中島今朝吾(なかじま けさご)は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団の師団長を務めた陸軍中将で、南京攻略戦が行われた期間につけていた日記が公開されています。
中島今朝吾日記は掠奪の記述が多いのが特徴ですが、捕虜を「試し斬り」した虐殺の記述も見られます。
昭和12年12月13日の「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」の箇所は、軍の司令部が当初から捕虜にした中国兵をすべて処刑(虐殺)する方針を持っていたことを示すものとして様々な書籍で引用されているのでご存知の人も多いと思います。
では、中島今朝吾は南京攻略戦における日本軍の非違行為について具体的にどのような記述を残しているのか、確認してみましょう。
中島今朝吾日記は南京事件の暴虐行為をどう記録したか
(1)昭和12年12月13日「歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ」
中島今朝吾日記の昭和12年12月13日は、捕縛した中国軍将校に尋問しようとしたところ、すでに日本兵によって斬り殺されていたとの報告を受けた当時の様子をおどけた調子で次のように記録しています。
天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕へ彼カ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ217頁
敵の兵を捕らえればハーグ陸戦法規が適用されて捕虜として処遇しなければなりませんので、それを殺せば国際法規上違法となります。この事例では捕らえた中国軍の工兵少佐を日本兵が「斬殺」していますので、明らかな戦時国際法規違反となり「虐殺」と言えるでしょう。
なお、捕らえた中国兵少佐が「抵抗したのでは?」との意見もあるかも知れませんが、殺害方法が「斬殺」であるところから軍刀で首を刎ねるためにいったん拘束したはずですので、たとえ抵抗があったとしても殺害する時点ですでに制圧しているので差し迫った危険はなく正当防衛は成立しません。
そうであれば、仮に捕らえた中国兵少佐に非違行為があったとしても、処刑するためには軍法会議(裁判)に附して罪状を認定したあとでなければ処断できませんから、軍法会議(裁判)なしに処刑(斬殺)している点で国際法的な正当性は皆無です。
したがって仮に当該捕虜となった中国兵少佐に敵対行為等があったとしても、この殺害は「虐殺」というほかないでしょう(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
それにしても、中島今朝吾が「兵隊君ニハカナワヌカナワヌ」と記述しているところから中島今朝吾が日本兵による処刑を違法なものであることを認識していたことが伺えますが、違法であることを認識しながら「カナワヌカナワヌ」とおどけているところを見るに、猟奇的な側面が伺えます。
良心の呵責を微塵も感じていない点に、背筋が寒くなります。
(2)昭和12年12月13日「捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム」
中島今朝吾日記の12月13日には(1)とは別に、捕虜の「試し斬り」に関する記述も見られます。
本日正午高山剣士来着ス時恰モ
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ218頁
捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頚二ツヲ見込〔事〕斬リタリ
「試し斬り」はいわゆる「据物斬り」のことで、ひざまずかせて後ろから首を切り落とす斬首を指しますが、「試斬ヲ為サシム」とありますので中島が部下に捕虜の試し斬り(据物斬り)を命じたことがわかります。「小生ノ刀モ亦」「彼ヲシテ試斬セシメ」とあるのは、おそらく中島が日本から持参した銘の入った日本刀を剣術の心得のある部下に渡してその切れ味を試させたものでしょう。
南京攻略戦で軍刀(日本刀)による斬首が多数あったこと、また軍刀の「試し斬り(据え物斬り)」と称して面白半分に斬首を繰り返す事例が多数あったことはよく知られていますが、その蛮行を罪の意識を微塵も感じることなく嬉々として日記に残しているところに常軌を逸した異常性が伺えます。
もっとも、こうした斬首(試し斬り、据え物斬り)による「虐殺」は、中島の師団に限らず多くの部隊で行われていましたから、これは中島今朝吾個人の特性というよりも、南京攻略戦に参加した日本軍に当時蔓延していた軍全体の異常性と考えた方が良いのかもしれません。
(3)昭和12年12月13日「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」
また、同月13日には、軍が当初から捕虜をとることなく処分(処刑)する方針だったことを示す「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」の記述があります。
この部分は南京事件関連の様々な書籍で引用されていますので、中島今朝吾の日記の記述の中でも最も有名な箇所と言えます。
大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトゝナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロ〴〵ツイテ来ルカラ安全ナルモノゝ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ220頁
部隊ヲトラツクニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
十三日夕ハトラツクノ大活動ヲ要シタリ…〔以下省略〕
この記述からは、軍が当初から捕虜をとらない方針をとっていて、武装解除した敗残兵を直ちに処刑する「虐殺」が、単に末端の部隊や兵卒の独断によって行われたわけではなく軍司令部から命じられた組織的なものであったことが分かります。
なお、この点については第三十八連隊(第十六師団歩兵第三十旅団)の連隊長だった助川靜二氏がルポライターの鈴木明氏に同様の証言をしているようですので、第十六師団では師団長から「捕虜はせぬ(捕虜はとらない)」との指令が出ていたことは間違いないでしょう。
助川氏は、「捕虜は師団長〔※当サイト筆者注:中島今朝吾師団長のこと〕から出すなといわれていたから、そのように命令したような気がしますなァ。捕虜がいた記憶は……なかったと思いますが、どうもはっきりしませんなァ」といった。
出典:鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』文春文庫 263頁
(4)昭和12年12月13日「適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定」
さらに、同じく13日には佐々木到一少将(歩兵第三十旅団)の部隊で約15000人、中隊(おそらく歩兵第三十旅団の歩兵第33連隊)で1300人と、それとは別に7∼8000人の捕虜虐殺があったこと、また続々と投降する捕虜の処分(虐殺)を示唆する記述が見られます。
一、後ニ到リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大〔太〕平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ終結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ノケ〔カ〕処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツゝアリ
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ220頁
この時点で「処理」「片付クル」とされた「約15000人」、「1300人」「7∼8000人」の人数についてはおよその数なので不明確な部分があるかもしれませんが、膨大な人数の捕虜が虐殺されたのが分かります。
また、「之ヲ片付クルニハ」としている部分は、敗残兵を武装解除した当初から日本軍が処理(殺害)を考えていて、そもそも捕虜として収容する意思がなく「片付クル」処刑が既定路線だったことを示していると言えます。
しかし、先ほども述べたように捕虜にしたならハーグ陸戦法規にしたがって人道的な配慮をしなければなりませんから処刑などできませんし、仮に捕虜に何らかの非違行為があったとしても軍法会議を省略して処刑することはできません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
したがって、中島今朝吾日記のこの部分は日本軍による虐殺の事実を裏付ける記述と言えるでしょう。
なお、『「処理」「片付クル」は「解放」を意味するから虐殺はしていない』などというトンデモ論で虐殺を否定する論者もいるようですが、「相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ」とある部分から死体を投げ入れる壕を探していたことは明らかです。捕虜を解放するために「相当大ナル壕」が必要ないのは子どもでもわかるでしょう。
ちなみに、この太平門での捕虜の処刑については歩兵第三十旅団長だった佐々木到一少将の私記や(詳細は→佐々木到一私記は南京事件をどう記録したか)、上海派遣軍の参謀長だった飯沼守の日記にも記述がありますので(※詳細は→飯沼守日記は南京事件をどう記録したか)この中島今朝吾日記と記述が符合するところを踏まえれば記述に誤りはなかったことが推測できます。
(5)昭和12年12月14日「敗残兵ノ処理等ニ大多忙ヲ極ム」
中島今朝吾日記の同月14日には、前日13日に「敗残兵ノ後始末」と記した「敗残兵ノ処理」で多忙を極めたとの記述が見られます。
一、此日尚城内の掃討未完
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ220頁
加之城外ニ分散シタル部隊ノ集結、敗残兵ノ処理等ニ大多忙ヲ極ム
この点、ここで言う「敗残兵ノ処理」は、前日の13日の部分の記述からも処刑であることがわかりますが、前述したようにハーグ陸戦法規に従えば捕虜を処刑することはできず、軍法会議を省略して処刑することも国際法規で認められていませんので明らかな不法殺害に他なりません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
したがって、この部分も日本軍による虐殺の事実を裏付ける記録と言えるでしょう。
(6)昭和12年12月19日「銀行ノ金庫破リ専門ノモノガアル」
中島今朝吾日記の昭和12年12月19日は、日本軍将兵による掠奪の記述で埋め尽くされています。
まず、19日の記述は、日本軍が入る前から中国兵による掠奪があったと記述したうえで、そのあとに入った日本軍の将兵が我先にと掠奪で荒らし回った情景を次のように記録しています。
一、ソコニ日本軍ガ又我先キニト侵入シ他ノ区域デアロウトナカロウト御構ヒナシニ強奪シテ往ク此ハ地方民家屋ニツキテハ真ニ徹底シテ居ル 結極〔局〕ズフ〴〵シイ奴ガ得トイフノデアル
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ226頁
この日本兵による略奪は司令部でも手を焼いていたようで、国民政府の建物を配宿計画で師団司令部と定めて表札を掲げていたにもかかわらず日本兵が侵入して掠奪されたとの記述もあります。
〔中略〕師団司令部ト表札ヲ掲ゲアルニ係ラズ中ニ入リテ見レバ政府主席ノ室カラ何カラスツカリ引カキマワシテ目星ノツクモノハ陳列古物ダロウト何ダロウト皆持ツテ往ク
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ226頁
予ハ十五日入場後残物ヲ集メテ一ノ戸棚ニ入レ封印シテアツタガ駄目デアル翌々日入テ見レバ其内ノ是ハト思フタモノハ皆無クナリテ居ル金庫ノ中デモ入レネバ駄目トイフコトニナル
一、日本人ハ物好キデアル国民政府トイフノデワザ〳ヾ見物二来ル唯見物丈ナラバ可ナルモ何カ目ニツケバ直ニカツハ〔パ〕ラツテ行ク兵卒ノ監督位デハ何ニモナラヌ堂々タル将校様ノ盗人ダカラ真ニ驚イタコトデアル
「堂々タル将校様」が司令部の表札が掲げられていた建物にまで侵入して掠奪していくわけですから、当時の日本兵が末端の兵士から将校に至るまで、あらゆる建物に侵入して略奪(掠奪)を繰り返していたことがわかります。
もっとも、中島今朝吾はそうした日本兵の略奪(掠奪)を呆れたように記述していますが、略奪(掠奪)自体を否定的に考えていたわけではありません。「予ハ十五日入場後残物ヲ集メテ一ノ戸棚ニ入レ封印シテアツタガ駄目デアル」と日記で述べているように、そもそも中島がその戸棚に入れて封印していたもの自体が略奪品だからです。
中島今朝吾は、自分が略奪した品物を他の将兵に略奪されただけに過ぎませんから掠奪に入った将兵と何ら変わりません。盗人猛々しいとはまさにこのことでしょう。
なお、中島今朝吾日記の19日の部分にはその後も略奪(掠奪)の描写が続きます。
たとえば、中島は蒋介石がいたとされる軍官学校の校長官舎を第16師団から部隊(歩兵第九連隊※片桐護郎大佐)を出して確保していたようですが、そこも他の部隊に侵入されて略奪されたと記しています。
第九聯隊ヲ出シテマデ取リテ置イタノニ自己ノ宿営区域ニモアラザル内山旅団(野戦重砲兵第五旅団)司令部ガ侵入シテ之モ亦遺憾ナク荒シテ仕舞ツタ
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ227頁
こうした日本兵相互で略奪(掠奪)し合うケースは頻繁にあったようで、鹵獲品の自動車を修理していたところ、将校から乗り逃げされたとの記述もあります。
自動車ヲ鹵獲シテ検査小修理ヲ兵卒ガヤツテ居ル通リカカリタル将校ガ一寸見セロトノゾキ込ム ツヅクツテ其儘乗リ逃ゲシテ往ク
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ227頁
さらには、銀行の金庫から紙幣を強奪し上海に送金して仲介業者を使って日本円に換金した挙句に部隊から逃亡する兵士も続出したとの記述までありますから、もう滅茶苦茶です。
最モ悪質ノモノハ貨幣掠奪デアル中央銀行ノ紙幣ヲ目ガケ到ル処ノ銀行ノ金庫破リ専門ノモノガアル〔中略〕日本紙幣ヨリ高値ナルガ故ニ上海ニ送リテ日本紙幣ニ交換スル此中(仲)介者ハ新聞記者ト自動車ノ運転手二多イ〔中略〕第九師団ト内山旅団ニ此疾病ガ流行シテ張本人中ニハ輜重特務兵ガ多イソシテ金ガ出来タ為逃亡スルモノガ続出スルトイウコトニナル
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ227頁
なお、兵士が金庫破りなどするのかと疑問に思う人もいるかもしれませんが、南京での日本兵による金庫破りはドイツ大使館職員が本国(ベルリン)宛てに出した報告にも記録されていますので、当時の南京では周知の事実だったと考えられます。
〔中略〕貴重品が底をつくと、かれらは家具、絨毯、ドアなどを盗んだ。ただ薪にするのが目的という場合すらあった。軍は熟練の金庫破りさえ連れていた。もっとも銃の台座や手榴弾でこじ開けられた金庫も多々あったが。
石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 55頁※カルロヴィッツ商会のクリスティアン・クレーガーが作成した私的報告(外交資料)(※同書12頁参照)
私が戸を釘で打ちつけても、そのつど壊され、最後に私がこの家を訪れたときに無傷で残っていたのは、冷蔵庫とわずかばかりの家具だけだった。浴槽までもが取りはずされ、金庫がこじ開けられ、錠は見たところ銃で壊され、カタログ、書類、便箋が使い物にならない状態で部屋にばらまかれていた。
石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 76頁※カルロヴィッツ商会のクリスティアン・クレーガーが作成した南京ドイツ大使館分館宛て書簡(※同書12頁参照)
それゆえ私は、議論の余地のある日本軍の「正当防衛」説を初めから打破しようとした。というのも、どんなに都合のよい自明の事実を並べても、中国軍が日本軍に「強いた」とされる占領がすんで一四日後の金庫破りや放火を「軍事行動」と見なすのは無理があるからである。
石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 253∼254頁※駐南京ドイツ大使館分館書記官のゲオルク・ローゼンが1938年4月2日に漢口の駐華ドイツ大使館に宛てて出した報告
銃を振りかざした兵隊が市内の銀行を襲い、民家の金庫を片っ端から破って強奪して回るのですから、ただの強盗団と変わらなかったと言えるでしょう。
なお、こうして略奪(掠奪)した金品を日本兵がどうしたかという点に疑問を持つ人もいるかもしれませんが、中島今朝吾日記の19日の最後には次のような記述があります。
内山旅団ノ兵隊デ四口、計三、〇〇〇円送金シタルモノ其他三〇〇、四〇〇、五〇〇円宛送リタルモノハ四五十名モアル 誠ニ不吉ナコトデアル
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ227頁
つまり、掠奪した金品をお金に換えて日本に送金していたわけです。
陥落後の南京には無人となった商店に勝手に店を構えて略奪(掠奪)品を買い取ったりする日本人商人がいたり、上海に持って行けばいくらでも略奪(掠奪)品を換金できましたから、そうしてお金に換えて送金する兵士は掃いて捨てるほどいたのかもしれません。
「皇軍」を自称した日本軍は、まさに盗賊と変わらなかったわけです。
良心の呵責などというものは微塵も感じることはなかったのでしょう。
(7)昭和12年12月31日「軍隊ノ入城掃蕩ノ際技師モ職工モ片付ケタラシク」
中島今朝吾日記の昭和12年12月31日には、日本軍が敗残兵の掃討の際に発電所の職員を不法に殺害していたことを示す記録があります。
〔中略〕南京ノ電灯ト水道ハ十三日朝迄運転シアリタリトノコトナリシモ軍隊ノ入城掃蕩ノ際技師モ職工モ片付ケタラシク之ヲ運転スル要員ナシ
出典:中島今朝吾日記 昭和12年12月31日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ235~236頁
中島今朝吾は第十六師団の師団長でその師団長が「軍隊の入場掃蕩の際、技師も職工も片づけたらしく」と言っているわけですから、師団長の中島今朝吾のところにまで「敗残兵掃討の際に発電所の技師や職工まで殺戮した」との情報が伝わっていたことがわかります。
この点、「この記述は”片付ケタラシク”とあってあくまでも”片づけたらしい”という憶測にすぎないから実際に殺されていたかどうかわからないではないか」と考える人もいるかもしれませんが、中国近代史学者の石島紀之氏は、下関(シャーカン)の発電所所員が日本軍に捕縛され連行されて処刑された事実が中国側の史料に残されていることを確認しています(※石島紀之『南京事件をめぐる新たな論争点』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 133頁)。
中国側の資料によれば、首都電廠下関の所員は、一三日朝六時煤炭港の和記洋行に避難したが、日本軍の捜索によって五十余人が逮捕され、一五日夜半一二時頃にトラックで煤炭港に連行されて機銃掃射をうけ、四五人が殺害されたという。
出典:石島紀之『南京事件をめぐる新たな論争点』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 133頁※『首都電廠公函』(1946年1月)
この点、手元にある中国側の資料を確認して見たところ、石島氏の確認した資料と同じ事例かどうかはわかりませんが、発電所の虐殺現場から辛うじて生還できた生存者の証言が収録されていましたので紹介しておきましょう(※南京市文史資料研究会編『証言・南京大虐殺』青木書店 23∼24頁)。
〔中略〕発電所内にいた労働者五十人を副工程師の徐士英が率いて工場内で発電工作の維持に当り、十二月十三日、首都陥落ののち労働者たちを率いて電機工場を退去しました。しかしその時交通はすでに遮断され、城内に入ることができず、また長江を渡る舟もすでに奪われて残されていませんでした。そこで煤炭港の英商和記冷蔵工場まで退いて、その工場内に一時避難しました。〔中略〕その後、敵軍が下関に到着すると、和記工場内の検査をきびしくおこない、確かに和記公司の雇人の身分であると証明する文書のある者を除いて、捕えられた者はみな煤炭港の長江下流の江辺に囲い込まれ、拘禁された者は約三千人の多さでした。発電所の労働者五一人は、二人が中途ではぐれて和記工場に到着しなかったのを除いてその他はすべて拘禁されました。〔中略〕初めは機関銃で掃射し、ついで被害者たちを付近の茅屋の中に追い立てて閉じ込め、さらに茅屋の周囲四方にたきぎを積み上げ、その上にガソリンをかけ、火を放って燃やし、一部の人を焼死させました。銃殺されようとした群衆の中に電機工場の大工二人がいて、弾に当たったものの致命傷とはならず、敵兵が離れるのを待って和記工場内に逃げ戻ることができ、生命をながらえました。電機工場から退去する途中ではぐれた二人は、うち一人は友人の家に避難していて被害を受けなかったのですが、いま一人はひとりで下流に歩いて行って、江辺で敵兵に遭遇し、やはり射殺されました。それ故電機工場の全部で五一人の労働者のうち、労働者六人と副工程師一人が難を逃れたほかは、残りの許江山ら四四人全員がこの事件で殉難したのです……。」
出典:首都電機工場総工程師兼代理場長の陸徳の証言 ー 南京市文史資料研究会編(加々美光行/姫田光義訳・解説)『証言・南京大虐殺』青木書店 23∼25頁
また、石島紀之氏の論文や南京市文史資料研究会の編纂した資料の記述とは人数に若干の相違はありますが、難民区(安全区)国際委員会の委員長を務めたジョン・ラーベの日記(※ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社 136頁)や南京の駐華ドイツ大使館分館書記官ゲオルク・ローゼンがベルリンのドイツ外務省に宛てて出した報告、また安全区の金陵女子学院で避難民の保護に努めたミニー・ヴォートリンの日記(※ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳)『南京事件の日々』大月書店 74∼75頁)、南京で避難民救済に尽力したマギー牧師の日記(滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』三交社 60∼62頁)や当時南京にいた外国人が上海の友人に送った手紙にも下関発電所の職員が日本軍に銃殺された件に触れた箇所がありますので(※ティンバーリイ著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 40頁※ただし、ティンバーリイ書で紹介された手紙を送ったのがマギー牧師だったかもしれないのでマギーの日記とティンバーリイ書の手紙は同一の情報源だった可能性もあります)、この中島今朝吾日記が「片付ケタラシク」と記録した民間人が実際に日本兵によって「片づけられた(処刑された)」ことは明らかです。
私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ! それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れて行かれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。
出典:ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社 136頁(1937年12月22日の部分)
これ以後〔当サイト筆者注:南京陥落後の意味〕何週間も打ち続く恐怖支配についてはすでに報告が行われているが、ここでは日本軍の行動を示す例として、氏の発電所に勤務する労働者五四名のうち四三名が、なんとこの発電所は国営だという理由で日本兵に殺害されたことを補足しておく。
石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 115頁※駐南京ドイツ大使館分館書記官のゲオルク・ローゼンが1938年1月20日にベルリンのドイツ外務省に宛てて出した報告
午後、アメリカ聖公会伝導団のフォースター氏が訪ねてきて、次のような悲しい話をした。日本大使館は、電燈が点燈できるように発電所の修理をさせたいと思っていた。そこでラーベ氏は従業員五〇人を集め、彼らを発電所に連れて行った。午後、彼らのうち四三人が、中国政府の官吏であるとの理由で日本兵に射殺された。
出典:ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳)『南京事件の日々』大月書店 74∼75頁(1937年12月22日の部分)
※ミニー・ヴォートリンの日記にはラーベが「従業員五〇人を集め、彼らを発電所に連れて行った」とありますが、ラーベの日記には日本大使館側から発電所の復旧の相談を受けたラーベが17日から18日にかけて大使館官補の福田篤泰や将校らと復旧の話し合いをしたことが記録されているだけでラーベ自身が発電所まで従業員を連れて行ったとの記述はない一方、マギー牧師の日記には「ラーベ氏はご四名の中国人を世話した」と記述されているので、もしかしたらラーベは「連れて行った」のではなくて五四名の技師を集めて電力復旧の段取りをしただけだったのかもしれません(※滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』三交社 60∼61頁、ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社 125,126,136頁参照)。
一時間ほど前、六〇~七〇人の中国人男性が引っ張られて行きました。数日前、日本の官吏と技師がやってきて、委員会に電気のことのわかる中国人を世話して欲しいといってきたので委員長のラーベ氏は五四名の中国人を世話したばかりです。彼らは発電所を守った者たちで、日本軍に世話したのち貿易会社に避難していたと聞いていましたが、昨日の話では五四名のうち四三名が銃殺されたということです。貿易会社の警備員が、生き残った一一名は以前ここで働いていたと証言したからです。しかし、以前発電所で働いていた四三名は発電所が政府機関だったというだけで、政府の役人は皆殺すべきだという理由で殺されたのです。
出典:滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』三交社 60∼61頁
下関発電所の技師呉君は私達に恐るべき事実を話してくれた。同会社には五十四名の職工がいた。彼らは南京陥落の前まで職場を守って働き、最後に英商和気公司(江岸にある)に避難したところ、日本軍は同会社を国営也として(実は民営だったが)、その中の四十三名を銃殺に処した。しかるに日本側は、毎日私達の事務所にやってきては発電再開のため職工の捜索を行った。私は呉君の話を聞いて日本側にあなた達が電気会社の大多数の職工を殺してしまったのではないかと言ってやったときは、少々溜飲のさがった感じがした。
出典:ティンバーリイ著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 40頁※ティンバーリイの友人が上海の友人に送った手紙から引用(※なお、発電所職工の殺害については同書63頁にも記述がある)
もちろん、技師や職工は戦闘員ではなく民間人なのですから、発電所の職員を殺害したこの件は「不法殺害」以外の何物でもありません。
したがって、中島今朝吾日記のこの部分は下関発電所の職員が日本軍によって虐殺されたことを裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。
なお、この発電所職員の虐殺によって南京では停電が続いていましたが、その後代わりとなる技師や職工を集めて大晦日には送電が復旧しています。この点は中島今朝吾日記の31日の部分にも記述がありますし(偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ236頁)、第十六師団参謀の木佐木久少佐の日記の31日の部分にも同様の記述があります(偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ320頁)。
(8)昭和13年1月23日「師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン」
(6)で紹介したように、中島今朝吾は掠奪に勤しむ将兵を「盗人」呼ばわりして非難しながら自らもその「盗人」だったわけですが、中島が掠奪(略奪)を肯定していた記述は翌年以降も続きます。
たとえば、翌年の1月23日には、中支那方面軍司令官の松井石根から国民政府の建物での掠奪を注意された際「師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン」と逆ギレした記述がありますから、中島は単に自分らの支配下で確保した掠奪品を荒らされるのが嫌だっただけで、掠奪自体には微塵も罪悪感を感じていなかったことが分かります。
家具ノ問題モナンダカケチケチシタコトヲ愚須愚須言イ居リタレバ、国ヲ取リ人命ヲ取ルノニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン、之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜ブモノアラント突パネテ置キタリ
出典:中島今朝吾日記 昭和13年1月23日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ247~248頁
また、歴史学者の吉田裕氏によれば、東京裁判に際しては、中島が満州にいた頃日本に送った荷物を検査したところ掠奪(略奪)品とおぼしき多数の物品が出て来たとの証言が陸軍少将の田中隆吉からあったようですし、中支那方面軍司令官松井石根の陣中日記の昭和13年(1938年)1月24日の箇所にも、北支に転進する中島に掠奪(略奪)に関して「平気の言」があったため松井が中島の荷物を検査するよう命じたとの記録がありますから、中島今朝吾にとって掠奪(略奪)は特別なものではなく戦場における日常のルーティーンの一つにすぎなかったのかもしれません。
田中の供述によれば、田中が陸軍将兵務局兵務課長のとき、第四軍司令官として「満州」にいた中島が国内に三二梱包にも及ぶ荷物を送って来た。疑惑をいだいた田中が京都憲兵隊に命じて中味を調査させたところ、高価な巻物、絨毯、調度、骨董品、絵画などが発見されたという(国際検察局「田中隆吉尋問調書」)。
出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 153頁
第十六師団長北支ニ転進ノ為着滬ス 其云フ所言動ニ依リ面白カラス殊ニ奪掠等ノコトニ関シ甚タ平気ノ言アルハ遺憾トスル所 由テ厳ニ命シテ転送荷物ヲ再検査セシメ鹵獲、奪掠品ノ輸送ヲ禁スルコトニ取計フ
出典:『松井石根大将陣中日記』昭和13年1月24日※偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』161頁
なお、中島今朝吾はこの後、満州に転任した際、南京で蒋介石の財産を持ちだしたことが理由で予備役に編入されたとも言われているようです。
中島中将は南京駐留中、蒋介石の旧官邸に住んでいたが、そのとき蒋介石の財産を持ちだして内地に送っていたことが、のちに満州の第四軍司令官当時、発覚して、予備役に編入されたともいわれる。
出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 127∼128頁
それにしても、他人の物を掠奪しておきながら「之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜ブモノアラン」とは、いったいどういう神経をしているのでしょうか。この人の心には良心の呵責というものは微塵もなかったのかもしれません。