太田壽男の供述書は南京事件をどう記録したか

太田壽男は南京が陥落した二日後の昭和12年12月15日に南京の下関(シャーカン)に入り、下関の第二碇泊司令部部員として滞在した騎兵少佐で、撫順戦犯管理所に戦犯として収監されていた際に1954年8月3日付で提出した罪行供述書が公開されています。

太田供述書の特徴は、陥落後の南京で膨大な数の軍民の死体を処理した経緯が具体的に記録されている点で、南京において日本軍が行った軍民に対する虐殺の規模を考える点で重要な資料となっています。

では、太田壽男の供述書は南京事件をどう記録したのか確認してみましょう。

太田壽男の供述書は南京事件をどう記録したか

(1)「アヒル約三〇羽ヲ掠奪ス」

太田壽男の供述書には、略奪(掠奪)に関する次のような記述があります。

(ハ) 11月中旬〔中略〕常熱西方約二粁ノ運河ニ沿フ池ニ於テ浮遊セルアヒル約三〇羽ヲ掠奪ス(住民ハ居ラザルモ附近ノ村落ニ居住スル中国人民ノ所有セルモノナルコトハ明ラカナリ)

出典:太田壽男供述書:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』420頁下段

この部分は11月中旬としていますので南京攻略戦の前、蘇州の碇泊場司令部に出張したときの出来事ですが、「アヒル約三〇羽ヲ掠奪ス」とありますので、略奪(掠奪)の事実を自供したものでしょう。

太田壽男は碇泊司令部部員のため上海戦から南京攻略戦に至る戦闘の前線にいたわけではありませんが、司令部の部員でまでもが略奪(掠奪)に手を染めていたことがわかります。

末端の兵士の日記には多くの略奪の記述が見られますが、佐官級の上級将校まで略奪(掠奪)が日常的に行われていた事実を裏付ける記録と言えるのではないでしょうか。

(2)「日本軍ハ抗日軍捕虜及住民総計約十五万人ヲ殺害セリ」

太田壽男供述書には、「南京事件ニ関スル罪行」の段落において、南京で日本軍が殺害した軍民の総数に関する次のような記述があります。

(イ) 南京事件ニ関スル罪行
一九三七年十二月中旬南京攻略ノ際日本軍ハ抗日軍捕虜及住民総計約十五万人ヲ殺害セリ
〔中略〕
第二碇泊部場司令部ハ南京攻略部隊ト協定シ下関地区ニアル中国人死体ノ処理ヲ実施シアリ目下安達少佐ガ担任セルヲ以テ太田少佐ハ之レニ協力セヨ
〔中略〕
第二碇泊場司令部ニ於ケル死体処理ハ十二月十四日ヨリ概ネ五日間ニ亘リ実施ス〔以下略〕

出典:太田壽男供述書:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』422頁上段

この日本軍が殺害したとする15万人の内訳のすべてを供述書から引用すると長くなるので省略しますが、供述書はその総計を末尾で次のように述べています。

〔中略〕
 以上全部ヲ総計セハ左ノ如シ
 (概ネ五日間ニ於テ碇泊場司令部ノ取扱ヒタル数)
  焼却、埋没地ニ運搬数   約三万
  揚子江ニ流シタル数    約七万
ハ 南京事件ニ於テ死体処理総数
  南京碇泊場ニテ担任セル数 約十万
  攻略部隊ガ取扱ヒタル数  約五万
           計 十五万ト推定ス
 右ノ死体ノ種別ハ抗日軍捕虜(推定約三万)其ノ他ハ住民ニシテ老若男女アリ、要スルニ死体ノ内別ハ住民ノ方ガ多数ナリシハ明ラカナリ
〔以下略〕

出典:太田壽男供述書:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』426頁下段

「碇泊場司令部ノ取扱ヒタル数」としたうえで「焼却」と「埋没地ニ運搬数」が「約三万」、また「揚子江ニ流シタル数」が「約七万」としていますので、太田壽男が所属した碇泊場司令部では下関(シャーカン)地域において約3万の死体を窪地に埋没し、約7万の死体を揚子江に流して捨てたことがわかります(なお、死体を揚子江に流す描写は林正明日記などにも記述があります→林(吉田)正明日記は南京事件をどう記録したか)。

また、「攻略部隊ガ取扱ヒタル数」が「約五万」とされていますので、碇泊場司令部の処理した死体とは別に、南京城の攻略部隊が処理した死体が約5万あったと太田壽男が認識していたこともわかります。

つまり、太田壽男は碇泊場司令部が処理した約10万の死体(※3万は窪地に埋没させ、7万は揚子江に流した)と、攻略部隊が処理した約5万の死体を合わせた約15万の死体が日本軍が「殺害」した「捕虜及住民」だったと供述したわけです。

したがって、太田壽男供述書のこの部分は、南京において日本軍による「十五万」もの中国人の殺害があったことを裏付ける記録と言えますが、供述書のこの部分については次の点を考慮する必要があります。

①「捕虜」の死体は「虐殺」によるもの※ただし戦闘による死体が含まれる可能性がある

まず、この供述書では「捕虜及住民総計約十五万人ヲ殺害セリ」としていますので、日本軍が殺害した約15万人のなかに「捕虜」が含まれていたことになります。

しかし、「捕虜」についてはハーグ陸戦法規が人道的な配慮をすることを要請していましたし、仮にその捕虜に何らかの非違行為があったとしても、これを処刑するには軍法会議に掛けなければなりませんから、軍法会議に掛けることなく処刑している南京のケース(※南京で処刑された捕虜で軍法会議を経たものはありません)ではその全てが国際法規に違反する「不法殺害」だったというほかありません(※詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この供述書で述べられている死体約15万人のうち「捕虜」の死体についてはその全てが「虐殺」による死体だったと判断することができます。

ただし、南京攻略戦の際は下関(シャーカン)に通じる挹江門附近において、下関を封鎖していた中国軍の守備隊が城内から下関方面に逃げようと殺到した中国軍兵士や一般市民と衝突し両者間に死者も出ていますし(※蔣公榖『陥京三月記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ 630頁、程奎朗『南京城複廊陣地の構築と守城戦闘』南京戦史資料集Ⅱ 494頁)、南京城外における戦闘で死亡したした兵士も含まれますから、その死体の中には日本軍による「虐殺」以外のものも少なからずあった可能性がありますのでその点には注意が必要です。

② 住民」の死体も「虐殺」によるもの※ただし戦闘の巻き添えによる死者や病死、餓死、事故死の死体も含まれる可能性がある

また、供述書は「捕虜及住民総計約十五万人ヲ殺害セリ」としていて日本軍が殺害した約15万人のなかに「住民」が含まれていたことになりますが、「住民」を殺害してよいという国際法規はありませんので、その死体のうち「住民」の死体は基本的に「虐殺」であったと言えます。

しかも、供述書は「要スルニ死体ノ内別ハ住民ノ方ガ多数ナリシハ明ラカナリ」としていて、約15万の死体のうち「多数」、つまり少なくとも半数以上は「住民」のものになりますから、この供述書に挙げられた「住民」の死体が全て日本兵に殺害されたものと考えれば、少なく見積もっても「住民」の虐殺は7万5千人以上に上ったと言うことができます。

ただし、この「死体」には、日本兵が虐殺したものだけでなく、戦闘の巻き添えで死んだ死体や病死や事故死なども含まれますので、その全てが「虐殺」によるものとは言えない点には注意が必要です。

③ 中国の現地住民が埋葬した死体は含まれていない

加えて、この太田壽男の供述書で述べられた約15万の死体には、中国の現地住民が埋葬した死体は含まれていない点も考えなければなりません。

太田壽男の供述書を見ると、ここに記されている約15万の死体は、碇泊場司令部が処理した主に下関(シャーカン)周辺と南京城内から運搬されてきた死体と、攻略部隊が取り扱った南京城を中心とした南京市街を中心とした地域の死体です。

しかし、南京における虐殺で生み出された死体はもちろんこれだけではありません。南京城の広さを日本で例えるとだいたいJR山手線の内側の広さと同じですが、南京市は東京都と神奈川県、埼玉県を合計した広さになりますので、この碇泊場司令部と攻略部隊が処理した地域は南京市全体から見ればごく一部の地域でしかないからです。

碇泊場司令部と攻略部隊が処理した死体以外にも、南京市内で現地住民が埋葬した死体が相当数あるはずですから、それも含めるなら15万を優に超える死体が当時は存在したはずです。

この供述書で述べられた約15万の死体はあくまでも当時南京にあった一部の死体に過ぎず、そこには南京市民が埋葬した死体は含まれていないことは注意する必要があります。

④ 中国の埋葬諸団体が埋葬した死体も含まれていない

さらに言えば、この約15万の死体の中には中国の埋葬団体が埋葬した死体が含まれていない点も注意が必要です。

東京裁判で検察側から提出された書証では、中国の諸団体が埋葬した死体について紅卍字会が43,071体、崇善堂が112,266体の合計155,337体あったとされています(洞富雄編『日中戦争大残虐事件資料集(1)極東国際軍事裁判関係資料編』青木書店378頁、380頁)。

もちろん、この紅卍字会と崇善堂が埋葬した155,337体の死体には、一度埋められていたのを別の場所に埋め直したものが含まれていたり、その死体の中には戦闘や病死によるものなども含まれる可能性がありますから、この155,337体の全てが日本軍による「虐殺」によって生じたものとは言えません。

しかし、その155,337体のほとんどは日本軍による「虐殺」によるものであったことは事実なのですから、太田壽男供述書に記述された約15万の死体と合わせれば、少なくとも20万以上、多く見積もれば30万前後の「虐殺」による死体があったはずです。

この太田壽男供述書の「計 十五万ト推定ス」とされた死体は、あくまでも当時の南京で記録された一部の死体に過ぎず、それ以外に中国の埋葬団体が埋葬した15万以上の死体があったことは十分に認識しておく必要があります。

⑤ これ以降に虐殺された死体はカウントされていないこと

なお、この太田壽男供述書の「十五万」の死体は、あくまでも碇泊場司令部が下関(シャーカン)で死体処理に携わった期間に集計した数にすぎないことも注意する必要があります。

太田壽男供述書には、第二碇泊場司令部が昭和12年12月14日から5日間にわたって下関で死体処理をしたとしていますので、ここで「十五万」とされた処理死体は、あくまでも南京陥落から19日まで殺されたものにすぎないからです。

しかし、南京ではその19日以降も日本兵による敗残兵や民間人の処刑や殺人が繰り返されていて、年末から翌年に掛けて行われた避難民から敗残兵を選別する良民登録(兵民分離)では多数の一般市民が兵士と間違われて処刑されています。

そうして19日以降に殺された中国人はこの「十五万」の中には含まれていませんので、実際に南京で虐殺された中国人はこの「十五万」を大きく上回ることは間違いありません。

この「十五万」はあくまでも12月19日の時点における一部の死体であることに注意が必要でしょう。

(3)「手鉤ヲ以テ頭部或ハ心臓部ヲ刺突シ絶命セシメテ運搬セシモノモアリ」

また、太田壽男供述書には、頓死の重症者を「手鉤」を使って殺した事実があることを次のように記しています。

〔中略〕
(3) 運搬状況〔中略〕
又死体中ニハ重傷ニシテ絶命シアラザルモノモ若干アリ、之レ等ハ手鉤ヲ以テ頭部或ハ心臓部ヲ刺突シ絶命セシメテ運搬セシモノモアリ
〔以下略〕

出典:太田壽男供述書:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』422頁下段

左ニ各時期及各地区ニ於ケル処理数其ノ他ニ就キ記述ス
〔中略〕
推定死体総数 約十万ノ内
〔中略〕
右ノ内重傷ニシテ瀕死ノ数 約一、五〇〇
計 六万五千
(内重傷瀕死 一、五〇〇ヲ含む)〔以下略〕

出典:太田壽男供述書:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』426頁上段

(5) 南京事件ニ対スル認罪態度
〔中略〕私モ亦司令部ノ一員トシテ南京下関ニ於ケル処理ヲ指導シ唯ニ死体ノ運搬ノミナラズ、私ニ配属サレテヰタ輸卒ノ中ニハ重傷ニシテ全ク絶命シアラザル者ニ対シテ手鉤ヲ以テ頭部或ハ心臓部ヲ刺突シ絶命セシメテ運搬シタモノガアル其数約三五〇(抗日軍何名、住民何名デアツタカハ今日明カデナイ然シ住民ガ多数デアツタコトハ記憶シテヰル)デアル〔以下略〕

出典:太田壽男供述書:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』426∼427頁

ここで言う「手鉤」とは、林業で使う「鳶口(鳶口|WikiPedia)」のようなもので、2mほどの棒の先に鉄製の鉤が付けられている道具を言います。

この鳶口を丸太に刺せば少ない力で動かせるので伐採作業や製材所などで広く利用されますが、陥落後の南京では散乱する死体にその鳶口に似た「手鉤」を突き刺して死体を引きずり揚子江に流していたことが日本兵や生き残った中国人の証言などでわかっています。

当然、その散乱する死体の中にはまだ息のある重傷者も少なからずありましたから、そうした重症者は生きたままこの「手鉤」を突き刺されて引きずり回され河に流されて殺されているわけです。

日本軍は、銃殺や惨殺、生き埋めや焼殺などありとあらゆる方法で南京の軍民を虐殺しましたが、こうした「手鉤」を使った殺害方法も採られていたことはあまり知られていません。しかし、日本人として知っておくべきことの一つではないでしょうか。

太田壽男供述書のこの部分は、南京において多くの日本兵がまだ息のある重傷者に「手鉤」を突き刺して殺すという極めた残酷な虐殺を繰り返していたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。