増田六助手記は南京事件をどう記録したか

増田六助は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団歩兵第十九旅団の歩兵第二十連隊第四中隊第二小隊で第三分隊長を務めた元兵士で、当時を回想した手記が公開されています。

では、増田六助手記は南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録しているのか確認してみましょう。

増田六助の手記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月13日「手当たり次第に打ち壊した」

増田六助手記の昭和12年12月13日の部分には、暴虐行為とは少し赴きが異なりますが、敗残兵掃討で南京の病院に立ち入った際の情景を次のように描写しています。

〔中略〕憎き支那兵の収容所であつた丈でも腹がたつ。戸棚と云はず机と言はず手当たり次第に打ち壊した。薬棚器具凾時計等の硝子戸も破壊した。色々の写真標本も、こと〲く銃剣で突き出した。

出典:増田六助手記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ415頁下段

この病院は中国兵を手当てするためにも使われていたのでしょうが、日本軍兵士によって徹底的に打ち壊される様子がよく表れています。

これはもちろん占領後の破壊行為であって「戦闘」によるものではありませんから、明らかな戦争犯罪を構成します。

ハーグ陸戦法規第46条

家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の進行及び其の遵行は之を尊重すべし。
私有財産は之を没収することを得ず。

ハーグ陸戦法規第47条

略奪は之を厳禁す。

ハーグ陸戦法規第55条

占領国は敵国に属し且つ占領地に在る公共建物、不動産、森林及び農場に付いては其の管理者及び用益権者たるに過ぎざるものなりと考慮し右財産の基本を保護し且つ用益権の法則に依りて之を管理すべし。

出典:ハーグ陸戦法規

なお、「憎き支那兵の」の部分からは、南京に入城した日本軍兵士に強烈な報復感情が醸成されていたのがわかります。

上海戦から南京攻略戦まで続けられた一連の戦闘では中国軍の予想外の抵抗に晒された日本軍は甚大な数の死傷者を出しましたが、中国人に対する蔑視感情にそうして死傷した戦友の報復感情も加わって暴虐行為を正当化する意思形成に作用していくことにもなったのでしょう。この描写はそうした報復感情が南京に入城した兵士に実際にあったことをよく示しています。

こうした感情が、この後2か月以上にもわたって、南京に取り残された敗残兵と非難民に向けられて地獄のような南京アトロシティーズ(暴虐行為)を形成していくことになるのです。

(2)昭和12年12月13日「方々から徴発してきた洋酒、ビール、支那酒、色々の缶詰類」

増田六助手記の13日の夜の部分には掠奪(略奪)に関する記述が見られます。

〔中略〕掠奪はもとより本意ではないが、此処数日間殆ど飲まず食はず不眠不休で戦闘をしたのも全く今日をあらしめんが為ではないか、又今日あらしむる為に幾多の戦友が尊き犠牲となつて居るでは無いか。祝南京陥落、祝南京入城だ。方々から徴発してきた洋酒、ビール、支那酒、色々の缶詰類を集めて呑んだ。

出典:増田六助手記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ415頁下段∼16頁上段

この記述からは、前述の(1)でも述べたように、中国人に対する強い復讐感情が掠奪(略奪)を正当化していることがわかります。

南京攻略戦では兵站を無視して始められたため糧秣の補給は現地調達がとられましたから、こうした徴発と称する掠奪(略奪)は、この部隊だけではなくほとんどすべての部隊で行われています。しかし、そうして掠奪(略奪)される食糧は、もちろん中国人の財産です。

(1)でも説明したように掠奪(略奪)はハーグ陸戦法規の第47条でも禁止される犯罪行為に他なりませんが、それ以前に中国人の命をつなぐ糧でもあります。

南京市街を戦場にして多数の難民を生じさせておきながら、その避難民の命をつなぐ僅かな食料さえも掠奪(略奪)していったのが、蒋介石の国民政府から南京を「解放」した「皇軍」の姿だったわけです。

(3)昭和12年12月14日「六百人近くの敗残兵を…一度に銃殺した」

増田六助手記の昭和12年12月14日には、敗残兵600名を銃殺した際の情景が具体的に記録されています。

この600名は2か所の建物でそれぞれ別に300名づつ捕らえてまとめて銃殺したというものですが、最初の建物で「軍服を脱いで便服と着換へつゝある」敗残兵を捕らえた際には、他の兵士から次のような虐待が加えられたと詳細を次のように描写しています。

〔中略〕片つ端から引張り出して裸にして持物の検査をし道路へ垂下ってゐる電線で引くくり珠々つなぎにした。〔中略〕気の立って居る者共は木の枝や電線で力任せにしばき付け乍ら「きさま達の為に俺達は此んな苦労をしているんだエイ」ピシヤン「貴様等の為にどんなに多くの戦友が犠牲になつているか知れんのじやエイ」ピシリ「貴様等のためにどんなに多くの国民が泣いてるか知れんのだぞ」エイ。ピシリピシリ、エイ、此の餓鬼奴ボン「こら此の餓鬼もだ」ボン
素裸の頭と言はず背中と言はず蹴る、しばく、たゝく思ひ思ひの気晴をやつた。少なくも三百人は居る〔後略〕

出典:増田六助手記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ416頁上∼下段

「気の立って居る者共」「貴様等の為にどんなに多くの戦友が犠牲に」と記述された部分は、(1)(2)のところでも述べた中国兵への強い報復感情が捕虜にした敗残兵に対する取り扱いにあたって日本軍将兵に強い心理的な影響を与えていたことを示すものといえるでしょう。

記述された「ピシヤン」「ピシリ」との擬音は深刻さを与えませんが、実際の現場では凄惨な虐待が加えられていたことが想像されます。

“「こら此の餓鬼もだ」ボン”の部分からは、捕らえた敗残兵の中に少年が混じっていたこともうかがわせます。

そして増田六助日記はこれに続いて、別の建物で見つけた1000人余りの避難民の中からさらに300人前後の敗残兵を捕らえた情景と、前に捕らえた捕虜を合わせて殺害した情景を次のように描写しています。

〔中略〕見ると一杯の避難民だ。其の中から怪しそうな者千人ばかり選び出して一室に入れ、又其の中より兵隊に違ない者ばかりを選り出して最後に三百人位の奴等を縛つた。金を出して命乞する者もあったが、金に欲の無い我々は十円札、三枚五枚と重ねた儘ビリツ、ビリツと引裂きポイツと投げる、又時計等出すのがおれば平気で大地に投付け、靴のかかとで踏付けて知らん顔して居る。夕暗迫る頃六百人近くの敗残兵の大群を引立てゝ玄武門に至り其の近くで一度に銃殺したのであつた。

出典:増田六助手記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ416頁上∼下段

ここでは、避難民から敗残兵を選別したいわゆる「兵民分離」がいかに杜撰に行われたかが良くわかります。

避難民から「怪しそうな者」を1000人ほど選び出して、その中からさらに「兵士に違いない者」を選別していますが、その「怪しそうな者」「兵士に違いない者」の中には恐らく数えきれないほどの一般市民が含まれていたでしょう。

この兵士を選別した「兵民分離」については水谷荘日記に詳しいですが、そこでは「靴づれ」や「面タコ」の有無、「姿勢」の良し悪し、「目付き」の鋭さ等で選別したと記録されています(※詳細は→水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)。

おそらく、この増田六助日記に記述された兵民分離においても、そうした曖昧な基準で「怪しそうな者」「兵士に違いない者」を選別し、兵士として捕らえて「電線で引くくり珠々つなぎにした」のでしょう。

そうして選別した敗残兵の中に少なからぬ一般市民が含まれていることは、この場の兵隊たちも十分認識していたと思いますが、命乞いする捕虜が差し出す紙幣を引きちぎり、腕時計を踏み潰す光景からは、そうした誤解で捕らえられる市民への同情は一切感じられません。

そうした冷酷な仕打ちも、上海戦から続いた苛烈な抵抗に対する報復感情が影響していたのかもしれません。

そして、その一般市民も多数含まれていたであろう600人余りの捕虜は、その全員が銃殺されていますが、これはもちろん「虐殺」にあたります。

この点、これはその銃殺された捕虜に一般市民が含まれていた可能性があることをもって「虐殺」になるわけではありません。一般市民が含まれていなくても、これは明らかな「虐殺」です。

なぜなら、捕虜については人道的な配慮をとることが当時施行されていたハーグ陸戦法規にも規定されていたからです。ハーグ陸戦法規は捕虜に人道的な配慮を取ることを要請していますから、その捕虜を処刑することはそもそもできません。

仮にその捕虜に何らかの非違行為があったとしても、それを処罰するには軍律会議(軍律法廷)に掛けて罪状を認知し法によって刑罰を確定した後でなけれは刑罰を科すことはできないからです。

この事例のように軍律会議(軍律法廷)を省略して即座に処刑したケースは、当時の国際法規に違反する明らかな「不法殺害」に他ならないと言えます(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この記述によって明らかとされた600名の殺害については、その600という数については概算であって正確なものではない可能性はあるものの「虐殺」と認定するしかありません。これを虐殺でないというのなら、戦争において生じる捕虜の虐殺は全て許されることになってしまうでしょう。

なお、この件に関しては「個人の日記は信用できない」とか「これはこの部隊の将兵が独断でやったもので日本軍による組織的なものではない」と考える人もいるかもしれませんが、増田六助が所属した第二十連隊第四中隊の陣中日誌にも同日(12月14日)の箇所で「敗残兵三ニ八名ヲ銃殺シ埋葬ス」と記載されていますので(詳細は→歩兵第二十連隊第四中隊の陣中日誌は南京事件をどう記録したか)、公式な記録としても裏付けられています。

この処刑は、命令に基づいた組織的な処刑(虐殺)だったことは疑いようがないと言えるでしょう。

増田六助手記に関係する論文等

なお、この増田六助手記は当時現地で記録したメモ風の陣中日誌を基にして本人が戦後に書き残したものですが、この手記のうち虐殺に関する部分については、ジャーナリストの本多勝一氏と下里正樹氏が本人と面会して詳しく聞き書きしたものが、下記参考文献に挙げた書籍に収録されています。

この手記では語られなかった内容もありますので、歩兵第二十連隊第四中隊第二小隊についてより深く知りたい方は下記参考文献の書籍を参照してください。

参考文献

  • 『増田六助手記』※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ
  • 本多勝一『日中二人の生き証人』※洞富雄/藤原彰/本多勝一編『南京事件を考える』大月書店
  • 下里正樹『隠された聯隊史』青木書店