福元続は南京攻略戦に派遣された第十軍第六師団歩兵第36旅団の歩兵第四十五連隊第一中隊に配属された上等兵で、南京攻略戦の際に記録した日記が公開されています。
では、福元続の日記は南京事件をどう記録したか確認してみましょう。
福元続の日記は南京事件をどう記録したか
昭和12年12月20日「河に流れて死んだ者が多かった」
福元続日記の昭和12年12月20日には、揚子江の江岸に広がる死体を次のように記録しています。
午前中は給養す。午後より上河鎮に行き敵の死者を数へて見る。一コ小隊程行って二千三百七十七人で有る。河に流れて死んだ者が多かったとの事でした。
出典:福元続日記※昭和12年12月20日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』386頁下段
上河鎮は南京城の南端に位置する中華門から西に向かった地域でその西は揚子江ですから、揚子江の江岸に少なくとも「2377人」の死体があったことがわかります。もちろん、それは一個小隊でカウントした数にすぎませんので、実際にはそれ以上の死体があったことは間違いありません。
この点、この記述では「河に流れて死んだ者が多かった」とありますが、歩兵第四十五連隊第一中隊はこの上河鎮で1週間前の13日に敗残兵掃討を行っていますので、そのほとんどは敗残兵掃討で捕縛されて処刑されたか、あるいは揚子江の対岸に渡ろうとして溺れた一般市民や敗残兵だったのだろうと推測されます。
しかし、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも述べたように、ハーグ陸戦条約の前文は条文に明確な規定のない場合であっても慣習、人道の法則、公共良心の要求に従って市民や交戦者を保護することを要請していますので(マルテンス条項)、人道的配慮をもって敗残兵に対処すべきことは、法的な責務として当時の日本軍に課せられていたと言えるはずです。
【ハーグ陸戦条約 前文(※「マルテンス条項」の部分のみ抜粋)】
一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は締約国は其の採用したる条規に含まざる場合に於ても人民及び交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則及び公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配の下に立つることを確認するを以て適当と認む。
出典:ハーグ陸戦法規
ハーグ陸戦法規には「敗残兵を掃討してはならない」と規定されていませんが、だからといって敗残兵の掃討が無制約に許されるわけではなく、人道に配慮して良心をもって敗残兵に対処することが、当時すでにハーグ陸戦法規という国際法規で法的に求められていたわけです。
しかしそうであれば、南京の城壁を越えて城内に乱入する前の段階で、城内に残る敗残兵に対して投降を勧告して武装解除し捕虜として安全を確保すべきでしたし、行き場をなくした市民に対しても城内に残っても安全が保証されることを勧告してその安全を確保しておくべきだったはずです。
つまり、ハーグ陸戦法規を遵守して南京陥落前に城内に取り残された敗残兵や一般市民に適切に対処しておけば、この福元続日記に記述された「2377人」の死体は、死なずに済んだ可能性もあったわけです。
この「2377人」の死体のうち少なからぬ人が日本軍によるハーグ陸戦法規違反行為によって犠牲になったということであれば、それは日本軍による国際法規違反によって生じた犠牲となりますので、不法殺害の故意か未必の故意の問題が惹起されます。
この「河に流れて死んだ者が多かった」とされる「二千三百七十七人」については、日本軍の国際法規に違反行為が疑われる「死者」と言えるのではないでしょうか。