井家又一日記は南京事件をどう記録したか

井家又一は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第九師団歩兵第六旅団の歩兵第七連隊第二中隊に配属された上等兵で、南京攻略戦に従軍した際につけていた日記が公開されています。

井家又一日記の特徴は、他の日記にはあまり見られない掠奪(略奪)や虐殺の生々しい描写が多数記録されている点です。

掠奪(略奪)や虐殺の描写された日記は、その日記を書いた本人の名誉を損なう記録にもなり得ますから公開されないものも多いでしょうし、そうした軍にとって不都合な事実の記録された日記は帰国時の検閲や所持品検査で破棄されるなど、そもそも残されるケースも少ないので存在自体が貴重です。

また、軍にとって不都合な日記の公開を快く思わない個人や団体などからの反対もあったと思いますが、その反対を乗り越えて日記を公開してくれたことに感謝しかありません。

では、井家又一の日記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

井家又一の日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月11日「先をあらそって突殺すのである」

井家又一日記の昭和12年12月11日には、占領した地域で逃げ出してくる敗残兵を殺害する様子を次のように描写しています。

我々が此の兵営前端の高地を占領したが、逃遅れし兵が未だ残って頑強に抵抗していた。〔中略〕夜になりて逃げ出して我々の壕の近くに迷いくる奴は幾十人となっている。それを先をあらそって突殺すのである。

出典:井家又一日記 昭和12年12月11日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ366頁下段

この点、記述の中で中国兵は「頑強に抵抗」していますので、この殺戮は一見すると戦闘によるもので法的に問題がないようにも思えます。

しかし、日本軍が占領した陣地から至近の距離に「逃遅れし兵」がいることがわかっていて「幾十人」もの敗残兵が逃げ出している状況なのですから、降伏を勧告すれば容易に投降してきたはずです。

この点、投降を呼びかけてもそれに従ったか分からないではないかとの意見もあるかも知れませんが、後述の(2)で引用する記述であったり、次のように陥落後の南京で投降を呼びかけた敗残兵が簡単に武装解除し投降したことを記録した日本軍将校の日記もありますから、ほとんどの敗残兵が投降を呼びかけただけで従順に投降した可能性が極めて高かったことは明らかです。

今朝第六中隊が先頭で愈々下関だとハリキッて行ったら敵の奴呆気なく白旗をかかげて降参さ。〔当サイト筆者中略〕道の両側は中国兵がいや居るの何のってまるで黒山のように乗ってるもんで、通訳に山本大尉が『銃を捨てろ』と云わせると忽ち銃や剣の山が出来る有様さ。馬に乗っているうちの大隊長が余程偉く見えたんだろうね中国兵が一斉に拍手したよ。あの心理はどう云うだろうね、どうやら戦いが済んだ、これで殺される心配はないと云うところじゃろかい。〔当サイト筆者中略〕どしこ(どれだけ)居ったろかい、何千じゃろかい何万じゃろかい。

出典:前田吉彦日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ356頁上段

私は工場の事務所らしき所を宿舎と決めて休んでいたら突然衛兵が飛び込んで来たので「何だ」と聞きますと、「ただいま工場内を調べたところ一番端の倉庫に敗残兵が大勢いますが、皆抵抗する気配は見えません」との報告を受けましたので現場へとんで行くと、正規や便衣の中国軍兵士が約三百名余り坐って両手をおとなしく頭にのせていました。
早速、身体検査をしてから安全を保証し食糧を支給するから倉庫の整理に従えと命じたら、喜んで承知しましたので働かせることにしました。

出典:金丸吉生軍曹手記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ256頁

そうであれば、ここで「頑強に抵抗」する「幾十人」の「逃遅れし兵」に対しても投降を勧告して武装解除し捕虜として収容すべきだったでしょう。

この場を占領した指揮官が投降を呼びかけたのかはこの日記からは判然としませんが、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも論じたように、ハーグ陸戦法規の前文は交戦者に人道的配慮をするよう要請しているのですから、仮に投降を勧告することもなく「先をあらそって突殺」していたとすれば、その殺戮は法的な違法性が含まれます。

この日記のこの部分の記述だけをもってこの逃げてきた敗残兵の殺害を「虐殺」だと決めつけることはできませんが、国際法的に疑義を生じる掃討であったと言うほかありません。

(2)昭和12年12月13日「敗残兵が五・六名居るので呼ぶと走り来る」

井家又一日記の昭和12年12月13日は、敗残兵が投降して来る様子を次のように記録しています。

我々は城壁占領の拠点を作り壕を掘り陣地を作る、空は晴れて左手の方の東天も明けたので銃声は全くなし。その儘いると敗残兵が五・六名居るので呼ぶと走り来る。全く己の敗戦を知ってか銃を捨て、丸腰の支那人である。

出典:井家又一日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ368頁上段

この部分からは、日本軍による占領後も抵抗を続けていた中国軍の敗残兵が、呼びかけただけで簡単に投降してきたことがわかります。

もちろん、このケースの敗残兵だけが特別で他の敗残兵に抵抗があった可能性も否定できませんが、(1)で引用した前田吉彦や金丸吉生の日記の記述を見れば常識的に考えて当時の南京で取り残された多くの敗残兵が、ただ呼びかけただけで武装解除し従順に投降してきたことが伺われます。

しかし、そうであれば前述の(1)で記録されていたような殺害が違法だった可能性が高まります。敗残兵が呼びかけるだけで投降したのなら(1)のように「先をあらそって突殺す」必要がないからです。

この部分の記述のように、ただ呼びかけただけで「銃を捨て、丸腰」で走り寄ってきて投降するのであれば、敗残兵の掃討などせずに投降を呼びかけて捕虜にすればよかったはずで、南京占領後に日本軍が行った敗残兵掃討の正当性自体が揺らぎます。

この記述で明らかにされた事実は、日本軍の敗残兵掃討自体の適法性に疑問を生じさせる事実であったともいえるかもしれません。

(3)昭和12年12月13日「叩きつけて取り来ること幾十回」

また、井家又一日記の昭和12年12月13日は、民家に押し入って市民を暴行し食糧を略奪した際の情景を次のように記録しています。

〔中略〕寒さに雨にそして糧秣はあたへられず、交通とて橋は落され鉄橋は破壊せられて糧秣は続かず支那家屋に侵入して徴発する事幾十度あった。或る時は支那人の芋を炎き暖き蒸気の出ている奴を叩きつけて取り来る事幾十回、小羊・豚・鶏・牛・水牛、犬と野にいる家畜は一度は食って見た。

出典:井家又一日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ368頁下段

上海上陸戦から南京攻略戦に続く一連の過程では、兵站準備が甚だしく不十分であったことから糧秣の確保は現地調達が命じられ、徴発と称する掠奪(略奪)が黙認されました。

その結果、上海から南京に至るまでの約400㎞の道中において、南京攻略戦に参加した中支那方面軍の部隊全体でこの記述のような掠奪(略奪)が延々と続けられたのです。

(4)昭和12年12月13日「徴発はできぬ、憲兵が入り込んでいるから」

井家又一日記の昭和12年12月13日には、憲兵を見かけた中隊長から徴発の自制を指示された場面が次のように記録されています。

〔中略〕その付近は未だ爆撃の跡も生々しいものがある。中隊長から絶対に徴発はできぬ、憲兵が入り込んでいるから。

出典:井家又一日記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ369頁上段

ここで言う「徴発」は掠奪(略奪)の事を差しています。先ほど説明したように軍中央から糧秣は現地調達と命じられているので徴発自体は憲兵も咎められませんが、「徴発」とは対価となる代金を支払うから「徴発」なので、対価を支払わなければ「掠奪(略奪)」です。

もちろん、現地民に対して「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を支払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記した紙を残して司令部に代金を取りに来るよう書置きを残しておいたりしていたのなら文字通り「徴発」となるので「掠奪(略奪)」とはなりませんが、次のような証言があるように、そうした正規の手続きをとって「徴発」した兵士はまずありません。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

また、南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や欧米外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

したがって、この「絶対に徴発はできぬ」の部分の「徴発」は「掠奪(略奪)」と同義になるわけです。

なお、軍が黙認した「徴発」はあくまでも糧秣の「徴発」であって、それ以外の物品の「徴発」は本来的に「略奪(掠奪)」であって懲罰対象です。南京攻略戦では兵士による糧秣以外の「徴発」、たとえば現金や貴金属、骨董品や美術品等の「掠奪(略奪)」も横行しましたから、そうした掠奪(略奪)の自制を指示したのかもしれません。

この部分では中隊長が徴発(実際には掠奪)を「できぬ」と自制させた理由が「憲兵が入り込んでいるから」ということですが、これは裏を返せば憲兵がいなければ徴発をしてもよいということです。

南京を占領した日本軍が、憲兵に見つからなければ略奪(掠奪)は許されるのだと考えていたことがよくわかる記述と言えます。

(5)昭和12年12月14日「市街にある自動車を徴発しては日本兵が市内を乗廻している」

井家又一日記の昭和12年12月14日には、南京市内で略奪した自動車を乗り回す日本兵の姿が次のように記録されています。

市街にある自動車を徴発しては日本兵が市内を乗廻している。南京の町は日本軍の完全なママになってしまった。

出典:井家又一日記 昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ369頁下段

陥落の直前まで国民政府の首都だった南京には外国公館も多くあったため公館や外国人が住む自宅などには自動車も多く保管されていましたが、陥落すると日本兵は避難した外国人の建物に押し入って自動車や貴金属など金目の物をことごとく掠奪しました。

そうして略奪した動産は上海などに輸送して売却し現金化したり貨物船で日本に送るなどされましたが、掠奪した自動車の中にはこうして南京で乗り廻されたものがあったのでしょう。

日記には「徴発」と記述されていますが、先ほども少し触れたように生きるために必要な食料の「徴発」は許されても自動車の「徴発」は本来的に許されませんから、これは掠奪(略奪)した自動車を面白半分に乗り廻していたのに違いありません(※中国軍の軍用トラックを徴発したものだった可能性もありますが、トラックを「自動車」と記述するのも不自然ですしトラックを「乗廻して」と記述するのも変ですから、外国人が所有する乗用車を「乗廻して」いたと考える方が自然でしょう)。

陥落後の南京において略奪した自動車を乗り廻す日本兵は、現地の中国人から見ればさながら傍若無人にふるまう盗賊団と変わらなかったのではないでしょうか。

(6)昭和12年12月15日「四十余名の敗残兵を突殺してしまふ」

井家又一日記の昭和12年12月15日には、敗残兵の虐殺に関する記録があります。

午前八時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。日本領事館の横を通って外国人の居住地たる国際避難地区の一帯の残敵掃蕩である。〔中略〕四十余名の敗残兵を突殺してしまふ。

出典:井家又一日記 昭和12年12月15日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ369頁下段

外国領事館が集中していた一帯は南京市の内外から避難してきた市民を収容する安全区(難民区)とされていましたが、日本軍の包囲殲滅戦で逃げ道を絶たれた多数の中国兵が武器と軍服を捨てて市民の平服に着替え、一般市民に紛れ込んで潜伏していました。

この日記の記述はその地域の敗残兵掃討の際に、潜伏していた敗残兵を即座に処刑したものでしょう。

この点、「突殺」としか書かれていないことから、安全区(難民区)に潜伏して抵抗する敗残兵を殺した可能性もあるはずで仮にそうであれば「戦闘中」の殺害だから違法性はないのではないか、と思う人もいるかもしれませんが、抵抗する敗残兵の中に圧倒的な兵力で包囲する日本兵が捨て身の覚悟で突撃して銃剣で「突殺」することはありえませんから、常識的に考えて捕縛した敗残兵を銃剣で「突殺」したものであることは明らかです。

しかし、敗残兵を捕らえればハーグ陸戦法規で捕虜として処遇しなければなりませんから「突殺(す)」などできませんし、仮に捕らえた捕虜に何らかの非違行為があったとしても、処刑するには軍律会議(軍律法廷)に掛けなければなりませんので、裁判を省略している点で「不法殺害」を免れません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

また、日本軍は避難民から敗残兵を抽出するいわゆる「兵民分離」に際して杜撰な方法で避難民から兵士を選別したため多数の一般市民が兵士と間違われて殺されたことがわかっています(※この杜撰な兵民分離の詳細は水谷荘日記(水谷荘日記は南京事件をどう記録したか)や増田六助日記(増田六助手記は南京事件をどう記録したか)などにも記録されています)。

したがって、この記述についても、歩兵第七連隊第二中隊において40数人の一般市民も含まれたであろう敗残兵に対する「虐殺」が行われたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(7)昭和12年12月16日「三百三十五名を連れて他の兵が射殺しに行った」

井家又一日記は、昭和12年12月16日にも虐殺に関する記述が続きます。

〔中略〕午後又出ける。若い奴を三百三十五名を捕えて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全く此の中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。新聞記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来るのに日本の大人と想ってから十重二重にまき来る支那人の為、流石の新聞記者もついに逃げ去る。〔中略〕揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺しに行った。〔中略〕皇道宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである。

出典:井家又一日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ370頁上段

ちなみに、ここに出てくる新聞記者は東京日日新聞(現・毎日新聞)の佐藤振壽従軍写真記者(カメラマン)のことで、佐藤振壽の手記にも次のような記述が見られますので、この井家又一日記に書かれた情景に記憶違いがなかったことは裏付けられています。

 十二月十六日は晴天だった〔中略〕難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国女が、私の乗った車に駆け寄ってきた。車を停めると助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。
 彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装をしていた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。〔以下略〕

出典:佐藤振壽『従軍とは歩くこと』 昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅱ618頁下段

井家又一日記のこの部分の記述からは杜撰な「兵民分離」がよくわかります。「敗残兵らしき奴」を「皆連れ来る」のですから、捕らえられた335名の中には多数の一般市民が含まれていたことでしょう。「若人は皆殺すのである」との記述からは、民間人であろうとなかろうと「若人」というだけで連行したことが伺えます。

佐藤振壽の手記では敗残兵と間違われて連れて行かれる家族を救うため佐藤に懇願してすがりつく女性が出てきますが、その女性はウソを言っているのではなくて、多数の一般市民が含まれた335人の中国人が、その日即座に長江(揚子江)の河岸に連行されて射殺されたのです。

この点、百歩譲ってその335人がすべて兵士であったとしても、前述したように処刑するには軍律会議(軍律法廷)を経なければなりませんから、裁判を省略して処刑している点で明らかな「不法殺害」であって「虐殺」です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

もちろん、その中には多数の一般市民が含まれていたのは明らかなのですから、この部分は「虐殺」以外の何物でもありません。

(8)昭和12年12月16日「憲兵隊が独逸人家屋に侵入を禁ず」

また、16日には掠奪に関連する記述もあるので紹介しておきましょう。

憲兵隊が独逸人家屋に侵入を禁ずと筆太く書かれている。市街の何処に行けど日ノ丸の旗は掲げられている。

出典:井家又一日記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ370頁下段

「侵入を禁ず」と書き記されていることから、日本兵が侵入して掠奪(略奪)するのを防ぐのが目的だったのがわかります。

もっとも、この部分で重要なのは「独逸人家屋」との部分です。

外国領事館が集中していた地域は安全区として南京市内外から逃げてきた避難民を収容していましたが、掠奪(略奪)や強姦目的の日本兵が侵入して欧米外国人との間でトラブルを起こすため、それが外交問題に発展するのを恐れた司令部は外国人の管理する家屋への浸入を固く禁じました。

一方、現地にいる日本軍兵士の宿舎も必要ですから家屋への侵入をすべて禁止することはできませんので中国人家屋への侵入まで禁止することはできません。

つまり、当時の日本軍は、外交問題に発展し戦争遂行に支障が出るのを防ぐために外国人の家屋への侵入は禁止しましたが、中国人家屋への侵入は野放しに放置し続けたわけです。

こうした軍中央における中国人への蔑視や差別意識が、末端の兵士の掠奪(略奪)や強姦、暴行傷害や放火、殺人など日本兵の暴虐行為をさらに助長させることになり、南京での数えきれない暴虐行為(アトロシティーズ)とつながっていくことになったのかもしれません。

(9)昭和12年12月19日「難民の見ている前でやるのだから」

井家又一日記は、昭和12年19日の部分にも掠奪(略奪)に関する記述が続きます。

醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き箱から蓋を取った釜の中を見、引出しの中を開き色々とさがすのだ。難民の見ている前でやるのだから彼等とて恐ろしい日本兵の事何もする事も出来ずするままである。

出典:井家又一日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ371頁下段

当時の日本軍による掠奪(略奪)の描写は多くの日記や手記で見られますが、この記述のように生々しい情景を記録しているものは多くないので貴重な資料と言えます。

先ほども触れたように、上海戦から続けられた南京攻略戦では兵站準備が杜撰だったことから糧秣は現地調達の方針がとられて徴発と称する事実上の掠奪(略奪)が黙認されましたが、もちろんそれは兵士が生きていくために必要な「糧秣」の話しです。

この記述には「引き出しの中を開き色々とさがすのだ」とありますが、常識的に考えて引出しの中に糧秣などありませんので、これは貴金属か現金か、換金できる何らかの糧秣以外の財産を探していたのでしょう。

もちろん、糧秣であっても掠奪(略奪)は違法なのでそれ自体許されるものではありません。しかし、兵士が糧秣の掠奪(略奪)をせざるを得なくなったのは兵站を怠った軍中央や司令部にその原因があるのですから、生きるために仕方なく糧秣の掠奪(略奪)に手を染めた日本軍兵士に同情できる余地はあるかもしれません。

しかしこの記述では、糧秣のみならず貴金属や現金など、兵士の生存とは関係のない財物にまで手を出しているわけですから、そこに同情できる余地はなく、もはや「兵士」ではなく「夜盗」や「窃盗団」と何ら変わりません。

南京戦に参加した日本軍は、銃を持って徴発と称する掠奪(略奪)を繰り返し、ほしいままに中国の一般市民から財産を奪い取る、ただの「盗賊」になり下がっていたと言えます。

(10)昭和12年12月19日「難民に洗はし掃除迄皆やらす」「残飯は皆難民にあたえる」

この19日の続く部分では、難民を奴隷のように扱う日本兵を次のように描写しています。

畠の中で、葱、人参、菜葉を取って、籠迄取ってきて難民に洗はし掃除迄皆やらすのだ。残飯は皆難民にあたえるので彼等は嬉々として我々の下に働くのである。

出典:井家又一日記 昭和12年12月19日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ371頁下段

南京攻略戦は包囲殲滅戦で陥落は13日ですから、その時点で南京に取り残された避難民は逃げ道を失って僅かな食料で命をつないでいました。

その貴重な市民の食料を掠奪(略奪)した挙句、掠奪(略奪)された難民に野菜を洗わせ掃除までやらせて奴隷のように虐待していたわけです。

こうした日本軍による非違行為は翌年の昭和13年2月以降も続き、駐留する日本兵の数が減少したことでようやくその兵士が減った数だけ非違行為が減少したぐらいだそうですから(※笠原十九司『南京事件』岩波新書 209頁)、この地獄のような毎日がこれ以降2か月以上も続いています。

占領地で捕らえた一般市民から食料や財産を奪い取ったうえに奴隷のように使役させ、家畜のように残飯を食べさせる軍隊が「皇軍」の実態だったわけです。

(11)昭和12年12月21日「避難民の間のぬけた顔」

井家又一日記の昭和12年21日も、掠奪(略奪)の記述が続きます。

避難民の間のぬけた顔が我下の道を日ノ丸の腕章をつけて籠を持って動いている。〔中略〕避難民からメリケン粉を取って来て、団子をこしらへ喰ふが、砂糖のないのが我は苦痛だ。

出典:井家又一日記 昭和12年12月21日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ372頁下段

前半部分の「間のぬけた顔」の記述が、当時の日本兵における中国人蔑視の差別意識を如実に表しているように感じます。

後半の「メリケン粉を取って来て」の部分は掠奪(略奪)ですが、「団子をこしらへ」と述べて「砂糖がないのが…苦痛」としていますから、その団子は生きていくために必要な食事というよりも”おやつ”のつもりで作ったものでしょう。

避難民の命をつなぐためのメリケン粉を掠奪(略奪)しておきながら、その中国人の「苦痛」は微塵も顧みることなく、甘くない団子に「苦痛」を感じるところに、当時の日本軍兵士が抱えた異常性がよく表れていると思います。

(12)昭和12年12月21日「避難民をやっけている銃声かな」

井家又一日記の昭和12年12月21日には、敗残兵と市民の虐殺をうかがわせる記述も見られます。

〔中略〕右の方で盛んに軽機の音がするが、敗残兵か、それ共避難民をやっけている銃声かな。

出典:井家又一日記 昭和12年12月21日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ372頁下段

「やっけている銃声」としていますから、この時期に行われていた敗残兵掃討に際して、日常的に敗残兵や避難民の処刑が行われていたことがわかります。そうした処刑が日常的に行われていなければ「軽機の音」が聞こえただけで敗残兵や避難民を射殺している音だと連想するはずがないからです。

この点、「敗残兵」は市内に潜伏した戦闘員(兵士)なのだから射殺しても合法ではないか、という意見もあると思いますが、このページでもたびたび触れてきたように、ハーグ陸戦法規は敗残兵を人道的に扱うことを要請していますし、そもそもその潜伏した中国兵のほとんどは武器を捨てて戦闘意思を喪失した無害な敗残兵なのですから、降伏を勧告して投降を促すべきです。

また、投降した捕虜は軍律会議(軍律法廷)なしに処刑することが国際法規で許されていませんし、ましてや、ここでは「避難民」を「やっけている」と記述しているのですから、避難民が戦闘員ではなく一般市民である以上、その処刑を正当化できる国際法規もありません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この記述の中で聞こえてきた「軽機の音」によって行われたであろう敗残兵か避難民の人たちの殺戮は、「虐殺」によるものであったというほかありません。

(13)昭和12年12月22日「付近を地獄の様にしてしまった」

井家又一日記の昭和12年12月22日には、その記述にもあるようにまさに「地獄のよう」な生々しい虐殺の描写が記録されています。

〔中略〕百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ〔中略〕池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーんと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、〔中略〕針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となってニ・三人がとんで出て来たのを突殺す。
暗き中にエイエイと気合をかけ突く。逃げ行く奴を突く、銃殺しバンバンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終りて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ〔中略〕
割合に呑気な状態でかえる。そして〔中略〕死の道を歩む敗残兵の話しの花を咲かす。

出典:井家又一日記 昭和12年12月22日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ373頁

この点、先ほどから散々指摘しているように、捕虜を殺害すること自体がハーグ陸戦法規に違反する違法な殺人ですし、そうでなくても軍律会議(軍律法廷)を省略した処刑ですから、ここで語られている殺戮は当時の国際法規に照らしても言い訳のできない「不法殺害」であって「虐殺」そのものです。

また、その捕虜を「針金で腕をしめ」「首をつなぎ」「棒でたたき」そして「突く」「焼く」「火達磨」にして殺し、まだ息のある半死の人に「ガソリンをかけ」て「火をかけ」て、「動くのを又殺す」のですから、とうてい人の所業とは言えません。

まさに日記に記述された「地獄」のような光景だったでしょう。

しかもその虐殺を終えた日本兵は「呑気な状態」で、たった今殺してきた捕虜の断末魔の光景に「話の花を咲か」して揚揚と引き揚げていくのですから、この日記の記述だけでも当時の日本兵の冷徹さに背筋が凍ります。

加えて、ここで殺された捕虜の中には少なからぬ民間人が含まれていた可能性がある点も指摘しておかなければなりません。先ほども触れたように、南京陥落後に行われた敗残兵掃討では武器と軍服を捨てて平服に着替え避難民に紛れ込んだ多数の敗残兵を難民から選別するいわゆる「兵民分離」の際、杜撰な選別で多数の市民が兵士と間違われて捕虜にされ殺害されたことが当時の日本兵の日記や手記などから明らかになっているからです。

そうであれば、この井家又一日記の記述で虐殺された捕虜たちの中にも、少なからぬ一般市民が含まれていた可能性が極めて高いと言わざるを得ません。

もちろん、先ほどから述べているように、この殺戮は「虐殺」であってたとえ敗残兵であっても許されないのは当然ですが、その中に多数の非戦闘員が含まれていて、当時の日本軍が多数の市民を虐殺したことも、記憶しておかなければならない重大な戦争犯罪です。

南京攻略戦では多数の一般市民が殺されていますが、その一般市民は「一般市民として」殺されたケースと、「敗残兵と間違われて」殺されたケースがあって、その数は膨大な数に上ります。

この日記の記述は、そうした無数の戦争犯罪が実際に行われたことを示す貴重な記録と言えるでしょう。

最後に

以上で紹介したように、井家又一日記には南京攻略戦における多数の生々しい暴虐行為に関する描写があり、南京攻略戦で日本軍が起こした暴虐行為の実態を知る貴重な資料となっています。

ところで、ここで考えて欲しいのは、井家又一がこの日記を公開するにいたった真意です。

もちろん、私は本人ではないのでその真意は判りません。

しかし、この日記の公開にあたっては相当に悩んだはずです。冒頭でも述べたように、こうした日記は執筆者の名誉を損なうものでもありますし、南京事件に関する日記を公開した旧軍兵士には様々な団体や個人から非難や脅迫が寄せられることが多かったのですから、井家氏(あるいはその親族)も公開を決めるまでには逡巡があったことでしょう。

しかしその公開を決断したのは、当時の日本軍が南京で何をしたのか、その実態を未来の若者に知ってほしいという願いがあったからではないでしょうか。

その過ちを二度と繰り返してはならないと考えたからこそ、自分が体験した南京戦の事実をありのまま後世に伝えるために、この日記をあえて公開したのだと思います。

この井家又一日記は、出典として明示した偕行社の『決定版南京戦史資料集』の『資料集 Ⅰ』に掲載されています。一人でも多くの人が、井家又一日記に目を通し、南京攻略戦で行われた暴虐行為を二度と繰り返さないためにはどのように生きるべきか、真摯に考えることが必要ではないでしょうか。