歩兵第七連隊の戦闘詳報は南京事件をどう記録したか

歩兵第7連隊は上海派遣軍の第9師団第6旅団に編成された部隊で、南京攻略戦に従軍した際に現地で記録した戦闘詳報が公開されています。

では、この歩兵第七連隊の戦闘詳報は南京攻略戦で起こされた暴虐行為についてどのように記録しているのか確認してみましょう。

歩兵第七連隊の「戦闘詳報」は南京事件の暴虐行為をどう記録したか

(1)昭和12年12月15日「徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス」

上海派遣軍の第9師団第6旅団歩兵第7連隊の戦闘詳報では、昭和12年12月15日に出された「歩兵第七聯隊命令」(歩七作命甲第111号)の第2項に捕虜の殺害に関する記述が見られます。

歩兵第七聯隊命令(歩七作命甲第111号)】

ニ、聯隊ハ明十六日全力ヲ難民地区ニ差向シ徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス

出典:第9師団第6旅団歩兵第7連隊 陣中日誌 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ516頁下段

ここで言う「難民区」は、当時の南京市で外国領事館が集中していた地域に作られた避難民を収容する安全区(難民区)の事を指します。

当時の安全区(難民区)には南京市の内外から戦禍を避けるために逃れてきた多数の避難民が収容されていましたが、南京攻略戦は包囲殲滅戦であったため逃げ場を失って総崩れとなった中国兵が統制を失って敗走し、武器と軍服を捨てて市民の平服に着替え、その難民区に逃げ込んで避難民に紛れ込んでいました。

そのため、南京を陥落させた日本軍は安全区(難民区)に紛れ込んだ敗残兵を見つけ出すために、この日記にあるような敗残兵の掃討を行っていたわけです。

この点、ここでは「敗残兵を捕縛」したあとに「殲滅」としていますから、軍服を脱ぎ捨て平服に着替えて難民区に逃げ込んだ敗残兵を見つけ出して捕縛したうえで全て処刑せよとの命令が出されたことが伺えます。

しかし、武装解除して捕縛した敗残兵は捕虜になり、敗残兵を捕虜としたならハーグ陸戦法規が人道的な配慮を取ることを要請しているのでこの命令のように「殲滅(処刑)」することはできませんし、仮にその捕縛した捕虜に何らかの非違行為があったとしても、それを「殲滅(処刑)」するためには軍事裁判(軍法会議)を省略することはできませんから、裁判(軍法会議)に掛けることなく「殲滅」を命じている時点で国際法規に違反する「不法殺害」となってしまっています(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

もちろん、この戦闘詳報の記述はあくまでも「命令」なので、この命令どおり「殲滅」が実行されたことを裏付けることはできません。

しかし、常識的に考えて末端の部隊が懲罰(※陸軍刑法で抗命は死刑または無期もしくは10年以上の禁錮)を覚悟で命令に背くことはありえませんし、この命令が出された歩兵第7連隊に所属した井家又一の日記(※詳細は→井家又一日記は南京事件をどう記録したか)や水谷荘の日記(※詳細は→水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)、伊佐一男の日記(※詳細は→伊佐一男日記は南京事件をどう記録したか)などにも敗残兵の不法殺害が明確に記録されていますから、この命令どおり「殲滅」が行われていたことは疑いようがありません。

したがって、この戦闘詳報にある「徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス」の記述は、当時の日本軍で国際法に違反する「不法殺害」を命じる軍の命令が実際に下されていたこと、またその命令どおり「不法殺害」となる「虐殺」が行われていたことを公的資料が裏付ける貴重な証拠と言えるでしょう。

(2)昭和12年12月13日∼24日「刺射殺数(敗残兵)六、六七〇」

第9師団第6旅団歩兵第7連隊の戦闘詳報には南京城内掃蕩成果表も附録されていますが、その成果表には敗残兵の殺害を示す明確な記述が見られます。

歩兵第七連隊 南京城内掃蕩成果表(12月13日∼12月24日)】

一、射耗弾〔省略〕
二、刺射殺数(敗残兵)六、六七〇
三、鹵獲品〔省略〕

出典:第9師団第6旅団歩兵第7連隊 戦闘詳報 南京城内掃蕩成果表(昭和12年12月13日∼12月24日)※偕行社『決定版南京戦史資料集 南京戦史資料集Ⅰ 524頁

この部分は「刺射殺数(敗残兵)6,670」としていますから、12月13日から12月24日に掛けて、この部隊が6,670人の敵兵を刺殺ないし射殺していることがわかります。

もっとも、ここでは単に「(敗残兵)」としか記述されておらず、それが戦闘中に殺害したものか、あるいは捕縛して捕虜にした後に殺害したものか判然としませんから、この記述だけでは6,670人の殺害の全てを直ちに「不法殺害」と決めつけることはできません。

しかし、陥落後の南京城内では中国軍からの組織的な抵抗はほとんどなかったと言われていますから、「六、六七〇」名もの「(敗残兵)」を『戦闘中』に「刺射殺」したとは到底考えられません。

また、前述(1)にもあげたように、第9師団からは14日の時点で「徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス」と命令が出されていたわけですから、戦闘中であろうが敵兵を捕縛しようが「徹底的に殲滅」したはずで、「捕捉」した捕虜についても「徹底的に殲滅」されたと考える方が常識的です。

さらに言えば、第七連隊の連隊長を務めた伊佐一男の日記でも「約六五○○ヲ厳重処分ス」との記述があり、戦闘による殺害を「厳重処分」と記述するのは不自然ですので、その点で考えてもこの「刺射殺数(敗残兵)6,670」はその全てが捕らえた捕虜を処刑したものと考えるべきでしょう(※この点の詳細は→伊佐一男日記は南京事件をどう記録したか)。

しかも、百歩譲ってそれが「戦闘中」の殺害であったとしても、当時の南京は日本軍による陥落にって完全に包囲されており、逃げ道を塞がれた敗残兵は統制を失って勝てる見込みがないことに気づかないまま散発的な抵抗をしていたにすぎませんから、陥落後の南京で日本軍と「戦闘」した中国兵のほとんどは無害な敗残兵にすぎません。

そうであれば、ハーグ陸戦法規は捕らえた捕虜だけでなく交戦者の全てに人道的な配慮を要請しているのですから、ハーグ陸戦法規の趣旨からすれば日本軍は投降を呼びかけて武装解除し、捕虜として処遇することが求められていたはずで、そうせずにことさらに掃蕩を行って殺害したものについてもハーグ陸戦法規に違反する殺害であったと言えます(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この6,670人の「刺射殺」についても、そのほとんどすべてが「不法殺害」にあたると考えられますので、この部分も日本軍による「虐殺」を公的文書(公式記録)が裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。