梶谷健郎の日記は南京事件をどう記録したか

梶谷健郎は第二碇泊場司令部部員として南京陥落後の昭和12年12月14日に南京に入った騎兵軍曹で、現地で記録した日記が公開されています。

第二碇泊場司令部部員の記録としては太田壽男騎兵少佐の供述書(太田壽男の供述書は南京事件をどう記録したか)がありますが、梶谷健郎日記は現地でリアルタイムに記録した日記のため具体的で詳細な記述が豊富なことから、上海戦から南京攻略戦の過程で日本軍がなにをしたのか、また陥落後の南京の実情を知るうえで貴重な資料となっています。

では、梶谷健郎の日記は南京事件をどう記録したのか確認してみましょう。

梶谷健郎日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年11月21日「支那婦人等、三々五々死し」

梶谷健郎日記の昭和12年11月21日の部分には日本兵による強姦と殺人を伺わせる記述があります。

〔中略〕道極めて悪し、見る影なし。〔中略〕馬、支那婦人等、三々五々死し誠に哀れ深し。夜寒し。

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月21日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』430頁下段

梶谷健郎は前日に滸浦鎮に上陸したばかりなので21日はまだ南京に至る途中の出来事ですが、「支那婦人等、三々五々死し」としていますので、中国人女性が数人ずつかたまってあちこちに死んでいたことがわかります。

この点、ここでは単に「死し」とあるだけなので戦闘の巻き添えになって死亡したと考えることもできますが、戦闘の巻き添えで死んだのであれば他の男性家族(夫や父や祖父や兄や弟や息子など)も同じ場所で死んでいないと不自然なので「支那婦人」だけが「三々五々」「死し」という状態は、意図的に「支那婦人」が「三々五々」そこに連れてこられて殺害されたと考えるのが常識的です。

この点、ではなぜ数人の女性がかたまって「三々五々」殺されていたのかという点が問題となりますが、南京攻略戦の途上では進軍する兵士が現地女性を捕まえて強姦したうえで懲罰を避けるために殺害して証拠隠滅を図るケースが多かったことが兵士の日記や証言、中国人の証言などで明らかにされていますので、梶谷健郎がここに記述する「三々五々死し」た「支那婦人」も、先にここを通った日本軍部隊の兵士に強姦されて殺されたものではなかったでしょうか。

強姦事件のことも噂じゃない、実際にあったことだ。占領直後はメチャクチャだった。杭州湾上ってから、それこそ女っ気ないしだからね。兵隊は若い者ばっかりだし……上の者がいっていたのは、そういうことをやったら、その場で女は殺しちゃえと。剣で突いたり銃で射ったりしてはいかん、殴り殺せということだった。誰がやったのか分からなくするためだったと思う。そりゃあ、強姦、強盗は軍法会議なんだ。けど、一線部隊の時は多めに見ちゃうんだなあ。見せしめの銃殺……いや、罰せられたって奴はいなかった。

出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 72頁※岡本健三氏の証言

もしかしたら死体を見ただけで強姦されたことは明らかだった(服を剥ぎ取られていたなど)ものの、検閲を避けるためにその部分は詳細に書かなかったのかもしれません。

梶谷健郎日記のこの部分は、断定することはできませんが、南京に至る途中の滸浦鎮付近で日本軍兵士による強姦と虐殺があったことを伺わせる記録と言えます。

(2)昭和12年11月23日「支那人を連れ徴発に行く」

梶谷健郎日記の昭和12年11月23日には略奪(掠奪)と現地住民の違法な使役を伺わせる記述があります。

〔中略〕支那人を連れ徴発に行く〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月23日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』430頁下段

上海戦から南京攻略戦に至る一連の進軍は作戦立案時から兵站を無視した作戦だったため糧秣の補給は基本的に行われず、兵の食事や燃料は現地調達の方針がとられました。

この点、まずこの梶谷健郎日記では「徴発」としていますが、「徴発」は糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記したうえで司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなど、正式な手続きをとったものであれば問題はありません。

それは文字どおり「徴発」であって、戦時国際法の問題は惹起されないからです。

しかし、次のような証言があるように、南京攻略戦に派遣された部隊で徴発のための資金が支給された事例は皆無のようですし、上海戦から南京攻略戦に至る過程でそうした正規の手続きで「徴発」した兵士はほとんどなかったのが実情です。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

しかも、上海戦から南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

つまり、日本軍将兵が言う「徴発」の実態は、略奪(掠奪)だったわけです。

ここに「支那人を連れ徴発に行く」とある文章は「支那人を連れ略奪(掠奪)に行く」と同義ですのでその点には注意が必要でしょう。

また、「支那人を連れ」という部分は、捕らえた中国人に略奪(掠奪)した物品を運ばせるために連れて行くという意味ですが、それは所謂「苦力(クーリー)」として中国人に使役させるということですので、使役(課役)させるためにはハーグ陸戦法規に従って賃金を支払わなければなりません(捕虜の使役はハーグ陸戦法規第6条、市民の使役はハーグ陸戦法規第52条)。賃金を支払うことなく使役させたとすれば、国際法規に違反する違法な「意に反する苦役」「奴隷労働」の強制となり戦時国際法違反となるからです。

この点、この梶谷健郎日記の記述からは賃金支払いの有無は明らかではありませんが、南京攻略戦で使役させた苦力(クーリー)に賃金を支払ったケースはまずありませんので、この事例も違法な使役があったと考えるべきです。

以上から、梶谷健郎日記のこの部分は、違法な略奪(掠奪)と使役の事実を伺わせる記述と言えます。

(3)昭和12年11月24日「皆徴発とて時計、家具、日用品等随時持ち帰る」

梶谷健郎日記は翌24日も略奪(掠奪)に関する記述が続きます。

〔中略〕兵は皆徴発とて時計、家具、日用品等随時持ち帰る。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月24日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』431頁上段

前述したように、上海戦から南京攻略戦に至る一連の進軍では当初から糧秣の補給は現地調達の方針がとられましたが、兵士が正規の手続きで「徴発」したケースは殆どありませんのでここで行われた「徴発」も対価を支払わない略奪(掠奪)でしょう。

しかも、軍で認められた「徴発」は兵士が生きていくために必要な糧秣や燃料の「徴発」であって、生存に必要ない動産はそもそも許容された「徴発」の対象ではありません。

にもかかわらず、ここでは「時計」や「家具」「日用品」等の私財を「徴発」しているわけですから、進軍にまったく必要のない「徴発」であって、略奪(掠奪)以外の何物でもありません。

ちなみに、こうして「徴発(※実際には略奪(掠奪))」された財産は、上海に送られて換金されて内地に送金されたり、船に積まれて内地に送られたりしています。

上海戦から南京攻略戦に至る日本軍は「皇軍」を自称しましたが、その実態は夜盗や窃盗団と何ら変わらない盗賊団だったと言っても言い過ぎではないでしょう。

(4)昭和12年11月25日「豚三匹約六十貫持ち帰る」

梶谷健郎日記は翌25日も略奪(掠奪)を伺わせる記述が続きます。

〔中略〕安栗伍長以下六名と共に徴発に約三里徒歩す。豚三匹約六十貫持ち帰る。余は一頭に十五銭を支払ふ。家族と共に十八歳の美人あり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月25日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』431頁上段

ここでは「豚三匹約六十貫持ち帰る」としていますが、前述したように正規の手続きで対価を払って「徴発」した兵士は殆どありませんから、これも略奪(掠奪)が疑われる「徴発」と言えます。

この点、「余は一頭に十五銭を支払ふ」とありますから、梶谷健郎はその「徴発」した豚に対価となる現金を支払っていますので、文字通り正規の「徴発」手続きに従っているとの意見もあるかも知れません。

しかし、仮に「豚三匹」に適正な対価を支払ったのであれば、わざわざ「余は一頭に十五銭を支払ふ」などと記録するでしょうか。「余は…」と記述したところを考えれば、同行した他の兵士が「徴発」した二匹(二頭)には対価を支払っていないような気がします。

徴発に出た六人のうち対価を支払ったのが梶谷健郎だけだったので、あえて「余は…」と書いたのではないでしょうか。

仮にそうであったなら、梶谷健郎が「十五銭を支払」った豚一頭については違法性はありませんが、他の二頭の豚の「徴発」については略奪(掠奪)が強く疑われるというほかありません。

また、田口和雄/大島久幸氏共著の論文によれば、明治製糖株式會社における会社職員給与臨時措置令施行前(1937年3月23日改正)の初任給表「初任給標準(昭和12年3月23日改正)」では、当時の学卒者初任給は中卒で40円~45円、大卒で45円∼75円だったそうですが(田口和雄/大島久幸『戦時期におけるホワイトカラーの給与統制と賃金管理』109頁)、当時の兵士の手当を仮に月100円と仮定したうえで2022年の大卒初任給を20万円として計算すると、「十五銭」は現代の貨幣価値で300円(0.15円÷100円×200,000円=300円)にしかなりません。

当時の中国貨幣と円の貨幣価値にどれくらいの差があったかはわかりませんが、仮にその差が10倍だったとして3,000円しか梶谷健郎は対価を支払っていないわけです(※ちなみに2022年の豚一頭の値段は30,000円を少し超えるぐらいだそうですから(石川県畜産協会)「十五銭」の支払いなら当時の円の価値は100倍を超えなければ正規の「徴発」にはなりません)。

この計算が妥当なのかわかりませんが、豚一頭で「十五銭」はとても正当な対価を支払ったとは思えません。「十五銭」の支払いでは正規の「徴発」に当たらないのではないでしょうか。

梶谷健郎日記のこの部分は、上海戦から南京攻略戦の進軍の過程で「徴発」を行ったもののうち、「十五銭」の対価を支払った極めてまれな珍しい事例と言えますが、略奪(掠奪)が疑われる記録の一つと言わざるを得ないような気がします。

(5)昭和12年11月28∼29日「不良と認むる者は一切射殺する事」

梶谷健郎日記の昭和12年11月28日から29日にかけては捕虜の虐殺に関する記述が見られます。

〔中略〕午后各所に火災起り本部附近も危険となる。支那人の放火によるならんと授□隊を組織し巡回す。二、三支那人殺されたり。〔中略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月28日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』431頁下段

〔中略〕今日も各所に火災起り城内外に黒煙盛んに上る。支那人の不良と認むる者は一切射殺する事となれり。昨日は十五人、今日は八名程ありたり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月29日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』431頁下段

ここでは11月28日から29日にかけて中国人による放火が頻発し、「昨日は十五人」「今日は八名程」を「一切射殺」としていますので、2日間で中国人の放火犯23人を射殺したことが伺えます。

この点、その「放火」を日本軍に対する戦闘の一部ととらえるならそれは戦闘中の「射殺」なので、陸戦法規の観点から考えても問題ないような気もします。

しかし、「不良と認むる者は一切射殺」と記述していることを考えれば、いったん捕らえたうえで射殺したと考えるのが常識的です。放火犯を捕らえなければ「不良」か「良民」か判断はつかないからです。

おそらくこれは、放火している中国兵を現行犯で射殺したのではなく、警戒のために巡回していた部隊が火が出た際に捕まえた容疑者を拘束して「不良(犯人)」だと認定したうえで射殺したものでしょう。

しかし、仮にその「不良」なる中国人が実際に放火していたとしても、いったん捕らえたなら捕虜として処遇しなければなりませんのでハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮をすることが要請されますし、仮に処刑するにしても軍法会議を省略して処刑することなどできませんから、「一切射殺」したこの事例は明らかな不法殺害、つまり「虐殺」と言うほかありません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この部分は上海戦から南京攻略戦に至る進軍の過程で日本軍による「虐殺」があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(6)昭和12年11月30日「久し振りにて酒ありスキヤキあり」

梶谷健郎日記は昭和12年11月30日も略奪(掠奪)が疑われる記述が続きます。

〔中略〕途中方向を誤り、蘇州方向に向ひ止むなく引返す。民家にて昼食をなし、鶏六羽徴発す。舟は故障多く困る。久し振りにて酒ありスキヤキあり、面白く一同会食をなす。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年11月30日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』432頁上段

ここでは「鶏六羽徴発す」とあり、また「酒ありスキヤキあり」とありますので、「鶏」や「酒」や「スキヤキ」の材料を「徴発」したことが伺えますが、前述したように上海戦から南京攻略戦に向かう部隊の中で正規の手続きを踏んで「徴発」した事例は極めてまれですから、これもまず間違いなく略奪(掠奪)したものでしょう。

しかも、ここでは「鶏六羽」を「徴発」していますが、鶏は現地住民が大切に育てた家畜であって、もしかしたら鶏卵を採取するための貴重な資産だったかもしれません。

その「鶏六羽」を奪われた現地の住民は生きていくために不可欠な家畜を失うことで困窮を極めたと思いますが、「面白く一同会食をなす」の文章からはそうした現地民に対する悔恨の情は微塵も感じられません。

そうした冷酷な感情が当時の日本人に蔓延していた中国人に対する蔑視感情に基づくものなのか、それとも上海戦から続けられた激戦によって惹起された復讐感情によるものか判然としませんが、中国人の困窮を顧みることなく驕奢に溺れる軍隊が「皇軍」を自称する日本軍だったわけです。

(7)昭和12年12月2日「老婦人等の死体七、八個あり」

梶谷健郎日記の昭和12年12月2日には現地民の虐殺が疑われる記述が見られます。

〔中略〕相変らず城門外に火災起る。住民はボツボツ自宅に帰宅せるものあり。敵大隊本部附近に老婦人等の死体七、八個あり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月2日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』432頁下段

ここでは「敵大隊本部附近に老婦人等の死体七、八個あり」としていますので、おそらく中国軍の守備隊が司令部を置いていた民家があって、その家屋の近くに「老婦人」の死体が7~8体あったのでしょう。

この点、この死体については戦闘の巻き添えによるものだった可能性もありますが、敵の守備隊が本部を置いていたのならその周辺の住人は別の場所に避難しているはずなので戦闘に巻き込まれたと考えるのは常識的ではありません。

おそらくこれは、戦闘が終わった後にその民家を占拠した日本兵が帰宅した附近の住人を殺害したか、あるいは他所から拘引してきた市民を殺したのでしょう。

ですがもちろん、仮にそうであれば明らかな虐殺です。

「老婦人」と記述している点を深読みすれば、南京攻略戦の過程で日本兵が若い婦人や幼女だけでなく老婆までレイプしたことが兵士に日記や証言、現地民の証言などによってわかっていますから、もしかしたらここで殺されていた「老婦人等」もレイプされた後に口封じ(※強姦は懲罰対象なので軍法会議を避けるためレイプした後に殺す兵士が多かった)のために殺されたものかもしれません。

梶谷健郎日記のこの部分も、日本兵による虐殺が疑われる記録の一つと言えるのではないでしょうか。

(8)昭和12年12月5日「半数は裸体にせられ」

梶谷健郎日記の昭和12年12月5日にも虐殺が疑われる記述が続きます。

午前中蘆山に上る。正規兵の死体四十八個あり、誠に遺憾なり。半数は裸体にせられ、手榴弾、機関銃の薬莢等山をなす。我の戦死者、台湾重藤部隊約八名にして〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月5日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』432∼433頁

ここでは「死体四十八個あり」としていますので48の死体があったことがわかりますが、日本軍の死体であれば「正規兵の…」とは記述しませんし、自軍の損耗については後段で「我の戦死者、台湾重藤部隊約八名」と明記していますので、この「四十八個」の「死体」は中国兵の死体で間違いないでしょう(※たとえば上海派遣軍の参謀副長上村利道は日記でも「正規兵」は中国兵を指しています→上村利道の日記は南京事件をどう記録したか)。

この点、それが戦闘による死者であれば問題ありませんが、その死体の「半数は裸体にせられ」ていたとありますので、日本軍が陣地を制圧したあとに殺されたと考える方が自然です。中国兵が12月の初冬に裸で戦闘するのは不自然だからです。

捕らえた捕虜の服を脱がせる描写は増田六助の日記などにも記述されていて南京に進軍する日本軍では持物検査と称して服を剥ぎ取る行為が多かったようですから、おそらくこの「四十八個」の「死体」も、戦闘が終了した後に日本軍が捕らえた敗残兵の所持品検査をする際に軍服を脱がせたのでしょう。

〔中略〕片つ端から引張り出して裸にして持物の検査をし道路へ垂下ってゐる電線で引くくり珠々つなぎにした。〔以下略〕

出典:増田六助手記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ416頁上段

しかし、前述したように敵兵を捕らえたなら捕虜として人道に配慮しなければなりませんから処刑することはできませんし、仮にその捕らえた捕虜に何らかの非違行為があったとしてもそれを処刑するには軍法会議を経なければなりませんから軍法会議に掛けることもなく処刑したことが伺えるこの事例は明らかな不法殺害、つまり虐殺によるものだったと言えます(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この部分は日本兵による虐殺があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(9)昭和12年12月8日「表戸にワラを積み之に放火し二棟を全焼せし」

梶谷健郎日記の昭和12年12月8日には放火に関する記述が見られます。

〔中略〕横山村に午后八時頃着、クリーク地図と合ず、止むなく民家を起さんとせしが何れも戸締り厳重にして起き来らず。一時間の後、表戸にワラを積み之に放火し二棟を全焼せしむ。この時犬の盛んに鳴き来れるを以て一発の元に射殺す。村民来りて盛んに騒ぎ、消化に努め居れり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月8日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』433頁下段

ここでは呼びかけに応じなかった中国人の家屋を二棟も火を点けて焼失させていますが、ハーグ陸戦法規は私有財産の尊重を定めているのでこれは明らかな戦争犯罪です。

ハーグ陸戦法規第46条

第1項 家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の進行及び其の遵行は之を尊重すべし。
第2項 私有財産は之を没収することを得ず。

出典:ハーグ陸戦法規

しかもこれは12月の出来事です。この記述からは梶谷健郎の所属した部隊が罪悪感もなく簡単に放火した情景が伺えますが、これから冬を迎える中で家を焼かれた住民はどうやって冬を越したのでしょうか。

この記述は、上海戦から南京攻略戦の過程で日本軍が日常的に放火を繰り返していたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(10)昭和12年12月9日「一発射てばヨロヨロと水中に倒れ」

梶谷健郎日記の昭和12年12月9日には明らかな虐殺と断定できる記述が見られます。

正午ころ東□村附近にて道を尋ねんとせしが、皆逃走して誰も居らず。折から水田中、膝まで没して逃走中の支那女を発見。トンヤンピン□□□□二―ライライと呼べど振り返りつつも尚逃走せるにより、距離三百メートルにして一発射てばヨロヨロと水中に倒れ、そのまま再び起たず遂に死せり。

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月9日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』434上段

ここでは「逃走中の支那女」を「三百メートル」先から「一発射」って殺しており、一般市民を殺害している時点で不法殺害以外のなにものでもありませんので、虐殺と断定できます。

おそらく、強姦をおそれた付近の住民女性が恐怖に駆られて逃げ出したものでしょう。

この点、ここでは単に「支那女」としか書かれていないので女性兵士の可能性もあるではないかという意見があるかも知れませんが、「東□村附近にて道を尋ねんとせしが、皆逃走して誰も居らず」という文章からは敵部隊の抵抗は伺えず、中国兵が見当たらない村で道を尋ねるために住民を探していたことが伺えますので、この「支那女」も兵士ではなく一般市民で間違いないでしょう。

なお、仮にこの女性が兵士や一般市民が武装した民兵だったとしても、ハーグ陸戦法規は敗残兵に対しても人道的な配慮を要請していますので、「膝まで没して逃走」を図るほど絶望的な状況で逃げる相手には投降を促して捕縛し、捕虜として扱わなければならずこの事例のように無抵抗の敗残兵を射殺することは当時の国際法規の観点から考えても認められません(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、梶谷健郎日記のこの部分も日本軍による虐殺を裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(11)昭和12年12月9日「将校室当番にもとクーニャンを」

梶谷健郎日記の昭和12年12月9日には、強姦目的の拉致が伺われる記述が見られます。

〔中略〕午后二時頃、石堰村附近にて部落に入り、将校室当番にもとクーニャンを発見し、舟に乗せんとせしが嫌がり大声にて泣き、誤りて河中に落ち、再び上げ舟に乗せ途中にて哀れになり逃走せしむ。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月9日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』434上段

ここでは「将校室当番にもとクーニャンを」とありますが、次にあげる菅原茂俊の日記や岡本健三の証言などにもあるように、南京攻略戦の進軍途上では将校が中国人女性を拉致して部隊司令部に囲い毎晩のように宿営地で強姦を繰り返すケースもありましたので、そうした将校専属の「慰安婦」を確保しようとしたことが伺えます。

〔中略〕蘇州河を渡り施家巷の方へ廻る。〔中略〕本部に女が居り不思議に思った処が、逃げおくれた者、名は□□□、夫は逃げたと云ふ。昨夜は寺田中尉がダイてねたと。

出典:菅原茂俊日記※昭和12年11月11日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』368頁下段

強姦事件のことも噂じゃない、実際にあったことだ。占領直後はメチャクチャだった。杭州湾上ってから、それこそ女っ気ないしだからね。〔中略〕ただ、悪いのは兵隊ばかりではなかった。将校が先になってやった場合もある。ひどい中隊長、大隊長なんかになると、南京行くまでに、あの戦闘期間にだって、女を連れて歩いていたのがいた。

出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 72頁※岡本健三氏の証言

この事例では女性は逃がされているので未遂でとどまっていますが、この記述は南京攻略戦に派遣された部隊が将校の為に中国人女性を拉致して連行し将校専属の「慰安婦」にしていたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(12)昭和12年12月14~17日「此の世の地獄にして…物凄き限りなり」

梶谷健郎日記は昭和12年12月14日から17日にかけて南京城内と揚子江に面した下関(シャーカン)地区における敗残兵掃討の記述が続きます。

〔中略〕約二千名の敗残兵は武装解除をされ城内に連行さる。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月14日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』435上∼下段

〔中略〕午前午后共附近の敗残兵を海軍と共に掃トウす。十数名を射殺せり。負傷せるものの多数あり、之等を一ヶ所に集合せしむ。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月15日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』435下段

午前二時頃機関銃の音盛んに聞ゆ。敗残兵約二千名は射殺されたり。〔中略〕午前中部隊長、少佐と共に港内巡視を行ふ。二番桟橋にて約七名の敗残兵を発見、之を射殺す。十五歳位の子供も居れり。死体は無数にありて名状すべからざるものあり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』435下段

午前一時頃より約一時間に亘りて敗残兵二千名の射殺あり、親しく之を見る。誠に此の世の地獄にして月は晄々と照り物凄き限りなり。十名ほど逃走せり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月17日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』435下段

15日の部分では「海軍と共に」と記載されているので、海軍の駆逐艦が入港した下関(シャーカン)に上陸した海軍陸戦隊と共同で行った敗残兵掃蕩を描写したものでしょう。「十数名を射殺」としたうえで「負傷せるものの多数あり、之等を一ヶ所に集合せしむ」としていますので、射殺しなかった敗残兵を捕虜にして拘束したことがわかります。

16日の部分では「敗残兵約二千名は射殺されたり」とありますが、「敗残兵…は…」としているので、その「敗残兵約二千名」が14日に捕らえた「約二千名の敗残兵」であることがわかります。つまり14日に捕らえた「敗残兵二千名」を16日の早朝(15日の深夜)に機関銃で皆殺しにしたわけです。

「十五歳位の子供も居れり」の部分は、中国軍では南京戦直前に少年まで徴兵していますので少年兵の可能性もありますが、南京に住んでいた一般市民が兵士と間違われて射殺された可能性もあります。

そして17日にも「敗残兵二千名」を射殺していますから(うち「十名ほど」は逃走)、少なくともこの三日間で梶谷健郎が認識しただけでも4000名を超える捕虜が殺害されたことになるでしょう。

しかし、このページでも繰り返し述べてきましたが、たとえ敗残兵であっても捕縛した後は捕虜なのですからハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮をしなければならず処刑することはできませんし、仮にその捕虜に何らかの非違行為があったとしても軍事裁判で罪状を認定しなければ刑罰を科すことはできませんから、軍法会議(軍事裁判)を省略して銃殺しているこの事例は明らかに国際法規に違反する違法な殺害です(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、梶谷健郎日記のこの部分も南京で日本軍による大規模な不法殺害、つまり「大虐殺」があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(13)昭和12年12月18日「射撃事件あり、之を取調べ銃殺の予定」

梶谷健郎日記は昭和12年12月18日も虐殺に繋がる記述があります。

〔中略〕本日夜、本部衛兵所前にて射撃事件あり、之を取調べ銃殺の予定の所、先方の部隊長に引渡す。

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月18日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』436上段

ここでは「射撃事件あり、之を取調べ銃殺の予定」としていますので、捕らえた敗残兵を取調べた後すぐに処刑する予定だったことがわかります。

しかし、何度も繰り返しているように捕虜の処刑には軍事裁判が必要ですから、このケースのように「取調べ」ただけで「銃殺」すれば、ハーグ陸戦法規に違反する不法殺害そのものです(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

ここではその敗残兵を他の部隊長に引き渡していてその後の処理は判りませんが、これも日本軍が日常的に軍法会議を省略して敗残兵を処刑していたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(14)昭和12年12月22日「敵死体は揚子江に投ず」

梶谷健郎日記の昭和12年12月22日の部分には、捕虜の違法な使役と死体処理に関する記述が見られます。

〔中略〕午前浦口に渡り苦力五名を以て看板用木材を運搬せしむ。下関各道路は使役兵によって清潔にされ敵死体は揚子江に投ず。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月22日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』436下段

① 違法な使役について

この点、まずこの部分では「苦力五名を以て看板用木材を運搬せしむ」また「使役兵によって清潔にされ」としていますが、「苦力」は捕らえた民間人、「使役兵」は捕らえた敗残兵のことなので、捕らえた民間人に木材を運搬させたり、捕らえた捕虜に散乱する死体を片付けさせていたことがわかります。

こうした現地民や捕虜を「苦力(クーリー)」や「使役兵」として使役させるのは日本軍のほとんどの部隊で行われていますが、当時の国際法規は捕虜や一般市民を使役させる場合は労賃を払うことが義務付けられていましたので(捕虜の使役はハーグ陸戦法規第6条、市民の使役はハーグ陸戦法規第52条)、使役させるなら賃金を支払わなければなりません。

しかし、他の兵士の日記や証言を読んでもわかるように、南京における日本軍が使役させた現地民や捕虜に適正な賃金を支払ったケースはまずありません(※使役に関しては牧原信夫日記(牧原信夫日記は南京事件をどう記録したか)や歩兵第66連隊の戦闘詳報(歩兵第六十六連隊の戦闘詳報は南京事件をどう記録したか)などにも記述があります)。

したがって、梶谷健郎日記のこの部分は使役に対して賃金を支払ったのか明確ではありませんが、まず間違いなくハーグ陸戦法規に違反した違法な使役があったと言えるでしょう。

② 下関(シャーカン)地区における死体の処理について

ここでは「敵死体は揚子江に投ず」とありますので、下関(シャーカン)で虐殺した死体を揚子江に捨てていたことがわかります。

下関(シャーカン)では数万からの軍民が日本軍によって殺戮されたと言われていますから、その一部は梶谷健郎が所属した第二碇泊場司令部によって河に流されたということでしょう。

ちなみに下関(シャーカン)における死体の処理は同じ第二碇泊場司令部部員で下関で死体処理に携わった太田壽男の供述書でより詳しく説明されています(※参考→太田壽男の供述書は南京事件をどう記録したか)。

(15)昭和12年12月26日「今世の生地獄と云ふべきなり」

梶谷健郎日記は26日にも下関における死体処理と違法な使役に関する記述が見られます。

〔中略〕午后死体清掃の為苦力四十名を指揮し悪臭の中を片附く。約一千個に及べり。目を開けて見る能はず、誠に今世の生地獄と云ふべきなり。〔以下略〕

出典:梶谷健郎日記※昭和12年12月26日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』437上段

ここでも「苦力四十名」を使役して「死体清掃」をさせていますが、これもおそらく賃金を支払っていないはずなのでハーグ陸戦法規に違反する違法な使役だったのではないでしょうか。

なお、後段では「目を開けて見る能はず、誠に今世の生地獄と云ふべきなり」と他人事のように記していますが、前述の(12)でも紹介したように梶谷健郎は16日に自身も敗残兵掃討に参加しており、自分が引金を引いたかどうかは定かでないにしても自分の所属した碇泊場司令部も敗残兵を射殺しています。

自分が(自分の所属した部隊が)その「生地獄」を作ることに加担しておきながら、「目を開いて見る能はず」とは、あまりにも無責任すぎるのではないでしょうか。

こうした他人事で済ませられる麻痺した感覚が当時の日本兵の中では蔓延していたのかわかりませんが、理解に苦しみます。