菅原茂俊は南京攻略戦に派遣された第九師団の歩兵第十八旅団歩兵第三十六連隊の乙副官として配属された歩兵少尉で、南京攻略戦の最中に記録した日記が公開されています。
上海戦から南京戦に至る過程では沿道で日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの暴虐行為が繰り返されたことがわかっていますが、菅原茂俊の日記にもそうした暴虐行為の記述が多数見られますので、南京攻略戦の過程で日本兵が具体的にどのような暴虐行為を働ていたのかを知るうえで貴重な資料となっています。
では、菅原茂俊の日記は南京事件をどう記録したのか確認してみましょう。
菅原茂俊の日記は南京事件をどう記録したか
(1)昭和12年10月2日「兵、いろいろ徴発して」
菅原茂俊日記の昭和12年10月2日には糧秣の略奪(掠奪)に関する記述が見られます。
兵、いろいろ徴発してイモと缶肉の煮物を作る。おいしい。兵盛んに物資を集めてゐる。
出典:菅原茂俊日記※昭和12年10月2日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』357頁下段
この点、日記では「徴発」としていますので略奪(掠奪)ではないではないかと思う人もいるかもしれませんが、「徴発」は糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記したうえで司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなど、正式な手続きをとることが必須です。
しかし、次のような証言があるように、上海戦から南京攻略戦に至る過程でそうした正規の手続きで「徴発」した兵士はほとんど皆無だったのが実情です。
元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。
出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁
然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。
出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言
しかも、上海戦から南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。
つまり、兵士の日記には「徴発」と書いてあっても、実際はそのほとんどすべてが略奪(掠奪)だったわけです。
そしてもちろん、そうして「徴発(実際には略奪(掠奪))」してきた物資は現地住民が生きていくために不可欠な食糧なのですが、その徴発物資で作った食事を「おいしい」と、また「兵盛んに物資を集めてゐる」などと記述している部分からは、そうした現地住民に対する贖罪の気持ちは微塵も感じられません。
上海戦から南京攻略戦に派遣された日本軍は「皇軍」を自称しましたが、その実態は現地住民の大切な食料を奪いつくし、困窮する中国人を顧みることもなく贅沢に溺れる夜盗、窃盗団と大差ないならず者集団だったわけです。
(2)昭和12年10月3日「家屋には子供、病人、老人等居る」
菅原茂俊日記の昭和12年10月3日の部分には、戦闘に巻き込まれて傷つく現地中国市民を次のように記録しています。
〔中略〕胡家宅に夕方着し、本部を此処に置く。砲弾は本部近く落下す、小銃弾盛んにヒュンヒュンと音をたててゐる。家屋には子供、病人、老人等居る、通訳の話しに依れば病人はこの家の者にて他は避難者とのこと、その様はあはれ。どんどん死者、負傷者一線より担架で運ばれ、うめく、処置はしてやれず実際可哀想だ。〔以下略〕
出典:菅原茂俊日記※昭和12年10月3日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』358頁上段
ここでは「家屋には子供、病人、老人等居る」としていますので、連隊が本部を置いた家屋かそのすぐ近くに現地の一般市民が多数避難していたことが伺えます。
つまり、上海戦から南京戦に至る過程で日本軍は、現地住民が多数避難する場所のすぐそばで戦闘を継続していたわけです。
日記のこの部分の記述からは現地の中国市民がどの程度死傷しているかを判断することはできませんが、こうした状況からは現地市民にも甚大な死傷者が出たこと、また家屋を破壊されたことが想像できます。
先の戦争では国内の空襲や原爆の事例を挙げて戦争の悲惨さが語られることが多いですが、それ以前に日本軍が多くの中国市民を戦闘に巻き込みその命や財産に甚大な犠牲を強いていた事実を、もっと知るべきではないでしょうか。
(3)昭和12年10月5日「子供、老人、病人を皆やっつけるとのこと」
菅原茂俊日記の昭和12年10月5日には一般市民の虐殺を伺わせる記述があります。
〔中略〕小張宅にて宿営。砲弾も来たらず、胡家宅の方が返って危険であった。地方人や子供、老人、病人を皆やっつけるとのこと、可哀想だ。〔以下略〕
出典:菅原茂俊日記※昭和12年10月5日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』359頁上段
ここでは「地方人や子供、老人、病人を皆やっつけるとのこと」としており、「やっつける」とは「殺す」という意味でしょうから、菅原の属した歩兵第36連隊で一般市民の処刑に関する指示が出されていたことがわかります。
この部分の記述からは実際に「地方人や子供、老人、病人」を処刑したことまでは読み取れませんが、部隊に出された指令に背くことは考えられませんので、中国軍の兵士だけでなく「地方人や子供、老人、病人」など現地の一般市民まで処刑したと考えるのが常識的でしょう。
しかしもちろん、それは違法殺害であって「虐殺」そのものです。
前述の(2)で紹介した10月3日にも「家屋には子供、病人、老人等居る」との記述がありましたが、もしかしたら、その「子供、病人、老人」も、この4日の部分と同じように「皆やっつけ」られたのかもしれません。
この部分は、上海戦から南京攻略戦の過程において日本軍が「子供、老人、病人」などの一般市民を虐殺して進軍したことを裏付ける記録と言えるのではないでしょうか。
(4)昭和12年10月25日「敗残兵が逃げる、つかまえて殺す」
菅原茂俊日記の昭和12年10月25日には、明らかな虐殺に関する記述が見られます。
〔中略〕敗残兵が逃げる、つかまえて殺す。八房宅から走馬塘クリークに至れば死屍累々。北張村に入れば、残敵又二人、又一人とつかまへた。日下ぬかって一人逃がす。
出典:菅原茂俊日記※昭和12年10月25日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』365頁上∼下段
「敗残兵が逃げる、つかまえて殺す」とありますが、いったん「つかまえ」たのであればそれはハーグ陸戦法規によって捕虜として人道的な配慮をすることが求められますから「殺す」ことはできませんし、仮にその「つかまえ」た「敗残兵」に非違行為があったとしても、それを理由に処刑するには軍事裁判を経なければなりませんから軍事裁判を省略して処刑している点でこの敗残兵を「つかまえて殺」した事例は明らかな戦争法規違反にあたる不法殺害です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
「クリークに至れば死屍累々」の部分からは、そうして捕らえた敗残兵を処刑した死体が累々と続いていたことが伺えますが、この部分は菅原茂俊の所属した歩兵第36連隊やその他の部隊で継続的な敗残兵の虐殺があったことを裏付ける記録と言えるでしょう。
(5)昭和12年10月29日「縛り上げ、夕方畑でやっつける」
菅原茂俊日記の10月29日は、違法な使役と虐殺に関する記述が続きます。
〔中略〕に移動。支那人がどんどん入り込んでくる。午後九人下枝部隊に使役されていたと云ふが、その中の一人が、あの七名は残敵だといふので縛り上げ、夕方畑でやっつける。自分も初めて二人切った。あとで見ると刀が少し曲った。
出典:菅原茂俊日記※昭和12年10月29日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』366頁上段
この点、まず「九人下枝部隊に使役されていた」の部分を検討しますが、その後の方に「残敵だといふので」とありますので、民間人を捕らえて使役させていたことがわかります。
しかし、当時の国際法規は捕虜や一般市民を使役させる場合は労賃を払うことが義務付けられていましたが(捕虜の使役はハーグ陸戦法規第6条、市民の使役はハーグ陸戦法規第52条)、上海戦から南京攻略戦に参加した部隊で使役させた中国人に賃金を支払ったというケースは見られませんので国際法規に違反する使役があったことが伺われます。
また、「縛り上げ、夕方畑でやっつける」や「二人切った」の部分からは捕縛した敗残兵を斬殺したことが伺えますが、前述したように捕虜の処刑はハーグ陸戦法規に違反しますので、これも戦時国際法に違反する不法殺害、つまり「虐殺」の事実を示す記述と言えます(※この点の詳細も→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
菅原茂俊日記のこの部分は、日本軍で違法な使役や虐殺があったことを裏付ける記録と言えるでしょう。
(6)昭和12年11月11日「昨夜は寺田中尉がダイてねた」
菅原茂俊日記の昭和12年11月11日には、将校による現地女性の強姦に関する記述が見られます。
〔中略〕蘇州河を渡り施家巷の方へ廻る。〔中略〕本部に女が居り不思議に思った処が、逃げおくれた者、名は□□□、夫は逃げたと云ふ。昨夜は寺田中尉がダイてねたと。
出典:菅原茂俊日記※昭和12年11月11日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』368頁下段
「逃げおくれた」「ダイてねた」とありますので、日本軍の進軍から逃げる際、夫とはぐれた女性を「寺田中尉」が拉致して司令部に監禁し、レイプしたことがわかります。
上海戦から南京まで400㎞に及ぶ進軍の途上では多くの日本兵が途中の村や街で捕まえた女性をレイプしたことが兵士の日記や証言、現地市民の証言などでわかっていますが、次の岡本健三氏の証言にもあるように、末端の兵士だけでなく尉官級以上の将校の中にもレイプを好んだ者も多くあり、中には捕らえた女性を行軍中も引き連れて毎晩のように宿営地で犯していたとも言われています。
強姦事件のことも噂じゃない、実際にあったことだ。占領直後はメチャクチャだった。杭州湾上ってから、それこそ女っ気ないしだからね。〔中略〕ただ、悪いのは兵隊ばかりではなかった。将校が先になってやった場合もある。ひどい中隊長、大隊長なんかになると、南京行くまでに、あの戦闘期間にだって、女を連れて歩いていたのがいた。
出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 72頁※岡本健三氏の証言
この「寺田中尉」も、おそらくそうして捕縛した女性を性奴隷として引き連れて、毎晩のように司令部を置いた家屋でレイプしていたのでしょう。
なお、こうした将校専属の「慰安婦」とするために中国人女性を拉致した事例は、梶谷健郎日記など他の将兵の日記にも記述がありますので(梶谷健郎の日記は南京事件をどう記録したか)、ほとんどの部隊がこの「寺田中尉」と同様に現地女性を強制的に慰安婦にしていたものと考えられます。
菅原茂俊日記のこの部分は、上海戦から南京攻略戦の進軍の過程において、日本兵による強姦があったこと、またその強姦は末端の兵士だけでなく尉官級以上の将校の間でも蔓延していたことを裏付ける記録の一つと言えます。
(7)昭和12年11月13日「敵を処分するを見る」
菅原茂俊日記は11月13日も虐殺に関する記述が続きます。
〔中略〕三時南方千秋橋に来る。〔中略〕途中にて一名、千秋橋にて一名残敵を処分するを見る。〔以下略〕
出典:菅原茂俊日記※昭和12年11月13日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』369頁上段
「途中にて一名、千秋橋にて一名残敵を処分するを見る」としていますから、進軍の途中で他の部隊が敗残兵を処刑していたことがわかります。
「処分」ですから、戦闘中ではないので銃殺か斬殺で殺したのでしょうが、先ほども述べたように捕虜の処刑は陸戦法規違反ですから、これも不法殺害であって「虐殺」以外の何物でもありません。
この部分の記述も、上海戦から南京攻略戦に至る過程で日本軍による虐殺があったことを裏付ける記録の一つと言えます。
(8)昭和12年11月22日「砂糖、ミソ、酒、米等入手。饅頭を作る」
菅原茂俊日記の昭和12年11月22日も、徴発の記述が見られます。
〔中略〕午前、佐藤十名余りを引率して望亭に徴発に行く。正午過ぎ帰り、砂糖、ミソ、酒、米等入手。饅頭を作る。午後当番の部屋にて休む。夕方一杯やる。〔以下略〕
出典:菅原茂俊日記※昭和12年11月22日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』370頁下段
この点、ここでは「徴発」としていますが、前述の(1)の部分でも述べたように、上海戦から南京攻略戦に参加した部隊で正式な手順で「徴発」した部隊はほぼありませんから、この「徴発」も間違いなく略奪(掠奪)です。
ここでは「砂糖、ミソ、酒、米等」を略奪(掠奪)して「饅頭を作」った挙句、「一杯」やっていますが、そうした”おやつ”や”晩酌”のための食料は、戦災で非難する現地住民の大切な食料であったはずです。
ここで略奪(掠奪)された現地住民は飢えと寒さで大変な思いをしたはずですが、そうした現地住民に対する悔恨の情はここでも微塵も感じられません。
「皇軍」を自称した日本軍の兵隊は、現地の市民からは餓鬼に見えたのではないでしょうか。