南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由

昭和12年に南京で起きた南京大虐殺(南京事件)に際しては膨大な数の中国軍兵士の捕虜が殺害されていますが、これに関しては歴史修正主義者から「便衣兵の処刑は正当だ」とか「敗残兵の掃討は戦闘なのだから虐殺にはあたらない」などという意見がいまだに絶えません。

では、こうした意見は当時の国際法規から考えて妥当な意見と言えるのでしょうか。

ここでは、南京攻略戦における日本軍の虐殺を否定する歴史修正主義者の主張が論理的に成り立つものなのか、検証してみることにいたしましょう。

【1】「虐殺」とはなにか

まず、「便衣兵の処刑は正当だ」とか「敗残兵の掃討は戦闘なのだから虐殺にはあたらない」などという意見の妥当性を検討する前提として、そもそもどのような態様の殺人を「虐殺」と定義するのかを確認しておかなければなりませんのでその点に触れておきます。

そもそも何をもって「虐殺」と認定できるのか、その定義を確認しなければ南京攻略戦で起きた殺人を「虐殺」として認定できるか否かも議論できないからです。

もっとも、南京攻略戦における「虐殺」は、その殺害が当時の国際法規に違反していたか否かで論じられるのが一般的ですので、ここでは、当時の国際法規に違反する「不法殺害」を「虐殺」として論じることにします。

この点、こうした国際法規に違反する「不法殺害」だけを「虐殺」として論じることに関しては、欧米列強主導で施行されていた当時の国際法を絶対視するもので「合法的信仰」に陥っているとの指摘がありますので(※大沼保昭著『東京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂41∼42頁※吉田裕著「15年戦争史研究と戦争責任問題」洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 84頁)、このように当時の国際法規に違反する「不法殺害」だけを「虐殺」として論じることは本来避けるべきかもしれません。

しかし、ネット上で南京大虐殺を否定する論者は敗残兵の掃討を「戦闘による殺害は不法ではない」と当時の国際法を用いた文脈で正当化するのが常ですから、ここではあえて「虐殺」を「国際法規に違反する不法殺害」と定義して、当時の南京攻略戦で起きた殺害をなぜ「虐殺」と認定できるのか確認してみることにします。

【2】敗残兵の殺害が「不法殺害(虐殺)」となる理由

では、南京攻略戦の過程で日本軍によっておこなわれた「虐殺」を当時施行されていた国際法規に違反する「不法殺害」と定義するとして、その「国際法規に違反する不法殺害」とは具体的にどのような「殺害」が該当するのでしょうか。

(1)民間人の殺害

この点、殺人はどの国でもそもそも違法ですから、すべての殺人はマクロ的には本来、国際法の上でもおしなべて「不法殺害」にあたります。

もちろん、その本来違法なはずの殺人の違法性を国際的な合意で阻却して合法な殺人として認めるのが国際法規の枠内で許される戦争ですから、「戦闘」の中で行われる殺人は違法性が阻却されるので、国際法規の上では「不法殺害」とはなりません。ですから、南京攻略戦において日本軍が純粋に「戦闘の中で」殺害した中国兵があったとしても、その殺害に関しては「虐殺」にはあたらないでしょう。

では、一般市民の殺害についてはどうでしょうか。

この点、爆撃や砲撃など、純粋な「戦闘の中で」巻き添えになって殺された一般市民については、その殺害に法的違法性を問える事例もあると思われますが、意図して民間人を狙い撃ちした殺害は別としても、それらはあくまでも「戦闘の中で」殺害されたものと言えますので、「虐殺」の議論からは除いた方が良いと考えます。

他方で、一般市民は「戦闘」に参加するわけではありませんので、日本軍が中国の一般市民を「戦闘の中ではないところで」殺害した事例があれば、それは明らかな「不法殺害」となって「虐殺」と認定できるでしょう。

たとえば、南京攻略戦では多数の中国民間人が、日本兵による掠奪(略奪)や強姦、放火等の非違行為の被害に遭っていて、その中には暴行や傷害を受けたり殺害された事例も多くありますが、そうした日本兵の非違行為の中で殺害されたケースついては当然「虐殺」としなければなりません。

また、南京陥落後には、敗残兵掃討と称して多数の民間人が兵士と間違われて処刑されていますが、そうして殺害された民間人についても当然「虐殺」となるでしょう。

したがって、戦闘以外で日本軍が一般市民を殺害していれば、その殺害が兵士の非違行為によるものであろうと、敗残兵と間違えて処刑したものであろうと、その殺人のすべては「不法殺害」となり「虐殺」と認定できることになります。

(2)捕縛した後の敗残兵(捕虜/俘虜)の殺害

ところで、南京大虐殺を否定する論者が正当化したがるのが敗残兵の掃討で捕縛した兵士に対する殺人です。

南京陥落によって総崩れとなり統制を失った多数の中国兵は、南京攻略戦が包囲殲滅戦であったことから南京市内で行き場を失い、その大部分は南京で唯一脱出路として残された下関(シャーカン)方面に殺到し揚子江を渡江しようとしましたが、逃れられなかった敗残兵の多くは南京城の内外に取り残されました。

その敗残兵を掃討する日本軍が行った中国兵の殺害を、虐殺否定論者は「戦闘による殺害だから不法殺害ではない」と主張するわけですが、そうした敗残兵掃討によって捕らえた中国兵に対する殺害は、すべて国際法規に違反する「不法殺害」となりますので「虐殺」と認定できます。

なぜなら、当時施行されていたハーグ陸戦法規の第4条2項では、「俘虜(捕虜)は人道を以て取り扱わるべし」と規定されているからです。

ハーグ陸戦法規第3条

交戦当事者の兵力は戦闘員及び非戦闘員を以て之を編成することを得。敵に捕らわれたる場合に於ては二者均しく俘虜の取り扱いを受くるの権利を有す。

ハーグ陸戦法規第4条2項

俘虜は人道を以て取り扱わるべし。

出典:ハーグ陸戦法規

敗残兵掃討によって日本軍が中国兵を捕らえれば、その捕らえられた中国兵は戦闘員(兵士)であろうと後方支援や軍属などの非戦闘員であろうとハーグ陸戦法規第3条の「敵に捕らわれたる場合」に該当することになるので「俘虜の取り扱いを受くるの権利」を有することになります。

そして、捕虜となった中国軍の敗残兵が「俘虜の取り扱いを受くるの権利」を有するのであれば、日本軍は同法規第4条2項によってその捕虜を「人道を以て取り扱わ」なければなりませんので、仮に日本軍がその捕虜を殺害すれば、それは「人道を以て取り扱われるべし」と定めたハーグ陸戦法規第4条2項に違反することになるので違法性は阻却されなくなります。

したがって、日本軍が南京の敗残兵掃討によって捕らえた捕虜を殺害したケースの全ては「不法殺害」となりますから「虐殺」と認定されることになります。

① 「便衣」した兵は「便衣兵」ではなく戦闘意思を喪失した敗残兵

この点、虐殺否定論者の中には「日本軍が捕らえた中国兵は”便衣兵”であってゲリラと同じ戦闘員なのだから殺害しても違法ではない」と主張する人がいますので、その主張の妥当性を検討しましょう。

「便衣兵」とは、軍服から平服に着替えて民間人に偽装した兵士を言いますが、市民の中に潜伏した中国兵が平服に着替えた「便衣兵」であるのなら、それは戦闘員なので殺しても「戦闘」によるものだから国際法規上で考えても合法だ、というのが虐殺否定論者の主張です。

しかしながら、この主張は成立しません。なぜなら、南京陥落後に日本軍の敗残兵掃討によって捕縛された中国兵は、武器を捨てて戦闘意思を喪失した無抵抗の敗残兵に過ぎないからです。

南京攻略戦は包囲殲滅戦でしたから、南京陥落によって逃げ道を塞がれた中国軍の守備隊は統制を失って総崩れとなり、多数の敗残兵が日本軍の掃討から逃れるために民間人の平服に着替えて市内に逃走し、城内に避難していた一般市民の中に紛れ込みました。

これがいわゆる歴史修正主義者から「便衣兵」と呼ばれる人たちですが、総崩れとなったこれらの中国兵が武器を捨てて戦闘意識を喪失し、日本軍の敗残兵掃討に抵抗することなく従順に従ったことは、当時南京城内外で敗残兵掃討に関与した多数の日本兵の陣中日記や手記、証言などによって証明されています。

南京攻略戦の5年前に行われた第一次上海事変では中国側にゲリラ戦を展開した「便衣兵」がいて、その活躍に悩まされましたが、南京では12日の夕方には守備隊幹部の将校はすでに逃走し指揮系統は崩壊していましたので、残された守備兵は「便衣」していても上海戦で組織的な抵抗(ゲリラ戦)を展開したような「便衣兵」ではなかったのです。

なお、南京陥落後に統制を失った中国兵が「便衣兵(平服を着て変装している武装兵・ゲリラ兵)」とは全く違い「便衣になった逃亡兵」に近かったことについては歴史学者の笠原十九司氏が論文『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』の中で、当時南京に留まったニューヨーク・タイムズのF・T・ダーティン記者やシカゴ・デイリーニューズのスティール記者、YMCA国際委員会書記で国際安全区委員でもあったジョージ・フィッチや米国大使館員などの記録・報告を基に詳細に論証されています(※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 105∼108頁参照)。

そうであれば、ハーグ陸戦法規の「第23条ハ」は『兵器を捨て又は自衛の手段盡きて降を乞へる敵を殺傷すること』を禁止しているのですから、その武器を捨てて日本兵の捕虜となった敗残兵を殺害することは明らかに国際法に違反します。

ハーグ陸戦法規第23条

特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。
イ∼ロ〔省略〕
ハ 兵器を捨て又は自衛の手段盡きて(註:尽きて)降を乞へる敵を殺傷すること
ニ〔以下省略〕 

出典:ハーグ陸戦法規

南京城内外で捉えられた中国兵は、民間人の服に「便衣」していても武器を所持して戦う「便衣兵」ではなく、戦闘する意思のない「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて」しまった無害の敗残兵なので、それを捕らえれば前述したように「人道を以て取り扱わ」なければならず、殺害することはできないのです。

したがって、歴史修正主義者の言う「敗残兵は便衣兵だから殺害は正当(合法)だ」との意見は根拠がないと言えます。

② 指揮官が不在でも陸戦法規で保護される

次に、中には「指揮官が逃亡し、市民の服に便衣した中国兵はハーグ陸戦法規第一章の”交戦者”の資格を持たないので法的保護の対象とならない」と主張する人もいますので、その点を検討しましょう。

この点、確かにハーグ陸戦法規第一条は

  • 指揮官がいること(1条1号)
  • 遠くから認識できるような特殊徽章をつけること(1条2号)
  • 公然と兵器を携帯すること(1条3号)
  • 戦争の法規慣例を遵守すること(1条4号)

の4つの要件を列挙して「交戦者の資格」を定めていますから、南京が陥落した1937年12月13日の時点で既に司令官の唐生智が逃走していたことや(※中国側司令官の唐生智は12日夕方から夜の間に南京を離脱しています)、敗残兵が軍服を脱ぎ捨てて市民の民服に「便衣」し避難民に紛れ込んでいたことなどを踏まえると、陥落後の敗残兵はハーグ陸戦法規の”交戦者”の要件を欠くことになるのでその資格を失いハーグ陸戦法規上の保護を受けることが出来ないような気もします。

ハーグ陸戦法規第1条

第1項 戦争の法規及び権利義務は単に之を軍に適用するのみならず左の条件を具備する民兵及び義勇兵団にもまた之を適用す。

1 部下の為に責任を負ふ者其の頭にあること
2 遠方より認識得べき固着の特殊徽章を有すること
3 公然兵器を携帯すること
4 其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること

第2項 民兵又は義勇兵団を以て軍の全部又は一部を組織する国に在りては之を軍の名称中に包含す。

出典:ハーグ陸戦法規

しかし、後述の「(3)②」で詳しく説明するように、ハーグ陸戦法規の前文に置かれたマルテンス条項は占領地における民兵など愛国的抵抗をとる集団や個人などにも正規軍と同様に交戦者に準じる資格を与えて保護すべきであるとの趣旨で挿入された経緯があり、ハーグ陸戦法規第1条の「指揮官がいること(1号)」や「特殊徽章をつけること(2号)」などの条件にしても、正規軍のような編成や指揮命令系統が必ずしも明確ではない民兵などを想定した条項であったため当初から緩やかに解釈されていましたから(※吉田裕『国際法の解釈で事件を正当化できるか』南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房 162頁参照)、指揮官の不在や特殊徽章の有無など要件を満たさないからといって”交戦者”の資格を失うというものではありません。

これは、ハーグ陸戦法規第2条が「第一条に依りて編成を為すの遑なく侵入軍隊に抗敵する」者であっても”交戦者”と認めていることからも明らかでしょう。

ハーグ陸戦法規第2条

占領せられざる地方の人民にして敵の接近するにあたり第一条に依りて編成を為すの遑なく侵入軍隊に抗敵する為自ら兵器を操る者が公然兵器を携帯し且つ戦争の法規慣例を遵守するときは之を交戦者と認む。

出典:ハーグ陸戦法規

したがって、虐殺否定論者の言う「指揮官が逃亡し、市民の服に便衣した中国兵はハーグ陸戦法規第一章の”交戦者”の資格を持たないので法的保護の対象とならない」との主張も成り立たないと言えます。

③ 「便衣」しても「背信の行為を以て殺傷」するものではないので陸戦法規で保護される

また、市民の平服に「便衣」した敗残兵があったことから、実際は兵士なのにもかかわらず「便衣」して市民に偽装したことがハーグ陸戦法規第23条の「背信の行為」にあたるとしてハーグ陸戦法規第一章の”交戦者”の資格を失うと主張する人もいますので、その点を検討します。

この点、これも後述の「(3)②」で詳しく説明しますが、ハーグ陸戦法規の「第23条ロ」が戦闘員が交戦相手を欺いて戦う行為を「背信の行為を以て殺傷すること」として禁止しているのは、民間人に偽装した兵士(ゲリラ)と誤認されて一般市民が殺害されてしまう危険を防ぐ趣旨ですので、仮に当時の南京に兵服に着替えた中国兵が市民の中に潜伏し、市民に偽装して日本軍に対して戦闘行為(ゲリラ戦)をしていたなら、その中国兵はこの「23条ロ」に該当しハーグ陸戦法規に違反していたことになることから、ハーグ陸戦法規の保護を受ける資格を失うという理屈も成り立つかもしれません。

ハーグ陸戦法規第23条

特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。
イ〔省略〕
ロ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること
ハ〔以下省略〕 

出典:ハーグ陸戦法規

しかしながら、先ほどの①で説明したように、南京で殺された中国軍の敗残兵は、民間人の平服に「便衣」していたとはいっても、そのほとんどは武器を捨てて市民に紛れ込んでいる状態だったのですから、そもそもハーグ陸戦法規の「第23条ロ」に言う「背信の行為を以て殺傷すること」のできるような状態ではありません。

南京陥落によって総崩れとなった中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人の平服に「便衣」して避難民に紛れ込みましたが、彼らが平服に着替えて「便衣」したのは日本軍の殺害から逃げるためであって、日本軍兵士を「殺傷する」ためではないからです。

また、日本軍に捕らえられたその「便衣」した中国兵は、そのほとんどは武器を捨てて丸腰の状態でしたし、銃器を所持していた者も、日本軍に捕らえられた時点でおとなしく武装解除しているわけですから、そもそもハーグ陸戦法規の「第23条ロ」に言う「殺傷すること」の要件が満たされた事実もありません。

つまり、ハーグ陸戦法規の「第23条ロ」の要件を満たす「便衣兵」は、武器弾薬を携帯して敵対行動を行う戦闘員を指しているのであって、たとえ「便衣」していても武器を捨てて戦闘意識を喪失していた当時の南京に潜伏していた敗残兵のほとんどすべては、本来的な意味での「便衣兵」ではなかったわけです。

本来、交戦法規に違反し国際法による保護の適用を受けないとされた「便衣兵」とは、武器を携行して敵対行動を行う戦闘者の事を指すはずであって、武器を捨て抵抗する意思を失なって難民の中に逃げ込んでいる非力な人々の群れを「便衣兵」とするのは、「便衣兵」の本来の概念の不当な拡大解釈である。

出典:吉田裕『15年戦争史研究と戦争責任問題』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 81~82頁

したがって、この点を考えてみても、「敗残兵は便衣兵でハーグ陸戦法規の保護を受けないからその殺害は合法だ」との意見も根拠がないと言えます。

④ 仮に「便衣兵」であっても軍律会議(軍律法廷)を省略すれば「不法殺害」

なお、百歩譲って当時日本軍に捕らえられた敗残兵が一般市民に偽装して日本軍に戦闘行動をとる「便衣兵」であったとしても、その処刑は「不法殺害」というほかありません。

なぜなら、捕らえた敗残兵が「便衣兵」であることを理由に処刑するには、軍律会議(軍律法廷)に掛けて戦闘行動をとったことを事実認定したあとでなければ刑罰を執行できないからです。

「軍律会議(軍律法廷)」とは軍が軍律という法律を制定して敵国民や占領地住民の敵対行為や戦争犯罪を裁くための軍事裁判を言いますが(※林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書 139頁)、この点は歴史学者の吉田裕一橋大学教授が論文「15年戦争史研究と戦争責任問題」(洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』82頁)の中で法学者の立作太郎や篠田治作の著書の次にあげる部分の記述を引用し、南京事件が起きた当時の代表的法学者の間においても既に同様に理解されていたことを紹介しています。

凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所または其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。

出典:立作太郎『戦時国際法論』日本評論社 1931年 49頁※吉田裕著「15年戦争史研究と戦争責任問題」(洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』82頁)

而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地に於いては動もすれば人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしめることがあるが為である。

出典:篠田治作『北支事変と陸戦法規』(『外交時報』第七八八号 1937年)※吉田裕著「15年戦争史研究と戦争責任問題」(洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』82頁)

つまり、南京攻略戦が行われた昭和13年当時の国際法解釈の現場においてさえ、既に「便衣兵」を処罰する際には裁判(軍律法廷)を省略することはできないと理解されていたわけです。

当時の国際法解釈において、たとえ戦場において一般市民に偽装して戦闘行動をとる「便衣兵」がいたとしても、それを連行して処刑するには軍律会議(軍律法廷)を経ることが必要だと理解されていたのであれば、南京に進軍した日本軍においても当然、その「便衣兵」を処刑するには軍律会議(軍律法廷)を経なければなりません。

「便衣兵」を軍律会議(軍律法廷)に掛けることなく処刑することは、既に南京攻略戦の当時において国際法規に違反するということが、日本軍においても既に理解されていた(理解されていなければならなかった)わけです。

したがって、このように当時の国際法解釈の現場において既に軍律会議(軍律法廷)を経ない便衣兵の処刑が国際法規違反だと認識されていたことを考えれば、仮に百歩譲って当時南京にいた敗残兵が「便衣兵」であったとしても、それを捕らえて裁判にかけることもしないまま処刑した日本軍の行為は「不法殺害」に該当する「虐殺」であったと言えるのです。

⑤ 信夫淳平でさえ「確たる証拠なきに重刑に処するなど…穏当ではない」としている

なお、南京における日本軍の虐殺を否定する人の中には、いわゆる「戦数(論)」を展開して捕虜の殺害を正当化する法学者の信夫淳平を引き合いに出して「便衣兵の殺害は合法だ」との趣旨の主張を展開する人がいますが(※なお「戦数」については後述の【3】で詳しく解説しています)、そうした主張も成立しません。

なぜなら、その信夫淳平は昭和7年(1932年)に出した『上海戦と国際法』の中で次のように述べているからです。

 然るに便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法規違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し正当防衛として直ちにこれを殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に問ふこと固より妨げない。
 たゞ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を伝って逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ヶしく、會々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる証拠なきに重刑に処するなどは、形成危殆に直面し激情興奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏当でないこと論を俟たない。

出典:信夫淳平『上海戦と国際法』研文社 126頁(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877600

これを見れば、「戦数(論)」をとる信夫淳平ですら、便衣兵の処刑を限定的に解釈しているのがわかります。この論文では、便衣兵のうち「(突如危害を我に加ふる)現行犯」と「(重機弾薬類を携帯して居(る))嫌疑者」については「殺害」あるいは「引致拘禁」を認めている一方で、「確たる証拠なき(者)」は「重刑に処するなどは…穏当でない」と、その処刑を認めていないからです。

もちろん、先ほど説明したように「便衣兵」とは本来「武器を携行して敵対行動を行う戦闘者」のことを指すのですから、「現行犯」はまだしも、「戦闘」の現行犯(戦闘者)でないにもかかわらず、信夫淳平の言うように「重機弾薬類を携帯して居(る)」に過ぎない「嫌疑者」まで軍律会議(軍律法廷)を省略して引致拘禁することは戦争法規違反と言わざるを得ませんが、そうして「便衣兵」の殺害を広く容認する信夫淳平でさえ、「確たる証拠なき(者)」については「重刑に処するなどは…穏当でない」と、その処刑を認めていないのです。

この点、当時の南京で行われた日本兵によるいわゆる「便衣兵狩り」に際しては、避難民から敗残兵を選別するいわゆる「兵民分離」を行っていますが、その実態は「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ等で選別するなど極めて杜撰だったことが当時の兵士が残した日記などで明らかになっています(※この杜撰な兵民分離の詳細は水谷荘日記に詳しく記録されています→水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)(※水谷荘日記以外にも増田六助日記→『増田六助手記は南京事件をどう記録したか』や井家又一日記→『井家又一日記は南京事件をどう記録したか』などにも杜撰な兵民分離の実態が記録されています)。

しかも、歩兵第六旅団(第九師団)にいたっては、城内掃蕩要領の中で「敵ハ大部分便衣ニ化セルモノト判断セラルゝヲ以テ其ノ疑アル者ハ悉ク之ヲ検挙シ」などと、信夫淳平が「妥当ではない」とした「確たる証拠なき(者)」まで「疑アル者ハ悉ク之ヲ検挙」せよと命じていることも明らかになっています(※詳細は→南京事件に関連する日本軍の命令/指令/通牒/訓示等)。

そうであれば、信夫淳平が「重刑に処するなどは…穏当でない」とした「確たる証拠なき(者)」まで、杜撰な兵民分離によってことごとく日本軍は敗残兵掃討と称して捕縛したことになりますから、その杜撰な兵民分離によって捕縛した「(便衣兵の)確たる証拠なき(者)」まで処刑している以上、信夫淳平の主張に立脚しても、その処刑は明らかに国際法に違反していたと言わざるを得ません。

したがって、法学者の信夫淳平を引き合いに出して「便衣兵の殺害は合法だ」とする趣旨の主張についても根拠がないと言えます。

なお、この点については先ほど紹介した歴史学者の吉田裕氏の著書『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)に詳しいので、そちらをご参照ください(※吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 134∼135頁)。

⑥ 俘虜取扱規則でも俘虜(捕虜)の処刑には軍律会議(軍律法廷)が必須

ちなみに、当時の陸軍における俘虜取扱規則でも、俘虜(捕虜)の処刑には軍律会議(軍律法廷)を経ることとされています。

俘虜取扱規則(明治37年2月14日陸達二二)※一部抜粋】

第2条
俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ取扱ヒ決シテ侮辱虐待ヲ加フヘカラス

第8条
俘虜ノ懲戒ノ方法ハ前諸条ニ規定スルモノノ外陸軍懲罰令ニ準シ其ノ犯罪ハ陸軍軍法会議ニ於テ審判ス

※陸軍取扱法規(偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ 439頁を基に作成)

したがって、軍律会議(軍律法廷)を経ずに行われた南京における捕虜の殺害は、当時の日本陸軍の俘虜取扱規定から考えても、違法な「不法殺害」で「虐殺」だったということになります。

⑦ 南京に残留したドイツ大使館の外交官も国際法違反と非難していた

なお、当時の南京で日本軍が軍律会議(軍律裁判)を開かずに捕虜を処刑していたこと、またそうした軍事裁判を経ない捕虜の処刑が当時の国際法の解釈に照らして考えれば違法であったことは、次にあげるような当時南京に残留したドイツ大使館の外交官報告にも記録されていることからも明らかだったと言えます。

また、複数の外国人の目撃者の証言によれば、日本軍は多くの中国兵に「危害を加えない。仕事を与えよう」と約束してかれらを安全区の外へ連れ出し、殺害した。いかなる軍事裁判も、またこれに類する手続も一切﹅﹅おこなわれた形跡はなかった。そもそもこうした手続きは、あらゆる戦時国際法の慣例と人間的な礼節をかくも嘲り笑う日本軍のやり方にはふさわしくないものであったろう。

出典:石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 115頁※駐南京ドイツ大使館分館書記官のゲオルク・ローゼンが1938年1月20日付でベルリンのドイツ外務省に宛てて出した報告

したがって、こうした公文書の存在から考えても、当時の国際法の解釈に照らして考えて軍事裁判(軍律会議・軍律裁判)を経ない日本軍の捕虜の処刑は明らかに国際法違反だったということが裏付けられていると言えるでしょう。

(3)捕縛する前の敗残兵の殺害

(2)では捕虜にした「後」の敗残兵の処刑について論じましたので、この(3)では捕虜にする「前」の敗残兵の殺害について検討します。

南京陥落後には、日本軍が散発的な抵抗を続ける敗残兵を掃討によって多数殺害していますが、その点に国際法規上の違法性はなかったのでしょうか。

たとえば、第十軍の第六師団で南京攻略戦に参加した前田吉彦少尉の陣中日記には、敗残兵掃討の際に「兎狩りみたい」に殺される中国兵や、筏に乗って「次から次へと流れてくる」中国兵が皆殺しにされる描写が記録されていますが(※詳細は→前田吉彦日記は南京事件をどう記録したか)、そうしたほとんど無抵抗な敗残兵の掃討が国際法規的に許されたのかという問題です。

① 投降を呼びかければ従順に武装解除したはず

この点、投降前の敗残兵は戦闘中なのだから、その殺害は国際法規でも許される「戦闘行為」によるものなので違法ではないという意見もあるかも知れません。

しかし、先ほども説明したように、南京攻略戦は包囲殲滅戦だったため日本軍の攻撃で陥落した南京城の内外には逃げ道を塞がれて行き場を失っていた敗残兵が多数潜伏していましたが、彼等のほとんどすべては武器を捨てて戦闘意識を喪失した敗残兵に過ぎません。

また、そうした中国兵の中には掃討を続ける日本軍に武力で抵抗した部隊もありましたが、陥落前日の12日夕方には司令官の唐生智ら軍幹部が既に逃走していたことで軍の統制は失われていて、抵抗する部隊も勝てる見込みがないことを知らないまま散発的な抵抗を続けていたこともわかっています(笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 109頁参照)。

先ほども説明したように、たしかに1932年の第一次上海事変では組織的なゲリラ戦を展開する「便衣兵」は存在し日本軍は悩まされましたが、南京陥落後の南京では司令部が逃走したことによって指揮系統の放棄あるいは切断がおきたことで撤退命令が伝わらないまま「盲の戦い」を続けた部隊があったからにすぎず(前掲『南京大虐殺の現場へ』109∼110頁参照)、第一次上海事変に存在した「ゲリラ」と言えるような組織的な戦闘を展開する「便衣兵」はいなかったのです。

そうであれば、城内に残る敗残兵には降伏を勧告して投降を促し、武装解除すればよいだけなのであって、敗残兵掃討の名の下に、投降を勧告することもなく「兎狩りみたい」に殺したり、筏に乗って「次から次へと流れてくる」中国兵を皆殺しにする必要などなかったはずです。

一三日に日本軍の諸部隊が城壁を乗り越え、城内を突破して市内に侵入してきたとき、中国軍はほとんどが投降兵・敗残兵の状態にあった。それはスティールが「罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したにちがいない。しかしながら日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ」と指摘する通りだった。

出典:笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 108~109頁

この点、投降を呼びかけてもそれに従ったか分からないではないかとの意見もあるかも知れませんが、陥落後の南京で投降を呼びかけた敗残兵が簡単に武装解除し投降したことを記録した日本軍将校の日記もありますから、ほとんどの敗残兵が投降を呼びかけただけで従順に投降した可能性は極めて高かったことが伺えます。

今朝第六中隊が先頭で愈々下関だとハリキッて行ったら敵の奴呆気なく白旗をかかげて降参さ。〔当サイト筆者中略〕道の両側は中国兵がいや居るの何のってまるで黒山のように乗ってるもんで、通訳に山本大尉が『銃を捨てろ』と云わせると忽ち銃や剣の山が出来る有様さ。馬に乗っているうちの大隊長が余程偉く見えたんだろうね中国兵が一斉に拍手したよ。あの心理はどう云うだろうね、どうやら戦いが済んだ、これで殺される心配はないと云うところじゃろかい。〔当サイト筆者中略〕どしこ(どれだけ)居ったろかい、何千じゃろかい何万じゃろかい。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ356頁上段

私は工場の事務所らしき所を宿舎と決めて休んでいたら突然衛兵が飛び込んで来たので「何だ」と聞きますと、「ただいま工場内を調べたところ一番端の倉庫に敗残兵が大勢いますが、皆抵抗する気配は見えません」との報告を受けましたので現場へとんで行くと、正規や便衣の中国軍兵士が約三百名余り坐って両手をおとなしく頭にのせていました。
早速、身体検査をしてから安全を保証し食糧を支給するから倉庫の整理に従えと命じたら、喜んで承知しましたので働かせることにしました。

出典:金丸吉生軍曹手記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ256頁

しかるに日本軍は投降を勧告することもなく、城内に残って散発的に抵抗する中国兵を「兎狩りみたいに」「次から次へと」まるで娯楽であるかのように殺していったのですから、それを「虐殺」と言わずに何と言えるでしょうか。

② 投降を呼びかけない敗残兵掃蕩はハーグ陸戦条約の前文の趣旨に違反する

この①で述べたことは、当時施行されていたハーグ陸戦法規の趣旨にも合致します。

ハーグ陸戦法規を規定するハーグ陸戦条約の前文は、ハーグ陸戦条約に明確な規定のない場合であっても慣習、人道の法則、公共良心の要求に従って市民や交戦者を保護することを要請していますので(マルテンス条項)、人道的配慮をもって敗残兵に対処すべきことは、法的な責務として当時の日本軍に課せられていたということになるからです。

ハーグ陸戦条約 前文(※「マルテンス条項」の部分のみ抜粋)】

一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は締約国は其の採用したる条規に含まざる場合に於ても人民及び交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則及び公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配の下に立つることを確認するを以て適当と認む。

出典:ハーグ陸戦法規

ハーグ陸戦法規には「敗残兵を掃討してはならない」と規定されていませんが、だからといって敗残兵の掃討が無制約に許されるわけではなく、人道に配慮して良心をもって敗残兵に対処することが、当時すでにハーグ陸戦法規という国際法規で法的に求められていたわけです。

この点、先ほどの「【2】-(2)-②」でも触れたように、投降していない敗残兵は「便衣兵」なのだからハーグ陸戦法規第1条ないし2条の「交戦者の資格」を持たないのでその殺害は正当化されるはずだと言う人もいるかもしれません。

しかし、このハーグ陸戦法規の前文に置かれたマルテンス条項は、ハーグ陸戦法規が帝国主義大国主導で制定されたことで被植民地国民の保護が不十分であったことから、占領地におけるゲリラなど愛国的抵抗をとる集団や個人などにも交戦者に準じる資格を与えて保護すべしとの趣旨で挿入された経緯がありますから、ハーグ陸戦法規に明文の規定で交戦者の資格が明示されていない者であっても、それに準じて保護されるべき要請は、制定者の意思として含意されていると考えなければなりません(※この点については、吉田裕『15年戦争史研究と戦争責任問題』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 83∼84頁、また石島紀之『南京事件をめぐる新たな論争点』※同『南京事件を考える』130∼131頁を参照)。

陸戦条約前文のこの精神は、陸戦法規をふくむ戦時国際法が人道主義を基礎に置いていることから生じたものである。たしかにハーグ会議で締結された陸戦法規は、当時の時代的制約があり、また帝国主義大国によって主導された会議の限界もあって、ゲリラ戦をふくむ被侵略地域の民族的民衆的抵抗の問題を条文に組み込む点できわめて不十分であった。そのためゲリラは交戦法規違反としてただちに処刑しても可とする法解釈も存在したのである。
しかし上述の戦時国際法の基礎である人道主義、陸戦条約前文の精神、および陸戦法規作成の経過を勘案すれば、占領地におけるゲリラなどの抵抗団体あるいは個人的抵抗者も、交戦者に準ずる扱いを与えられてしかるべきであったと考えられる。便衣兵の疑いがあるという理由で、裁判もせずに殺害するようなやり方が、この基本精神に違反していることは明らかである。

出典:石島紀之『南京事件をめぐる新たな論争点』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 131頁

そうであれば、無抵抗のまま逃走を図る敗残兵だけでなく、散発的な抵抗をとる敗残兵があったとしても、それら敗残兵を掃討の名の下に殺害するのではなく、投降を呼びかけて武装解除し、捕虜として収容すべきことが当時の国際法規の要請だったということになりますから、敗残兵に投降を呼びかけることなく攻撃して掃討した日本軍の行為は、ハーグ陸戦法規前文の要請に違反する違法な「不法殺害」であったと言えます。

したがって、ハーグ陸戦法規の前文の趣旨から考えてみても、未だ投降していない敗残兵を敗残兵掃討と称して殺害した日本軍の行為は「虐殺」だったとしか言えないことになるのです。

【3】信夫淳平の「戦数(論)」を根拠に虐殺を否定する主張の問題点

以上で述べてきたように、南京攻略戦で日本軍が行った捕虜や市民の殺害は、すべて当時の国際法規に違反する「不法殺害」であって「虐殺」となるわけですが、こうした結論に対しては法学者の信夫淳平や田岡良一の論文を引用して「当時の国際法規の解釈では捕虜の殺害は合法だった」とする意見も聞かれますので、最後にそうした主張の誤りを指摘して、この記事のむすびとします。

ア)信夫淳平と田岡良一を根拠に捕虜の処刑を合法とする偕行社の意見

この点、「当時の国際法規の解釈では敗残兵の殺害は合法だった」と日本兵による敗残兵殺害を正当化する主張としては、偕行社の南京戦史編集委員会で委員を務めた髙橋登志郎氏(南京戦当時は陸軍大学校三年学生)が『南京戦史』の”あとがき”で触れた部分が代表的です。

ネット上に散見される同種の意見も、この意見に類似しているものが目につきますので、おそらくこの『南京戦史』の”あとがき”の記述を誰かが引用したものが歴史修正主義者に都合よく支持されてSNSで拡散されているのだろうと思われますが、その『南京戦史』の”あとがき”は次のように述べています。

〔中略〕そもそも捕虜の殺害は「ヘーグ陸戦法規」により不法であるが、苛烈な戦場に於ては状況上止むを得ぬ場合があることを国際法学者も認めている。南京戦においてもそのような例に当たると思われるケースもあるが、可能な限り集め得た資料についても、これは完全に合法である、と断定し得るにたる決定的な資料は発見されていない。よって我々はありのままを記述するにとどめたのであって、捕虜の処刑の総てを不法であると認識しているわけではない。〔後略〕

出典:偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史』あとがき より引用

この記述の結論部分は表現が曖昧ですが、「捕虜の処刑の総てを不法であると認識しているわけではない」としていますので、偕行社の南京戦史編集委員会は、南京戦で日本軍による「捕虜の処刑」があったことは認めつつも、「苛烈な戦場に於ては状況上止むを得ぬ場合があることを(南京戦当時の)国際法学者も認めている」から、その「捕虜の処刑」が「完全に合法である、と断定し得る」ケースもあったはずだ(だから不法殺害にあたる「虐殺」はなかったのだ)と言いたいわけです。

この点、その「苛烈な戦場に於ては状況上止むを得ぬ場合があることを…認めている」との見解を示す「国際法学者」が誰なのかはこの記述からは判然としませんが、偕行社の『南京戦史』は「第二節 捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵の取り扱い」の章の部分(※『決定版南京戦史資料集』の『南京戦史』312頁から314頁)において、南京戦当時の著名な法学者、田岡良一と信夫淳平(海軍大学校国際法教官)の2人の著書を引用したうえで『南京戦史』の”あとがき”を導いていますから、偕行社の『南京戦史』が田岡良一と信夫淳平の2人の学説を根拠に、「捕虜の処刑」は「国際法上合法だったのだ」(だから不法殺害にあたる「虐殺」はなかったのだ)と言っているのがわかります。

なお、偕行社の『南京戦史』が引用している田岡良一と信夫淳平の論文はそれぞれ次の部分です(※ちなみに『南京戦史』は信夫淳平を”信夫淳夫”と印刷していますが、たぶん誤植だと思います)。

偕行社の『南京戦史』が田岡良一の著書を引用した部分

「戦争法の主要部分は、武力によって敵国を屈せしめ自国の意思を貫徹するという戦争の目的を達するために必要欠くべからざる手段をも人道的感情に基づいて制限しようとするものではなく、戦争の目的を達するために不可欠でなく、しかも人道的感情に反する害敵手段を禁止しようとするものである。この意味で戦争法の作用は甚だ局限されており、この局限性が戦時の実際においてこの法の行われることを可能ならしめているのである。
(有斐閣、田岡良一『法律学全集〔五七巻〕新版、国際法Ⅲ』三二五ページ)

出典:田岡良一『法律学全集〔五七巻〕新版、国際法Ⅲ』有斐閣 325頁※偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史』312頁から孫引き

偕行社の『南京戦史』が信夫淳平の著書を引用した部分

俘虜の人道的取り扱いも、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの已むを得ざる場合あることも肯定すべきである。之を適切に説明したものはハレックの左の一節であらう。曰く。
『極めて多数の俘虜を捕獲したるも之を安全に収容し又は給養することが能きず、しかも宣誓の上解放したればとて彼等能く之を守るべしと思へざる場合も時にあるであらう。俘虜を収容するに方法なく且宣誓に依頼するを得る限りは、当然之を解放せねばならぬのであるが、之を為す能はず又給養するの手段なしといふ場合には如何にすべき。軍の安全に直ちに脅威を感ずるをも顧みず之を解放せざる可らざるか、将た自衛の法則として彼等を殺害するに妨げなきか。仮に軍の安全が敵――たとひ我軍に降伏したものにもせよ――のそれと両立し難しとせば、敵を殺害することが国に忠なる所以とすべきか。
『俘虜を殺害することの風習は今日文明国間に廃たるるに至つたが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。……自己安全は勝者の第一の法則で、この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。ただ必要の度を超えては、何ら苛酷の措置は許されない。随つて軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すべく、軽々しくその当否を断ずべきでない。』(Halleck, Ⅱ, § 7, pp, 19-20;§ 19, p. 30)
即ち要は、捕獲者に於て俘虜の収容又は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍には刃向ふこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法規上妨げずと為すのである。事実之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合には、勿論之を非とすべき理由はないのである。

出典:信夫淳平『戦時国際法講義 第二巻』※偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史』313~314頁および、偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史資料集Ⅰ』677頁

このように、戦争のような特殊な状況の下では戦争法規や慣例の遵守義務よりも軍事上の必要性が優先されるのだとする学説を一般に「戦数(論)」と呼びますが(※「戦数」については→戦数とは – コトバンク)、こうした田岡良一や信夫淳平が論じる「戦数(論)」に立脚するのであれば、ハーグ陸戦法規その他の戦争法規は「戦争目的を達成するために必要不可欠な行動」まで制限するものではないということになりますので、たとえ南京攻略戦で日本軍が捕虜を処刑した事実があったとしても、捕虜を収容することができなかったり、捕虜に食料を提供できなかったり、捕虜を解放するとその解放した捕虜がまた攻撃してくることが歴然としていて捕虜を殺害する以外に日本軍の安全を確保する手段が絶対にないような場合には、その捕虜の処刑は「戦争目的を達成するために必要不可欠な行動」となるためハーグ陸戦法規その他の国際法規の観点から考えても合法ですから、「不法殺害」とはなりません。

そのため、偕行社の『南京戦史』は、こうした田岡良一や信夫淳平の論文を引用して「南京戦で日本軍が行った捕虜の処刑は戦数論では国際法規上合法だから、不法殺害とはならないので虐殺にはあたらないのだ」と主張しているわけです。

イ)「戦数(論)」は戦前から国際法学者の横田喜三郎などによって否定されていた

しかしながら、こうした「戦数(論)」を前提として捕虜の処刑を正当化(合法化)する主張は、説得力を持ちません。

なぜなら、こうした「戦数(論)」は、南京攻略戦が行われた当時の国際法解釈の現場においても否定的に考えられていたからです。

この点は、歴史学者の吉田裕氏が論文『南京事件と国際法』(※『南京大虐殺の研究』晩聲社95∼125頁)の中において、国際法学者の横田喜三郎の著書の記述を引用し、戦前の段階から既にそうした「戦数(論)」に立脚して捕虜の処刑を正当化する学説に否定的な見解が存在していたことを指摘しています。

吉田裕氏が『南京事件と国際法』の中で引用した横田喜三郎の著書の部分

「この学説(※当サイト筆者注:「戦数」を根拠に捕虜の処刑を正当化する学説のこと)に対しては、強い反対がある。かような範囲の広く不明確な例外を認めるときは、戦闘法規の違反に対して容易に口実を与へることになる。のみならず、これを戦争の必然の條理とし、それ故にただちに国際法上の原則とするところに自然法的な誤謬がある。それは実定的な基礎を欠くものである。かくて、主としてドイツの学者によって世界戦争〔第一次世界大戦〕の前に主張されたけれども、一般には支持されなかった」

出典:横田喜三郎『国際法(改訂版)』下巻 有斐閣 1940年 238頁※吉田裕『南京事件と国際法』(※洞富雄、藤原彰、本多勝一編『南京大虐殺の研究』晩聲社 102頁より孫引き)

つまり、たしかに偕行社の『南京戦史』が引用したように、田岡良一や信夫淳平のように「戦数」説を支持する者もあったわけですが、「主張されたけれども、一般には支持されなかった」のが実情で、そうした「戦数」を根拠に捕虜の処刑を正当化する学説は、すでに戦前の段階から国際法解釈の現場において明確に否定されていたわけです。

これは当然です。仮に「戦数」説を根拠に捕虜の処刑が認められるなら、「食料がない」とか「収容する施設がない」とか「解放すれば攻撃される」などという理由でいくらでも捕虜を殺害してよいことになるからです。

「戦数」論が成り立つと言うのなら、もはや捕虜の人道的保護を要請したハーグ陸戦法規はすべて空文化してしまうでしょう。

したがって、「戦数」を根拠に南京において日本兵が行った捕虜の処刑を正当化する主張は、当時の法解釈の側面から考えても、成り立たないということが言えます。

ウ)「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なし」と言える状況は生じていない

この点、そうは言っても多数説や通説が必ずしも正しいわけではなく少数説が正しい可能性だってあるわけだから、仮に国際法学者の横田喜三郎が言うように当時の国際法解釈の現場で「一般には支持されなかった」事実があったとしても、信夫淳平のように「戦数(論)」に立つ考え方が正しかった可能性もあるではないか、と考える人もあるかも知れませんが、そうした意見も成り立ちません。

なぜなら、先に引用した『戦時国際法講義』を書いた信夫淳平自身が、その『戦時国際法講義』の中で「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合には」と述べているからです。

「ア」で引用した『戦時国際法講義』の最後の部分で信夫淳平は「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」と述べていますから、信夫淳平が「戦数(論)」に基づいて捕虜の処刑が許されると考えているのは、あくまでも「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」です。

つまり、信夫淳平は「戦数(論)」を肯定していますが、それはあくまでも「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」に限られていて、「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」がない限り、捕虜の処刑は違法だと述べているわけです。

しかし、この点も前述の「イ」で挙げた吉田裕氏が論文(『南京事件と国際法』※『南京大虐殺の研究』晩聲社102∼103頁)の中で指摘していますが、南京攻略戦は包囲殲滅戦であったため、昭和12年12月13日の南京陥落の時点で包囲されて逃げ場を失った中国軍は統制を失って総崩れとなり、散発的に抵抗する敗残兵が一部にあったにしても、守備兵のほとんどが武器を投げ捨て軍服を脱ぎ捨てて、戦闘意思を全くなくして日本軍に捕らえられ、あるいは自ら降伏して投降しているわけですから、その武装解除して捕らえた捕虜について「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」と言えるような日本軍の安全を脅かす危機的な状況が当時の南京で生じた事実はありません。

念のため、付け加えておくならば、信夫の場合でも軍事上の必要ということを無条件に肯定していたわけでは決してない。信夫によれば、捕虜の殺害が正当化されるのは、あくまで、「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」に限定されていたのである。南京攻略戦の場合、日本軍の包囲作戦がほぼ完全な成功を収めたため、退路を遮断された中国防衛軍は軍上層部の脱出による指揮系統の混乱もあって、短期間のうちに一挙に崩壊した。その結果、十二月十三日の南京城内突入の前後に、日本軍は戦意を完全に喪失した、おびただしい数の敗残兵や投降兵に遭遇することになるが、その段階で、「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なし」などというような切迫した状況は、どこにも存在しなかったのである。

出典:吉田裕『南京事件と国際法』※洞富雄、藤原彰、本多勝一編『南京大虐殺の研究』晩聲社102∼103頁

そうであれば、「之(日本軍が捕らえた捕虜)を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」にあたる状況が当時の南京における日本軍になかった以上、信夫淳平の主張する「戦数(論)」に立脚しても、捕虜の処刑は国際法規上「違法」となりますので、当時の南京で日本軍が行った捕虜の処刑は、信夫淳平の説に基づいても「不法殺害」としか言えません。

したがって、いずれにしても、南京で日本軍が行った「捕虜の処刑」は「不法殺害」であって「虐殺」としか言えないことになるのです。

【4】参考文献

このページの作成に当たっては、主に次の書籍を参考にしました。

  • 吉田裕『南京事件と国際法』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の研究』晩聲社に収録
  • 吉田裕『15年戦争史研究と戦争責任問題』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店に収録
  • 吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店
  • 石島紀之『南京事件をめぐる新たな論争点』※前掲『南京事件を考える』に収録
  • 偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史・南京戦史資料集ⅠⅡ
  • 信夫淳平『戦時国際法講義 第二巻』※前掲『決定版南京戦史資料集』資料集Ⅰに収録
  • 信夫淳平『上海戦と国際法』研文社(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877600
  • 笠原十九司『南京事件』岩波新書
  • 笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社に収録
  • 南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
  • 大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂
  • 林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書

コメント