松井石根の戦陣日記は南京事件をどう記録したか

松井石根は南京攻略戦に中支那方面軍の総司令官として関わった陸軍大将で、昭和12年8月の上海戦から11月以降の南京攻略戦に至る過程でつけていた日記(戦陣日記)が公開されています。

松井石根は上海戦では上海派遣軍の司令官として、南京攻略戦では中支那方面軍の総司令官として関与していることから末端の部隊における虐殺や強姦、掠奪や放火など生々しい暴虐行為の描写は記録していませんが、日本兵の非違行為に関係する記述がいくつか見られるほか、総司令官としての責任に関係する記述もありますので、司令官の視点から南京事件をどのようにとらえていたのかを知るうえで貴重な資料となっています。

では、松井石根の戦陣日記は南京攻略戦における日本軍の暴虐行為(虐殺、強姦、掠奪/略奪、放火等)をどのように記録しているのでしょうか。確認してみましょう。

松井石根の戦陣日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年8月16日「速ニ南京ヲ攻略スルノ目的ヲ以テ」

松井石根の戦陣日記には、上海派遣軍司令官に任命された松井石根が昭和12年8月16日に東京の参謀本部を訪れた際の出来事を次のように記録しています。

 朝十時参謀本部ニ出勤 総長殿下ヨリ奉勅命令并指示ヲ下シ賜フ 謹テ拝スルニ上海派遣軍ノ任務ハ
 上海附近ノ敵軍ヲ掃討シ 其西方要地ヲ占領シテ上海居留民ノ生命を保護スルニ在リ
其任務ノ消極ニシテ前記政府声明ニ副ハサルコト甚タ遺憾ナルノミナラス〔中略〕

 今ヤ時局ハ所謂不拡大方針ヲ解消シテ全面的解決ノ域ニ進ミアリ〔中略〕

 以上ノ理由ニ基キ我軍ハ 速ニ南京ヲ攻略スルノ目的ヲ以テ中支地方ニ所要ノ兵力(約五師団)ヲ派遣シ 一挙南京政府ヲ覆滅スルヲ必要トス〔中略〕

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年8月16日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』5∼6頁

上海戦の段階では政府も軍中央も全面戦争への拡大を望んでおらず首都南京の攻略は考えていませんでしたから、松井が司令官として任命された上海派遣軍の任務は、ここに記述されているようにあくまでも「上海附近ノ敵軍ヲ掃討シ」て「其西方要地ヲ占領」することと「上海居留民ノ生命を保護」するだけにすぎませんでした。

しかし、その命令を受けた松井は「所謂不拡大方針」を「消極」と評価したうえ「一挙南京政府ヲ覆滅スルヲ必要トス」と述べていますので、松井が上海の制圧と居留民保護だけではなく首都の南京まで攻略すべきだと考えていたことがわかります。

南京攻略戦の過程で日本兵によって繰り返された虐殺や略奪、強姦、放火など暴虐行為の原因としては、援軍として送られた第十軍が中央の意向を無視して南京に進軍したことが挙げられることがありますが、その第十軍が編成される前の段階から既にこうして松井石根は南京攻略に前のめりだったわけです。

松井石根は当初から南京攻略を積極的に望んでいて、それが兵站を無視した進軍に繋がって日本兵の暴虐行為を生んだとも言えますから、松井石根のこうした意識が、結果的に日本兵によって引き起こされた南京事件を生んだとも言えます。

日記のこの部分は、南京事件の責任の一端が松井にあったことを示す記録とも言えるのではないでしょうか。

(2)昭和12年8月18日「上海上陸後ノ情勢ニ応シ公式ニ意見ヲ具申スルニ決シ」

こうした首都南京の攻略に積極的な考えは、その後の18日の部分にも見られます。

要スルニ参謀本部ノ上海派遣軍ニ対スル意見ハ 凡テ甚タ消極的ニシテ現在ノ情勢ニ適セサルハ甚タ遺憾トスル所ナリ 余ハ更メテ上海上陸後ノ情勢ニ応シ公式ニ意見ヲ具申スルニ決シ大要此非公式意見開陳ニ止メテ東京ヲ出発スルニ覚悟ヲ定メタリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年8月18日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』10∼11頁

ここで松井は「海上陸後ノ情勢ニ応シ公式ニ意見ヲ具申スルニ決シ大要此非公式意見開陳ニ止メテ東京ヲ出発スルニ覚悟ヲ定メタ」と述べていますから、上海戦に向かう前から、既に上海占領後に南京攻略を具申して積極的に南京への進軍を働きかけようと決心していたことがわかります。

松井としては、上海派遣軍の司令官の任命を受けた時点で、既に是が非でも軍を南京攻略に向かわせたいと考えていたわけです。

南京攻略戦は予備役に編入されていた松井が功名を挙げる野心から始められたとも言われますが、そうした意識が松井にあったことを伺わせる記述と言えるかもしれません。

(3)昭和12年12月4日「南京城ノ占領ハ両軍部隊ノ随意攻撃ニ放任セス 方面軍ニ於テ之ヲ統制市秩序アル占領ヲ遂ゲントノ意ナリ」

松井石根戦陣日記の12月4日には、南京城の攻略を前にして松井が軍の統制を図ろうとしていたことを伺わせる次のような記述があります。

蓋シ南京城ノ占領ハ両軍部隊ノ随意攻撃ニ放任セス 方面軍ニ於テ之ヲ統制市秩序アル占領ヲ遂ゲントノ意ナリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年12月4日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』136頁

ここで松井は「城ノ占領ハ両軍部隊ノ随意攻撃ニ放任セス」「秩序アル占領」と述べていますので、南京陥落に際して上海派遣軍と第十軍の両軍が城内になだれ込むような事態を危惧していたことがわかります。

それはもちろん、そうした事態になると城内で兵士の非違行為が起きてしまう危険があるからですから、無秩序な占領を許してしまうことにより発生する日本兵の非違行為を松井が十分に認識していたということに他なりません。

しかし、そうした危険を認識していたにもかかわらず、南京を陥落させた日本軍は我先にと無秩序に南京城内になだれ込み、掠奪や強姦等の非違行為を働いたわけですから、松井の責任は重大です。

南京を陥落させる前に日本兵による非違行為を予見できていなければ松井に責任を求めるのは酷な面があるかも知れませんが、松井はその危険を十分に予見していたにもかかわらず日本兵の暴虐行為を回避できなかったからです。

松井は、無秩序な占領で日本兵の非違行為が起きることを十分に予見していながらそれを回避できなかったのですから、予見可能性があったことを考えても松井は責任を免れません。

日記のこの部分は、総司令官の松井石根が南京における日本兵の非違行為を十分に予見しながら、その回避努力を怠ったことを示す記録と言えるのではないでしょうか。

(4)昭和12年12月17日「市中公私ノ建物ハ殆ト全ク兵火ニ罹リアラス」

松井石根戦陣日記の昭和12年17日には、南京市街の建物について次のような記述が見られます。

〔中略〕避難民ハ未タ城ノ西北部避難地区ニ集合シアリテ路上支那人極メテ稀ナルモ 幸ニ市中公私ノ建物ハ殆ト全ク兵火ニ罹リアラス旧体ヲ維持シアルハ万幸ナリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年12月17日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』142頁

ここで松井は「市中公私ノ建物ハ殆ト全ク兵火ニ罹リアラス」としていますから、17日に南京に入った松井が見た範囲では放火などで破壊された建物がほとんどなかったことがわかります。

17日の時点で焼けた建物がほとんどなかったのであれば、その後は日本兵が占領しているわけですから、その後に焼けた建物は日本兵による放火によるものと考えるのが自然です。

陥落後の南京城内では日本兵による放火が相次ぎましたが、南京陥落時には中国軍兵士による放火もあったことから「南京で焼けた建物は中国兵の仕業だ」などという意見も聞かれますが、そうした意見が成立しないことがこの松井の記述から裏付けられるとも言えるのではないでしょうか。

松井の戦陣日記のこの部分は、陥落後の南京城内で発生した火災のほとんどが日本兵による放火であったことを裏付ける記録の一つと言えます。

(5)昭和12年12月18日「軍紀 風紀ノ振粛」

松井石根戦陣日記の昭和12年18日には、松井が参謀長に対して軍紀粛正を訓示した記録があります。

 此朝各軍師団参謀長ヲ会シ 軍参謀長ヨリ詳細ナル指示及打合ヲ行ハシメ 予ハ特ニ一同ニ対シ
一、軍規 風紀ノ振粛
ニ、支那人軽侮思想ノ排除
三、国際関係ノ要領ニ付
 訓示ヲ与ヘタリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年12月18日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』143頁

ここで松井は「軍紀 風紀ノ振粛」を訓示していますから、18日時点で松井が日本兵による「軍紀 風紀」を乱す暴虐行為が行われていたことを把握していたことがわかります。

しかし、この18日以降も日本兵による略奪(掠奪)や放火、強姦、暴行・傷害・殺人等の暴虐行為は続いており、この軍紀粛正の訓示はまったく生かされませんでしたから、中支那方面軍の総司令官だった松井は日本兵の暴虐行為の事実を認識しながら何ら有効な防止策を講じなかったということになります。

したがって、この部分は松井が日本兵による暴虐行為の事実を知りながら司令官として有効な対策をとることを怠った不作為の事実を裏付ける記録と言えるでしょう。

(6)昭和12年12月20日「支那側ノ措置トシテハ寧ロ感服ノ値アリ」

戦陣日記の12月20日には、南京の日本大使館の建物について次のように記録しています。

此日大使館ニ到リ新着ノ領事館員等ト会見シ状況ヲ聞ク 曰ク 去七月大使館引上当時支那側ニ寄託シタル公使建物ハ一部ノ小奪掠ノ外 概シテ相当ニ保護セラレ殊ニ大使館建物ハ内容共完ク完全ニ保存セラレアルハ 支那側ノ措置トシテハ寧ロ感服ノ値アリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年12月20日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』144頁

この部分では、侵攻前に中国軍側に「寄託」していた日本大使館や公使館について「概シテ相当ニ保護セラレ」としていますので、中国軍による破壊や組織的な略奪が全くなかったことがわかります。

「小奪掠」とあるので若干の略奪があったことは認められますが、陥落後になだれ込んだ日本兵による略奪(掠奪)の可能性もありますし、仮に中国兵によるものとしても中国側令官の唐生智は陥落前日の夕方には既に南京を離脱していましたので、中国兵による組織的な略奪(掠奪)ではなく、逃げ遅れて城内に取り残された中国兵のうちの数人が侵入したものと考える方が常識的です。

松井石根戦陣日記のこの部分は、中国軍が日本軍の侵攻を受けながらも戦争法規を遵守して日本大使館や公使館を大切に保存していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。

(7)昭和12年12月20日「強姦等モアリシ如ク 多少ハ已ムナキ実情ナリ」

松井石根戦陣日記の昭和12年12月20日には、日本兵による強姦等の非違行為について記述した部分が見られます。

 尚聞ク所 城内残留内外人ハ一時不少恐怖ノ情ナリシカ 我軍ノ漸次落付クト共ニ漸ク安堵シ来レリ 一時我将兵ニヨリ少数ノ奪掠行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク 多少ハ已ムナキ実情ナリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年12月20日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』145頁

この部分の記述には別個に議論すべき問題が3つありますので、それぞれ別に挙げておきます。

① 日本軍は「漸次落付ク」どころではなかったし南京市民も「安堵シ来レリ」と言える状態ではなかった

この点、まず言えるのが、12月20日の時点で南京を占領した日本軍兵士は「漸次落付ク」どころではなかったし南京市民も「安堵シ来レリ」と言える状態ではなかったという点です。

13日に陥落した南京城内には占領した日本兵が駐留していましたが、その日本兵による略奪(掠奪)や放火、強姦や殺人等(傷害/暴行も含む)の非違行為は翌年まで続いており、部隊の転進で駐留兵士が少なくなった2月以降になってようやく治安が落ち着いて行ったのが実情です。

松井は12月20日の時点で日本兵が「漸次落付ク」と述べていますが、松井がそう感じていた南京市内では日本兵による略奪(掠奪)や放火、婦女の強姦等が至るところで繰り返されており、その日本兵の暴虐行為に怯える南京市民は到底「安堵シ来レリ」と言える状況ではなかったわけです。

仮に松井がこの20日の時点で日本兵による暴虐行為を正確に把握し、城内に入城する兵士を適切に管理したり憲兵を増やすなりしておけば、多くの命が失われずに済んだはずですし、少なくない女性がレイプから免れたでしょう。

松井石根戦陣日記のこの部分の記述は、松井の認識の甘さが南京における暴虐行為の拡大を招いたことを裏付ける貴重な記録と言えるのではないでしょうか。

② 日本兵による略奪(掠奪)や強姦等の非違行為は「少数ノ」と言えるどころではなかった

また、この部分は日本兵による非違行為について「少数ノ奪掠行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ」としていますが、当時の南京で毎日のようにいたるところで日本兵による略奪(掠奪)や放火、強姦や殺人(障害暴行も含む)等が行われていたことは、当時南京に駐留した日本兵の日記や証言、南京に残留して避難民の保護にあたった外国人の記録、あるいは日本兵の暴虐行為の被害を受けた中国人の記録や証言などによって裏付けられています。

それは到底、松井が記したような「少数ノ」と言える矮小なものではなかったわけです。

総司令官のこうした事実を矮小化した認識が日本兵による暴虐行為を野放しにした一因にもなったのですから、松井の責任は重大です。

松井石根戦陣日記のこの部分の記述も、その認識の甘さが日本兵による暴虐行為の拡大を招いたことを裏付ける記録と言えるでしょう。

③ 強姦や殺戮、略奪(掠奪)や放火が「多少ハ已ムナキ実情」で済まされてよいはずがない

松井はこの部分でそうした日本兵による暴虐行為を「多少ハ已ムナキ実情」と、あたかもそれが許容範囲のやむを得なかったものであったかのように記していますが、南京陥落時に憲兵を一人も入れず(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 165頁)、12月下旬になってようやく憲兵を17名配置しただけで日本兵の暴虐行為を放置したのが松井です。

憲兵の準備を怠って万を超す日本兵の無秩序な占領を許しておきながら、南京市民の惨禍を微塵も顧みることなく「多少ハ已ムナキ実情」などと、どの口が言えるのでしょうか。

松井のこうした暴虐行為を許容するような姿勢が日本兵の戦争犯罪を放置することにつながったと言っても言い過ぎではなく、松井の不作為責任は重大です。

松井石根は戦後の東京戦犯で南京事件の責任を問われて処刑されていますが、東京裁判に様々な問題があるとしても、その処刑が決して理由のないものでなかったことは、戦陣日記のこの部分の記述からも明らかと言えるのではないでしょうか。

(8)昭和12年12月29日「自動車其他ヲ我軍兵卒奪掠セシ事件アリ」

松井石根戦陣日記の昭和12年12月29日には日本兵による略奪(掠奪)の記述が見られます。

南京ニ於テ各国大使館ノ自動車其他ヲ我軍兵卒奪掠セシ事件アリ 軍隊ノ無知乱暴驚クニ耐ヘタリ 折角皇軍ノ声価ヲ此ル事ニテ破壊スルハ残念至極 中山参謀ヲ南京ニ派遣シテ急遽善後策ヲ講スルト共ニ 当事者ノ処罰ハ勿論責任者ヲ処分スへク命令ス

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和12年12月29日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』149頁

陥落後の南京城内では外国大使館や領事館などにも日本兵が侵入し、自動車や貴金属にとどまらず家具などまで略奪(掠奪)したことが南京に残留した外国人や日本兵の日記、日本軍内で送信された電報などに記録されていますので(たとえば→『飯沼守日記は南京事件をどう記録したか』また『日本軍の電報・申送り(申継書)は南京事件をどう記録したか』)、この部分もそうした日本兵による略奪(掠奪)が頻発していることを踏まえてその対処を促したものでしょう。

もっとも、ここで松井は「急遽善後策ヲ講スルト共ニ 当事者ノ処罰ハ勿論責任者ヲ処分」としていますが、そうして増やされた若干の憲兵はまったく有効な取り締まりをせず、口頭の注意で済ませるだけで軍紀粛正は全く機能しなかったことが当時南京に残留した外国人の記録で明らかとなっています。

五万以上の日本軍が南京を横行しているとき、憲兵はたった十七人しか到着しておらず、幾日たっても一人の憲兵の影も見出せなかった。後になって若干の日本兵が憲兵の腕章をつけて取り締まるようになった。が、これはむしろ悪いことをするのに便利で単に普通の下らぬ事件しか阻止しえなかった。我々の聞くところでは、強姦で捕まった日本兵は叱責されるほか何らの懲罰も受けず、掠奪を働いた兵隊は上官に挙手の敬礼をすればそれで事は済む由だった。

出典:ティンバーリイ著『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社65頁

北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、跪いて助けを求めた。わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることができない。

出典:ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳、笠原十九司解説)『南京事件の日々』大月書店 70頁※ミニー・ヴォートリンの日記 1937年12月20日の部分

「二月の五日か六日ごろ、軍の高官がやってきて、南京駐在部隊の将校、主として尉官級の将校、また下士官をあつめて、日本軍の士気のためにも、またその名誉のためにも、こういう状態は即時止められなければならないということを申渡したことを知ったが、それまでは何ら、有効適切な手段がとられたということ、また強姦その他の残虐行為を犯した兵士にたいして、処罰がおこなわれたということを聞いたことがない」

出典:洞富雄編『日中戦争史資料 Ⅰ』56頁※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 133頁※ベーツ博士の証言

司令官の松井は、いちおうは軍紀粛正の命令を出してはいますが、その効果は全くなかったわけですから、日本兵による略奪(掠奪)や強姦などの非違行為を抑止できなかった松井の不作為は厳しく批判されて当然でしょう。

(9)昭和13年1月11日「可成早ク多数ノ支那人ヲ復帰セシメ」

松井石根戦陣日記の昭和13年1月11日には、避難民の帰還に関する次のような記述が見られます。

南市ノ破壊ハ予想外ニシテ大部分火災ノ為メ荒レ果テアリ 此模様ニテハ居留民ノ復帰モ渉々シク行カサルハ勿論ニ付 兵站司令官及警備隊長ニ旨ヲ授ケ 可成早ク多数ノ支那人ヲ復帰セシメ 我軍ニ懐カシムル様充分ノ考慮ト工作ヲ行フ様申付タリ

出典:松井石根大将戦陣日記 昭和13年1月11日:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』155頁

松井はこの部分で「可成早ク多数ノ支那人ヲ復帰セシメ 我軍ニ懐カシムル様充分ノ考慮ト工作ヲ行フ様申付タ」としていますから、日本兵の暴虐行為を避けるため安全区(難民区)に非難した市民を早急に自宅に帰そうとしていたことがわかります。

当時の南京では外国領事館や大学などが集中していた城内の一部地域が安全区に指定され、南京城の内外から多数の難民が避難していましたし、城外の山間部にも多数の市民が戦災を逃れて避難していましたが、そうした状況が続けば国際社会から非難されてしまうため外交上も好ましくないありません。そのため松井はこうした「申付」をしたのでしょう。

しかし、こうして市民の帰還を急がせたことが、日本兵の暴虐行為に晒されている南京市民をさらに苦しめることになります。1月の段階ではいまだ南京市内で日本兵による強姦や略奪(掠奪)が頻発していたからです。

今述べた城内の安全区(難民区)は日本軍の方針によって1月末には閉鎖させられ、自宅を失った一部を除くほとんどの市民が強制的に安全区から自宅に帰されましたが、自宅に帰った女性の多くは、帰宅を待ち伏せていた日本兵によって強姦されてしまい、再び安全区に逃げ帰るという事案が多数報告されています。

午前中、五人の若い女性が聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)からやってきて、きのうそこの収容所が閉鎖されたこと、彼女たちがそれぞれの家に帰ったこと、夜間、兵士たちが侵入してきたこと、彼女たちが家の塀をよじ登って聖経師資培訓学校に逃げ帰ったことを話した。

出典:ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』大月書店153頁※1938年2月4日の部分

右を向いても左を向いても、聞こえてくるのは中国人の嘆きばかり。家に帰ったはいいが、妻や娘が強姦されたというのだ。けっきょくあとからあとから安全区へ舞い戻ってきた。また受け入れてやるよりほかない。

出典:ジョン・ラーベ著『南京の真実』講談社 219頁※1938年2月1日の部分

つまり、松井石根が避難民の帰還を急がせたことによって、安全区に避難していた多くの女性が強制的に自宅に帰らせられ、そこで待ち受けていた日本兵によって次々に強姦されていったわけです。

当時の南京で強姦が頻発していたことは安全区国際委員会委員長を務めていたジョン・ラーベや金陵女子文理学院のミニー・ヴォートリンなどから日本の大使館員や軍将校などにも連絡がなされていましたから、常識的に考えて当時の松井石根がそうした事実を知らないわけがありませんし、2月以降になっても日本兵による暴虐行為が継続していたことは、上海派遣軍の参謀副長だった上村利道の日記にも記録があります。

憲兵報告ヲ見ルニ軍規風紀上の事故未タ相当ニ多シ。常規ヲ脱セル意想外ナルモノアリ。動機ハ酒ナリ。実ニ遺憾千万ナリ

出典:上村利道日記※昭和13年2月13日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』282頁下段

つまり松井石根は、日本兵の暴虐行為が放置されているのを知りながら、安全区を閉鎖してそこに避難する市民を強制的に自宅に帰還させたのです。松井は避難民の帰還を急がせて日本兵による強姦を放置したのですから、松井がやったことはオオカミの群れに羊を逃がすようなもので到底是認できるものではないでしょう。

松井が避難民の自宅への帰還を急がなければ多くの女性がレイプを免れたのですから、日本兵の強姦を防がなかった不作為だけでなく、作為的に強姦の被害を拡大させた点で最大限の非難に値すると言ってよいのではないでしょうか。

(10)昭和13年1月24日「奪掠等ノコトニ関シ甚タ平気ノ言アルハ遺憾」

松井石根戦陣日記の昭和13年1月24日には、北支に転進が命じられた第十六師団の中島今朝吾の言動に苦言を呈す次のような記述が見られます。

第十六師団長北支ニ転進ノ為着滬ス 其云フ所言動ニ依リ面白カラス殊ニ奪掠等ノコトニ関シ甚タ平気ノ言アルハ遺憾トスル所 由テ厳ニ命シテ転送荷物ヲ再検査セシメ鹵獲、奪掠品ノ輸送ヲ禁スルコトニ取計フ

出典:『松井石根大将戦陣日記』昭和13年1月24日※偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』161頁

第16師団長の中島今朝吾が略奪(掠奪)等の非違行為に寛容だったことは中島の陣中日記などにも記述がありますので(※詳細は→『中島今朝吾日記は南京事件をどう記録したか』)、そうした中島の異常性を記述したものでしょう。

後段で中島の荷物を検査するよう差配しているのは中島が満州にいた頃にも略奪(掠奪)した物品を内地に輸送したことがあったからですが、この松井の命じた検査で実際に略奪(掠奪)品が見つかったため中島今朝吾は後に予備役に編入されることになったとも言われています(※この点の詳細も→『中島今朝吾日記は南京事件をどう記録したか』)。

田中の供述によれば、田中が陸軍将兵務局兵務課長のとき、第四軍司令官として「満州」にいた中島が国内に三二梱包にも及ぶ荷物を送って来た。疑惑をいだいた田中が京都憲兵隊に命じて中味を調査させたところ、高価な巻物、絨毯、調度、骨董品、絵画などが発見されたという(国際検察局「田中隆吉尋問調書」)。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 153頁

この部分は、南京攻略戦に際して師団長自らが略奪(掠奪)を繰り返していた事実を裏付ける記録と言えるでしょう。

(11)昭和13年2月6日「到底予ノ精神ハ軍隊ニ徹底シアラサル」

松井石根戦陣日記の昭和13年2月6日には、各部隊で軍紀粛正がままならない状況を嘆く次のような記述が見られます。

支那人民ノ我軍ニ対スル恐怖心去ラス寒気ト家ナキ為メ帰来ノ送ルルコト固トヨリ其主因ナルモ 我軍ニ対スル反抗ト云フヨリモ恐怖 不安ノ念ノ去ラサルコト其重要ナル原因ナルヘシト察セラル 即各地守備隊ニ付其心持ヲ聞クニ到底予ノ精神ハ軍隊ニ徹底シアラサルハ勿論 本事件ニ付根本ノ理解ト覚悟ナキニ因ルモノ多ク一面軍規風紀ノ弛緩カ完全ニ恢復セス 各幹部亦兎角ニ情実ニ流レ又ハ姑息ニ陥リ 軍自ラヲシテ地方宣撫ニ当ラシムルコトノ寧ロ有害無益ナルヲ感シ浩歎ノ至ナリ

出典:『松井石根大将戦陣日記』昭和13年2月6日※偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』168頁

ここでは、市民の自宅への帰還が進まない原因について「我軍ニ対スル……恐怖 不安ノ念ノ去ラサルコト其重要ナル原因ナルヘシ」としたうえで、「到底予ノ精神ハ軍隊ニ徹底シアラサル」と述べていますから、軍規風紀の頽廃の改善がまったく機能しておらず軍紀粛正が図られていない状況がわかります。

南京陥落は12月13日ですから、それから2カ月がたっても一向に軍紀粛正は実現されず、日本兵による非違行為が頻発していて、その実態を松井自身が認識していたわけです。

しかし、そうであれば前述の(9)で紹介したような住民の帰還を急ぐべきではなかったでしょう。前述したように、日本軍は南京に設置されていた安全区を1月末で閉鎖して避難民を強制的に自宅に帰しましたが、自宅に戻された女性の多くは待ち構えていた日本兵にいたるところで強姦されています。

日本軍将兵に「本事件ニ付根本ノ理解ト覚悟ナキニ因ルモノ多ク」あることがわかっていて「軍規風紀ノ弛緩カ完全ニ恢復セス」という状況にあると認識したうえで、これ以降も市民の自宅への帰還を強行したということは、自宅に戻った女性がレイプされることを予見しながら住民の帰還を強行したということですから松井の罪は極めて重大です。

戦陣日記のこの部分も、松井の戦争責任を裏付ける記録と言えるでしょう。

(12)昭和13年2月7日「只々悲哀其物ニ捉ハレ責任感ノ太ク胸中ニ迫ルヲ覚エタリ」

松井石根戦陣日記の昭和13年2月7日には、松井が南京における日本軍の行為について責任を自覚する次のような記述が見られます。

今日ハ只々悲哀其物ニ捉ハレ責任感ノ太ク胸中ニ迫ルヲ覚エタリ 蓋シテ南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト其後地方自治、政権工作等ノ進捗セサルニ起因スルモノナリ 仍テ式後参集各隊長ヲ集メ予ノ此所感ヲ披露シテ一般ノ戒飭ヲ促セリ

出典:『松井石根大将戦陣日記』昭和13年2月7日※偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』169頁

2月7日に南京で行われた慰霊祭に出席した後に各部隊の幹部に軍紀粛正に努めるよう訓示した内容についての記述ですが、ここで松井は「悲哀其物ニ捉ハレ責任感ノ太ク胸中ニ迫ルヲ覚エタリ」としていますから、南京で行われた日本兵による暴虐行為について深くその責任を自覚していたことがわかります。

一説には、ここで松井は泣いて戒めたそうですが、そうした「責任感」を抱いていたのなら、なぜもっと厳しく軍紀粛正を図らなかったのか残念でなりません。

この部分は、司令官の松井石根自身が南京で2カ月以上にわたって繰り返された日本兵による略奪(掠奪)、放火、虐殺、強姦等の暴虐行為の責任を自覚していたこと、またその戦争責任が自らに帰すことを自認していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。