折田護日記は南京事件をどう記録したか

折田護は、南京攻略戦に参加した第十軍のうち第六師団の歩兵第三十六旅団において歩兵第二十三連隊第二大隊砲小隊長を務めた陸軍小尉で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記が公開されています。

では、折田護の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

折田護少尉の日記は南京事件(放火・略奪/掠奪・強姦・虐殺)をどう記録したか

(1)昭和12年12月16日「門外にて全部銃殺又は斬殺せる由」

折田護の日記の昭和12年12月16日には、伝聞ではありますが、他の部隊で約1000名の捕虜の虐殺があったことをうかがわせる記述が見られます。

聞くところによれば本日一、○○○名の捕虜を得、これをカンチュウ門外にて全部銃殺又は斬殺せる由にて之等は全部地下室にかくれ居たるものなりと、正に驚くのほかなし。(折田注 小生本件知らざるも正式に俘虜として投降したものではない様であり多分隙を見て逃亡する企図をして居た一団と思われる)

出典:折田護日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ342頁下段

1000名の捕虜を「銃殺又は斬殺」としていますから、敗残兵掃討で捉えた中国兵を処刑したものでしょうが、捕虜としてとらえればハーグ陸戦法規を遵守して人道的配慮をしなければなりませんから処刑すれば違法であって「虐殺」に他なりません。

この点、折田護は「正式に俘虜として投降したものではない」「隙を見て逃亡する企図をして居た一団」などとその処刑が正当なものだったという趣旨の注釈を入れていますが、仮にその見つけた敗残兵が「隙を見て逃亡する企図をして居た」とすれば、それは戦闘意識を喪失した武力反抗の恐れのない無抵抗な敗残兵となりますので、降伏を勧告して投降を促し捕虜として処遇する必要があります。

しかし、この部分の記述からは日本軍が投降を促した様子はうかがえませんので、この注釈の記述では到底捕虜の処刑を正当化することはできないでしょう。

そもそも、仮にその敗残兵が「隙を見て逃亡する企図をして居た」としても、軍律会議(軍律法廷)に掛けることなく処罰することは国際法上許されませんから(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)その点でも違法な処刑だったことは確定的です。この1000名の捕虜の処刑は当時の国際法規上の観点から考えて明らかに違法です。

1000名の数字自体は概算(目視でのおおよその数)でしょうから正確な人数は争いがあるでしょうが、1000人前後に上るほど多数の捕虜が虐殺されたことを示す貴重な記録と言えます。

(2)昭和12年12月17日「婦人二名を強姦せるを柚木円優中尉発見し」

折田護日記の昭和12年12月17日には、日本兵による強姦の記述が見られます。

夕刻入城祝を小隊にて催せしが、一八・○○大隊本部に各中小隊長集合を命ぜらる。席上大隊長より次の注意あり。「昨日ⅡMGの兵二名市内にて支那婦人二名を強姦せるを柚木円優中尉発見しR本部にて問題となり目下取調べ中の由、厳にかかる行為のなきよう注意せられたし」と。

出典:折田護日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ342頁下段~343頁上段

南京陥落は13日ですが、それから2月上旬まで南京市内では数えきれないほどの強姦があったことがわかっています。

一部の強姦では証拠隠滅のため強姦した女性を殺害した事例もあったそうですが、この記述は当時南京市内で繰り返された日本兵による強姦の事実の一端を証明するものと言えるでしょう。

もちろんそれは、無数の強姦事件の氷山の一角に過ぎませんが。