上村利道の日記は南京事件をどう記録したか

上村利道歩兵大佐は南京攻略戦に派遣された上海派遣軍の参謀副長で、南京攻略戦の際につけていた日記が公開されています。

では、上村利道の日記は南京攻略戦の過程で日本軍によって起こされた略奪(掠奪)や強姦、放火や虐殺などの暴虐行為についてどのように記録しているのでしょうか、確認してみましょう。

上村利道の日記は南京事件における虐殺や強姦、略奪(掠奪)や放火をどう記録したか

(1)昭和12年11月27日「地方民ノ屍体各所ニ在リ」

上村利道日記の昭和12年11月27日には、南京攻略戦の途上で通過した蘇州から常州の間で多数の市民の死体を見た光景を次のように記録しています。

常ー蘇間ノ道路斃死及放棄主□ノ間ヲ彷徨シアルモノ多シ。救助処置ヲ要ス。又在道路上及蘇州市街内ニ於テモ敵兵及地方民ノ屍体各所ニ在リ、始末ヲ要ス

出典:上村利道日記※昭和12年11月27日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』260頁上段

この点、日記では「地方民ノ屍体各所ニ在リ」としているだけで、それが戦闘の巻き添えで殺された市民の死体である可能性もありますから、必ずしもそれらの死体が日本兵による虐殺によるものであったと断定することはできません。

しかし、仮にそれら市民の死体が戦闘によって生じたものなら「道路上」や「市街内」の「各所ニ」あるよりも、戦闘の生じた特定の場所にある程度かたまっていたはずですから、この日記の記述にある「屍体」は、戦闘によって生じたものではないような気がします。

他方、他の日本軍兵士の日記や証言を読むと、上海から南京に至る訳400㎞の道中で略奪(掠奪)や強姦を繰り返し、市民を殺した記述が多数見られますので、この上村利道日記にある「地方民ノ屍体」もそうして日本兵によって殺された死体だったのではないでしょうか。

この部分の記述をもってその死体が日本軍による虐殺のものだと断言はできませんが、ここで記述された「屍体」は、日本兵による虐殺によって生じたものである可能性が極めて高いと感じます。

(2)昭和12年11月30日「点々アルノミニテ激戦ノ痕ヲ見ス」

上村利道日記の昭和12年11月30日にも道端に放置された死体の描写が続きます。

崑山―蘇州ハ陣地モ案外急造ノ粗品ニテ「コンクリート」製「トチカ」ハ未完成ノモノ数個ヲ蘇州東方約八粁ノ西南村付近ニ認メシノミ。路傍ノ死体モ正規兵ヨリ土民多シ。其モ点々アルノミニテ激戦ノ痕ヲ見ス

出典:上村利道日記※昭和12年11月30日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』260頁上段

この点、ここでは「路傍ノ死体モ正規兵ヨリ土民多シ」とあり、道端に放置された死体のほとんどが兵士ではなく民間人だったことがわかりますが、「点々アルノミニテ激戦ノ痕ヲ見ス」としていますので、戦闘の痕跡のない道路上に点々と死体が捨てられていたということになります。

しかし、そうであればその放置された民間人の死体は戦闘以外で殺されたということでしょうから、ここで記述された「路傍ノ死体」のほとんどは日本兵による虐殺によって生じたものであったことは確定的です。激戦の痕のない場所に死体があるのは不自然だからです。

上村利道もその「路傍ノ死体」がどうみても戦闘に巻き込まれたとは見えなかったので、あえて「其モ点々アルノミニテ激戦ノ痕ヲ見ス」と書き添えたのかもしれません。

他の兵士の日記や証言、現地住民の証言などを読むと、進軍する日本兵が中国人の現地民を捕らえて暴行したうえで殺害したり、略奪(掠奪)や強姦したあとに証拠隠滅のために殺したケースが多くありますから(※下に挙げる岡本健三氏の証言にもあるように強姦や略奪は懲罰対象なので証拠隠滅のため被害者を殺す日本兵が多かった)、この部分の記述は上海から南京に至る途中の集落で延々と日本軍が一般市民を虐殺して進軍したことを裏付ける記述と言えるのではないでしょうか。

強姦事件のことも噂じゃない、実際にあったことだ。占領直後はメチャクチャだった。杭州湾上ってから、それこそ女っ気ないしだからね。兵隊は若い者ばっかりだし……上の者がいっていたのは、そういうことをやったら、その場で女は殺しちゃえと。剣で突いたり銃で射ったりしてはいかん、殴り殺せということだった。誰がやったのか分からなくするためだったと思う。そりゃあ、強姦、強盗は軍法会議なんだ。けど、一線部隊の時は多めに見ちゃうんだなあ。見せしめの銃殺……いや、罰せられたって奴はいなかった。

出典:岡本健三氏の証言(※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 72頁)

なお、上村利道日記のこの部分が中国市民のことを「土民」と記述しているところに当時の日本人がアジア人全体に対して持っていた蔑視意識が如実に表れています。

日記なので第三者に読まれることを想定せずにそう記述したのかもしれませんが、そうした中国人に対する侮蔑感情が中国人に対しては何をしても許されるのだという考えに繋がって強姦や略奪(掠奪)、殺人などの暴虐行為を正当化することに繋がり南京事件を引き起こしたのですが、参謀副長の上村利道ですらそこに気づいていません。

軍の幹部将校でもこの程度の倫理観しか持っていなかったのですから、軍紀粛正の徹底が図られなかったのは必然だったのかもしれません。

(3)昭和12年12月12日「皇軍不軍紀ノ一端ヲ耳ニス」

上村利道日記の昭和12年12月12には、南京を占領した日本軍による暴虐行為に関する記述が見られます。

此日ノ走破距離二五〇粁』大西参謀偶々同司令部ニ在リ、皇軍不軍紀ノ一端ヲ耳ニス。実ニ遺憾千万ナルコトナリ

出典:上村利道日記※昭和12年12月12日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』265頁上段

ここで上村利道は「皇軍不軍紀ノ一端ヲ耳ニス」としていますが、昭和12年12月13日の南京陥落以降、日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)が頻発していましたので、ここでいう「不軍紀ノ一端」も、そうした日本兵による非違行為の「一端」を軍司令部が認識していたことがわかります。

この記述も、当時の南京で日本兵による暴虐行為が繰り返されていたことを示す記録と言えます。

(4)昭和12年12月18日「軍規ヲ緊粛スヘキコト」

上村利道の昭和12年12月18日には日本兵による非違行為があったことを伺わせる次のような記述が見られます。

松井将軍ヨリ直接口達サレシハ次ノ三件ノ由承知ス
一、軍規ヲ緊粛スヘキコト
二、支那人ヲ馬鹿ニセヌコト〔以下省略〕

出典:上村利道日記※昭和12年12月18日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』267頁下段

中支那方面軍の司令官松井石根が「軍規ヲ緊粛スヘキ」との訓示を行ったということですから、占領後の南京で日本兵による非違行為が頻発していたことがわかります。

また、「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」とありますから、中国人に対する蔑視意識がそうした非違行為に繋がっていたという認識も持っていたのでしょう。

この記述は、占領後の南京で中国人を侮蔑した日本兵による略奪(掠奪)、強姦、放火、暴行(殺人・傷害を含む)が頻発していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。

(5)昭和12年12月19日「軍紀上面白カラサル事ヲ耳ニスルコト多シ」

上村利道日記の昭和12年12月19日にも日本兵による非違行為に関する記述が続きます。

〔中略〕但江陰及光華門ノ戦闘ニハ幸間ニ合ヒ大功ヲ奏セシ由、森田少佐説明ス』軍紀上面白カラサル事ヲ耳ニスルコト多シ、遺憾ナリ

出典:上村利道日記※昭和12年12月19日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』268頁上段

「軍紀上面白カラサル事ヲ耳ニスルコト多シ」とありますから、これも南京を占領した日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害を含む)など非違行為が頻発していたことを裏付ける記録と言えます。

(6)昭和12年12月21日「敵味方共々MGニテ撃チ払ヒ散逸セシモノ可ナリ有ル模様」

上村利道日記の昭和12年12月21日には、南京北東の幕府山付近で行われた山田支隊における大規模虐殺に関する記述が見られます。

N大佐ヨリ聞クトコロニヨレハ山田支隊俘虜ノ始末ヲ誤リ、大集団反抗シ敵味方共々MGニテ撃チ払ヒ散逸セシモノ可ナリ有ル模様。下手ナコトヲヤツタモノニテ遺憾千万ナリ

出典:上村利道日記※昭和12年12月21日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』268∼269頁

山田支隊は揚子江(長江)を渡河して滁県(滁州)の方に向かった第十三師団と鎮江で別れて揚子江(長江)右岸沿いを南京城北東方面に西上した別動隊で、南京城手前の幕府山あたりで投降してきた中国軍守備隊や南京から逃れてきた敗残兵の1万5千から2万人を捕縛したうえで揚子江(長江)河岸に連行し銃殺したことが中国側だけでなく日本軍兵士の日記や手記、証言等によって明らかにされています。

ここでは「MGニテ撃チ払ヒ」とありますので、マシンガンによる一斉射撃で捕虜を銃殺したことがわかります。

この点、文中に「俘虜ノ始末ヲ誤リ」「大集団反抗シ」とありますので、捕縛した捕虜が反乱を起こしたので仕方なく銃殺したのだろうと考える人がいるかもしれませんが、そうではありません。

実際どうだったかというと、幕府山付近で投降して捕縛した15,000∼20,000人の捕虜を司令部から「皆殺セ」との指示を受けた山田支隊が、「揚子江の対岸に船で輸送して解放する」という趣旨の言葉で安心させて揚子江河岸まで連行したものの、河岸に船が一隻もないのを見て処刑されることに気づいた一部の捕虜が騒ぎ出したためマシンガンで一斉射撃したところ、捕虜の逃げ場がないようにマシンガンを半円形に配置していたため対面の日本兵に弾が当たって複数の日本兵が同士討ちで死傷したというのが実情です(※この辺りは「渡辺寛著『南京虐殺と日本軍』明石書店」で詳しく説明されていますので興味のある人はそちらを参照してください)。

なお、「俘虜ノ始末ヲ誤リ」との部分は、本来は処刑するはずのなかった捕虜を”誤って”銃殺してしまったということではありません。「始末ヲ」としていますので捕虜の処刑は確定事項で、単に同士討ちで味方の日本兵に死傷者を出してしまったことを「誤リ」と述べているだけですのでその点を誤解しないように注意が必要です。

この山田支隊の幕府山付近における大量虐殺については他にも複数の日本軍将兵の日記や手記等の記録で裏付けられていますが(※例えば→『飯沼守日記は南京事件をどう記録したか』)、この上村利道日記もそれらと同様に、山田支隊における大虐殺を裏付ける記録の一つと言えます。

(7)昭和12年12月25日「未タ不体裁ナ屍体ハ通リヲ離レタトコロニハ幾ツモ転ガッテ居ル」

上村利道日記の昭和12年12月25日には、下関(シャーカン)附近に散乱する死体を次のように記録しています。

下関、獅子林附近視察。市内ノ道路モ大分片附イタガ、未タ不体裁ナ屍体ハ通リヲ離レタトコロニハ幾ツモ転ガッテ居ル。部隊其物ハ案外無関心テアル。

出典:上村利道日記※昭和12年12月25日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』270頁上段

13日の南京陥落の際、逃げ遅れた多くの中国兵と一般市民が揚子江対岸の浦口(ホコウ)に渡るため埠頭のあった下関(シャーカン)方面に殺到しましたが、包囲してきた日本軍に殺害されて路上や河岸に放置されました。

そうして殺された軍民は数万とも言われていて、膨大な数の軍民が下関付近で殺害されたことは他の日本兵や南京に残留した外国人の記録などによっても記録されていますが(※例えば→泰山弘道従軍日誌は南京事件をどう記録したか)、25日になってもそこで殺された死体が残されていたことがこの記述からわかります。

もちろん、離脱を図る市民のみならず、たとえ兵士であっても銃を捨て総崩れとなった敗残兵に対しては投降を促すなど人道的な対処を取ることが当時の国際法で定められていましたから、ここに記述された「通リヲ離レタトコロニハ幾ツモ転ガッテ居ル」死体を生み出した日本軍の殺戮は明らかな戦時国際法違反行為であって不法殺害、つまり「虐殺」です(この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

上村利道日記のこの部分の記述は、当時の南京で日本軍による虐殺があったこと、またその虐殺による死体が陥落から10日以上経った25日になっても未だ路上等に放置されていたことを示す貴重な記録の一つと言えます。

(8)昭和12年12月26日「英国大使館ノ自動車九台、米国大使館ノ自動車六台強奪」

上村利道日記の昭和12年12月26日には日本兵による略奪(掠奪)に関する記述が見られます。

日本軍カ英国大使館ノ自動車九台、米国大使館ノ自動車六台強奪、尚南京自治委員ノ某乃自動車一台掠奪サレ調査中トノ会報アリ

出典:上村利道日記※昭和12年12月26日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』270頁下段

外国公館において発生した日本兵による略奪(掠奪)や強姦については日本軍将兵の日記や軍が送信した電報記録などでも明らかにされていますが(※例えば→『飯沼守日記は南京事件をどう記録したか』『日本軍の電報・申送り(申継書)は南京事件をどう記録したか』)、この部分の記述もそうした略奪(掠奪)が事実だったことを裏付ける記録と言えるでしょう。

(9)昭和12年12月27日「獲物ヲ漁ル無智ノ兵隊ノ為メ破壊サレントス」

上村利道日記の昭和12年12月27日も略奪(掠奪)に関する記述が続きます。

南京市内ニ在ル学術品貴重品、ダンダン獲物ヲ漁ル無智ノ兵隊ノ為メ破壊サレントス

出典:上村利道日記※昭和12年12月27日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』270頁下段

学術品や貴重品などを破壊する日本兵の描写ですが、南京を占領した日本兵はあらゆる建物に押し入って美術品や骨董品などを略奪したり破壊したりしましたから、そうした事例が軍司令部にも多数報告されていたのでしょう。

ちなみにこうして掠奪された美術品や骨董品は日本軍占領後に南京に進出してきた日本人商人に売却されたり上海に運ばれて売られたり、あるいは船で内地に運ばれたりしています。

夜盗や窃盗団と何ら変わらなかったのが「皇軍」を自称した日本兵だったわけです。

(10)昭和13年1月7日「軍記粛清ノ的ハ他ニ在ル」

上村利道日記の昭和13年1月7日には、軍紀粛正が徹底されない中で軍参謀の髪型を咎める少佐に呆れる記述が見られます。

藤田少佐カ昨日軍参謀ノ頭髪ヲノハシアル件ヲ攻撃セシ由〔中略〕軍記粛清ノ的ハ他ニ在ルヲ知ラスヤ

出典:上村利道日記※昭和13年1月7日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』274頁上段

頭髪を伸ばした軍参謀が藤田という少佐から咎められたのでしょう。「軍記粛清ノ的ハ他ニ在ルヲ知ラスヤ」とありますが、「他ニ在ル」「軍記粛清ノ的」は、南京で一向に収まらない日本兵による略奪(掠奪)や強姦(レイプ)などの非違行為に他なりませんので、頭髪のことを云々言う暇があったら南京市内でやりたい放題やっている日本兵の軍記粛清を考えたらどうなのかと呆れている様が伺えます。

この藤田少佐なる人物にとっては、略奪(掠奪)や強姦、放火される中国人の苦しみよりも、将兵の髪型の方が重要だったのでしょうか。

南京における略奪(掠奪)や強姦は尉官級以上の将校が関与した事例も多くありましたが、こうした歪んだ軍記粛清の感覚が日本兵による暴虐行為を拡大させた一因だったのかもしれません。

(11)昭和13年1月8日「少尉、准尉級ニ破廉恥行為アルハ遺憾至極」

上村利道日記の昭和13年1月8日も、日本兵による暴虐行為の記述が続きます。

憲兵報ニヨレハ軍紀上ノ非行者相当アリ、召集ノ少尉、准尉級ニ破廉恥行為アルハ遺憾至極ナリ

出典:上村利道日記※昭和13年1月8日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』274頁下段

ここでは「少尉、准尉級ニ破廉恥行為アル」としていますので、末端の兵士だけではなく部隊長レベルの尉官級将校までが一般市民に対する略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為に手を染めていたことがわかります。

尉官級の将校までが暴虐行為を働いているのですから軍記粛清などあったものではありません。日本軍が占領した南京は地獄以外の何物でもなかったでしょう。

(12)昭和13年1月12日「軍規風紀ヲ緊粛スヘキ電報」

上村利道日記の昭和13年1月12日も日本兵による暴虐行為の記述が見られます。

参謀総長殿下ヨリ軍規風紀ヲ緊粛スヘキ電報ノ来シヲ観テ恐縮ニ不堪

出典:上村利道日記※昭和13年1月12日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』275頁上段

「軍規風紀ヲ緊粛スヘキ電報」とありますから、南京において日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為が後を絶たなかったことがわかります。

これも当時南京で日本兵による暴虐行為が収まらなかったことを裏付ける記録の一つです。

(13)昭和13年1月13日「種々面白カラヌ話ヲ聞キ不愉快」

上村利道日記は昭和13年1月13日も日本兵による暴虐行為を伺わせる記述が続きます。

種々面白カラヌ話ヲ聞キ不愉快ナリ。

出典:上村利道日記※昭和13年1月13日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』275頁下段

「種々面白カラヌ話」が具体的に何を指すのかは明確ではありませんが、当時の南京で「面白カラヌ話」は常識的な感覚を持っていた人にとっては日本兵による強姦(レイプ)などの非違行為以外ありませんから、これも日本兵による暴虐行為の事実を示す記録の一つと言ってよいでしょう。

(14)昭和13年1月15日「聴ケハ聴ク程非常識ト非行多キ」

上村利道日記は昭和13年1月15日も日本兵の暴虐行為に関する記述が続きます。

宮崎憲兵ノ行動聴ケハ聴ク程非常識ト非行多キカ如シ。困ツタモノナリ。

出典:上村利道日記※昭和13年1月15日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』276頁上段

「聴ケハ聴ク程非常識ト非行多キ」の「非行」が具体的に何なのかは明確ではありませんが、先ほどから繰り返しているように当時の南京で日本兵の「非行」は強姦や略奪(掠奪)、放火や暴行(殺人・傷害含む)以外ありませんので、これも日本兵の暴虐行為の事実を裏付ける記録の一つと言えます。

(15)昭和13年1月21日「掠奪婦女拉致等…外交官無力、軍部統制ノ意思ナキ」

上村利道日記は昭和13年1月21日も日本兵による非違行為の記述が続きます。

掠奪婦女拉致等軍紀問題ニ関シ「アメリカ」領事東京大使ニ「外交官無力、軍部統制ノ意思ナキ」旨打電セシ由、参謀次長ヨリ真相取調へ方要求シ来ル。本郷参謀ノ交渉ニ由レハ領事ハ陳謝セシ由、16D司令部附大尉ニ、通訳ニノ不軍紀事件憲兵報告ニ接ス。不都合ナル奴共ナリ。尚緊粛ノ要アリ。

出典:上村利道日記※昭和13年1月21日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』277頁上段

前段は南京において頻発している日本兵による略奪(掠奪)や強姦、強姦目的での女性の拉致等の事件の事実、またその日本兵による非違行為を日本大使館員や現地軍が全く統制できていない事実を米国領事が東京の駐米大使に電報で報告したことが記されていますが、それは事実に間違いないのでこれも当時の南京で日本兵による強姦や強姦目的の拉致事件が頻発していたこと、またそれを現地軍が放置していた事実を裏付ける記録と言えます。

後段は大尉や通訳までが非違行為をしていたとする憲兵からの報告があったということでしょうから、これも尉官級の上級将校にまで強姦や略奪(掠奪)などの非違行為が蔓延していたことを裏付ける記録と言えます。

(16)昭和13年1月29日「33iノ天野事件軍法会議ニ附スルコトヲ決ス」

上村利道日記の昭和13年1月26日から29日にかけては、第16師団歩兵第30旅団歩兵第33連隊の天野中尉による非違行為に関する記述が続きますので一連で紹介しておきます。

33i第八中隊天野某中尉ノ非行偶々本郷参謀ニヨリテ発見、出発ヲ明早朝ニ控エタル本夜大隊長ヲ招致シ、其取調ヲ命スルト共ニ天野部隊関係者ノ出発ヲ停止シ、憲兵隊長ニ取調ヲ命ス。遺憾千万ナリ。

出典:上村利道日記※昭和13年1月26日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』278頁上段

天野中尉ノ取調ニ就テ憲兵報告……昨夜ノ勢当ルへカラス、大隊長不甲斐ナクモ統制出来ス。

出典:上村利道日記※昭和13年1月27日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』278頁下段

33iノ天野事件軍法会議ニ附スルコトヲ決ス」其他法務部長ノ手許ニハ軍法会議事件数件アリ

出典:上村利道日記※昭和13年1月29日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』278頁下段

この「天野事件」は、米国人経営の商店に押し入って略奪(掠奪)や中国人女性を拉致して強姦したあげくに米国大使のアリソンを殴打したことで外交問題に発展した事件(所謂「アリソン事件」)で、飯沼守の日記などで詳しく記録されています(飯沼守日記の該当箇所については→飯沼守日記は南京事件をどう記録したか)。

次のような証言があるように、日本兵による暴虐行為については一応は憲兵が取り締まっていましたが、憲兵の絶対数が少なかったこともあって口頭の注意で済ませるだけで放免されることがほとんどだったのが実情です。

五万以上の日本軍が南京を横行しているとき、憲兵はたった十七人しか到着しておらず、幾日たっても一人の憲兵の影も見出せなかった。後になって若干の日本兵が憲兵の腕章をつけて取り締まるようになった。が、これはむしろ悪いことをするのに便利で単に普通の下らぬ事件しか阻止しえなかった。我々の聞くところでは、強姦で捕まった日本兵は叱責されるほか何らの懲罰も受けず、掠奪を働いた兵隊は上官に挙手の敬礼をすればそれで事は済む由だった。

出典:ティンバーリイ著『外国人の見た日本軍の暴行』評伝社65頁

北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、跪いて助けを求めた。わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることができない。

出典:ミニー・ヴォートリン(岡田良之助/伊原陽子訳、笠原十九司解説)『南京事件の日々』大月書店 70頁※ミニー・ヴォートリンの日記 1937年12月20日の部分

「二月の五日か六日ごろ、軍の高官がやってきて、南京駐在部隊の将校、主として尉官級の将校、また下士官をあつめて、日本軍の士気のためにも、またその名誉のためにも、こういう状態は即時止められなければならないということを申渡したことを知ったが、それまでは何ら、有効適切な手段がとられたということ、また強姦その他の残虐行為を犯した兵士にたいして、処罰がおこなわれたということを聞いたことがない」

出典:洞富雄編『日中戦争史資料 Ⅰ』56頁※洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 133頁※ベーツ博士の証言

しかし、この「天野事件(アリソン事件)」は米国人外交官を殴打したことで外交問題に発展してしまったため、珍しく軍法会議に処せられたわけです。

上村利道日記のこの部分も、当時の南京で日本兵による略奪(掠奪)や強姦が横行していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。

(17)昭和13年2月7日「軍規ノ粛清ヲ参集団長ニ訓示セラル」

上村利道日記の昭和13年2月7日には、慰霊祭が終わった後に軍記粛清を訓示した中支那方面軍司令官松井石根の様子を次のように記録しています。

英霊二万余ノ慰霊祭挙式〔中略〕終了後松井大将感想ヲ述へ、軍規ノ粛清ヲ参集団長ニ訓示セラル。

出典:上村利道日記※昭和13年2月7日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』280頁下段

松井石根が軍参謀や師団長以下軍幹部に軍記粛清を泣いて訓示したと言われる有名なエピソードがありますが、それがこの2月7日に行われた慰霊祭です。

もちろん、松井石根が「軍規ノ粛清ヲ参集団長ニ訓示」したのですから、その「軍紀ノ粛清」の原因となった日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの暴虐行為があったことを前提としています。

上村利道日記のこの部分も、占領下の南京で日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)があったことを裏付ける記録と言えるでしょう。

(18)昭和13年2月13日「軍規風紀上の事故未タ相当ニ多シ」

上村利道日記は昭和13年2月13日になっても日本兵による暴虐行為の記述が続きます。

憲兵報告ヲ見ルニ軍規風紀上の事故未タ相当ニ多シ。常規ヲ脱セル意想外ナルモノアリ。動機ハ酒ナリ。実ニ遺憾千万ナリ

出典:上村利道日記※昭和13年2月13日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』282頁下段

南京陥落は前年の12月13日ですから、2ヶ月が経過しても全く日本兵による暴虐行為が収まっていないことがわかります。

こうした記録を見れば、当時の日本軍において兵士の統制が全くできていなかったことがわかるでしょう。

「動機ハ酒ナリ」とありますが、上海攻略戦から南京攻略にいたる進軍の過程でも日本兵は現地住民に対する略奪(掠奪)や強姦、暴行(殺人・傷害含む)を繰り返してきたのですから「酒」の有無は全く関係ありません。

上村利道は参謀副長ですが、こうした認識の甘さが日本兵の暴虐行為を統制出来なかった一番の原因ではなかったでしょうか。