金丸吉生は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団(京都)の経理部主計軍曹として衣糧科に配属され南京攻略戦に参加しており、戦後に当時を回想して書かれた手記が公開されています。
金丸吉生が配属されたのは兵站部隊なので前線で直に敗残兵の掃討やその処分(虐殺)を命じられることはなかったようですが、前線部隊の兵士から聞いた処分(虐殺)の話や、処分(虐殺)された後の死体の目撃談がいくつか記録されています。
では、金丸吉生軍曹の手記は南京大虐殺をどのように記録しているのか、確認してみましょう。
【1】金丸吉生軍曹の手記は南京事件をどう記録したか
(1)「兵站の車はとても前進できず」
南京攻略戦では兵站の準備がなく兵士の食料は現地調達の方針がとられたため、これが日本兵による略奪(掠奪)につながったとの指摘がなされていますが、金丸吉生軍曹の手記には南京に進軍する日本軍で実際に兵站が機能していなかったことを示す次のような記述が見られます。
南京攻略はあまりにも進撃が早いので我々営利部の仕事は殆どなく、当時南京街道は兵と車輛と軍馬が一杯で兵站の車はとても前進できず、前線への食糧の支給も紫金山へが、やっとだったと思います。
出典:金丸吉生軍曹手記※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ255頁上段
紫金山は南京城の東側、南の山腹に中山陵を抱き、中国軍が防備のために陣地を築いて要塞化していた丘陵で、東側から進軍してきた第十六師団の進路にあたりました。その紫金山を越えた西側が南京城ですが、紫金山から西側には全く兵站が機能していなかったことがわかります。
南京攻略後の城内では兵站が機能しないことで日本軍による略奪(掠奪)が横行しましたが、この記述は略奪(掠奪)の原因の一つとなった兵站の機能不全を裏付ける記録と言えるかもしれません。
(2)「不思議な事に大勢寝ていた中国軍の傷病兵の姿も毛布もなくなっていました」
金丸吉生軍曹の手記には、中国軍が傷病兵の治療に使っていた中央病院から中国軍の傷病兵が忽然と姿を消していた情景を次のように記録しています。
引き返して国民政府の建物近くにあった「南京飯店」という大きいホテルで宿営しました。その時、昼間見た敵の中央病院にあった毛布を借りるつもりでそこへ行ったら、不思議な事に大勢寝ていた中国軍の傷病兵の姿も毛布もなくなっていました。引き返してホテルの真っ暗闇の中の廊下で飯盒で飯を炊きローウソクの光で寝についたことを覚えています。
出典:金丸吉生軍曹手記※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ255頁下段
この記述からは、日本軍が南京を占領した時点で中央病院には多数の中国側傷病兵が置き去りにされていたことがわかりますが、置き去りにされた傷病兵が自分で歩いて移動できるはずがありませんので常識的に考えて日本軍によってどこかに連れ去られたことがわかります。
もっとも、南京城内の中央病以外でその付近に傷病兵を手当てする場所はありませんから、常識的に考えてそれら傷病兵は処刑されたと考えるのが自然でしょう。
もちろん、この記述には処刑の事実は記載されていませんので処刑されたと断定することはできませんが、この記述は日本軍による中国軍傷病兵の虐殺が伺える記録と言えるのではないでしょうか。
(3)「江岸道路には死体の山が所々にあり」
南京城の西から北側にかけては長江(揚子江)が流れていて、城の北西に位置する下関(シャーカン)には対岸の浦口(ホコウ)とをつなぐ埠頭がありますが、その下関や長江(揚子江)の河岸では、日本軍の敗残兵掃討によって膨大な数の捕虜が殺害されたことが、当時の兵士等の日記や手記、証言などで明らかにされています(※たとえば、下関周辺における敗残兵の処刑や揚子江に流した死体処理については→『太田壽男の供述書は南京事件をどう記録したか』や『梶谷健郎の日記は南京事件をどう記録したか』また『林(吉田)正明日記は南京事件をどう記録したか』などの記事で詳しく紹介しています)
金丸吉生軍曹は南京陥落から4日後の17日ごろに鹵獲品の自動車を修理してその辺りを走らせたそうですが、そのときに下関や河岸の道路沿いで多数の死体の山を見たと手記の中で次のように語っています。
〔中略〕歩三三(野田部隊)の追撃戦の跡はもちろん、下関の付近、揚子江岸道路も見ました。江岸道路には死体の山が所々にあり、それは百名程度のもので真っ黒焦げになっていました。それらはみんな厳冬のことでもあり全部硬直していました。また、対岸の浦口と連絡する鉄道路線には焼けただれた貨車があり、その中にも死体が一体あり、これらは全部正規兵と見受けられました。
出典:金丸吉生軍曹手記 昭和12年12月17日ごろ※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ256頁
この記述からは単に死体があったことしか分かりませんので、それが戦闘によるものか捕虜の処刑(虐殺)によるものか判然としません。
しかし、前述したように他の日記や手記などでは下関や長江(揚子江)の河岸で多数の捕虜が処刑されたことがわかっていますので、この時に金丸吉生軍曹が見た「死体の山」も、虐殺された死体だった可能性は極めて高いと思われます。
なお、これらの死体が「虐殺」によるものであったことは、これに続く次の記述からも強く推測されます。
(4)「『何処に行くのか』と聞いたところ『処分をしに行きます』との返事でした」
金丸吉生軍曹の手記は、(1)と同じく昭和12年12月17日ごろにあった出来事として、中国兵の捕虜を処刑するために連行する日本兵と遭遇した際の会話を次のように記録しています。
四列縦隊の中国兵が約一コ大隊ほど大声を発しながら(これは大声で泣いている声でした)、そして、その両側を十メートル置きぐらいに剣付きの三八指揮歩兵銃を持った日本兵が監視をしながら行進してきたので「何処へ行くのか」と聞いたところ「処分をしに行きます」との返事でした。私は「そうか」と言ったものの何となく寒気を感じました。この捕虜は漢西門近くの壕(クリーク)と城壁の間にある斜面になった土地へ連れて行き機関銃で処分し、石油をかけて焼却したことを後に知りました。
出典:金丸吉生軍曹手記 昭和12年12月17日ごろ※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ256~257頁
『南京事件おける捕虜の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも論じたように、当時施行されていたハーグ陸戦法規では捕虜を人道的に扱うことが定められていて「処分」することはできませんから、この連行された約一個大隊ほどの中国兵捕虜が実際に処刑されていたなら、それは国際法規上違法であることになりますので「虐殺」と認定できるでしょう。
「石油をかけて焼却した」のは腐敗を抑える衛生確保や、銃殺や刺殺でも死ななかった生存者を火をつけてあぶり出す(死体に火をつけて動くものがあったら改めて刺し殺すことが多かった)のが目的だったようですが、南京における捕虜掃討で多く記録されている情景です。
前述の(3)でも「江岸道路には死体の山が所々にあり、それは百名程度のもので真っ黒焦げになっていました」との記述が見られましたが、「真っ黒焦げになってい(た)」ということは殺された後に焼かれたということでしょうから、(3)にあった「死体の山々」もこの(4)と同様に虐殺されたものであったと考えるのが自然でしょう。
(5)「三千名から四千名くらいの処分があったものと」
また、金丸吉生軍曹の手記は、夜になると長江(揚子江)の河岸から捕虜を処刑する銃声が盛んに聞こえてきたと次のように記録しています。
〔中略〕私たちの居った製粉会社の倉庫の裏は揚子江でしたが〔中略〕数日間毎日夕方から夜になると盛んに銃声が聞こえ、そのあとで火が燃え上がり毎夜おそくまで青白い焔が燃え続けているのを見ました。だから正確な数は判りませんが一夜に五、六百名として三千名から四千名くらいの処分があったものと想像されます。これが私の見た中国兵処分の実態です。
出典:金丸吉生軍曹手記※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ257頁
金丸吉生軍曹の部隊は南京で製粉会社の倉庫を抑えて小麦粉を接収し、投降兵を使役して兵站に利用していますが、その製粉工場の裏手では毎晩のように他の部隊の虐殺が続けられていたのでしょう。
(6)「貨車に中国兵を一杯積み込んで線路を推して揚子江へ突き落したのが十輛足らずあった」
金丸吉生軍曹の手記には、他の兵士から聞いた話として、死体を詰め込んだ車両を川に突き落として処理したという趣旨の次のようなエピソードも記録されています。
市内での死体はそんなに多量のものでなく、南京西北部から下関へかけて散乱しており、また歩三三の兵隊の話しでは汽車の貨車に中国兵を一杯積み込んで線路を押して揚子江へ突き落したのが十輛足らずあったと聞きました。
出典:金丸吉生軍曹手記※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ257頁
敗残兵の掃討で殺した捕虜の死体はクリークや池や壕などに投げ込んだり、揚子江に流したりして処分したとの記録を多く見ますが、この事例のように鉄道の貨車に詰め込んでそのまま川に突き落し沈めたケースもあったのでしょう。
(7)「無腰のままで三百名の捕虜を自由に使っている大胆不敵な奴」
虐殺とは少し話がずれますが、金丸吉生軍曹手記には、捕虜にした中国兵が日本兵に反抗することなく従順だったことを示すエピソードも記録していますのでそこを少し紹介しておきましょう。
先ほど少し触れたように金丸吉生軍曹は兵站部隊として製粉会社の倉庫を占領して残されていた小麦粉を接収していますが、その倉庫には小麦粉が数万袋あったようで、それを整理するのに倉庫に隠れていた敗残兵を捕虜にして使役していたところ、視察に来た師団長の中島今朝吾中将に兵器のある部屋でその捕虜が見つかってしまい咎められたエピソードが次のように語られています。
〔中略〕私が勝手に使っていた捕虜の姿が見えないのをすっかり忘れて、最後の倉庫の前まで行くと扉が閉まっていたので衛兵に「明けよ」と伝えましたら中には捕虜三百名が初日に取りあげた兵器の傍にしゃがんでいました。私も驚きましたが閣下も一驚した様子で、たちまち大声で「これは何だ。こんな者と兵器と一緒にして、もし反抗したらどうするんだ」ときつい叱責をうけました。
出典:金丸吉生軍曹手記※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ256,257~258頁
実は通訳が気をきかして捕虜を倉庫へかくしたのですが、そんな事とは知らず開扉させたのが悪かったので、私の責任で「どうにでもしてくれ」と言った気になりましたが、何とか副官のとりなしで私はやっと解放され、閣下は帰られました
このエピソードからは、日本兵に捕らえられた中国兵の捕虜が反抗することなく従順に日本軍の命令に従っていたことが分かります。
仮に捕虜となった中国兵に反抗する意思があれば、武装解除されて取り上げられた兵器の積まれた倉庫に入れられた時点で武器を手に取って蜂起していたはずですが、中国兵は兵器に触ることなく従順に日本軍に従っているからです。
この点、孫宅巍氏の論文『評唐生智在保衛戦中的功過』を翻訳した歴史学者の笠原十九司氏が当時南京防衛軍の旅長だった陳頣鼎氏から聞き取りしたところによれば、中国側の南京防衛軍には上海戦に参加した部隊も多く損耗を補うために地方から慌ただしい徴発を行って強制的に連れて来た農夫や少年も少なくなかったそうですから、この金丸吉生軍曹手記に記録された捕虜たちも、もしかしたらそうして徴発された市民だったのかもしれません。
〔中略〕中国軍は、唐生智の率いる守城部隊が十五個師、およそ十余万人であったが、雑兵が多く、敵軍と直に戦闘できる兵隊は六割にすぎなかった。防衛軍全体の中で、まだ入隊したばかりの新兵が四割近くも占めていた。新兵の大多数は厳格な訓練をまだ受けておらず、はなはだしいのは銃にふれることさえなしに戦場に送り込まれた。
出典:孫宅巍氏『評唐生智在保衛戦中的功過』※笠原十九司訳『南京防衛軍と唐生智』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店 160~161頁
新兵が多かった最大の理由は、南京防衛軍の多くが上海戦に参加して日本軍と激戦を戦い、甚大な損失を被った軍隊だったことによる。これらの部隊は南京に撤退して、急いで新兵を補充し、陣容の立て直しを図った。
出典:笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 88頁
〔中略〕中国では「拉夫」「拉丁」といった。逃げて帰れないように、西南の遠く離れた地方から徴発してくる場合が多い。農村から突然、強制的に連行されてきたこれらの兵士(むしろ農夫といった方が適切か)は、すぐに戦える兵隊ではなかった。
出典:笠原十九司『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社 90頁
こうした事情があったことを踏まえれば、南京で捉えられた敗残兵のほとんどが、おとなしい従順な人たちだったことが想像できます。
歴史修正主義者からは「捕虜の中国兵を処刑したのは彼らが抵抗したからだ」などと虐殺を正当化する意見が出されることがありますが、強制的に連れてこられた多くの民兵たちの多くはこうして強制的に徴発された農兵で、このように従順に日本兵に従っていたことが伺えます。歴史修正主義者が盛んに吹聴するように抵抗したような状況はほとんどなかったわけです。
この捕虜たちがその後どうなったのかわかりませんが、南京で虐殺されたほとんどの捕虜は、このエピソードに出てくる中国軍捕虜のように、日本軍に反抗することなく武器を捨てて武装解除したおとなしい人たちで、そうした従順な捕虜を、食料がないとか、警備の余裕がないなどの理由で見境なく殺していったのが、南京における虐殺の実態だったのではないでしょうか。