山崎正男日記は南京事件をどう記録したか

山崎正男は南京攻略戦に参加した中支那方面軍のうち第十軍の司令部において参謀を務めた陸軍少佐で、南京攻略戦当時に現地でつけていた日記が公開されています。

山崎正男は軍司令部の参謀なので虐殺に関する直接的な記述はありませんが、司令部として南京事件にどう関わったのかを示す記述が見られますので貴重な資料であることに変わりありません。

では、山崎正男少佐は南京事件についてその日記にどのような記述を残しているのか、確認してみましょう。

山崎正男日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月14日「城門附近、敵ノ死屍累々」「城内ニ入レバ死屍殆ンドナシ」

まず、虐殺や強姦などが問題となっている”南京事件”とは直接的には関係しませんが、南京陥落時の情景を描写した部分がありますのでそこを紹介しておきます。

南京陥落は昭和12年12月13日ですが、その翌日に入城した際の情景を山崎正男日記は次のように記録しています。

城門附近、敵ノ死屍累々実ニ惨憺タリ。前ニハ我軍及濠アリ、後ニハ城壁アリテ堅ク城門ヲ鎮シ、進退両難ニテ殲滅セラレタルモノナラン。〔中略〕城内ニ入レバ死屍殆ンドナシ。何レモ退却又ハ収容セルモノナラン。

出典:山崎正男日記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ295頁上段

この記述を見ると、城門附近に多数の死体が散乱していた一方で、城内ではそれほど死体を目にしなかったことがわかります。

南京を防衛する中国軍はドイツの軍事顧問団の指導の下で南京城周辺の丘陵地帯や城門周辺にトーチカや要塞を築いて徹底抗戦しましたから、南京城での防衛戦は主に城壁外の丘陵地帯やクリーク等で行われました。そのため、城門附近では「敵ノ死屍累々」の状態になったのでしょう。

一方で、陥落が迫ると守備側は総崩れとなって統制を失い、敗残兵は武器を捨てて長江(揚子江)への脱出口となる南京城北西の下関(シャーカン)に殺到しましたから、城内では散発的な抵抗はあっても組織的な戦闘は起こりませんでした。そのため、城内に入城したこの部隊では城内であまり死体を見ることがなかったのかもしれません。

南京大虐殺を否定する歴史修正主義者からは、こうした入城の際に日本軍が城内で中国兵の死体をあまり見なかったことを根拠にして「南京城内では死体がほとんどなかったと書いてるから虐殺がなかったのは明らかだ」という主張がなされることがありますが、そもそも城内で組織的な戦闘は行われておらず、南京城の防衛戦は主に城壁の外側で行われているのですから、城内に入城した際にあまり死体を見なかったと記録する日本兵がいても不思議ではありません。

南京事件の虐殺として問題とされているのは、その入城した後に敗残兵の掃討で日本軍が拘束した捕虜の処刑だったり、その城壁内外で拘束した敗残兵を下関や長江(揚子江)河岸に連行してまとめて処刑した事案や占領後における民間人の殺害なので、日本軍が入城した際に「死屍殆ンドナシ」だったからといって、「虐殺がなかったことの証拠だ」などと言う歴史修正主義者のような認識を持ってしまわないように注意が必要です。

(2)昭和12年12月15日「俘虜ヲ料理セルモノナラントノ判断ニ意見一致ス」

昭和12年12月15日の部分には、捕虜の虐殺を示唆する記述が見られます。

夕食ヲ為シアルトキ、司令部位置ヨリ数百米ヲ離レタリト覚シキ距離ニ小銃声ニ似タル多数ノ、但シ緩徐ナル音響ヲ聞ク。最初ハ火災ニ依ル何カノ逓電爆発ナランカト話シ合ヘルモ、余リニ連続スルヲ以テ、俘虜ヲ料理セルモノナラントノ判断ニ意見一致ス。早坂少佐亦俘虜数十名ヲ連行セルヲ見タリト謂フ。

出典:山崎正男日記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ297頁下段

「小銃声ニ似タル多数ノ…音響」が実際に何だったのかこの記述からは明らかではありませんが、文章全体からは中国軍の敗残兵による散発的な抵抗が続いていたことが伺えます。

この点、この記述は「料理セルモノナラントノ判断」として暗に捕虜の処刑を示唆していますが、抵抗する敗残兵を戦闘で殺害することは許容できても、制圧して捕縛し捕虜(俘虜)としたならハーグ陸戦法規によって人道的な対処をしなければなりませんので料理(処刑)することはできません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

そうであれば、この部分で「料理セルモノナラントノ判断」と記述されたこの「判断」は、戦争法規上違法な処刑に直結する「判断」となりますので、この記述は当時の日本軍で捕虜の国際法規に違反する捕虜の「虐殺」があったことを伺わせる記述と言えるでしょう。

(3)昭和12年12月15日「火災、奪略ヲ厳禁スル様方面軍ヨリ注意アリ」

昭和12年12月15日には、中支那方面軍の中央から放火や略奪を禁じる旨の指導があったことを示す記述が見られます。

南京入城ノ際、火災、奪略ヲ厳禁スル様方面軍ヨリ注意アリ、火災モ割合ニ少ナカリキ。

出典:山崎正男日記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ297頁下段

「南京入城ノ際、火災、奪略ヲ厳禁」としていますので、それまでの上海戦から続けられた戦闘の過程で相当数の放火や略奪があったことが伺えます。

この記述は南京攻略までの過程で日本軍による放火や略奪などが繰り返されてきたこと、またそうした暴虐行為が陥落後の南京でも引き続き行われていたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(4)昭和12年12月18日「娯楽機関ヲ設置ス」

南京事件の暴虐行為とは直接的には関連しませんが、18日の部分に慰安所の設置に関する記述があるので紹介しておきます。

先行セル寺田中佐ハ憲兵ヲ指導シテ湖州ニ娯楽機関ヲ設置ス。最初四名ナリシモ本日ヨリ七名ニナリシト、未ダ恐怖心アリシ為集リモ悪ク「サービス」モ不良ナルモ

出典:山崎正男日記 昭和12年12月18日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ305頁下段

「娯楽機関」とはいわゆる従軍慰安婦が性的サービスをさせられた「慰安所」のことですが、南京攻略戦では日本兵による強姦事件が多発したことから慰安所の設置が進められたことはよく知られています。

もっとも、慰安所の設置は中国人女性を日本兵による強姦から保護するのが主たる目的なのではありません。日本軍兵士の中で性病が蔓延するのを防ぐのがそもそもの目的だったからです。

当時の日本軍では強姦によって性病が蔓延しそれが兵力の減退に影響したため、軍医が性病検査を徹底し、軍が把握できる施設で避妊具の装着を義務付けることで、ある程度性病をコントロールできると考えました。

慰安所の設置は中国人女性を守るためではなく、あくまでも日本兵を性病から守るのが目的だったことは認識しておかなければならないでしょう。