林(吉田)正明日記は南京事件をどう記録したか

林(旧姓吉田)正明は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団歩兵第十九旅団の歩兵第二十連隊第三中隊第一小隊第四分隊に所属した元兵士で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記が公開されています。

林(旧姓吉田)正明日記は記述自体は少ないものの、敗残兵の掃討で行われた捕虜の殺害が具体的に記述されていますので、当時の日本軍による捕虜殺害の実態を知る上で貴重な資料と言えます。

では、林(吉田)正明日記は南京攻略戦で起こされた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

林(旧姓吉田)正明日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月14日「敗残兵を殺す」「これを捕へて殺す」

林(旧姓吉田)正明日記の昭和12年12月14日には、敗残兵掃討で中国兵を殺害した記述が見られます。

明けて十四日、街の掃蕩する。敗残兵を殺す。又避難所へと逃げて行く○○○○を捕える。町道路上には支那兵服を脱ぎ、避難所へ逃げ入っているのが明らかである。でも避難所以外の所を掃蕩した。これを捕へて殺す。

出典:林(吉田)正明日記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ413頁下段※引用文の中ほどにある「○○○○」は中国兵を指す言葉が記述されていますが当サイト筆者の都合で伏字にしています。

南京陥落が13日ですから、翌14日に城内で行われた敗残兵掃討に関する記述です。「敗残兵を殺す」「捕へて殺す」としていますから、城内で見つけた敗残兵を殺害したものでしょう。

引用文冒頭の「敗残兵を殺す」の部分については、敗残兵との間の戦闘中に殺害したものか、それとも敗残兵を捕らえて武装解除した後に殺害したものか、この文章だけでは判然としませんので、これをもって「不法殺害」であって「虐殺」と断言することはできません。

しかし、仮に戦闘中の殺害であったとしても、南京攻略戦は包囲殲滅戦で前日の13日には既に陥落して守備隊は総崩れとなって統制を失っていたわけですから、ハーグ陸戦法規の要請する人道の法則及び公共良心から考えれば、南京奪還が完全に不可能になった敗残兵に対しては降伏を勧告して投降を促し、武装解除して俘虜(捕虜)として収容すべきです(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この引用文冒頭の「敗残兵を殺す」と記述された部分における中国兵の殺害については、仮に戦闘中によるものであったとしても、ハーグ陸戦法規の趣旨に反して投降を呼びかけることなく殺害したものとして国際法規に違反する「不法殺害」に当たる可能性が極めて高いと思われます。

引用文最後の「これを捕へて殺す」の部分については「捕へて」とあるところから武装解除して捕虜にした敗残兵を殺害したものと考えられますが、捕虜(俘虜)についてはハーグ陸戦法規が人道的な配慮を義務付けていますので、これを処刑すれば違法な「不法殺害」というほかありません。

また、仮にその捕虜にした敗残兵が日本兵に何らかの非違行為があったとしても、これを処刑するには軍事裁判(軍法会議)に掛けて罪状を認定し刑罰を確定させなければなりませんので、裁判手続を省略して即座に処刑している点で、国際法規に違反する「不法殺害」だったということになります(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、引用文冒頭の「敗残兵を殺す」の部分も、最後の「これを捕へて殺す」の部分も、いずれについても当時施行されていた戦争法規に違反する「不法殺害」があったと認定できますので、この部分は日本軍による「虐殺」があったことを示す記述と言えるでしょう。

(2)昭和12年12月16日「逃げる敗残兵を悉くやつける嬉しさ」

林(旧姓吉田)正明日記の昭和12年12月15日と16日にも、敗残兵の殺害に関する記述が続きます。

十五日には南京郊外の捕虜の監視する。第六中隊と共に七千名の支那兵、十六日には南京城外の守備にて下士哨となり、逃げる敗残兵を悉くやつける嬉しさ。戦友の仇は此処で。

出典:林(吉田)正明日記 昭和12年12月15∼16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ413頁下段

この点、ここで「やつける」のは敗残兵なのですから、戦闘中の殺害であって法的に問題ないと考える人もいるかもしれません。

しかし、南京陥落後に残された敗残兵は、日本軍による包囲殲滅戦のために退路を断たれた状況に置かれており、しかも陥落前日の12日夕方には司令官の唐生智ら軍幹部が逃走して統制は既に失われていて、既に勝てる見込みがないことを知らないまま一部の部隊が散発的に抵抗を続けていたにすぎません。

また、そうして散発的な抵抗を続ける一部の部隊があった一方で、それ以外のほとんどの兵士は軍服を脱ぎ捨て銃器を投げ捨てて市民の平服に着替えて避難民の中に紛れ込んで潜伏していたことが当時の資料からわかっていますから、一部の敗残兵による散発的な抵抗はあったとしても、当時の南京城内外にいたほとんどの中国兵は戦闘意欲を喪失した無害な敗残兵に過ぎなかったともいえます。

しかも、日記のこの部分は「逃げる敗残兵」と記述していますから、敗残兵を掃討する日本兵側に切迫した危険はまったくなかったでしょう。

そうであれば、逃げる敗残兵を「やつける」のではなく、降伏を勧告して投降を促し武装解除して捕虜(俘虜)として収容すべきですし、ハーグ陸戦法規の前文にも締約国は「人道の法則及び公共良心」に従って行動することが要請されていますから、当時の国際法の観点から考えても、南京市街内外において統制が失われた状態で勝つ見込みのないことを知らないまま散発的な戦闘を継続する敗残兵に投降を促すことなく「やつける」掃討に違法性阻却事由があったとは到底考えられません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この日記の記述にある「逃げる敗残兵を悉くやつける」ことで行われた少なくとも「七千名」を超える敗残兵の殺害は、国際法規上の観点から考えて「不法殺害」にあたる「虐殺」があったことを示す貴重な資料と言えるでしょう。

なお、引用文最後にある「戦友の仇は此処で。」の部分は、南京における日本軍の暴虐行為の原因を考えるうえでも重要な記述です。

南京攻略戦で日本軍による放火/掠奪(略奪)/強姦/虐殺等の暴虐行為が繰り返された要因については様々な考察がありますが、上海戦から続けられた南京攻略戦で予想外の抵抗に甚大な損耗を強いられた日本軍に生じた報復感情が、日本兵による暴虐行為を正当化させる意思形成に影響を与えた可能性も指摘されています。

上海戦から続けられた南京攻略戦では、ドイツの軍事顧問団に指導を受けた中国軍が防衛ラインに構築した要塞やトーチカを利用して徹底的に戦い、日本軍は過酷な戦闘を強いられましたが、当時の師団は地方ごとの編成だったため、中国軍の苛烈な抵抗で死んでいった同じ部隊の戦友は、同郷の幼馴染や親戚、言葉(方言)を同じくする大切な仲間でもありました。

そうした仲間の死が中国人への報復感情を醸成させ、中国人に対する蔑視感情と合わさって、日本兵の中で暴虐行為を正当化させる感情を形成させていったとも考えられていますが、この「戦友の仇は此処で。」の記述からは、まさに当時の日本軍将兵の中にそうした「友の仇」との報復感情が捕虜の殺害に大きく影響したことが伺えると言えるのではないでしょうか。

(3)昭和12年12月24日「お気の毒な支那兵は揚子江の魚のえさになる」

林(旧姓吉田)正明日記の昭和12年12月24日にも敗残兵の殺害が伺われる記述が見られます。

〔中略〕城内の避難所へ逃げ込みている支那人を二種に分ち、お気の毒な支那兵は揚子江の魚のえさになる。〔中略〕城内は幸城壁で囲まれ支那人お化けの支那兵も逃げられず、よくよく調べられて前の揚子江へ。また前記のホリョの七千名も魚のえさとなる。

出典:林(吉田)正明日記 昭和12年12月24日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ413頁下段

日本軍による敗残兵掃討では、捕らえられた敗残兵の多くは城外に連行されて殺害され、証拠隠滅のために長江(揚子江)に流されたことが日記や手記、証言などによって明らかとされています。

この部分の記述も、そうした死体の処理が実際にあったことを示す貴重な記録といえるでしょう。

もちろん、ここではその「魚のえさ」にした捕虜を殺害しているわけですから、前述の(1)(2)でも述べたように、その殺害は国際法規に違反する「不法殺害」であって「虐殺」に他なりません。

当時の日本軍は膨大な中国人を虐殺しただけでなく、その中国人の死体を埋葬もせずにゴミのように河に捨てていたわけです。

なお、引用文最後の「前記のホリョの七千名も魚のえさとなる」の部分の「七千名」は日記の15日の箇所に「第六中隊と共に七千名の支那兵」と記述されていることを指したものですが、偕行社の南京戦史編集委員の注釈ではこの七千名に関しては「魚のえさ」となったというのは当時の噂だったとしています(※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ414頁下段)。