した「虐殺」にあたると言えるでしょう。

(3)昭和12年12月13日「次から次へと流れてくるので…全員で射ちました」

前田吉彦日記の昭和12年12月13日には、長江(揚子江)支流の川を筏で逃げようとする無抵抗の中国兵を機関銃で皆殺しにしたと報告する宮内軍曹の話しとして、次のように描写した記述も見られます。

〔当サイト筆者中略〕一つの筏には、さァ百名できかない位一杯のっています。これが次から次へと流れてくるのでこの敵をみすみす逃す訳には行かないと思って全員で射ちました。何しろ目の下をゆるゆる流れてるんですから一発必中、軽機の連続点射は勿体ないので三発点射をくりかえす。
五隻位でとうとう弾がなくなって仕舞う。
まだ後から後から来るんですが処置なしです。その中こッちの岸に上って応戦し出したもんで仕方なく引き揚げを命じました。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ356頁上段

この記述は逃走中の敗残兵を掃討した際の記述ですが、途中から中国兵は岸に上がって応戦しているので一見すると戦闘による殺害で戦争法規上問題がないようにも思えます。

しかし、「その中こッちの岸に上って応戦し出(す)」までに流れてきた中国軍の敗残兵は応戦していないわけですから、それまでの敗残兵のほとんどは無抵抗のまま殺されたはずです。なかには武器を捨てて丸腰で逃走しようとした兵士もいたでしょう。

そうであれば、無抵抗の敗残兵の処刑となりますので、到底「戦闘」による殺害とは言えません。

「こッちの岸に上って応戦し出した」後に殺された敗残兵については「戦闘」によって死亡しただけではないかとの意見もあるかもしれませんが、この記述で逃走する中国兵はその「岸に上って交戦」するまでは無抵抗のまま殺されていますので、無抵抗のまま殺されるぐらいなら戦おうと考えて岸に上がったと考えるのが自然です。

そうすると、最初から降伏を勧告し投降を呼びかけることで、この記述で「岸に上って応戦」した敗残兵は素直に投降することで交戦せずに済んだ可能性がありますので、「岸に上って交戦」せざるを得なくなるほどまでに軽機関銃を乱射して敗残兵を追い込んでしまった日本軍に戦争法規上の問題があったと言えます。

戦争法規は、戦闘意思のない敗残兵には投降を呼びかけることで人道的配慮をすることを求めているので、投降を呼びかけることもせず無抵抗の敗残兵を殺害すれば、それは「戦闘」による殺害との戦争法規上の法的正当性を失うことになるからです(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この記述では中国軍の敗残兵の一部が交戦しているとしても、無抵抗の敗残兵を殺害したものとして「不法殺害」にあたる「虐殺」の一つだと言ってよいでしょう。

(4)昭和12年12月14日「通訳に『銃を捨てろ』と云わせると忽ち銃や剣の山が出来る有様さ」

虐殺などの暴虐行為とは直接的には関連しませんが、前田吉彦日記の昭和12年12月14日には、第七中隊の中隊長が語った話として、次のようなエピソードが記述されています。

今朝第六中隊が先頭で愈々下関だとハリキッて行ったら敵の奴呆気なく白旗をかかげて降参さ。〔当サイト筆者中略〕道の両側は中国兵がいや居るの何のってまるで黒山のように乗ってるもんで、通訳に山本大尉が『銃を捨てろ』と云わせると忽ち銃や剣の山が出来る有様さ。馬に乗っているうちの大隊長が余程偉く見えたんだろうね中国兵が一斉に拍手したよ。あの心理はどう云うだろうね、どうやら戦いが済んだ、これで殺される心配はないと云うところじゃろかい。〔当サイト筆者中略〕どしこ(どれだけ)居ったろかい、何千じゃろかい何万じゃろかい。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ356頁上段

南京陥落は13日ですから、その翌日の敗残兵掃討の際の記述でしょう。

南京城の西から北側にかけては長江(揚子江)が流れていますが、下関は南京城の北に位置し、対岸の浦口(ホコウ)と連絡する埠頭がある地域です。

南京攻略戦は包囲殲滅戦でしたから、南京が陥落すると南京城の守備隊は南京から逃れるために総崩れとなって浦口への唯一の脱出路にあたる挹江門に殺到し、下関から渡江しようとしました。もしかしたら、この記述の中国兵も、そうやって下関に殺到した敗残兵の一部なのかもしれません。

ところで、この下関地域と長江(揚子江)の河岸では、城内掃蕩で捉えられた敗残兵が多数連行されてきて虐殺されたことがわかっていますが、虐殺否定論者からは「下関で敗残兵が殺されたのは敗残兵が抵抗したからだ」という意見も聞かれます。

しかし、この前田吉彦日記は下関の中国兵がおとなしく武装解除してしている様を描写していますので、下関でそうした敗残兵の抵抗があったことは、この日記の記述からは伺えません。

もちろん、下関も広いのでこの一事をもって当時下関にいたすべての敗残兵がおとなしく投降したかどうかは判然としませんが、少なくともこの記述に出てくる下関にいた「何千」か「何万」かの敗残兵については、虐殺否定論者の言うような抵抗はなかったものと思われます。

なお、この記述で捕虜になった「数千」か「数万」の捕虜について前田吉彦日記は、「あとから来た九師団(十六師団?)に渡してさっさと帰ってきた」との話を中隊長から聞いたと記述していますから(※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ356頁下段)、前田吉彦日記の記述からは捕虜となったその敗残兵がその後解放されたのか、あるいは処刑(虐殺)されたのか分かりません。

しかし、少なくとも「数千」かあるいは「数万」に上る相当多くの中国軍の敗残兵が、下関で何の抵抗もしないまま日本軍の捕虜となったことは、この記述から伺えます。

(4)昭和12年12月15日「皇軍の面目を失墜する失態と云わざるを得ない」

前田吉彦日記の昭和12年12月15日の部分には、江東門から水西門に向う路上の各所で「凄惨な碧血の溜りが散見された」と述べて、その凄惨な血だまりについて「聞いたところによると」と伝聞であることを前置きしたうえで、内地から到着したばかりの補充兵が護送を引き継いだ捕虜100名を殺害した事件に触れた記述があります。

〔中略〕原因はほんの僅かな事だったに違いない、道が狭いので両側を剣付鉄砲で同行していた日本兵が押されて水溜りに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかした事に決まっている、恐れた捕虜がドッと片っ方に寄る。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりと云う訳だ、ビクビクしている上に何しろ剣付鉄砲持っているんで「こん畜生ッ」と叩くかこれ又突くかしたのだね。パニック(恐慌)が起って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃すな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだと云う。
第三大隊長小原少佐は激怒したが最早後の祭り、折角投降した丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解できない、ことだった。
かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態と云わざるを得ない。
この惨状を隠蔽する為彼等補充兵は終夜使役されて今朝になって漸く埋葬終った由。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ358頁上段∼下段

この記述からは、必ずしも意図的なものではなく、ある種の事故的な要素に起因するものであったものの、捕虜100名を殺害してしまった事件があったことが伺えます。

この点、これは事故だから「虐殺」ではないという意見もあるかも知れませんが、捕虜についてはハーグ陸戦法規によって人道的配慮をしなければなりませんので、逃げだしたからと言って射殺してよいという事にはなりません。

また、仮に逃げ出す捕虜がいれば射殺ではなく逮捕して拘束すべきですし、仮に罰を与えるにしても拘束して軍律会議(軍律法廷)に掛けたうえで罪状を認定してからでしか処罰することはできませんから、戦争法規から考えて明らかに違法だったと言えるでしょう。

もちろん、仮にこの捕虜たちが武器をとって反抗したなら正当防衛として射殺も許されるかもしれませんが、この件はそうした武器を使った反乱ではなく、丸腰でただ逃走しようとしただけですし、しかもすべての捕虜に逃走の意思があったか不明であるにもかかわらず、その捕虜全員を皆殺しにしているわけですからその殺害に法的な違法性阻却事由は生じません。

さらに言えば、仮に逃走した兵がいたとしても「処刑」の処罰はそもそも刑罰が不釣り合いに重いので、この事例のような射殺は国際法的に考えて許されないでしょう(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

この件で小原少佐は「何とも弁解できない」と述べていますが、それが国際法規上の違法性を「弁解できない」と述べたものなのか、「虐殺」であることを認めて「弁解できない」と述べたのか、それは本人でないとわかりません。

しかし、この件では小原少佐が指示したものでない点で同情の余地はあるにせよ、結果的には少佐が管理する部隊で弁解できない「虐殺」が生じたというほかありません。

なお、前田吉彦日記は、この部分の記述につづけて次に引用するように、この事実を隠ぺいするために事件に関わった補充兵に徹夜でその死体を埋させたと記述しています。

この惨状を隠蔽する為彼等補充兵は終夜使役されて今朝になって漸く埋葬を終ったる由。非常と云うか、かかる極限的状態においてともすれば人間の常識では考えられない様な非道が行われると云う実例である。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ358頁下段

隠蔽するために埋めたということは、その違法性を認識したうえで死体遺棄、証拠隠滅を図ったという事ですから、その点で考えても小原少佐も含めてこの事件に関わった将兵がこの殺戮を「不法殺害」にあたる「虐殺」だったと認識していた証左と言えるのではないでしょうか。

(5)昭和12年12月16日「食糧や衣服、こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった」

前田吉彦日記の昭和12年12月16日の部分には、兵士の掠奪に関する記述が見られます。

〔当サイト筆者中略〕朝に比べて帰りは街上また大変な人出で無統制に徴発を許した為かそれとも勝手にやったいるのかその辺の窓や扉を勝手にやぶって食糧や衣服、こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった。〔当サイト筆者中略〕憲兵は何をしているのだ。速に彼等を取締って軍紀を確立せにゃなるまい。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ360頁下段~361頁上段

上海上陸戦から南京陥落まで続けられた南京攻略戦は兵站の準備が不十分で食糧などの補給が続かず、糧秣の確保は徴発で賄うこととされていましたから、徴発と称する「略奪/掠奪」が無制約に黙認されました。

この掠奪(略奪)は上海から南京に至るまでの約500㎞の道中で繰り返されただけでなく、南京城陥落後においても城壁の内外で盛んに行われています。

なお、この日記では「憲兵は何をしているのだ。速に彼等を取締って軍紀を確立せにゃなるまい」と嘆いていますが、日本軍はこの後も憲兵隊を充実させることを怠って暴虐行為を野放しにしていますので前田吉彦少尉の期待は裏切られたことになります。

五万以上の日本軍が南京を横行しているとき、憲兵はたった十七人しか到着しておらず、幾日たっても一人の憲兵も影を見出せなかった。後になって若干の日本兵が憲兵の腕章をつけて取り締まるようになった。が、これはむしろ悪いことをするのに便利で単に普通の下らぬ事件しか阻止しえなかった。我々の聞くところでは、強姦で捕まった日本兵は叱責されるほか何らの懲罰も受けず、掠奪を働いた兵隊は上官に挙手の敬礼をすればそれで事は済む由だった。

出典:ティンバーリイ原著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 65頁

「二月の五日か六日ごろ、軍の高官がやってきて、南京駐在部隊の将校、主として尉官級の将校、また下士官をあつめて、日本軍の士気のためにも、またその名誉のためにも、こういう状態は即時止められなければならないということを申渡したことを知ったが、それまでは何ら、有効適切な手段がとられたということ、また強姦その他の残虐行為を犯した兵士にたいして、処罰がおこなわれたということを聞いたことがない」

出典:洞富雄編『日中戦争史資料 Ⅰ』56頁※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 133頁※ベーツ博士の証言

掠奪は翌年の昭和13年2月上旬まで収まらなかったことが様々な将兵の日記や証言など当時の一次資料によってわかっていますが、この記述もそうした掠奪(略奪)の一端を示す記録と言えます。

(6)昭和12年12月19日「市街は相変らず徴発部隊でゴッタ返していた」

前田吉彦日記の昭和12年12月19日にも、南京市街で徴発と称する掠奪(略奪)が盛んに繰り返されていたことの分かる記述があります。

今日はお上りさん達の南京見物だ〔中略〕市街は相変らず徴発部隊でゴッタ返していた。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ361頁下段

ここで言う「徴発」は、(5)で紹介した部分の記述もあるように掠奪(略奪)です。

「ゴッタ返していた」と記述したぐらいですか、掠奪(略奪)品を両手に抱えた膨大な数の日本兵が市街を嬉々として歩いていたのでしょう。

(7)昭和12年12月19日「皇軍意識なんてものは一かけらもない彼らの行動だ」

前田吉彦日記の昭和12年12月19日にも掠奪に関する記述が見られます。

〔中略〕三階建の洋館から突如黒煙が湧き上りその下にチロチロと火焔が出はじめたのに気付く、今朝来るときは火の気など一ツもなかったのだが此は掠奪組の放火と首肯れた。
皇軍意識なんてものは一かけらもない彼らの行動だ。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ362頁上段

16日といえば、松井司令官の入場式が17日ですからその前日です。

翌日に司令官の入場式を控えて治安を確保しなければならなかった「皇軍」が、我先にと略奪に勤しみ南京市街の治安を崩壊させていたわけです。

前田吉彦日記には強姦に関する記述は見られませんが、もちろんこうした掠奪や放火だけでなく、当時の南京では強姦や殺人も多数起きています。

そうした事件の連続が、前田吉彦少尉をして「皇軍意識なんてものは一かけらもない彼らの行動だ」と言わしめたのかもしれません。