南京事件に関連する日本軍の命令/指令/通牒/訓示等

いわゆる南京事件が起こされた日本軍の南京攻略戦では数々の暴虐事件が報告されていますが、その南京攻略戦の過程では軍(参謀本部・大本営・中支那方面軍司令部等)から様々な命令や指令、通牒や訓示などが出されています。

この軍から出された命令や指令等のほとんどは敗戦直前に証拠隠滅を図る軍によって焼却されたため現存するものは多くありませんが、わずかに残された記録は南京攻略戦で起こされた数々の暴虐行為の原因や日本軍の対応を考える上で重要な資料となっています。

そこで、ここではそれらから南京事件における暴虐行為に関係すると思われるものをいくつか抜粋し、簡単な解説を加えてまとめておくことにします。

【1】「虐殺」に関する軍の命令/指令/訓示等

(1)「陸戦ノ法規慣例…適用シテ行動スルコトハ適当ナラス」

交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒(陸支密第198号)(昭和12年8月5日)】

現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 457頁上段

これは、昭和12年8月5日に陸軍省の陸軍次官から上海派遣軍の駐屯軍参謀長宛てに出された「交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒」(陸支密第198号)の第1項です。

この通牒は、ハーグ陸戦法規その他の戦時国際法について「適用して行動することは適当ならず」としていますから、当時の軍中央が上海上陸戦を行う上海派遣軍に対して「ハーグ陸戦法規等の戦争法規を守るな」との指令を出していたことがわかります。

この点、ではなぜ当時の軍中央が本来遵守されるべきハーグ陸戦法規等の戦争法規を「守るな」との指令を出したのかという点に疑問が生じますが、それは当時の陸軍中央が中国との全面戦争を望んでいなかったからです。

当時の陸軍は盧溝橋事件をきっかけに中国の北支に侵攻していましたが、局地的な戦闘(事変)だと公称することで「これは事変であって戦争ではない」との立場をとって宣戦布告を経ない侵略戦争を正当化していましたので、「戦争」を前提とする戦争法規に従うわけにはいきません。

当時日本も批准していたハーグ陸戦法規その他の戦争法規を遵守して「事変」を戦えば、日本側が全面戦争を認めることになって中国側や国際社会もそれに応じた経済制裁など(軍需物資の輸出停止など)の対応を取ってくることになるからです。

そのため、「事変」が「戦争」になって交戦に様々な制約が課せられてしまうのを嫌った軍中央は、盧溝橋事件をきっかけに始められた「北支事変」に続く上海への侵略(上海事変)においても、こうした「ハーグ陸戦法規等の戦争法規を守るな」との通牒(指令)が出したわけです。

ですがもちろん、ハーグ陸戦法規その他の交戦法規を守らないということは、国際法規に違反する戦争犯罪が派遣軍において是認されるということですから、必然的に上海派遣軍では国際法規に違反する様々な非違行為が正当化されていくことになります。

そしてこの上海派遣軍が、のちに援軍として派遣された第十軍と合同して中支那方面軍となり南京攻略戦へと向かうのですから、この通牒によってその後の南京攻略戦における様々な戦争犯罪が「これは戦争ではないからハーグ陸戦法規その他の戦争法規は適用されない」との理屈の下で正当化されていくことになります。

この通牒は、南京攻略戦における様々な暴虐行為を許す原点ともいうべき軍中央の命令だったかもしれません。

(2)「俘虜等ノ名称ノ使用…ハ努メテ之ヲ避ケ」

交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒(陸支密第198号)(昭和12年8月5日)】

〔当サイト筆者中略〕帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面戦ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(例ヘハ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セリト公称シ其ノ他必要已ムヲ得サルニ非サルニ諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ〔当サイト筆者中略〕

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 457頁下段

これは、昭和12年8月5日に陸軍省の陸軍次官から上海派遣軍の駐屯軍参謀長宛てに出された「交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒」(陸支密第198号)の第4項にある一文です。

前述の(1)でも触れたように、当時の陸軍中央は中国との「事変」が全面戦争になるのを避ける方針をとっていましたが、そのためには日本軍側に「戦争」と受け取られるような言動があってはなりませんので、この第4項の「例ヘハ」以降でその具体例を挙げて注意を促しているわけです。

この点、この通牒で特に注目したいのが「俘虜等ノ名称ノ使用」を「努メテ之ヲ避ケ」るように指示している点です。

これは、たとえ敵兵を捕らえても「俘虜(捕虜)という言葉を使うな」という指令ですから、この通牒を受けた上海派遣軍がたとえ戦闘中に中国兵を捕らえても、その捕らえた中国兵は「俘虜(捕虜)」であってはならないことになります。

そうなると当然、仮に軍が敵兵を捕らえてもそれは「俘虜(捕虜)」ではないということになるのでその捕らえた敵兵に対して人道的な配慮を取ることを要請するハーグ陸戦法規その他の戦争法規に従うことは求められませんから、軍が捕らえた敵兵をハーグ陸戦法規その他の戦争法規の「俘虜(捕虜)」として扱わなくていいということになってしまいます。

それは当然、殺害しようと何をしようと法的に罰せられないということを陸軍の中央が認めたということですから、末端の部隊でも、それに準じる命令が配下の部隊に出されていくことになってしまうわけです。

陸軍省が出した通牒のこの部分は、前述の(1)と同様に、南京攻略戦に参加した上海派遣軍、そしてその後に援軍として派遣された第十軍と合同した中支那方面軍において行われた俘虜(捕虜)に対する膨大な数の「不法殺害(虐殺)」を生み出してしまう一つの根源的な通牒だったと言えるかもしれません。

(3)「各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サス」

歩兵第三十旅団命令(昭和12年12月14日)】

各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サス

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 439頁下段

これは、昭和12年12月14日に上海派遣軍の第16師団歩兵第30旅団(佐々木支隊)において支隊長の佐々木到一少将から出された旅団命令の第6項にある命令です。

ここでは「俘虜を受付くるを許さず」としていますから、佐々木支隊が南京入城の当初から投降する敗残兵を全て俘虜(捕虜)として収容することなく処刑する方針をとっていたことがわかります。

しかしもちろん、それは『兵器を捨て又は自衛の手段盡きて(尽きて)降を乞へる敵を殺傷すること』あるいは『助命せざることを宣言すること』を禁じたハーグ陸戦法規第23条”ハ”あるいは”ニ”に違反する「不法殺害」を指示する命令です。

ハーグ陸戦法規第23条

特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。

イ 毒又は毒を施したる兵器を使用すること
ロ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること
ハ 兵器を捨て又は自衛の手段盡きて降を乞へる敵を殺傷すること
ニ 助命せざることを宣言すること
ホ 不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其の他の物質を使用すること
ヘ 軍使旗、国旗其の他の軍用の標章、敵の制服又は「ジェネヴァ」条約の特殊徽章を擅ホシイママに使用すること
ト 戦争の必要上萬已むを得ざる場合を除くの外、敵の財産を破壊し又は押収すること
チ 対手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止又は裁判上不受理を宣言すること

交戦者は又対手当事国の国民を強制して其の本国に対する作戦動作に加らしむることを得ず。戦争開始前其の役務に服したる場合と雖イエドモも又同じ

出典:ハーグ陸戦法規

この命令は当時の国際法規に違反する「不法殺害」、すなわち「虐殺」を指示する命令が軍から出されていたことを示す明確な証拠と言えるでしょう。

(4)「遁走セル敵ハ大部分便衣ニ化セルモノト判断セラルゝヲ以テ其ノ疑アル者ハ悉ク之ヲ検挙シ」

南京城内掃蕩要領 第3項(六旅作命甲第一三八号)(昭和12年12月13日)】

遁走セル敵ハ大部分便衣ニ化セルモノト判断セラルゝヲ以テ其ノ疑アル者ハ悉ク之ヲ検挙シ適宜ノ位置ニ監禁ス

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 444頁下段

これは、昭和12年12月13日に上海派遣軍の第6師団から出された南京城内の敗残兵掃討における掃蕩要領を示した「南京城内掃蕩要領」の第三項に挙げられた指令です。

「便衣に化せる」とは、軍服を脱ぎ捨てて市民の平服に着替えて一般人に偽装することを言いますから、この部分は「敗残兵のほどんどは市民の平服に着替えて潜伏していると判断されるからその疑いがある者は全て拘束せよ」という意味合いになるでしょう。

この点、この要領からは、軍司令部がいかに杜撰な「兵民分離」の指令を出していたかがわかります。

「兵民分離」とは、市民にまぎれた兵士を選別することを言います。南京攻略戦は包囲殲滅戦で四方を日本軍に囲まれて逃げ場を失った中国軍は統制を失って総崩れとなり、逃げ遅れた敗残兵の多くは武器を投げ捨て軍服を脱ぎ捨てて、市民の平服に着替えて避難民に紛れ込んでいる状態でした。そのため、避難民の中から敗残兵を選別する必要に迫られた日本軍が行ったのがその「兵民分離」です。

この要領は、「便衣に化せるものと判断せらるるを以って其の疑ある者は悉く之を検挙し」としていますので、軍司令部からは市民の平服を着た人の中に「敗残兵と判断せらるる疑い」がある者を「ことごとく拘束し」連行せよとの命令が出ていたことがわかります。

この点、その「敗残兵と判断せらるる疑い」とは具体的にどのような「疑い」だったのかという点が問題となりますが、たとえば南京攻略戦の敗残兵掃討を記録した水谷荘日記は「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ等で敗残兵を選別したとしています(※詳細は→水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)。

つまり、「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ等という基準で敗残兵を選別させる杜撰な「兵民分離」は、この「敗残兵と判断せらるる疑い」という曖昧な要領を基にして行われていたことが伺えるわけです。

南京陥落後に日本軍によって行われた敗残兵掃討においては、多数の一般市民が敗残兵と誤認されて処刑されましたが、そうした誤解に基づいた犠牲は、こうした杜撰な兵民分離によって生じています。

この第6師団が出したこの南京城内掃蕩要領は、そうした市民の虐殺を生じさせた大きな原因の一つだったと言えるのではないでしょうか。

(5)「青壮年ハ凡テ敗惨兵又ハ便衣兵ト見做シ凡テ之ヲ逮捕監禁スヘシ」

掃蕩実施ニ関スル注意(昭和12年12月13日)】

青壮年ハ凡テ敗惨兵又ハ便衣兵ト見做シ凡テ之ヲ逮捕監禁スヘシ

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 445頁下段

これは、昭和12年12月13日に上海派遣軍の第9師団歩兵第6旅団の旅団長秋山義兌少将から出された「掃蕩実施ニ関スル注意」の第4項に挙げられた命令です。

この「注意」からも前述の(2)で指摘した杜撰な「兵民分離」の原因の一端が伺えます。

ここでは「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵とみなし」としていますから、避難民の中に「青年」や「壮年」がいれば、有無を言わさずすべて捕らえて連行しろということになってしまうからです。

こうした命令が、「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ、あるいは「若い」というだけ等の理由で敗残兵を選別する杜撰な兵民分離へとつながるのですから(※詳細は→『水谷荘日記は南京事件をどう記録したか』や『井家又一日記は南京事件をどう記録したか』また『佐々木到一私記は南京事件をどう記録したか』などの記事を参照ください)、この命令は市民が兵士と間違われて処刑されてしまう「虐殺」の原因の一端になった命令と言えます。

【2】「掠奪(略奪)」および「放火」に関する軍の命令/指令/訓示等

(1)「補給ハ特ニ弾薬ニ重点ヲ置ク」

中支那方面軍第二期作戦計画ノ大綱 第六 兵站交通通信(昭和12年11月24日)】

補給ハ特ニ弾薬ニ重点ヲ置ク

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 432頁参照

これは昭和12年11月24日に中支那方面軍司令部から出された「中支那方面軍第二期作戦計画ノ大綱」の「第六 兵站交通通信」の第三項にある命令です。

この命令は、補給について「弾薬に重点を置く」としていますから、司令部が兵士の糧秣(食料や燃料)の補給を軽視していたことがわかります。

南京攻略戦では糧秣の補給がなかったことから、兵士による「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行しましたが、その原因の一端は、この糧秣の補給を軽視する「補給ハ特ニ弾薬ニ重点ヲ置ク」の命令にあったとも言えます。

(2)「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」

南京城ノ攻略及入城ニ関スル注意事項 第2項(昭和12年12月7日)】

皇軍カ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ永ク竹帛ニ垂ルヘキ事績タリト世界ノ斉シク注目シアル大事件ナルニ鑑ミ正々堂々将来ノ模範タルヘキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入友軍ノ相撃不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 434頁上段

これは昭和12年12月7日に中支那方面軍から出された「南京城ノ攻略及入城ニ関スル注意事項」の第2項にある命令です。

ここでは「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」との命令が出されていますが、これは南京入城後に全く守られず、日本軍による掠奪(略奪)や放火、強姦、避難民に対する暴行/傷害/殺人などが発生しています。

「永ク竹帛ニ垂ルヘキ事績」とは”後世に語り継がれるべき功績”という意味合いになりますが、結果的には南京事件における暴虐行為が後世に語り継がれてしまうことになったのは笑えません。

(3)「掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖火を失スルモノハ厳罰ニ処ス」

南京城ノ攻略及入城ニ関スル注意事項 第5項(昭和12年12月7日)】

掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖火を失スルモノハ厳罰ニ処ス
軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 434頁下段

これは昭和12年12月7日に中支那方面軍から出された「南京城ノ攻略及入城ニ関スル注意事項」の第5項にある命令です。

掠奪(略奪)と失火に対する厳罰を指示しているところから、この7日時点で軍司令部が日本軍兵士による掠奪(略奪)や失火(放火)を認知したうえで、それに懸念を持っていたことがわかります(南京陥落は13日)。

前段で「厳罰に処す」と、また後段で「多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ」とありますが、実際には憲兵隊の不足から軍紀粛正は実現されず、南京陥落の南京では日本兵による掠奪(略奪)や放火が横行しています。

なお、南京陥落後に憲兵等の取締りが全く機能しなかったのは、次のような記録や証言からも明らかと言えます。

五万以上の日本軍が南京を横行しているとき、憲兵はたった十七人しか到着しておらず、幾日たっても一人の憲兵も影を見出せなかった。後になって若干の日本兵が憲兵の腕章をつけて取り締まるようになった。が、これはむしろ悪いことをするのに便利で単に普通の下らぬ事件しか阻止しえなかった。我々の聞くところでは、強姦で捕まった日本兵は叱責されるほか何らの懲罰も受けず、掠奪を働いた兵隊は上官に挙手の敬礼をすればそれで事は済む由だった。

出典:ティンバーリイ原著(訳者不詳)『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社 65頁

「二月の五日か六日ごろ、軍の高官がやってきて、南京駐在部隊の将校、主として尉官級の将校、また下士官をあつめて、日本軍の士気のためにも、またその名誉のためにも、こういう状態は即時止められなければならないということを申渡したことを知ったが、それまでは何ら、有効適切な手段がとられたということ、また強姦その他の残虐行為を犯した兵士にたいして、処罰がおこなわれたということを聞いたことがない」

出典:洞富雄編『日中戦争史資料 Ⅰ』56頁※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 133頁※ベーツ博士の証言

そもそも軍中央は陥落・入城に際して憲兵を全く用意していなかったわけですから、この命令が南京では全く機能しなかったのは必然とも言えます。命令さえ出しておけば軍紀粛正が図れるとでも思っていたのでしょうか。

なぜ軍中央が憲兵の準備もしないままこのような命令を出したのか、その姿勢は理解に苦しみます。

(4)「家屋ニ浸入シ掠奪ニ類スル行動ヲ厳ニ戒ムヘシ」

掃蕩実施ニ関スル注意(昭和12年12月13日)】

家屋ニ浸入シ掠奪ニ類スル行動ヲ厳ニ戒ムヘシ

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 445頁下段

これは、昭和12年12月13日に上海派遣軍の第9師団歩兵第6旅団の旅団長秋山義兌少将から出された「掃蕩実施ニ関スル注意」の第6項に挙げられた命令です。

この命令からは、軍司令部が掠奪(略奪)や放火など非違行為に神経を尖らせていたことがわかりますので、南京陥落(陥落が13日)前からそうした非違行為が日本兵の間で蔓延していたこと、またその事実を派遣軍上層部が認知していたことが推測できます。

もっとも、こうした命令が出されたものの、南京城内外では翌年の昭和13年2月上旬まで日本兵による掠奪(略奪)や放火が横行し、駐留する日本兵の数が減少してようやくその兵士の減った数に比例して非違行為も減少したというぐらいですから(※笠原十九司『南京事件』岩波新書209頁)、この命令はほとんど機能しなかったと言えます。

【3】「強姦」に関する軍の命令/指令/訓示等

【1】【2】で挙げてきたように、捕虜の取り扱いや掠奪(略奪)に関しては軍からの命令や司令などがありますが、南京攻略戦で多数発生した「強姦」については「軍規風紀に関する件」として掠奪(略奪)や放火などの非違行為とまとめられた命令や司令によって注意喚起されることが多いようです。

ここでは、そうした「軍規風紀」に関する命令等を紹介しておきます。

(1)「軍規風紀ニ於テ忌々シキ事態」

軍規風紀ニ関スル件通牒(中方参第19号)(昭和13年1月9日)】

〔中略〕就中軍規風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見之ヲ信セサラント欲スルモ尚疑ハサルヘカラサルモノアリ惟フニ一人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ一隊ノ過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルニ至ラン

出典:偕行社『決定版 南京戦史資料集』資料集Ⅰ 449頁上段

これは、南京陥落から約一か月が経過した昭和13年1月9日に、東京の参謀本部から中止那方面軍の軍参謀長に宛てて送られた「軍規風紀に関する参謀総長要望」(中方参第19号)の一部です。

「軍規風紀ニ於テ忌々シキ事態」について軍紀粛正を促していますから、南京陥落から1か月が経過しても、南京市内外で続いていた日本軍による非違行為が東京にも報告されていたことがわかります。

ここでは単に「軍規風紀ニ於テ忌々シキ事態」としてその内容には触れていませんが、当時の南京で問題になっていたのは婦女の強姦、掠奪(略奪)、放火、市民に対する暴行/傷害/殺人等ですから、ここでいう「軍規風紀ニ於テ忌々シキ事態」には当然、強姦も含まれています。

なお、陥落後の南京で憲兵隊などによる治安維持が全く機能しなかったことは、前述の【2】-(4)に挙げた記録などからもうかがえますが、次のような記録からも当時の南京で日本兵による強姦が野放しにされていたことがよくわかります。

強姦事件のことも噂じゃない、実際にあったことだ。占領直後はメチャクチャだった。杭州湾上ってから、それこそ女っ気ないしだからね。兵隊は若い者ばっかりだし……上の者がいっていたのは、そういうことをやったら、その場で女は殺しちゃえと。剣で突いたり銃で射ったりしてはいかん、殴り殺せということだった。誰がやったのか分からなくするためだったと思う。そりゃあ、強姦、強盗は軍法会議なんだ。けど、一線部隊の時は多めに見ちゃうんだなあ。見せしめの銃殺……いや、罰せられたって奴はいなかった。ただ、悪いのは兵隊ばかりではなかった。将校が先になってやった場合もある。ひどい中隊長、大隊長なんかになると、南京行くまでに、あの戦闘期間にだって、女を連れて歩いていたのがいた。

出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 72頁※岡本健三氏の証言

北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、跪いて助けを求めた。わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることができない。

出典:ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳、笠原十九司解説)『南京事件の日々』大月書店 70頁※ミニー・ヴォートリンの日記 1937年12月20日の部分

「二月の五日か六日ごろ、軍の高官がやってきて、南京駐在部隊の将校、主として尉官級の将校、また下士官をあつめて、日本軍の士気のためにも、またその名誉のためにも、こういう状態は即時止められなければならないということを申渡したことを知ったが、それまでは何ら、有効適切な手段がとられたということ、また強姦その他の残虐行為を犯した兵士にたいして、処罰がおこなわれたということを聞いたことがない」

出典:洞富雄編『日中戦争史資料 Ⅰ』56頁※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 133頁※ベーツ博士の証言

この通牒は、当時の南京で日本軍将兵による強姦が繰り返されていたことを明らかにする貴重な公式記録(公的資料)といえるでしょう。