牧原信夫は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団歩兵第十九旅団の歩兵第二十連隊第三機関銃中隊に配属された元兵士で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記が公開されています。
牧原信夫日記には掠奪(略奪)や強姦、虐殺など具体的な描写が多く、南京事件の実態を知るうえで貴重な資料と言えます。
牧原信夫日記には、記述者にとって不名誉な記述もありますから、その公開には戦争を知らない私には想像もできないほどの逡巡や葛藤があったと思いますが、後世のためにこの日記が公開されたことには感謝しかなく深く頭が下がる思いです。
では、牧原信夫の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。
- 牧原信夫の日記は南京事件の「放火」「略奪/掠奪」「強姦」「虐殺」をどう記録したか
- (1)昭和12年12月14日「早速行って全部銃殺して帰ってきた」
- (2)昭和12年12月14日「亦六名の敗残兵を捕えて銃殺す」
- (3)昭和12年12月16日「豚一頭殺して早速料理して食う」
- (4)昭和12年12月17日「部落通過毎に火をつけて帰る」
- (5)昭和12年12月18日「あめ、もち米、唯米、石油等色々徴発品が有ったので大助であった」
- (6)昭和12年12月19日「三車両積載して〔支那人にひかせて〕帰る」
- (7)昭和12年12月21日「今日は一名捕らえて殺す」
- (8)昭和12年12月22日「これ位兵隊はしなければ戦争もできないわ」
- (9)昭和12年12月27日「五、六百の死体が真黒に焼かれて折重って居た」
- (10)昭和12年12月27日「ある家に行き連れて来た支那苦力に実演さした」
- 最後に
牧原信夫の日記は南京事件の「放火」「略奪/掠奪」「強姦」「虐殺」をどう記録したか
(1)昭和12年12月14日「早速行って全部銃殺して帰ってきた」
牧原信夫日記の昭和12年12月14日には、敗残兵掃討で武装解除した捕虜310人を処刑した際の経緯を次のように記録しています。
〔中略〕馬郡の掃討に行く。残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで直ちに自動車にて出発す。而し到着した時には小銃中隊にて三百十名位の敵の武装解除をやり待って居たとの事、早速行って全部銃殺して帰って来た。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ405頁下段
この点、ここで捉えた敗残兵は武装解除して捕虜としているわけですから、ハーグ陸戦法規によって人道的な配慮をとらなければなりませんので銃殺することなどできません。
また、仮にその捕虜とした敗残兵に何らかの責められるべき行動があったとしても、それを処刑するためには軍事裁判(軍法会議)にかけて非違行為を認定しなければなりませんから、裁判(軍法会議)を省略したこの銃殺は国際法規に違反する「不法殺害」というほかありません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
したがって、この記述にある310名前後の捕虜の銃殺に関する部分は、日本軍が行った「虐殺」に関する記録となります。
(2)昭和12年12月14日「亦六名の敗残兵を捕えて銃殺す」
また、これに続けて14日には、別の場所で6名の敗残兵を殺害する描写と、焼き殺された敗残兵の死体を見つけた際の記述も見られます。
〔中略〕午後六時同村に到着〔中略〕亦六名の敗残兵を捕えて殺す。〔中略〕或る部落の車庫に敵が百五、六十名油をかけられて焼かれて死んで居た。而し今僕達はいくら死体を見ても少しも何とも思わなくなった。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ406頁上段
この点、この6名の敗残兵殺害も「捕え(た)」のであれば武装解除されているはずなので、、先ほど述べたようにハーグ陸戦法規に従って捕虜として人道的な配慮をしなければなりませんし、仮に何らかの非違行為があったとしても軍事裁判(軍法会議)を省略することはできませんから、軍法会議(裁判)を省略した処刑として「不法殺害」となる以上これも「虐殺」と言えるでしょう。
後半部分の「百五、六十名油をかけられて焼かれて死んで居た」との部分は、すでに他の部隊による殺害が終わった後なのでそれが違法な殺害だったか否か判然としませんが、150∼160名もの中国兵が自ら車庫に入り込むというのは不自然ですし、戦闘中に「油をかけて」焼き殺すことはできませんから、捕縛して武装解除した敗残兵を車庫に押し込めて火をかけて焼き殺したものでしょう。
しかしそうであれば、前述したようにこれも捕虜として人道的な配慮をしなければなりませんし、仮に処刑するにしても軍事裁判(軍法会議)でその捕虜の罪状を認定させなければなりませんから、軍事裁判(軍法会議)を省略している時点でハーグ陸戦法規に違反する違法な「不法殺害」となります(※この点の詳細は→南京攻略戦における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
したがって、その150~160名の焼死体は、日本軍による「虐殺」によるものであったというほかありません。
なお、牧原信夫日記のこの12月14日の部分に関しては、偕行社の『決定版南京戦史資料集 南京戦史資料集Ⅰ』では上記のような記述となっていますが、『南京事件・京都師団関係資料集』(青木書店)に掲載されている牧原信夫日記では記述が異なるようです。
この点、『南京事件・京都師団関係資料集』は絶版になっていて古書の値段がべらぼうに高騰しているため私はまだ読むことができていませんが、笠原十九司氏の著書『南京難民区の百日』(岩波現代文庫)で引用された牧原信夫日記の14日の部分は次のように記されています。
今ひとつ悲惨な光景は、とある車庫のような建物に百五、六十名の敵兵が油のようなものをふりかけられて焼死体となって、扉から一生懸命のがれようともがいたまま倒れていた。しかし、僕たちいくら死体を見ても何とも思わなくなった。
出典:『京都師団関係資料集』148∼150頁(牧原信夫日記の1937年12月14日の部分)※笠原十九司『南京難民区の百日』岩波現代文庫 262頁より孫引き
こうして見比べてみると『南京事件・京都師団関係資料集』(青木書店)の方に掲載されている牧原信夫日記では「扉から一生懸命のがれようともがいたまま倒れていた」と記述されていますから、その殺害が「虐殺」だったことがわかります。
偕行社『決定版南京戦史資料集Ⅰ」のようにただ「部落の車庫に敵が百五、六十名油をかけられて焼かれて死んで居た」という記述であれば、戦闘で死んだ捕虜を車庫に詰め込んで油をかけて火をつけた可能性も否定できないのでそれが「虐殺」だったのか判然としませんが、『京都師団関係資料集』のように焼け焦げた死体が「扉から一生懸命のがれようともがいたまま倒れていた」ような状態で残されていたのなら、捕縛された捕虜が油を掛けられたうえで建物に監禁されて火をつけられたものとしか推測できず「虐殺」であったことが明らかだからです。
なぜ偕行社の『決定版南京戦史資料集Ⅰ』と『京都師団関係資料集』でこうした記述の相違が生じているのかわかりませんが、その理由が如何なるものであったとしても、この牧原信夫日記の記述は、日本兵が中国軍の敗残兵を捉えて車庫(倉庫)に押し込めて生きたまま焼き殺した「虐殺」の事実を示す貴重な記録と言えるでしょう。
(3)昭和12年12月16日「豚一頭殺して早速料理して食う」
牧原信夫日記の昭和12年12月16日には掠奪(略奪)に関する記述が見られます。
豚一頭を殺して早速料理して食う。鍋の徴発には如何様苦労した。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ406頁下段
当時の中国では家畜として豚を飼う家庭がありましたから、その家畜の豚を掠奪(略奪)してきた時の記述でしょう。
南京攻略戦に参加した兵士の日記や手記を読むとこうした家畜を掠奪(略奪)する記述を頻繁に見かけますが、家畜はその飼育していた中国人の生活を支える大切な財産です。
もちろん掠奪(略奪)は国際法規に違反する重大な犯罪行為ですが(ハーグ陸戦法規第47条)、戦禍に辛うじて生き残った難民の家畜さえ奪い取るのですから、当時の日本軍の暴虐は目に余るものがあったことでしょう。
(4)昭和12年12月17日「部落通過毎に火をつけて帰る」
牧原信夫日記の昭和12年12月17日には、放火や略奪(掠奪)の記述が見られます。
聯隊は南京入城の為に南京に帰還す。右縦隊は昨夜南京に帰還した。左縦隊は午前八時半謝塘を出発、部落通過毎に火をつけて帰る。〔中略〕十時半、三十分間の野菜徴発が許され、各中隊は徴発に出る。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月17日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ407頁上段
「部落通過毎に火をつけて帰る」の部分は、敗残兵掃討を行った後に部落の家屋に火をつけたものでしょう。
しかし部落の建物に火をかければそこに住む住民は家を失うのですからその後は風雨風雪に晒されて野宿で生きていかなければなりません。これから冬本番を迎える南京で家を失った人たちはこれからどのように生きていったのでしょうか。
もちろん、放火はハーグ陸戦法規に違反しますから、この記述は戦争法規違反の事実を示す記録でもあります。
また、「三十分間の野菜徴発が許され」とありますが、戦禍に巻き込まれた現地住民にとって野菜は命を繋ぐ貴重な食料ですから、それを徴発すれば現地住民は途端に飢餓に陥ってしまいます。
しかも「徴発」は「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した紙を残して司令部に代金を取りに来るよう書置きを残しておくものが「徴発」なのであって、対価を払わない「徴発」はただの略奪でしかありません。
ハーグ陸戦法規第52条第3項
現品の供給に対しては成るべく即金にて支払い然らざれば領収証を以て之を証明すべく且つ成るべく速やかに之に対する金額の支払いを履行すべきものとす。
出典:ハーグ陸戦法規
この点、この日記の記述は単に「徴発」としか書かれていないので徴発する際にお金を支払ったかもしれないではないかという意見もあるかも知れませんが、次にあげる元兵士たちの回想や第九師団経理部付将校の証言にもあるように、当時の日本兵が現金や軍票等を交付して「徴発」したという事例はまずありません。
元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。
出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁
然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。
出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言
したがって、この牧原信夫日記の「三十分間の野菜徴発が許され」た中隊も「徴発」と称する略奪(掠奪)で現地住民から野菜その他の食料をかき集めたことは明らかです。
牧原信夫日記のこの部分の記述は、当時の日本軍でハーグ陸戦法規に違反する放火と略奪(掠奪)が横行したことを示す貴重な記録と言えます。
(5)昭和12年12月18日「あめ、もち米、唯米、石油等色々徴発品が有ったので大助であった」
牧原信夫日記は18日にも掠奪に関する記述が続きます。
皆は食事が終ると何時とはなしに徴発に出る。自分は事務室に居残る。〔中略〕あめ、もち米、唯米、石油等色々徴発品が有ったので大助であった。食事終りし後は故郷への便を書く。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月18日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ407頁上段
「皆は食事が終ると何時とはなしに徴発に出る」とありますが、後半部分では「あめ、もち米、唯米、石油等色々徴発品が有った」と食糧が豊富にあったことを伺わせる記述があります。
しかし、仮に「あめ、もち米、唯米、石油等色々徴発品が有った」のであれば、わざわざ食料を「徴発」に出る必要はありませんので、この食事が終わった後に出て行った兵士は食糧以外の財産を「徴発」するのが目的だったと考えるのが自然でしょう。
ですが、兵士の生存に必要不可欠ではない財産の「徴発」は本来的に許されるものではないので明らかな略奪(掠奪)です。
当時の南京では日本兵が民家や商店に押し入って貴金属や家財道具を略奪(掠奪)したことが他の資料からもわかっていますが、この部分の記述も日本兵による食糧以外の財産の略奪(掠奪)があったことを示唆する記録と言えるのではないでしょうか。
(6)昭和12年12月19日「三車両積載して〔支那人にひかせて〕帰る」
牧原信夫日記の昭和12年12月19日には、放火・掠奪、また市民に対する違法な使役に関する記述が見られます。
(中略)中隊の副食物を徴発に行く。(中略)而し城外には十三師団及各隊が居る為駄目だった。約一時間休憩してその家をやいて帰る。(中略)城内に於てナッパ及びニンジン、豆炭を〔一輪車〕三車両積載して〔支那人にひかせて〕帰る。途中雑貨商に入り手帳、鉛筆、インクを多く徴発して帰る。午後五時半だった。支那苦力は今日は一人帰してやった。何しろ妻子供が有るのだから止むを得ん。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ407頁上∼下段
「やいて帰る」は「焼いて帰る」ということでしょうから、放火です。
日本軍による放火は暖をとる目的や強姦・略奪の証拠隠蔽目的などが多かったようですが、この記述では掠奪(略奪)が「駄目だった」として休憩だけして離れるときに焼いていますので、何の目的で火を点けたのか判然としません。面白半分で焼いた可能性もありますが、いずれにしてもハーグ陸戦法規に違反する違法な私有財産の破壊と言えます。
それに続く記述では、野菜や文房具などの徴発が記述されています。この点、前述したように対価となる現金や軍票等を支払えば文字通り「徴発」なので国際法規上も許されますが、先ほどから繰り返し説明しているように南京攻略戦に参加した部隊で対価を払うケースはほぼありませんでしたので、これも徴発と称する掠奪(略奪)でしょう。
また、ここではその略奪品を満載した一輪車を「支那人にひかせて」としていますので、捕虜にした敗残兵か附近にいた中国市民を苦力(クーリー)として使っていたことがわかります
しかし、当時の国際法規は捕虜や一般市民を使役させる場合は労賃を払うことが義務付けられていましたので(捕虜の使役はハーグ陸戦法規第6条、市民の使役はハーグ陸戦法規第52条)、賃金を支払うことがなかった当時の日本軍の使役は奴隷労働を強制するものとして国際法規に違反する意に反する苦役の強制であったと言えます。
ハーグ陸戦法規第6条
国家は将校を除くの外、俘虜を其の階級及び技能に応じ労務者として使役することを得。其の労務は過度なるべからず。又一切作戦動作に関係有すべからず。
俘虜は公務所、私人又は自己の為に労務することを許可せらるることあるべし。
国家の為にする労務に付いては同一労務に使役する内国陸軍軍人に適用する現行定率に依り支払い為すべし。右定率なきときは其の労務に対する割合を以て支払うべし。
公務所又は私人の為にする労務に関しては陸軍官憲と協議の上条件を定むべし。
不慮の労銀は其の境遇の難苦を軽減するの用に供し剰余は解放の時給養の費用を控除して之を俘虜に交付すべし。
ハーグ陸戦法規第52条
現品徴発及び課役は占領軍の需要の為にするに非ざれば市区町村又は住民に対して之を要求することを得ず。徴発及び課役は地方の資力に相応し且つ人民をして其の本国に対する作戦動作に加わるの義務を負はしめざる性質のものたることを要す。
右徴発及び課役は占領地方に於ける指揮官の許可を得るに非ざれば之を要求することを得ず。
現品の供給に対しては成るべく即金にて支払い然らざれば領収証を以て之を証明すべく且つ成るべく速やかに之に対する金額の支払いを履行すべきものとす。
出典:ハーグ陸戦法規
南京事件で日本軍によって起こされた暴虐行為については、放火・掠奪(略奪)・強姦・虐殺、捕虜や一般市民に対する暴行/傷害などが非難されることが多く、こうした違法な使役に関してはあまり言及されることがありません。
しかし、南京攻略戦では、捕虜や一般市民に苦力(クーリー)としての労働を強制し、武器弾薬や食糧を運ばせる違法な使役が横行していたのです。
こうした苦力の問題については見逃されることが多いですが、南京事件ではそうした奴隷労働の問題もあったのだということは、日本人にもっと周知されてしかるべきではないでしょうか。
(7)昭和12年12月21日「今日は一名捕らえて殺す」
牧原信夫日記の昭和12年12月21日には、敗残兵による放火と捕虜の殺害に関する記述が見られます。
(中略)毎晩火事が起こるが何故かと思ったら、果せるかな支那人の一部が日本軍の居る附近に石油をまいて付火するのである。今日は一名捕えて殺す。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月21日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ407頁下段
南京陥落後の南京市内外では日本軍兵士による多数の放火があったことがわかっていますが、中国軍の敗残兵のものとみられる放火があったことも、いくつかの日本兵の日記や手記に記録されています。
日本軍による放火は先ほども述べたように、暖をとるためであったり掠奪(略奪)や強姦の跡を消すための証拠隠滅目的のもの(※事が終わった後に口封じに殺害して死体を燃やすなど)が多かったようですが、中国軍の敗残兵による付け火(放火)は砲弾を撃ち込んだり爆撃の標的にするなど目印にする目的が多かったようです(※なお、牧原信夫日記には12月26日にも中国人による放火の記述があります)。
この記述にみられる中国人の付け火も、おそらくそうした爆撃などの標的にするために日本軍兵士の宿舎などが標的とされた放火だったのではないでしょうか。
ところで、この引用部分の最後には「今日は一名捕えて殺す」とありますが、「捕え」たのであれば捕虜としてハーグ陸戦法規によって人道的な配慮をしなければなりませんので処刑することはできませんし、仮に何らかの非違行為を理由に処刑するにしても、国際法規上は軍事裁判(軍法会議)にかけて罪状を認定したあとでなければ刑罰を加えることはできませんから、その軍事裁判(軍法会議)を省略して「捕えて殺」したこの事例は、明らかに国際法規に違反する「不法殺害」であったと言えます(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
したがって、この「今日は一名捕えて殺す」と記述された部分については日本軍による「虐殺」の事実を裏付ける記録の一つと言えるでしょう。
(8)昭和12年12月22日「これ位兵隊はしなければ戦争もできないわ」
牧原信夫日記の昭和12年12月22日には、徴発から帰る途中で偶然会った毎日新聞の南京通信員記者と交わした会話を次のように描写しています。
(中略)この人の住宅は立派な家具あり、十八日までは何ともなかったが、二、三日留守中すっかり荒らされ置風呂から夜具一切が無くなったから今夜夜具を探して居るのだと言って、民家に徴発に行ってこれ位兵隊はしなければ戦争もできないわ、と笑っていた。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月22日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ408頁上段
この部分は、おそらく南京に駐在していた記者の自宅が日本兵の掠奪(略奪)にあったということなのでしょう。「笑っていた」としていますから、おそらくその毎日新聞の記者は、日本兵の略奪の節操の無さに呆れていたという情景だったのではないでしょうか。
この記述からは、南京攻略戦に参加した日本軍の将兵が、中国人であろうと日本人を含む外国人であろうと、見境なく現地の民家に侵入し、「徴発」と称する掠奪(略奪)を繰り返していたことがわかります。
南京の日本軍兵士は、夜盗や強盗団と何ら変わらない集団だったのかもしれません。
(9)昭和12年12月27日「五、六百の死体が真黒に焼かれて折重って居た」
昭和12年12月27日には、捕虜を処刑したものと思われる死体の描写が見られます。
(中略)漢中門を出た所には五、六百の死体が真黒に焼かれて折重って居た。或は黄い皮が到る所むけ見苦しい状態で散乱していた。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月27日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ409頁上段
漢中門は南京城の南西部、莫愁湖に面した場所にある城門ですが、そこに殺害された中国兵の死体があったのでしょう。
5∼600という数は正確に数えたわけではなく概算でしょうから正確ではないかもしれませんが、夥しい死体があったことがわかります。
この点、この記述からは、この夥しい死体が戦闘によるものか、敗残兵掃討で捕縛した捕虜を殺害したものか判然としません。
しかし、戦闘によるものだとしたら、全て「真黒に焼かれて」しまうことはないでしょうし、一か所に「折重って」いるのも不自然です。
また、他の兵士の日記や手記では捕虜を城外に連行して射殺(あるいは刺殺)しガソリンをかけて焼いたとの記述が散見されますし、銃殺の生存者から虐殺の事実が外部に漏れてしまう恐れがあるため生き残った兵士を見つけるために死体の山にガソリンを撒いて燃やしたとの証言もありますから、この死体も連行してきた捕虜を殺害し、証拠(証言)隠滅目的でその後にまとめて焼いたものでしょう。
〔中略〕一斉射撃は一時間ほど続いた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。ほとんど暗くなっていた。
出典:本多勝一『南京への道』朝日文庫 314∼315頁 ※歩兵第六十五連隊第一大隊第二中隊の田中氏(仮名)による証言
だが、このままではもちろんまだ生きている者がいるだろう。負傷しただけのもいれば、倒れて死んだふりの者もいるだろう。生きて逃亡する者があれば捕虜全員殺戮の事実が外部へもれて国際問題になるから、一人でも生かしてはならない。〔中略〕死体は厚く層をなしているので、暗やみのなかで層をくずしながら万単位の人間の制止を確認するのは大変だ。そこで思いついた方法は火をつけることだった。綿入れの厚い冬服ばかりだから、燃えだすと容易に消えず、しかも明るくて作業しやすい。着物が燃えるといくら死んだふりをしていても動き出す。
死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのだ熱さに耐えきれずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。
もちろん、この記述だけでこれが捕虜を殺害したものと断言することはできませんが、こうした当時の日本兵の行動に鑑みれば、常識的に考えて日本兵が連行してきた捕虜を城門外で殺害し、ガソリンをかけて焼いたと考えるのが自然です。そして仮にそうであれば、それは前述の(1)や(2)や『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも説明したように、ハーグ陸戦法規に違反する違法な「不法殺害」であって「虐殺」に他なりません。
したがって、ここで描写された500∼600に上る膨大な数の死体は、日本兵による「虐殺」の跡だと考えるのが妥当でしょう。
(10)昭和12年12月27日「ある家に行き連れて来た支那苦力に実演さした」
牧原信夫日記の(7)に続く昭和12年12月27日の部分には、漢中門を出た先の部落で行われた猟奇的な蛮行に関する記述が見られます。
(中略)当部落は避難民が多く集って居た〔大多数は老人や子供である〕。或る家に連れて来た支那苦力に実演をさした。
出典:牧原信夫日記 昭和12年12月27日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ409頁上段
ここで言う「実演」とは、決して「芝居」とか「演芸」などではありません。レイプの事を差します。
この「実演」については、下里正樹氏の著書『続 隠された聯隊史』(青木書店)の74頁で、本人へのインタビューに基づいた証言と共に詳しく解説されていますが、中国人男性に命じて中国人女性をレイプさせ、それを見物して楽しむのがこの「実演」でした。
前の文脈から、おそらく徴発した物品を運ばせるために連れて来ていた中国人男性の苦力(クーリー)に、その部落にいた女性をレイプするよう命じて見物したのでしょう。その部落に「老人や子供」しか残っていなかったのなら、子供の母親はすでに他の部隊に拉致されていなかったのかもしれません。もしかしたらその「実演」の相手をさせられたのは残されていた老婆か幼女だったのではないでしょうか。
南京攻略戦では子供から老婆まで日本兵による強姦の被害にあったことがわかっていますし、次にあげる岡本健三氏の証言にもあるように、そうしてレイプされた女性は証拠隠滅のために殺される事例も多くありましたから、ここで「実演」の相手をさせられた女性も事が終わった後に殺されている可能性もあります。
強姦事件のことも噂じゃない、実際にあったことだ。占領直後はメチャクチャだった。杭州湾上ってから、それこそ女っ気ないしだからね。兵隊は若い者ばっかりだし……上の者がいっていたのは、そういうことをやったら、その場で女は殺しちゃえと。剣で突いたり銃で射ったりしてはいかん、殴り殺せということだった。誰がやったのか分からなくするためだったと思う。そりゃあ、強姦、強盗は軍法会議なんだ。けど、一線部隊の時は多めに見ちゃうんだなあ。見せしめの銃殺……いや、罰せられたって奴はいなかった。
出典:岡本健三氏の証言(※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 72頁)
もちろん、こうした「実演」はこの部隊だけの特異的な事例であったわけではなく、他の部隊でも多かれ少なかれ行われたはずで、この部隊だけが特別に猟奇的だったわけではありません。
たとえば、次に引用するように、1937年12月13日から1938年2月9日までの期間に南京難民区(安全区)内で発生した強姦事件のうち南京難民区国際委員会が把握したものの中で確実なものとして日本当局に提出した報告や当時南京にいた中国人の体験記、あるいはドイツ大使館職員がベルリンに宛てた報告(外交資料)の中にも、この「実演」と似たようなケースが記録されています。
第三八二件 二月一日、呉金生(音訳)が光華門外の家に帰って来たら、七名の日本兵が一人の老婦人を引きずり出し、両名の性交を強迫した。彼らは傍で笑っていた。
出典:ティンバーリイ著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 187頁 ※南京難民区国際委員会が日本軍に提出した難民区で発生した日本兵による犯罪行為の一覧から引用
男の人を捕まえたら、すぐ子供を指して、「子供の母が欲しい」と、あるいは「花嫁が欲しい」といいます。もし、いないと答えたら、すぐ銃剣で死ぬまで突くのです。そして、日本軍は女を捕まえたら、みんなの前で強姦します。また、そばの夫と父親に己の非人間的な行為を見せ、そして強姦した相手を殺してしまいます。
出典:滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』三交社 180頁※李克痕の体験記から
城外の沙洲街に朱という人の家族が住んでいます。ある日、突然、四人の日本兵が来ました。それでむりやり、朱さんのお嬢さん(四〇歳)を強姦しました。日本軍は輪姦しているときに、この女性の夫と夫の父を強制して、そばで見させました。輪姦した残忍な日本軍は、さらに夫の父を強制して、嫁を強姦させました。「おじい、きみも楽しんでやれ」と言いました。みなさん、こんなことが世の中にあるでしょうか。しかし、夫の父はしかたなく、むりやりに恰好だけを見せてやりましたが、日本軍はそれを見てこの父を殴り、「まじめにやれ」と命令しました。夫の父は嫁を強姦しました。日本軍はまた奥さんの一七歳の息子を強制して母親を強姦させました。
出典:滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』三交社 181∼182頁※李克痕の体験記から
寧海路十七号に住んでいる若い奥さんは、半日のうちに六人の日本軍に輪姦された。それで下半身は腫れ上がり、痛くて歩くこともできなくなった。また日本軍は少年を強制し、六〇歳の母親を強姦させようとした。この少年は拒否したので、母子ともに銃剣の下で死んだ。
出典:滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』三交社 189頁※范式之の記録から
数人の日本兵が母親と息子からなる難民家族に遭遇した。日本兵は息子を軍刀で脅し、母親と猥褻な行為をするよう息子に強いた。息子が拒むと、かれは軍刀で打たれ殺された。母親は日本兵に強姦され、その後自殺を遂げた。
石田勇治編集/翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 197頁※駐南京ドイツ大使館分館書記官のゲオルク・ローゼンが1938年2月26日にベルリンのドイツ外務省に宛てて出した報告の添付書類
また、南京の戦犯裁判にもこうした「実演」を拒否した僧侶が虐待を受けて殺された事例の証言が提出されていますし、東京裁判にも中国人家族に「実演」をさせたとの証言が提出されています。
〔中略〕日本兵はさらに中華門外で少女を強姦したのち、通りすがりの僧に対し、あとに続いて姦淫を加えるように強制し、この僧が拒絶して従わなかったため、なんとこれに宮刑を加えて死に到らしめた。
出典:南京市文史資料研究会編(加々美光行/姫田光義訳・解説)『証言・南京大虐殺』青木書店 51頁※戦犯谷寿夫の事案附帯文書
※「宮刑(きゅうけい)」は「腐刑」ともいう中国古来の五刑の一つで男性の生殖器を切断する刑罰のこと(同書51頁注釈参照)
一般青年婦女ヨリ六、七十歳ノ高齢老父ニ至ルマデ被害甚ダ多シ。其方式ハ強姦アリ、輪姦アリ、拒姦致死アリ、或ハ父ヲシテ其娘ヲ、或ハ兄ヲシテ其妹ヲ、舅ヲシテ其嫁ヲ姦セシメテ楽シミトナス者アリ、或ハ乳房ヲ割キ、胸、腮ヲ破リ、歯ヲ抜キ、其惨状見ルニ忍ビザルモノアリ。
出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 102頁※極東国際軍事裁判に検察側の証拠として提出された『南京地方院検察処敵人罪行調査報告』の中の事例
したがって、日本軍全体がこの猟奇的な「実演」なる蛮行を繰り返したと言ってよいでしょう。
こうして繰り返される強姦については、昭和13年(1938年)の3月に慰安所が設置されてからようやく強姦が少なくなったとの紅卍字会南京分会副会長による証言(※洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集 1』吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 158頁参照)がある一方、1月以降に日本軍の主力が他の戦地に移動したことで兵士の絶対数が減少したため相対的に日本兵による非違行為の認知件数が減少したに過ぎないとの当時南京に残留した外国人の証言もあります。
新年以来難民区内の情況は少しく緩和された。その最大の原因は日本軍の主力が他所に移駐したからで、何も「軍紀の回復」のためでも、秩序回復にやってきた憲兵のおかげでもなかった。だからもしも新しい軍隊が再び入城してくれば、当局はいずれも無力であったから、いついかなる事態が発生するかは保証出来なかった。日本側にはなんら確定した政策はなかった。
出典:ティンバーリイ著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 59頁※南京の外国人が上海の友人に送った手紙から引用
また、金陵女子学院で多くの避難民女性を保護したミニー・ヴォートリンの日記には、6月に入っても日本兵による強姦を懸念して夜になると安全区(難民区)に避難する女性があったことを記録しています。
〔中略〕農夫の一人は、畑で働くのは困難である、もしも日本兵が通れば必ず何かを要求したし、作物を掘らせるだけでなく、それらを彼らのところまで運ばせる、と言った。同地域で三人の女性を見たが、そのうち二人は落ち穂拾いにきていた。彼女たちは自分の家に数時間帰ってくるだけで、すぐに安全区へ戻るのだと言った。女性は危険でこの地域では生活できないと農夫全員が言った。
出典:ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳、笠原十九司解説)『南京事件の日々』大月書店 244頁
加えて、当時南京市内で日本軍による暴虐行為を目撃した郭立言氏のように治安が安定したのは4~5カ月経ってからだったとの証言(※本多勝一『中国人生存者の証言』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 216頁参照)もありますから、いずれにしても、こうした蛮行が南京陥落から何カ月もの期間、延々と続けられたことは確実です。
こうした猟奇的な強姦を繰り返したのが「皇軍」を自称した日本軍の実態だったのです。
最後に
以上で紹介したように、牧原信夫日記には南京攻略戦における多数の生々しい暴虐行為に関する描写があり、南京攻略戦における日本軍の実態を知る貴重な資料となっています。
ところで、ここで考えて欲しいのは、牧原信夫がこの日記を公開するにいたった真意です。
もちろん、私は本人ではないのでその真意は判りませんが、この日記の公開にあたっては相当に悩まれたはずです。冒頭でも述べたように、こうした日記は執筆者本人の名誉を損なうものでもありますし、南京事件に関する日記を公開した旧軍兵士には様々な団体や個人から非難や脅迫が寄せられることが多かったですから、牧原氏も公開を決めるまでには逡巡があったことでしょう。
しかしその公開を決断したのは、当時の日本軍が南京で何をしたのか、その実態を未来の若者に知ってほしいという願いがあったからではないでしょうか。
その過ちを二度と繰り返してはならないと考えたからこそ、自分が体験した南京戦の実態をありのまま後世に伝えるために、この日記を公開したのではなかったでしょうか。
牧原信夫日記は出典として明示した偕行社の『決定版南京戦史資料集』に掲載されています。
また、この記事中で紹介した下里正樹氏の著書『続 隠された聯隊史』(青木書店)では、この日記だけでなく、下里正樹氏が本人にインタビューした際の証言も読むことができます。
一人でも多くの人が、牧原信夫日記やその証言に目を通し、南京攻略戦で行われた暴虐行為を二度と繰り返さないためにはどのように生きるべきか、真摯に考える必要があるのではないでしょうか。