山本武日記は南京事件をどう記録したか

山本武は上海派遣軍の第九師団第十八旅団に編成された歩兵第三十六連隊の分隊長で、南京攻略戦に参加した際につけていた陣中日記が隼田嘉彦氏によって翻刻されて福井大学学術機関リポジトリ内にて『』『』『』の3部に渡ってネット上で公開されており、その陣中日記を基に戦後に「六十五才になってから一年ぐらいの間に、古い日記帳を紐解きながら、まとめ(同稿1頁)」て「子供や孫たちに読ませるつもりで記した(同稿4頁)」従軍記録『一兵士の従軍記録――つづりおく、わたしの鯖江三十六聯隊』もしんふくい出版の編集で安田書店から1985年に刊行されています。

山本武日記の特徴は捕虜の試し斬り(据物斬り)の生々しい描写がある点で、当時の日本軍で軍刀を用いた虐殺が日常的に行われていたことを裏付ける貴重な記録の一つとなっています。

では、山本武は南京攻略戦で日本兵が行った略奪(掠奪)、放火、強姦、虐殺などの暴虐行為を具体的にどのように記録したのでしょうか。確認していきましょう。

なお、これ以降は特段の注意書きがない限り、山本武が現地でつけていた陣中日記(※福井大学リポジトリ内で公開されているもの)を「陣中日記」または「山本武日記」「山本武の日記」と、戦後にその陣中日記をもとにしんふくい出版から出された『つづりおく…』を「従軍記録」と表記していきます。また文中では敬称はすべて省略します。

【1】山本武の陣中日記は南京事件における日本兵の暴虐行為をどう記録したか

(1)昭和12年11月2日「正規兵一名捕へたり…首切りをなす」

山本武日記の昭和12年11月2日には、捕虜の試し斬り(据物斬り)に関する記述が見られます。

夜半、支那の正規兵一名捕へたり。朝、伊藤少尉首切りをなす。余りうまく切れず。一日中弾の中にて暮す。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)19頁※昭和12年11月2日の部分

「捕へたり」「首切りをなす」としていますから、いったん捕らえた捕虜を軍刀で斬殺したことがわかります。跪かせて背後から刀を振り下ろして首を落とす、いわゆる「据物斬り」です。

しかし、いったん捕虜にしたのであればハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮をしなければなりませんから処刑することはできませんし、仮にその捕らえた捕虜に何らかの非違行為があったとしても、それを処罰するには軍法会議で罪状を認定しなければなりませんから、軍法会議(裁判)に掛けることなく処刑したこの事例は明らかな国際法規違反の殺人です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがってこの部分の記述は、日本兵による「不法殺害」つまり「虐殺」を裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

なお、この11月2日の部分は「陣中日記」では上記のように比較的簡潔に記述されていますが、戦後にまとめた「従軍記録」ではもう少し詳細に描写されています。

山本武が陣中日記を下敷きにして戦後にまとめた「従軍記録」(※『つづりおく…』として出版された書籍)は絶版になっていて古書店にも出回っていないので確認することができていませんが(※国会図書館に行けば読めると思いますが忙しいのでまだ読めていません)、吉田裕氏の著書『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)で当該部分が引用されていますので、参考までにそこから孫引きして紹介しておきます。

夜半、中国軍正規兵一名を捕らえた。朝、小隊長伊藤少尉が、軍刀の試し切りをすると斬首する。竹藪の中に連れて行き、白刃一閃ひらめき、敵の首は斬り落ちるかと見ていたのに、手許が狂ったのか腕がまずいのか、気遅れがしたのか、刀は敵兵の頭にあたり、倒れて血が出ただけで首は飛ばない。あわてた少尉殿は、刀を振るってめった打ちに首を叩いた。首は落ちないがやっと殺すことができ、見ていたわれわれもホッとする。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店92頁から孫引き

(2)昭和12年11月13日「衆人見守る中で軍刀を抜きはなち…一同が拍手かっさいする」

山本武の日記の11月13日は上海から黄道鎮まで進軍してきた情景を次のように記録しています。

午後二時、蘇州河の線、黄道鎮の対岸に到着せり。敵ママ全く逃け失せ、敵弾の音一発も聞かず。中隊長の話しでは、全部南京方面まで逃け、既に戦意無しの如しとの事、全く万々才なり。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)23頁※昭和12年11月13日の部分(※「黄道鎮」はおそらく「黄渡鎮」の間違い)

このように陣中日記は特に暴虐行為の描写はありません。しかし、戦後にまとめられた従軍記録の方では現地における詳細な描写が次のように記録されています。

午後三時前、黄渡鎮に到着する。黄渡鎮では、舟艇で対岸に渡り崑山方向に向かうとか、たくさんの将兵が渡河地帯で待機するうち捕えた中国兵を、試し斬りするとかで河岸に連れて来る。命令は大隊長か中隊長(六中隊長)かわからぬが、第六中隊の脇本少尉が指名され、衆人見守る中で軍刀を抜きはなち、一呼吸の跡サッと切りおろす。首は体を離れて前に飛び、体はあおむけにのけぞった。あまりの鮮やかさに、一同が拍手かっさいする。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店92頁から孫引き

この事例も「捕えた中国兵」を「試し斬り(据物斬り)」していますが、前述したように捕縛した敵兵は捕虜なので捕虜を処刑することはできず、仮にその捕虜にした中国兵に何らかの非違行為があったとしても軍法会議で罪状を認定させなければ処刑できませんからそれを省略している点で明らかな国際法規違反の不法殺害です(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この部分も日本軍による「虐殺」を裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

それにしても、「衆人見守る中」で、まるで見世物のように捕らえた中国兵を斬首し、見物した大勢の日本兵が「拍手かっさい」したというのですから、常軌を逸しています。

「皇軍」を自称した当時の日本軍がいかに残虐な集団だったのかその実態が良くわかる記録と言えるのではないでしょうか。

(3)昭和12年11月16日「皆支那人の徴発米。鶏を殺し、味噌を取り、飢えをしのぐ」

山本武日記の昭和12年11月月16日には食糧の徴発に関する記述が見られます。

夜七時、遂に今晩は露営。夜半より雨降り出し、全く追撃も苦労なり。茲数日糧秣の支給もなく、皆支那人の徴発米。鶏を殺し、味噌を取り、飢えをしのぐ。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)23頁※昭和12年11月16日の部分

先の戦争の上海上陸戦から南京攻略戦にかけては兵站の準備不足から兵士に糧秣は現地調達の方針がとられため「徴発」と称する略奪(掠奪)が軍の全体で横行しました。この日記の記述もそうした略奪(掠奪)を伺わせます。

この点、ハーグ陸戦法規は徴発した現品の対価を支払うべしとしていますので、「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの食糧を「徴発」したか明記した紙を残して所有者に対し司令部に代金を取りに来るよう書置きを残しておくなりすれば合法的な「徴発」となりますから、この事例もそうした適正手続きを履行した「徴発」だった可能性もあるではないかと思う人もいるかもしれません。

ハーグ陸戦法規第52条第3項

現品の供給に対しては成るべく即金にて支払いシカらざれば領収証を以て之を証明すべく且つ成るべく速やかに之に対する金額の支払いを履行すべきものとす。

出典:ハーグ陸戦法規

しかし、次にあげる元兵士たちの回想や第九師団経理部渡辺卯七の証言にもあるように、当時の日本兵が対価や軍票等を交付して「徴発」したという事例はまずありません。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

したがって、この山本武日記に記述された「米」「鶏」等の「徴発」も略奪(掠奪)に間違いなかったと言えます。

しかも、そうして略奪(掠奪)した米や鶏などの食料は現地の中国人にとって生きていくための糧であり、生活を維持していくために必要不可欠な家畜です。略奪(掠奪)された現地の市民は日本軍の侵攻によって家々を破壊されたうえに命を繋ぐ食糧や家畜まで奪われたわけですが、それに対する悔恨の情は全く見られません。

当時の日本兵にとって略奪(掠奪)が如何に日常的なものであったのかが良くわかる記録と言えるのではないでしょうか。

(4)昭和12年11月20日「街の家より紙幣六円、銀貨数枚探し出せり」

山本武日記は11月20日の箇所も略奪(掠奪)の記述が続きます。

夜明けと共に徴発に歩き、砂糖・醤油・噌ㇾ味・支那酒等多くあり、久しぶりに甘い目に合ふ。雨ハ依然止まず、今日街の家より紙幣六円、銀貨数枚探し出せり。マーヂャン・墨等持ち帰る。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)24頁※昭和12年11月20日の部分

前述したように、上海戦から南京攻略戦にいたる日本軍で対価を支払って「徴発」した事例はほとんど皆無ですから、ここに記述された「砂糖」「醤油」「味噌」などの「徴発」はすべて「略奪(掠奪)」だったはずです。

なお、ここでは「マーヂャン」や「墨」まで「徴発(実際には掠奪)」していますが、前述したように南京攻略戦で軍中央が黙認したのはあくまでも兵士が生きていくために必要な食糧の「徴発」であって、それ以外の貴金属や財物などの「徴発」はそもそも認められていませんから、「マーヂャン」や「墨」の「徴発」はそもそも問題です。

しかもここでは「紙幣六円」「銀貨数枚」まで持ち去っているのですから、略奪(掠奪)以外の何物でもないでしょう。盗賊・夜盗、窃盗団と何ら変わりません。

上海から南京までは400㎞ほどの距離がありますが、その途上でこうして市民の貴重な食料をだけでなく、現金や貴金属等の財産まで延々と略奪(掠奪)し進軍したのが「皇軍」を自称した日本軍だったわけです。

(5)昭和12年11月24日「水牛を殺せしも、かたくて食べられず」

山本武日記は11月24日も略奪(掠奪)の記述が続きます。

敵退却せず、此の部落に泊り。米塩無くなり、米ツキを行ふ。水牛を殺せしも、かたくて食べられず。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)25頁※昭和12年11月24日の部分

先ほどから繰り返し述べているように、ここで殺した水牛も略奪(掠奪)によるものですから明らかな戦争犯罪です。

しかも、水牛は現地の住民が農耕のために使用するもので生活に欠かせない家畜です。

それを殺して食べてしまえば、田畑を鋤くこともできなくなり現地中国人の生活はたちまち行き詰ってしまうのは子供でも分かりますが、「かたくて食べられず」の部分からはそうした中国人の苦悩に思いを巡らせる気持ちは微塵も感じられません。

(6)昭和12年11月30日「三十貫程もある豚を殺し、すき焼にて一ぱい飲む」

山本武日記は11月30日も略奪(掠奪)の記述が続きます。

上陸以来丸二ケ月ぶりなり。今日は休み。三十貫程もある豚を殺し、すき焼にて一ぱい飲むやら、ぜんざい・ぼた餅等好物揃ひ。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)25頁※昭和12年11月30日の部分

前述したように、現地の日本兵が徴発する物資に対価を払った事例はほぼ皆無ですから、ここで「徴発」した「すき焼き」を作るために殺した豚や「ぜんざい」や「ぼた餅」の材料にした小豆や砂糖、もち米などもすべて略奪(掠奪)したものに他なりません。

しかし、それらは現地住民の大切な家畜であって、これから訪れる冬を越すために保存していた大切な食料です。

中国の一般市民が命を繋ぐための大切な財産を根こそぎ略奪(掠奪)して豪勢な食事を貪る貪欲で卑しい「皇軍」の実際の姿が、「いっぱい飲む」「好物揃い」の記述に表れているような気がします。

(7)昭和12年12月2~7日「豚一頭徴発し…」「あんまり沢山食べてつらい位なり…」

山本武日記はこれ以降も延々と略奪(掠奪)した物資で賄ったことが伺える食事の記述が続きます。項を分けて記述するのは面倒なので、以下に12月10日あたりまでまとめて紹介しておきます。

豚一頭徴発し来る。柔いふとんを持ち来り…寝に就く(12月2日)

にわとりの汁で朝食…昨日の豚を料理す(12月3日)

昨夜来の豚汁・さつまいも・ぜんざいと、あんまり沢山食べてつらい位なり…一少町に泊り、にわとり三羽、豚の足一本とですき焼きをして食す(12月5日)

左部落に入り宿営せり。さつまいも沢山あり、焼いも・かしわ汁等御馳走す(12月7日)

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)29∼31頁

15日には「あんまり沢山食べてつらい位なり」との記述がありますが、家畜や食糧を略奪(掠奪)された中国人がそれを聞いたらどう思ったでしょうか。

この部分も当時の日本兵がいかに横暴を極めたかよくわかる記述と言えます。

(8)昭和12年12月11日「人殺しをした後は、却って飯がうまい」

山本武日記の昭和12年12月11日には捕縛した敗残兵を虐殺したときの描写が生々しく記録されています。

正午頃、昨日掃討せる右肩の一軒家に、敗残兵ありとの事に捕へに行き、難なく八名を捕へ来り、砂原君の墓標の前に連れ来り、俺と土本君と二人で、突いて、突いて、突きまくり、瞬く間に八ツの死体となす。又心持の良いものだ。帰ってから皆に話して笑せたのだが、人間も死線を越えればひどいもの、内地に居た頃は、蛇一匹殺すもいや〳〵であったのが、同じ仲間の人間、而もピチ〳〵して居る、手を合せて拝むあわれな敗残兵をば、銃剣で突き、棒でなぐり、石で頭を割って叩き殺し、その後は、あゝ戦友の敵を討ったと、胸のすくやうな思ひ、その後人殺しをした後は、却って飯がうまいのだから、まあ大した悪者になったと言ふものだ。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)33頁 12月11日の部分

この12月11日の部分は山本武が戦後にまとめた従軍記録の方にも記述があるようなので、前掲した吉田裕氏の著書『天皇の軍隊と南京事件』青木書店の該当ページから孫引きしておきましょう。

正午頃、一昨夜掃討した司令部後方の一軒家が怪しいとの情報があり、ふたたび掃討に行ったところ、地下室に八名の敵兵が武装した姿で集まっており、……両手をあげて降伏する。縄で数珠繋ぎにして連れ帰る。……第二分隊の者も来て相談の結果、ただちに殺すことを決め、〔戦友の〕田中や砂原の墓標の前に連れて行き、刺殺する。……やれやれ、これで田中松男や砂原善作の霊も、仇を討ち取ってもらって喜んでくれているだろうと、胸がスーとして気持ちが良い。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店92∼93頁 12月11日の部分から孫引き

ここでは8名の敗残兵を捕らえて部隊まで連れ帰り殺害していますが、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページで論じたように、捕虜はハーグ陸戦法規で人道に配慮することが求められていますし、軍事裁判を経ない捕虜の処刑も認められませんからこれは明らかな「不法殺害」にあたります。

それにしても、銃剣で突き、棒でなぐって、石で頭を叩き割って殺したというのですから、当時の日本軍がいかに残虐な手段を用いて虐殺を繰り返していたかがよくわかります。

しかも、その猟奇的な虐殺を終えた後には『帰ってから皆に話して笑せた』『却って飯がうまい』『胸がスーとして気持ちが良い』というのですから、狂気すら感じます。

これが「皇軍」を自称した日本軍の日常だったわけです。

(9)昭和12年12月12日「一ぺんに刺し殺す、なぐり殺す、切り殺す」

山本武日記は翌12日にも虐殺の記録が続きます。

午後、第六中隊にて、飛行場附近より三十名の捕リョを連れ来り、昨日の場所にて叩き殺す。第五中隊も、次で飛行場附近の敵掃討に行き、二十六名を捕へ来り、此れ又我々の手にて、一ぺんに刺し殺す、なぐり殺す、切り殺す、無惨なものである。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)33頁 12月12日の部分

前述したように、これも捕虜を処刑しているわけですから当然国際法規に違反する「不法殺害」であって「虐殺」です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

「一ぺんに刺し殺す、なぐり殺す、切り殺す」の部分は、戦友を失った報復感情から出たものでしょうが、条件さえそろえば人間はかくも残酷になるのでしょうか。

(10)昭和12年12月29日「便衣隊員らしい者一名連れ来り…惨殺す」

山本武日記の昭和12年12月29日にも捕虜の虐殺に関する記述が見られます。

山本武の所属した第三十六連隊は12月24日に南京を離れて南翔方面に転進していますので、29日の記述は狭義の「南京事件」には含まれませんが、南京陥落後においても部隊の中で虐殺が続けられていた事実を裏付けますので引用しておきましょう。

午前七時ニ十分整列にて、八時より鉄路伝ひに、常州に向ふ……午後七時頃、便衣隊員らしい者一名連れ来り、土本等と共に惨殺す。大根のお菜おいしかった。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)38頁 12月29日の部分

このケースも捕虜を処刑していますが、たとえ敗残兵が『便衣(兵士が民間人の平服に着替えて一般市民に偽装すること)』していても、これを処刑するには軍法会議を経なければなりませんので「惨殺」したこの事例は明らな国際法規違反の「不法殺害」であって「虐殺」です(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

この記述は南京攻略戦に参加した部隊が、南京陥落後に他の戦線に転戦した後も日常的に虐殺を続けていたことを示す記録と言えるでしょう。

それにしても、「惨殺す」のすぐ後に「大根のお菜おいしかった」と文章を続けた当時の山本武はどのような心理状態だったのでしょうか。

山本武は昭和56年に、第三十六連隊の中隊長や連隊副官などを歴任した坂武徳に宛てた手紙の中で、この陣中日記について「自分の行動、言動、思想等も非国民的なこと多く、全く汗顔の至り」と書いたそうですが(※山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)3頁)、「非国民的なこと」との言葉からは自国民の評価を下げた悔恨の気持ちは伺えても、自身が虐殺した中国市民に対する悔恨の情は微塵も感じられません。

「惨殺す」のすぐ後に「大根のお菜おいしかった」と記述した部分からは狂気を感じますが、戦後に「非国民的なこと」と述べた部分からも、正直に言って理解しがたいものを感じます。

【2】山本武の日記はなぜ検閲されず内地に持ち込むことができたのか

なお、こうした南京事件に関連する元兵士の陣中日記を紹介すると、「当時は検閲が徹底していたのだから現地で書いた日記を国内に持ち帰ることができるわけないだろう」とか「虐殺を記録した日記を軍の検閲をすり抜けて本土に持ち帰ることができるわけがないから、こうした日記は戦後に捏造されたものだ」などという意見が必ず聞かれます。

この点、先の大戦中は検閲が徹底していたのは事実で、内地に復員する兵士の荷物は、たとえば博多港などで徹底的に調べられて軍に不都合な事実の記述された日記は部分的に墨が入れられたり、没収されたり破棄されたりするのが通常でしたので、そうした疑問を持つ人がいるのも頷ける部分はあります。

しかし、当時の軍で検閲があったとしても、全ての日記が復員の際に没収されたり破棄されたわけではなく、荷物の中に紛れて検査を逃れたり、検閲をすり抜けて持ち込まれた物も少なくありません。

この山本武の日記もそうして検閲をすり抜けて持ち込まれた物の一つのようで、その経緯を『一兵士の従軍記録――つづりおく、わたしの鯖江三十六聯隊』の中で次のように回想しているそうです。

さて、私が戦斗中に記した日記帳が、あまりに生々しく戦いの惨状、中国兵の刺殺、戦場の恐怖の心情をかき、そして戦斗詳報、記録もあるので、持ち帰りは許可できない、即ち没収すると言われたのである。私は非常に困惑し、
「なんとかお許し願えぬか。」
と頼んだところ、その上等兵は、
「これだけ刻明に書いたものを没収するのは、自分としてはしのびがたい。いちおう上官の指示を受けてみよう。」と言って、手帳を持ち去り、少したって、
「いちおうお返しする。ただし、今後絶対、出版、講演、その他一切公表しないことを誓約してもらいたい。」
「承知しました。約束します。」
ということでその憲兵上等兵宛の誓約書に官姓名、本籍地、住所、氏名を記し、捺印して、返してもらうことができた。その上等兵の名前を忘れてしまったが、理解あるその措置にいまなお感謝しており、とくに今度、この日記をもとにして私のたどった軍歴を記録するにあたっていっそうその感を深くしている。

出典:山本武の「陣中日記」上(隼田嘉彦翻刻|福井大学学術機関リポジトリ)4∼5頁から孫引き

当時は厳しい検閲が布かれていましたが、憲兵の中にもこうした陣中日記の重要性を認識していた人は少なからずいて、こうして内地に持ち込まれた日記もあった少なからずあったわけです。

南京事件の暴虐行為を信じたくない人はこうした日記を捏造だと声を荒げますが、実際にはこうして持ち込まれた陣中日記が少なくなかったことも知っておくべきではないでしょうか。