昭和史人物Wiki(これだけは覚えておきたい昭和史の主要人物)

昭和史は戦争を抜きにして語れませんが、中国での戦争から真珠湾、そして敗戦から戦後に至る過程では数多くの人物が登場しています。

そのため、昭和史を勉強していくと誰が何の事件に関与し誰がどの作戦でどう行動したのか分からなくなってしまうことも多く、これが昭和史の理解を困難にしている一因でもあるのではないかと考えられます。

そこでここでは、昭和史に登場してくる主要人物とその簡単な補足説明を五十音順に一覧としてまとめてみることにいたします。

昭和史の登場人物

犬養毅

立憲政友会総裁。昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の調印に際し、統帥権干犯問題を持ち出して政府を批判した。

宇垣一成

陸軍大将。濱口内閣で陸軍大臣だった昭和6年、橋本欣五郎らのクーデタ-計画(三月事件)に加わるが直前になって翻意し同計画を未遂に終わらす。

大川周明

右翼団体行地社を創設。橋本欣五郎の三月事件に加わり計画を進めたが宇垣陸相の翻意で未遂に終わる。東京裁判でA級戦犯となったが精神疾患のため計を受けずに済んだ。

岡田啓介

軍事参議官、海軍大将。ロンドン海軍軍縮条約の締結にあたって対米補助艦比率を「7割・7割・7万5千トン」とする方針に固執する軍令部と、アメリカから出された「7割・6割・5万2千トン」の妥協案で調印しようとする海軍省(政府)との間の調整を図る。

加藤寛治

海軍大将。昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の政府回訓案に反対し統帥権干犯を理由に海軍省と政府を批判。軍令部と海軍省の間に対立を招いた。昭和天皇に軍令部の反対意見を上奏するが正規の手順を踏んでいないことから下げ渡しを受け、のちに海軍大臣の財部彪によって軍治参事官に異動となる。

河本大作

大正15年に高級参謀として満州の関東軍に派遣され、張作霖爆殺事件を首謀する。事件後は予備役に編入される。

北原泰作

岐阜の歩兵第六八連隊に所属。階級は二等兵。被差別部落出身で水平社運動に身を投じる。軍隊内部の差別を是正させるため名古屋城東練兵場で行われた陸軍特別大演習の観兵式で昭和天皇に直訴を決行。請願令違反で軍法会議にかけられ懲役一年の刑を受けた。

西園寺公望

第12、14代内閣総理大臣。大正15年から元老として昭和天皇を輔弼した。張作霖爆殺事件では田中首相や昭和天皇に首謀者を軍法会議で厳罰に処すことを助言。

蒋介石

孫文の後継者として南京の国民政府軍を率いる。昭和2年には政変で下野し日本に亡命して田中義一ら有力者と会談するが、昭和3年に開始した第二次北伐では済南を治安維持の名目で占領していた日本軍と交戦(済南事件)。

鈴木貫太郎

侍従長だった昭和5年、ロンドン海軍軍縮条約の政府回訓案への反対を上奏するため参内を申し入れた軍令部長の加藤寛治を諭し反対意見を封じたため海軍軍令部の強硬派若手将校らから統帥権干犯を批判される。

財部彪

海軍大将。昭和5年のロンドン海軍軍縮会議に全権委員として出席。対米補助艦比率を「7割・6割・5万2千トン」とするの政府回訓案を受け入れたことから「7割・7割・7万5千トン」の方針に固執する軍令部から批判される。条約調印に関連して議論となった統帥権干犯問題による海軍省と軍令部の内部抗争の責任を追及され、条約批准と同日に海相を辞任した。

田中義一

第26代内閣総理大臣。政友会総裁。満州問題では満蒙分離政策と現地保護主義をとる。若槻内閣の後を受けて台湾銀行問題を処理し大恐慌を収束させた。昭和3年に起きた張作霖爆殺事件では西園寺公望らの助言を受けて謀略にかかわった関東軍責任者の厳罰を昭和天皇に上奏するが陸軍や政友会の猛烈な反対を受けて翻意。爆殺事件の真相を不公表とし軍法会議を開かず行政処分で処理する方針を取ったことから昭和天皇の怒りを買い辞任を勧められる。昭和4年7月2日に内閣総辞職となり2か月後の9月末に死去。

張学良

張作霖の子。張作霖が日本軍に爆殺されたに張作霖の奉天軍を引き継ぐ。爆殺が日本軍の謀略であることに当初から気づくが挑発に乗れば日本に満州派兵を正当化する口実を与えることになるため平静を装う。しかし日本への恨みと不信は根強く、のちに南京に逃れて蒋介石政府に合流した。

張作霖

満州最大勢力を持つ軍閥の頭領。満州に権益を持っていた日本に近づいて満州における地盤を確保するが、満鉄と競合する鉄道を建設したり、日本側が止めるのを無視して蒋介石の北伐軍と対峙するなど徐々に日本側の意に反する行動をとるようになる。昭和3年6月、河本大作大佐を首謀者とする関東軍の謀略によって奉天郊外で爆殺された。

床次竹二郎

政友本党総裁。のち憲政会と合流し昭和2年に民政党結成。博徒を糾合して暴力団(右翼)の国粋会を結成したりした。

東郷平八郎

日露戦争時の連合艦隊司令長官。海軍大将。元帥。ロンドン海軍軍縮条約の批准に反対し財部彪外務大臣の辞任を求めるなど軍令部の海軍省批判に一定の影響を与えた。

橋本欣五郎

陸軍大佐。昭和5年から参謀本部ロシア班長。昭和5年に若手中堅将校を集め「桜会」を結成。昭和6年には桜会メンバーを中心にクーデター計画を練り3月に実行に移すが(三月事件)宇垣陸相の翻意によって未遂に終わる。

鳩山一郎

立憲政友会。昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の調印に際し、統帥権干犯問題を持ち出して政府を批判した。

浜口雄幸

第27、43代内閣総理大臣。立憲民政党総裁。昭和5年のロンドン海軍軍縮条約を海軍の反対を抑えて調印させる。昭和5年11月15日、東京駅で右翼団体愛国社の佐郷屋留雄により狙撃され死去。

ら・わ

若槻礼次郎

第25代・28代内閣総理大臣。憲政会総裁。第一次若槻内閣の昭和2年、政友会の田中義一、政友本党の床次竹二郎と三者会談を行い震災手形整理法案を成立させるが、のちに憲政会と政友本党との間で密約を結び憲本連盟を結成。裏切られた政友会から台湾銀行の不正貸出や渡辺銀行破綻に絡む片岡蔵省の失言などで猛烈な追及を受ける。台湾銀行の救済処理で枢密院の承諾を得られなかったことから金融恐慌を招き、昭和3年4月17日に内閣総辞職に至る。昭和5年のロンドン軍縮会議では主席全権委員として出席し海軍の反対を受けながらも軍縮条約調印にこぎつけた。