伊佐一男日記は南京事件をどう記録したか

伊佐一男は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第九師団歩兵第六旅団の歩兵第七連隊長を務めた陸軍大佐で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記が公開されています。

伊佐一男の日記はその人柄が影響しているのか簡潔な文章で要点だけが記述されているため具体的な情景を描写した部分は少ないですが、掠奪や捕虜の処刑(虐殺)に関連する記述もいくつか見られます。

では、伊佐一男大佐の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

伊佐一男大佐の日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月16日「約六五○○ヲ厳重処分ス」

伊佐一男日記の昭和12年12月16日には捕虜の処刑があったことをうかがわせる記述が見られます。

赤壁路ノ民家ニ宿舎ヲ転ス。三日間ニ互ル掃蕩ニテ約六五○○ヲ厳重処分ス

出典:伊佐一男日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ334頁下段

南京陥落が13日で17日に松井司令官の入場式が行われていますから、入場式前の城内における三日間の敗残兵掃討で捉えた中国兵を処刑したものでしょう。

ちなみに、この6,500名の処分については伊佐一男が連隊長を務めた第七連隊の戦闘詳報にも記述がありますので、この「処分」は公的資料によって裏付けられています(※詳細は→歩兵第七連隊の戦闘詳報は南京事件をどう記録したか

もちろん、敗残兵の掃討であってもそれが戦闘における殺害なら虐殺とは言えませんが、ここでは「厳重処分ス」としていますので、いったん捕縛して武装解除し「処刑」したことは明らかです。戦闘中の殺害であれば常識的に考えて「厳重」「処分」の文字は用いないからです。

戦前・戦中の日本軍では「憲兵隊が検挙した人員を取調べの後、法的手続きによらず処刑すること」が「厳重処分」と呼称されていましたから(新井利男/藤原彰編『侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書』岩波書店179頁上段)、もしかしたら伊佐一男も軍法会議を省略して処刑した点が法廷手続きを無視した行為にあたると認識していたので「厳重処分」の文言を使ったのかもしれません。

しかし、いったん捕らえたのなら、それは捕虜として人道的配慮をすべきことがハーグ陸戦法規によって定められていますので、それを「処分」すれば明確な戦争法規違反行為です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

この件では、捕虜にした無抵抗な敗残兵を「処分」したことになりますから、ここで「処分」された中国兵は日本軍によって違法な殺害、つまり虐殺されたと認定すべきでしょう。

「6500」という数字自体は正確にカウントしたわけではなく目算(概算)で数えただけで正確な数字とは言えないでしょうが(※ちなみに第七連隊の戦闘詳報では「刺射殺数(敗残兵)六、六七〇」と記録されています)、この記述は数千人規模の膨大な虐殺があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(2)昭和12年12月22日「心ナキ兵ノ為ニ内部ヲ若干焼カレアルハ遺憾也」

伊佐一男日記の昭和12年12月22日には、占領した中山陵において日本兵による放火や略奪があったことをうかがわせる記述が見られます。

午前九時出発中山陵ヲ見物ス。擬装半ハニシテ占領セラレアリ、若干砲弾ニ見舞レアルハ致シ方ナキモ心ナキ兵ノ為ニ内部ヲ若干焼カレアルハ遺憾也。

出典:伊佐一男日記 昭和12年12月22日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ335頁上段

「心ナキ兵ノ為ニ」としか記述されていないので、火を点けた兵が日本兵だったのか中国兵だったのか判然としませんが、「心ナキ兵」の直前に「砲弾ニ見舞レアルハ致シ方ナキモ」と記述されており、砲弾を見舞ったのは攻撃側の日本軍ですから、この部分の「心ナキ兵」が日本軍兵士を指すのは明らかです。したがってこの部分は文脈的に日本兵による放火があったことを示す記述と考えるのが自然でしょう。

また、そもそも中山陵は孫文の陵墓であって中国兵が火を点けるとは考えられませんから、常識的に考えても、ここで「若干焼カレ」たのは日本兵の放火によるものであったと考えられます。

ちなみに、昭和13年1月に上海派遣軍の第16師団参謀長から出された「南京ニ於ケル申送リ要点」(申継書)でも、次のように中山陵において発生していた「悪戯」が記録されていますから、この「心ナキ兵」が日本兵であったことは明らかです。

南京ニ於ケル申送リ要点(申継書)】

一、中山陵ハ悪戯ヲスルモノ多ク恥辱ニ付見物者ヲ制限シツゝアリ将来ニ必要ナカラン

出典:第16師団参謀長中沢三夫『南京ニ於ケル申送リ要点(申継書)』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ475頁下段

中山陵には埋蔵品などがあったとされていますから、掠奪の証拠隠滅目的で火を放ったか、暖をとるため火を点けたか、何らかの理由で日本兵が放火したのでしょう。

(3)昭和12年12月26日「沿道ノ部落ハ16D部隊焼却シアル為宿営ニ困難ス」

伊佐一男日記の昭和12年12月26日には、日本軍による放火に関する記述が見られます。

〔中略〕午後五時顔家村ニ到着宿営ス。同村ニハ砲兵学校アリ。但沿道ノ部落ハ16D部隊焼却シアル為宿営ニ困難ス。

出典:伊佐一男日記 昭和12年12月26日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ335頁下段

南京攻略戦では兵站の準備がなかったことで徴発と称する掠奪が横行したことが広く知られていますが、日本兵による放火も多発しました。

南京攻略戦は11月から12月にかけて行われましたから、暖をとるため民家に火を点けたり、民家に押し入って家の中で焚火したその不始末から出火したりするなど、日本兵を原因とした火災が多発したのです。

また、当時の日本軍には”野戦炊さん車”がほとんど装備されておらず食事は兵各自が個々に飯盒で自炊することとされていましたが、米を炊くための燃料もありませんから民家に押し入って家の中で焚火したり、家の家具を掠奪(略奪)して燃料にして米を炊いたりするなどが横行し、そうした火の不始末から出火するなども多かったようです。もちろんその食事の材料となる米や肉、野菜や調味料もそうした民家で掠奪(略奪)によって賄いました(※吉田裕『日本の軍隊』岩波新書 173∼174頁参照)。

ほかにも、掠奪や強姦を隠蔽するために、証拠隠滅目的で殺害し死体に火を点けて焼いたりすることもあったそうです。

いずれにせよ、そうした放火や火の不始末によって多くの中国市民が家を焼かれ、財産を失い、命を奪われました。そうした暴虐の連続が南京攻略戦の実態だったのです。