山田栴ニ日記は南京事件をどう記録したか

山田栴ニは南京攻略戦に派遣された第十三師団の別動隊、山田支隊傘下の歩兵第百三旅団長を務めた陸軍少将で、南京攻略戦の際に現地でつけていた陣中日記が公開されています。

山田支隊は南京城北東方面に位置する幕府山方面を攻略した部隊で、幕府山では1万5千から2万に及ぶ大規模な虐殺があったことがわかっていますが、同部隊の指揮官を務めた山田栴ニの日記は幕府山における大量虐殺の詳細を知るうえで欠かせない資料の一つとなっています。

では、山田栴ニの日記は南京攻略戦における日本兵による暴虐行為をどのように記録したのか確認してみましょう。

山田栴ニ日記は南京事件をどう記録した

(1)昭和12年9月21日「不良住民ニ対スル断乎タル処置」

山田栴ニ日記の9月21日の部分には、師団長の萩洲立兵中将から中国の民間人に対して厳しい処置をとるよう訓示されていたことを示す次のような記述が見られます。

会議
九月二十一日、於仙台偕行社、萩洲師団長
師団長ノ覚悟、要望
1、〔中略〕
6、不良住民ニ対スル断乎タル処置(思想戦)〔以下略〕

出典:山田栴ニ日記※昭和12年9月21日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』289頁

9月21日の時点で13師団は未だ内地にありましたので、この部分は南京戦の前哨戦となった上海上陸戦に赴く前に仙台の偕行社で会議が行われた際の描写ですが、ここで山田栴ニは師団長の萩洲中将から「不良住民ニ対スル断乎タル処置」との要望を受けていますので、山田栴ニは既にこの時点で師団長から現地の中国市民に対して「断固たる処置」をとるよう命じられていたことになります。

この点、ここで言う「不良住民」は進軍する日本軍に対して親日的な態度をとらない住民のことを指しますから、常識的に考えて、中国軍に手助けをしたり日本軍に不利益となる態度をとる「不良住民」がいる場合には厳しい態度で接するよう指示されたと言えます。

しかし当然、そうした指示があれば山田支隊では現地住民に「断乎タル処置」をとることが要請されますから、南京攻略戦においても捕虜や現地住民に「不良」な者に対して率先して「断乎タル処置」をとる方向で指示を出さなければならなくなってしまいます。

捕虜にした敗残兵や現地住民に「断乎タル処置」をとらないことが師団長からの要望に背くことになるからです。

このページの冒頭でも触れたように、山田支隊では幕府山付近で1万5千から2万に及ぶ大規模な虐殺を行っていますが、この日記に記された「不良住民ニ対スル断乎タル処置」の部分は、その虐殺に繋がる師団長からの要望がすでに9月の時点から出されていたことを裏付ける記録と言えるのではないでしょうか。

(2)昭和12年9月21日「捕虜(現地処理ヲ本則トス)」

同じく、山田栴ニ日記の9月21日には捕虜の処刑に繋がる別の記述も見られます。

畑参謀長口演
(一)教育作戦準備
1∼8、〔中略〕
9、捕虜(現地処理ヲ本則トス)〔以下略〕

出典:山田栴ニ日記※昭和12年9月21日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』289頁

「畑参謀」はおそらく陸軍大将の畑俊六のことだと思いますが、畑から「捕虜(現地処理ヲ本則トス)」との訓示があったということですので、第13師団では当初から捕虜は「現地処理」の方針が「本則」であったことがわかります。

この点、当時の軍で捕虜を「処理せよ」との指示は処断を意味しますので、敗残兵を捕縛した場合は即座に「処断」するのが既定路線だったことが伺えます。

第16師団の中島今朝吾師団長の日記にも「捕虜ハセヌ方針」の記述がありますが、この畑俊六から第13師団になされた「捕虜(現地処理ヲ本則トス)」の訓示と合わせて考えると、上海上陸戦から南京攻略戦に赴いた上海派遣軍全体で、当初から「捕虜はとらない(捕虜ハセヌ)」「捕虜は現地処理(現地処理ヲ本則)」とする方針がとられていたことは明らかと言えるのではないでしょうか。

山田栴ニ日記のこの部分の記述も、前述の(1)と同様に、第13師団に属した山田支隊で行われた大虐殺に繋がる指示が9月の時点から出されていたことを裏付ける記録と言えます。

(3)昭和12年11月20日「砂糖其他獲物多シ」

山田栴ニ日記の昭和12年11月20には略奪(掠奪)に関する記述が見られます。

徴発モ昼間ナラデハ思フ様ニ行カヌモノナリ、相当大ナル町トテ砂糖其他獲物多シ

出典:山田栴ニ日記※昭和12年11月20日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』324頁

ここでは「徴発」としていますが、「徴発」は糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した書置きを残して司令部に代金を取りに来るよう促すなどしておいたなら文字通り「徴発」となり「略奪」にはなりません。

しかし、次のような証言があるように、そうした正規の手続きで「徴発」した兵士はほとんど皆無だったのが実情です。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

また、南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

なにより、山田栴ニ日記のこの部分が「徴発」と称する略奪(掠奪)を示すことは、最後の「獲物多シ」の部分からも明らかでしょう。正規の手続きを踏んだ「徴発」であれば「獲物」などと日記に書き残さないからです。

したがって、この部分は山田支隊で略奪(掠奪)が横行していたことを裏付ける記録と言えます。

(4)昭和12年11月21日「十数名ノ敗残兵ヲ殺セリ」

山田栴ニ日記の昭和12年21日には敗残兵の殺害に関する記述が見られます。

午前八・〇〇出発、本日ハ敵遠クナリシタメ獲物少シ、十数名ノ敗残兵ヲ殺セリ、将校二ヲ捕フ〔以下略〕

出典:山田栴ニ日記※昭和12年11月21日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』324頁

ここでは「十数名ノ敗残兵ヲ殺セリ」とされていますが、仮にそれが戦闘中による殺害であれば違法ではありません。

しかし、「敗残兵ヲ」としているところから考えると撤退中の敗残兵を殺害したことがわかりますし、将校を二名捕縛している点からは、敵部隊が完全に日本軍に制圧されていたことが伺えます。敵兵が武装して抵抗している状況で敵の将校だけを2名も捕縛することは考えにくいからです。

そうすると、ここに記述された部分は、20名弱の敗残兵を捕縛した中に将校が2名いて、将校以外の十数名の兵士を殺害したと考えるのが自然ですが、仮にそうであればいったん捕縛した敗残兵を処刑したことになってしまいます。

ですが、いったん捕縛したならハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮をしなければなりませんし、仮にその敗残兵に何らかの非違行為があったとしても軍事裁判を省略して処刑することはできませんから、この「十数名ノ敗残兵ヲ殺セリ」の部分は国際法に違反する「不法殺害」であった可能性が惹起されます(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由

この部分は単に「十数名ノ敗残兵ヲ殺セリ」としているだけなのでその「敗残兵」が文字通り「敗残兵」だったのか、それともいったん捕縛した「俘虜(捕虜)」だったのか明確ではありませんが、文章を素直に読めば捕虜の不法殺害、つまり「虐殺」が強く疑われる記述と言わざるを得ません。

(5)昭和12年12月8日「皇軍ラシカラザル仕業多キヲ認メ」

山田栴ニ日記の昭和12年12月8日には、日本兵による放火の記述が見られます。

連日沿道ノ火災多ク、皇軍ラシカラザル仕業多キヲ認メ、改メテ厳重ナル注意ヲ諸隊ニ与フ、行程七里

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月8日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』329∼330頁

「連日沿道ノ火災多ク」としたうえで「皇軍ラシカラザル仕業多キヲ認メ」としていますので、上海から南京に至る沿道で連日のように日本兵による放火がくりかえされていたことがわかります。

日本兵による放火の原因は様々で、たとえば暖を取る目的で民家に侵入し家具を燃やしてたのが延焼したり、ただの愉快犯的に火をつけたり、略奪(掠奪)や強姦の痕跡を消すために死体もろとも民家に火をつけて燃やす事例が多かったようです。

もちろん、そうした放火は戦時国際法に規定が有ろうとなかろうと許されるものではありませんが、ハーグ陸戦法規は私有財産の尊重を定めていますので明らかな戦争法規違反行為です。

ハーグ陸戦法規第46条

第1項 家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の進行及び其の遵行は之を尊重すべし。
第2項 私有財産は之を没収することを得ず。

ハーグ陸戦法規

この部分の記述は、日本兵による戦争法規違反の放火が頻発していたこと裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(6)昭和12年12月15日「皆殺セトノコトナリ」

山田栴ニ日記の昭和12年12月14日から19日にかけては山田支隊が幕府山付近で行った捕虜の大虐殺に関する記述が続きます。

多師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前四時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到投降兵莫大ニシテ始末ニ困ル〔中略〕
捕虜ノ始末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、一四、七七七名ヲ得タリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ三軒屋ニ泊ス

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月14日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』331頁

捕虜ノ始末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
皆殺セトノコトナリ
各隊食糧ナク困却ス

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月15日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』331頁

相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム〔以下略〕

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』332頁

捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月18日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』332頁

捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム〔以下略〕

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月19日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』332頁

これを読むと、幕府山付近で捕らえた14,777名の捕虜について15日に南京の司令部に本間少尉を派遣してその取扱いを確認させたうえで、司令部から「皆殺せ」との指示を受けてその全てを揚子江の江岸に連行し、転戦先への出発を延期しなければならないほどの時間を要して「仕末」していることがわかります。

しかし、これも繰り返しになりますが、捕虜として捕縛したのであればハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮をしなければなりませんから処刑することはできませんし、仮に捕縛した捕虜に非違行為があったとしても、それを処刑するためには軍律会議(軍事裁判)を省略することはできませんから、裁判を経ないこの「仕末(処刑)」は明らかな国際法規違反です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この部分の記述は山田支隊で行われた大虐殺の事実を裏付ける記録に他ならないと言えるでしょう。

なお、この山田支隊の大虐殺については飯沼守の日記(飯沼守日記は南京事件をどう記録したか)などにも記録があります。

(7)昭和12年12月24日「放火、強姦、鳥獣ヲ勝手ニ撃ツ、掠奪」

山田栴ニ日記の昭和12年12月24日には、日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火など暴虐行為と現地住民に対する違法な使役(奴隷労働)などに関する記述が見られます。

一、予後備兵ノダラシナサ
1、敬礼セズ
2、服 装 指輪、首巻、脚絆ニ異様ノモノヲ巻ク
3、武器被服ノ手入レ実施セズ赤錆、泥マミレ
4、行 軍 勝手ニ離レ民家ニ入ル、背嚢ヲ支那人ニ持タス、牛ヲ曳ク、車ヲ出ス、坐リ寝ル(叉銃ナドスル者ナシ)、銃ハ天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣ヲ勝手ニ撃ツ、掠奪

出典:山田栴ニ日記※昭和12年12月24日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』334頁

この部分からは日本軍に起きていたいくつかの問題点を指摘できるのでそれぞれ分けて指摘しておきます。

①「予後備兵ノダラシナサ」

戦前の日本では、昭和2年(1927年)4月に公布された兵役法によって満20歳になる秋に徴兵検査を受けることが義務付けられており、甲・第一乙・第二乙・丙種の合格と丁種の不合格、翌年再検査の戊種に分類されて、現役として徴集された合格者は2年間の現役在営が終わったあとも5年4ヶ月の予備役に加えて10年の後備役に。また現役として徴集されなかった者は12年4ヶ月の補充兵役に服し、その後備役・補充兵役が終わった後も40歳まで国民兵役に編入されることになっていました。

そうした中、南京攻略戦の前に行われた上海上陸戦では当初現役兵を中心に編成された上海派遣軍が派遣されましたが、中国軍の苛烈な抵抗に手を焼いて損耗が激しくなると現役兵では兵力が不足するようになった日本陸軍は予備役どころか後備役まで召集せざるを得なくなってしまい、結婚して子供を持つ働き盛りの年配者までが大量に補充兵として戦場に送られることになりました。

そうした年配者が多く召集された予後備役兵は上海戦が終われば内地に帰れると信じて戦いましたが、その期待は早々に裏切られてしまいます。上海を攻略した上海派遣軍司令官の松井石根が一気に首都の南京を攻略すべきだと主張するだけでなく、当初は戦線拡大に否定的だった参謀本部や首相の近衛文麿までもが南京攻略を容認してしまい、援軍として送られた第十軍を加えた中支那方面軍による南京攻略が決定されたからです。

上海戦の激戦を辛くも生き残ったにもかかわらず帰国の期待を裏切られたまま南京攻略に向かわせられることになった予後備役の年配者たちの中には、「もう生きて日本には帰れないのだ」と自暴自棄になって軍紀を乱す兵が多く出てしまうことになり、そうした将兵による暴虐行為が南京攻略戦の過程で頻発してしまう事態となりました。

山田栴ニ日記のこの部分に記述された「予後備兵ノダラシナサ」の文章には、そうした自暴自棄になった予後備役兵の間で軍規風紀の乱れが極めて深刻だったことを伝えていると言えます。

②「指輪、首巻、脚絆ニ異様ノモノヲ巻ク」

山田栴ニ日記は「服装」と題した部分に「指輪、首巻、脚絆ニ異様ノモノヲ巻ク」としていますので、予後備役の日本兵の中に、軍装の乱れが激しかったことがわかります。

夏に行われた上海戦が終わると冬服の支給がないまま南京戦に向かわせられたため、11月以降になると上海から南京に至る沿道の民家で綿入りの冬服を略奪(掠奪)し軍服の上に羽織る兵士が多かったそうですが、「異様ノモノヲ巻ク」の部分は、そうして市民から奪った衣類や貴金属などを身につけたものではないでしょうか。

ところで、ここには「指輪」を身に付けた兵士がいたとの記述がありますが、仮にその「指輪」が自分の結婚指輪であれば「ダラシナサ」との表現は使いませんので、常識的に考えてその「指輪」は中国人から略奪(掠奪)したものであったものと考えられます。

そこで思い出されるのが石川達三の『生きている兵隊』です。

石川達三は南京陥落後の昭和13年1月5日に南京入りして南京で8日間、上海で4日間取材し、現地で兵士から聞き取った話を基にして『生きている兵隊』を発表しており、そこでは強姦した現地女性を殺して指輪を奪い取った笠原伍長に「俺もひとつ記念にほしいなあ」と笑う倉田少尉や(石川達三『生きている兵隊』中公文庫77∼78頁)、左の小指にはめた銀の指環について「どこから貰ってきたんだい?」と聞かれて「死んだ女房の形見だよ」と嘯く兵士が描かれています(同『生きている兵隊』94頁)。

こうした描写には『生きている兵隊』が小説として書かれていることから歴史修正主義者からフィクションだなどという声も聞かれますが、この山田栴ニ日記に「指輪」の記述があることを考えれば、強姦した女性の指環をはめて喜ぶ兵士の描写が決してフィクションではなく、実際に現地の日本兵の間では普通に行われていたことであったことが伺えます。

山田栴ニ日記のこの部分は、石川達三の『生きている兵隊』がただの物語ではなく、南京攻略戦を写実的に描いたリアリズム小説だったことがよくわかる記述と言えるのではないでしょうか。

③「勝手ニ離レ民家ニ入ル」

山田栴ニ日記のこの部分には「行軍」の項で「勝手ニ離レ民家ニ入ル」とありますので、行軍中に部隊から勝手に離れて民家に立ち入る兵士が多くいたことがわかります。

もちろん、用もなく部隊から離れて民家に立ち入るはずがなく、その目的は略奪(掠奪)か婦女子の強姦以外ありませんから、この記述からはそうした非違行為があったことが伺えます。

この部分の記述は、上海から南京に至る進軍の途中で日本兵が民家に押し入って略奪(掠奪)や強姦を繰り返していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。

④「背嚢ヲ支那人ニ持タス」

同じく「行軍」の項には「背嚢ヲ支那人ニ持タス」との記述があります。

これは、敗残兵か現地の一般市民を捕まえていわゆる「苦力(クーリー)」として使役させたもので、南京攻略戦では捕らえた中国人に背嚢や略奪(掠奪)した物品などを担がせる部隊が多くありました(使役に関しては牧原信夫日記(牧原信夫日記は南京事件をどう記録したか)や歩兵第66連隊の戦闘詳報(歩兵第六十六連隊の戦闘詳報は南京事件をどう記録したか)などにも記述があります)。

もちろん、そうした使役に対価(賃金)が支払われることなど皆無でしたから、完全な奴隷労働です。

しかし、当時の国際法規は捕虜や一般市民を使役させる場合は労賃を払うことが義務付けられていましたので(捕虜の使役はハーグ陸戦法規第6条、市民の使役はハーグ陸戦法規第52条)、賃金を支払うことなく敗残兵や現地住民に使役を強制した日本軍のその行為は国際法規に違反する意に反する苦役の強制であって、軍全体がその違法な使役を黙認していたということに他なりません。

そして、軍全体がその違法な使役を黙認していたのであれば、それは組織的な違法性を惹起させます。

したがって、この部分の記述は南京攻略戦で日本軍による組織的な国際法違反の使役が横行していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。

⑤「坐リ寝ル(叉銃ナドスル者ナシ)」

また、「行軍」の項には「坐リ寝ル(叉銃ナドスル者ナシ)」との部分がありますが、「叉銃さじゅう」は銃の汚破損や紛失等を防ぐために銃口を上に向けて数本を三角垂状に立てかけることを言いますので(※参考→叉銃 – 叉銃の概要 – わかりやすく解説 Weblio辞書)、南京攻略戦に向かった中支那方面軍全体で軍記が徹底されていなかったことが伺えます。

そうした軍規風紀の乱れが南京攻略戦における略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)など日本兵の非違行為を防げなかったことにもつながったのですから、この部分は南京攻略戦における暴虐行為が起こるべくして起こったことを示す記述と言えるのではないでしょうか。

⑥「放火、強姦、鳥獣ヲ勝手ニ撃ツ、掠奪」

山田栴ニ日記の「不軍紀」の項には「不軍紀 放火、強姦、鳥獣ヲ勝手ニ撃ツ、掠奪」の記述があります。

「鳥獣ヲ勝手ニ撃ツ」の部分は、飢えた兵士が食料にする為に野生の鳥などを撃ったものでしょう。日本兵の日記などを読むと、糧秣の補給を受けられない兵士が湖で水鳥を撃ったり池に手榴弾を投げて魚を獲る描写が多く出てきますが、この記述もそうして食料を確保する兵士が多かったことを伺わせます。

この点、兵士が「鳥獣ヲ勝手ニ撃ツ」のは食糧の補給を受けられずに止むを得ずやっているのでその原因は兵站の準備を無視した軍中央や参謀本部の方にあり同情の余地がありますが、「放火」「強姦」「掠奪」はそもそも犯罪行為なので是認できる部分は皆無です。

この部分の記述は、南京攻略戦に参加した部隊で「放火」「強姦」「掠奪(略奪)」といった暴虐行為が横行していたことを裏付ける記録と言えるでしょう。