荒海清衛日記は南京事件をどう記録したか

荒海清衛は、南京攻略戦に向かう第十三師団の山田支隊に補充兵として派遣され歩兵第六十五連隊第一大隊本部に配属された上等兵で、南京攻略戦の際に現地で記録した日記が公開されています。

山田支隊は南京北東に位置する幕府山付近で1万5千から2万に及ぶ軍民を大虐殺したことで知られますが、この荒海清衛もその山田支隊に属していたことから現地の山田支隊で具体的にどのような事実があったのか知るうえで貴重な資料となっています。

では、荒海清衛日記は南京事件における日本軍の虐殺をどう記録したのか確認してみましょう。

荒海清衛日記は南京事件における日本軍の大虐殺をどう記録したか

(1)昭和12年12月17日「俺達は今日も捕虜の始末だ」

荒海清衛日記の昭和12年12月16日から17日にかけては、幕府山付近で捕らえた捕虜の殺害に関する記述があります。

今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。

出典:荒海清衛日記※昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』345頁

〔中略〕俺達は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。〔以下略〕

出典:荒海清衛日記※昭和12年12月17日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』345頁

ここでは荒海清衛が所属した部隊が捕縛した捕虜について、その2千5百名と1万5千名を「殺す」あるいは「始末」したとしていますので、その全てを処刑したことがわかります。

また、「今日捕虜の始末だ」という部分からは、荒海清衛の部隊が連日のように捕虜の処刑で忙殺されていたことも伺えます。

ちなみに、この2千5百名と1万5千名はその全てが兵士ではありません。山田支隊は幕府山付近で投降してきた捕虜だけでなく、南京から逃れてきた敗残兵や一般市民も捕縛していますので、この2万名弱の「捕虜」の中には少なからぬ一般市民も含まれています。

この点、民間人は別として、兵士であれば処刑も許されるのではないかと考える人がいるかもしれませんが、ハーグ陸戦法規は捕虜に人道的な配慮をすることを求めていますし、仮にその捕縛した捕虜に何らかの非違行為があったとしても、それを処刑するためには軍法会議にかけて罪状を認定することが必要ですから、軍法会議に掛けることなく処刑したこの事案は間違いなく当時の国際法規に違反する戦争犯罪です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この部分の記述は荒海清衛が所属した山田支隊の歩兵第65連隊において2万人弱にも及ぶ大規模な捕虜と民間人の虐殺が行われたことを裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

(2)昭和12年12月27日「良民も夕方に成ったら皆逃げてしまった」

荒海清衛日記の昭和12年12月27日には略奪(掠奪)に関する記述が見られます。

本日八時出発。江浦鎮に向ふ。〔中略〕町人は市場を開いて居った処だった全く大勢なのには驚いた。大隊本部も良い処である。この良民も夕方に成ったら皆逃げてしまった。徴発も中々できない。良民が気の毒に成ってしまう。〔中略〕

出典:荒海清衛日記※昭和12年12月27日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』346頁

日本軍が占領した江浦鎮において現地住民が市場を開いていますので昼間は市民の姿も多くみられたようですが、「夕方に成ったら皆逃げてしまった」としていますので、住民が日本兵を極度に恐れていたことがわかります。安全な昼間は通りに店を出しますが、夜は日本兵に見つからないように隠れていたわけです。

ではなぜ、住民が日本兵を恐れていたかというと、それはもちろん日本兵による略奪(掠奪)や強姦の危険があるからです。

ここに「徴発も中々できない。良民が気の毒に成ってしまう」とありますが、「徴発」は糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した書置きを残して司令部に代金を取りに来るよう促すなど、正式な手続きをとることが必須です。

しかし、次のような証言があるように、そうした正規の手続きで「徴発」した兵士はほとんど皆無だったのが実情です。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

しかも、南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

もちろん、日本兵による強姦や暴行(殺人・傷害含む)も頻発しています。

そのため、市を開いていた市民も「夕方に成ったら皆逃げてしま」っていたわけです。

荒海清衛日記のこの部分の記述は、南京陥落後において日本兵による略奪(掠奪)や強姦が頻発していたこと、また現地住民が生きていくために昼間は露店を出していても、夜になると日本兵を恐れて逃げていたことを裏付ける記録と言えるでしょう。