木佐木久日記は南京事件をどう記録したか

木佐木久(きさき ひさし)は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団の参謀を務めた陸軍少佐で、南京攻略戦に従軍した折につけていた日記が公開されています。

木佐木久は参謀なので、兵士による非違行為を直接的に認知する立場になかったことから具体的な描写は少ないですが、その事実を推測できる記録がいくつか見られます。

では、木佐木久少佐の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

木佐木久少佐の日記は南京事件の「放火」「略奪/掠奪」「強姦」「虐殺」をどう記録したか

(1)昭和12年12月15日「敵死体ノ生々シイ惨烈サ!」

虐殺との関連は不明ですが、昭和12年12月15日には城内に散乱する中国人の死体を描写する記述があります。

破壊サレタ城壁、土嚢ニ依リテ未ダ半分シカ開カナイ中山門。砲弾、煉瓦、鉄線等ノ散乱シテヰル道路、敵死体ノ生々シイ惨烈サ!

出典:木佐木久日記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ316頁上段

ここに記述された「敵死体」が戦闘によるものか、それとも敗残兵掃討で処刑(虐殺)されたものか、あるい他の理由で死亡したものか、それは判然としませんし、そもそも「敵死体」の「敵」を兵士と判断してよいのか、「敵」とは民間人で市民の死体の可能性はなかったのか、というところも疑問がありますが、15日の段階でも中山門附近で死体が放置されていたのがわかります。

(2)昭和12年12月19日「悪イノハ皆ニアル」

木佐木久日記の昭和12年12月19日には、何らかの非違行為によって憲兵と兵の間にイザコザがあったことを思わせる記述が見られます。

戦闘々々ト日ヲ追ッテヰルトキハ、軍隊トシテハ此上モナイ快事ダガ、滞在ナドトナルト其処ニ来ルモノハ、不快ノ連続ガ、快事ニ勝ッテ余ル。昨夜モ憲兵隊ト、特務班ト、師団ノ兵トノ間ニ、クダラヌ事件ガ起ッテヰル。悪イノハ皆ニアルト思フ。ソシテ総テガ小サク、度胸ノ無イノニ起因スル。

出典:木佐木久日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ317頁上段

木佐木久日記は「不快ノ連続」「クダラヌ事件」「悪イノハ皆ニアル」としか記述していませんのでその「不快」「事件」「悪イ」が具体的に何を指すのか明確ではありませんが、憲兵隊の記述があるところから、おそらく兵士の非違行為(放火・殺人・強姦・略奪等)を咎めた憲兵隊との間になんらかのイザコザでもあったのでしょう。

南京陥落は13日、松井石根司令官の入場が17日ですから、この記述からは松井司令官の入場式があった後も、城内外で日本軍兵士による非違行為が頻発していたことが伺えます。

(3)昭和12年12月19日「参謀殿、是、皆、サラデス」

同じく12月19日には、掠奪に関する記述も見られます。

南京占領。掃蕩。司令部設置。宿舎設備等等、色々多忙デアッタ。北畑ガ、ソコラ付近デ、モノシタモノダロウ、新聞包ヲ開キ乍ラ”参謀殿、是、皆、サラデス。マツサラデス” ”何ダ、コップヂャナイカ。オオ沢山ダネ” ”ソーデス、皆サラデス”僕ノ怪ゲンナ顔ガ暫ク続イタ。

出典:木佐木久日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ317頁下段

「サラ」とは関西以西で「新品」を意味しますから、下士官が新品のコップを見つけて嬉々として参謀長の木佐木に報告しているのがわかります。

しかしその新品のコップは第16師団が司令部を置いた国民政府の建物に置かれていたものなのですから、それを自分の占有状態にすれば、それは立派な「掠奪」です。

木佐木は「怪ゲンナ顔」をしたと言うのですから掠奪に否定的な感情を持っていたようですが、司令部の将兵でさえ掠奪に罪悪感を抱いていなかったことを示すこの事実は、末端の部隊の兵による略奪が如何に蔓延していたかを推測できる情景と言えます。

(4)昭和13年1月15日「女児ノ生命マデ奪ハントスル」

木佐木久日記の昭和13年1月15日には、子どもの虐殺につながるような記述も見られます。

橘通訳ガ女ノ児二人ヲ連レテ来タ。憲兵トノ問題ニ就キ、其ノ生命ヲ保護スル為ダト云フ。〔中略〕国軍ノ名誉ヲ、南京ノ軍紀ヲ、失墜シタルモノハ誰レカ。此ノ可憐ナル女児ノ生命マデ奪ハントスル。強イ義憤ヲ覚エサルヲ得ナイ。

出典:木佐木久日記 昭和13年1月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ325頁上段

出典の書籍に掲載されている木佐木久日記では、この前の部分でもこの「憲兵トノ問題」が具体的にどのような「問題」だったのか記述されていませんので、この記述でだけでは具体的にどのような経緯で通訳が二人の女児を「保護」したのかは判然としません。

しかし、文脈からは木佐木久が憲兵の処置を快く考えておらず、女児の生命を助けようとしていますので、日本軍側の非違行為による何らかの理由で「女児ノ生命」が奪われようとしていたことは判ります。

もちろん、この記述だけでは女児が殺されたか否か判断できませんのでこれが「虐殺」に直結するわけではありません。

ですが、どのような理由があったにせよ、女児の命が奪われるような問題が日本軍の中で発生していたことは事実ですから、南京で起きた数々の虐殺の一端を示す出来事であったと言えるのではないでしょうか。