水谷荘日記は南京事件をどう記録したか

水谷荘は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第九師団歩兵第六旅団の歩兵第七連隊第一中隊に所属した元兵士で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記を基に戦後に清書したものが公開されています。

水谷荘日記の特徴は、避難民の中に紛れ込んだ敗残兵を市民と選別した、いわゆる「兵民分離」の様子を具体的に記録している点です。

当時の南京で日本軍が行った兵民分離では、その杜撰な選別で多数の一般市民が兵士と間違われて連行され虐殺されたことがわかっていますが、その兵民分離の細かな描写が記録された水谷荘日記の記述は、南京事件に関する様々な記述で引用されるなど、当時の兵民分離の実態を明らかにする貴重な資料として知られています。

では、水谷荘の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

水谷荘の日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月13日「捕殺したのは一人だけ」

水谷荘日記の昭和12年12月13日には、捕虜の殺害に関する記述が見られます。

左前方一○○米、破壊された建物の影に敵を発見、◇◇と二人だけで攻撃したが、捕殺したのは一人だけ、俺が発砲、◇◇が刺した。

出典:水谷荘日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ395頁下段(※◇◇の部分は原文では実名が記述されていますが当サイト筆者の判断で伏字にしています)

この点、この記述を一見すると、敗残兵掃討の戦闘中における殺害のようにも見えますが、「捕殺」と記述されていますので、掃討中に発見した敗残兵をいったん捕縛して、その捕縛した後に銃で射撃し、刺殺したことが伺えます。

しかし、いったん捕縛したのであれば、それは捕虜(俘虜)として人道に配慮することがハーグ陸戦法規で定められていますから、この記述のように「捕殺」したのが事実であれば、それは捕虜の殺害となるので国際法規に違反します。

また、仮にその捕虜にした敗残兵に何らかの非違行為があったとしても、捕虜を処刑するためには軍律会議(軍律法廷)を経なければなりませんから、裁判を省略して殺害している点でも国際法規に違反する「不法殺害」の疑いは免れません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

水谷荘日記のこの部分は、「不法殺害」すなわち「虐殺」が強く疑われるケースだと考えます。

(2)昭和12年12月14日「靴づれ…面タコ…姿勢の良い…目付きの鋭い者」

水谷荘日記の昭和12年12月14日には、避難民に紛れ込んだ敗残兵を一般市民から選別したいわゆる「兵民分離」の具体的な手順と、そうして摘出した敗残兵の殺害に関する記述が見られます。

〔当サイト筆者中略〕今日も市内の残敵掃蕩に当り、若い男子の殆んどの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の二十一名と共に射殺する。

出典:水谷荘日記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ395頁下段

この部分は「兵民分離」の状況を具体的に記録しているところからさまざまな書籍で引用されているのでよく知られている記述です。

具体的には「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付きの鋭さ」等で選別していますが、その選別が如何に合理性のない杜撰なものだったことがわかるでしょう。

たとえば、”靴ずれ”は兵隊でなくてもできますし、”面タコ(おそらく鉄兜を被ったことでできるタコ)”も帽子の擦れやタンコブなどと見間違える可能性だってあるかもしれません。兵隊にならなくても”姿勢”の良い人など沢山いますし、”目付き”の悪い人だっていくらでもいるはずです。

こんなありふれた特徴だけで兵隊だと決めつけられて連行されてしまうのですから、その連行され処刑された「捕虜」の中に、相当な数の一般市民が含まれていたことは疑いようがありません。

引用文の最後に「昨日の二十一名」という部分が出てきますが、これは前日の13日に捕縛した捕虜のことで、13日の部分には次のように記録されています。

〔中略〕夥しい若者を狩り出して来る。色々の角度から調べて、敵の軍人らしい者二十一名を残し、後は全部放免する。

出典:水谷荘日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ395頁下段

ここでは「色々な角度から調べて」避難民の中から「軍人らしい者」を21名選別していますが、その「色々な角度」が先ほど挙げた「靴づれ」「面タコ」「姿勢」「目付き」等なのですから、この21名の「軍人らしい者」の中にも少なからぬ一般市民が含まれていたでしょう。

こうした杜撰な「兵民分離」によって、多くの一般市民が兵士に間違われて殺されていったのです。

なお、こうした杜撰な兵民分離は当時南京に残留した外国人の報告にも出てきますから、これが水谷の所属した歩兵第七連隊だけでなく当時の日本軍で広く行われていたことは間違いありません。

農村師資訓練学校収容所の難民七十人が銃殺された。軍紀の全く紊乱した日本兵は中国人に対して仕放題のことが出来た。少しでも怪しいと思えば中国兵だと言って銃殺した。黄包車夫、大工、職工も捕らえられた。

出典:ティンバーリイ原著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 40∼41頁

この点、軍服を脱ぎ捨てて平民の服に着替えて避難民に紛れ込んだ中国兵は「便衣兵」であって一般市民に偽装すること自体が国際法違反なのだから、一般市民に偽装して日本軍を欺いた中国軍が責められるべきだ、との意見を持つ人もいるかもしれません。

しかし、仮に中国兵が「便衣」して一般市民に偽装したことに責められる点があったとしても、それを捕らえて「お前は兵士だ」と認定して処罰するためには、当時の国際法規においても軍律会議(軍律法廷)を経て罪状を認定することが前提であって、裁判なしに杜撰な選別で「兵士だ」と認定し、しかも軍律会議(軍律法廷)も省略して処刑するのは国際法規に明らかに違反しています(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、そうした軍律会議(軍律法廷)によらない兵民分離によって敗残兵を選別したことも、軍律会議(軍律法廷)を経ないでその選別した敗残兵捕虜を処刑したことも、明らかに国際法違反となりますから、ここに記述された敗残兵の射殺は「不法殺害」と言うほかありません。

この部分の記述は、国際法規に違反する「虐殺」があったことを示すものと言えるでしょう。

(3)昭和12年12月14日「収穫多々で帰る」

水谷荘日記の昭和12年12月14日の部分には掠奪(略奪)に関する記述が見られます。

〔中略〕この宿舎に入ってから、◇◇と二人で自転車で菓子や砂糖の徴発に行く。夜遅くなったものの、収穫多々で帰る。

出典:水谷荘日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ395頁下段

上海戦から続けられた南京攻略戦は兵站の準備が杜撰だったことから補給が続かず、兵士の糧秣は現地調達の方針がとられたため、掠奪(略奪)が横行しました。

もちろん、現地民に対して「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を交付するなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した紙を残して司令部に代金を取りに来るよう書置きを残しておいたなら文字通り「徴発」となるので「略奪」とはなりませんが、次のような証言があるように、そうした正規の手続きをとって「徴発」した兵士はまずありません。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

また、南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

この水谷荘日記の記述も、そうした「徴発」と称する掠奪(略奪)の事実を示す貴重な記録の一つといえるでしょう。

(4)昭和12年12月16日「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても」

水谷荘日記の昭和12年12月16日には、杜撰な兵民分離によって多数の一般市民を処刑した可能性を自認していたことを示唆する記述が見られます。

〔中略〕午後、中隊は難民区の掃討に出た。〔中略〕目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行して来る。〔中略〕その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。
 市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者はやむを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。

出典:水谷荘日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ396頁下段

この部分も、前述の(2)で引用した部分と同じように、杜撰な兵民分離が具体的に記述されていますが、そうしたいい加減な選別で多数の一般市民が兵士と間違われて連行された疑いがあること、また「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないこと」としていますから、その連行した敗残兵の中に少なからぬ一般市民が含まれている可能性があることを、兵民分離を行った日本軍兵士が認識していたことがわかります。

つまり、当時の日本軍兵士は、処刑する敗残兵の中に少なからぬ一般市民が含まれていることを十分に認識しながら、それでも「致し方のないこと」だとの認識で処刑しているので、未必の故意があったと認定できるわけです。

もちろん、この記述でも「徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから」と述べられているように、それは上からの命令なのですが、個々の部隊においても一般市民である可能性を認識しながら射殺したことは事実としてあったと考えなければなりません。

そして一般市民の処刑は国際法規上で考えても違法性阻却事由は存在しませんから「不法殺害」であって「虐殺」に当たるのは当然の帰結です。

また、先ほども述べたように、そもそも武装解除して捕縛した敗残兵は捕虜(俘虜)として人道的な配慮をしなければならないことがハーグ陸戦法規において定められていたわけですから、それを処刑することは明らかに国際法規に違反する「不法殺害」となりますし、仮に捕虜に責められるべき非違行為があったとしても、それを処刑するには軍律会議(軍律法廷)を経ることが前提ですから、裁判(軍律会議)を省略したこの処刑は、明らかに国際法規に違反する「不法殺害」というほかありません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この記述も、”一般市民”を殺戮した「虐殺」があったこと、また当時の国際法規に違反する”捕虜”の「不法殺害」にあたる「虐殺」があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(5)昭和12年12月19日「強姦等破廉恥行為は、厳に慎んでもらいたい」

水谷荘日記の昭和12年12月19日には小隊長から軍紀粛正に関する訓示があった場面を次のように描写しています。

全員集合が掛り、小村小隊長からの訓話がある。「〔中略〕家郷に残る家族にも想いを馳せて、いやしくも法に触れるような事のないよう、例え一人の行為と雖も、全軍の威信を傷つける事になると言う事を、忘れないように。特に放火、強姦等破廉恥行為は、厳に慎んでもらいたい。

出典:水谷荘日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ397頁上∼下段

この記述は「特に放火、強姦等破廉恥行為は、厳に慎んでもらいたい」との訓示があったとしていますから、当時の南京で日本兵による放火や強姦などが多発していたことがわかります。

この点、掠奪(略奪)や一般市民に対する暴行や傷害・殺人などについては言及されていませんが、当時の南京で掠奪(略奪)や市民に対する暴行/傷害/殺人が横行していたことは他の日記や手記などから明らかとなっていますので、「等破廉恥行為」の「等」の中に当然そうした掠奪(略奪)や暴行/傷害/殺人等の非違行為も含まれていると考えるべきでしょう。

ただし、敗残兵掃討による捕虜(兵士と間違われた多くの一般市民も含まれます)の処刑は軍の命令によるものなので、そうした処刑(虐殺)はここでいう「破廉恥行為」には含まれません。

この小林小隊長が「厳に慎んでもらいたい」と訓示している非違行為の中の殺人は、あくまでも捕虜の処刑以外の殺人です。たとえば略奪や強姦に抵抗した市民を殺害したり、そうした非違行為の証拠隠滅目的での殺害などについて「慎んでもらいたい」と訓示したものと考えるべきでしょう。

もっとも、こうした訓示があったのは事実としても、日本兵の非違行為がなくなることはありませんでした。それには南京陥落時には憲兵は一人もおらず(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 165頁)、下旬になってもようやく17名の憲兵が配置されただけで本格的に憲兵が配置されたのは翌年1月に入ってからだったことが大きく影響しており、南京市内の治安が落ち着いてきたのは部隊が他の戦地に移動して少なくなってきた翌年の2月以降になってからと言われています。

当時の日本軍は、2カ月以上の長い期間にわたって敗残兵掃討と称して一般市民も含む多数の敗残兵を処刑(虐殺)しただけでなく、放火や強姦、掠奪(略奪)や暴行/傷害/殺人を繰り返し、南京の街を地獄に変えていったわけです。