一夕会とは(組織のメンバーと会合の目的)

一夕会イッセキカイとは、陸軍中央(陸軍省・参謀本部)の将校が意見を交わした私的な集まり(会合・研究会)のことを言います。「一夕集まって懇談する会合」を略して「一夕会」と名付けられました。

昭和というと満州事変から太平洋戦争へと続く中で軍部が強大な権力をほしいままにした印象が強いですが、昭和の初頭は大恐慌など不況の影響で軍事費が削減されつづけるなど、その後の増長が嘘のように市民やマスコミからの風当たりが強い状態が続いていました。

一夕会の幹事も務めた陸軍省の土橋勇逸(のちに支那派遣軍参謀副長、仏印駐屯軍司令官、第三八軍司令官など歴任)の著書(頁末参考文献参照)によれば、言論界では反軍の言動が盛んで新聞は連日のように軍部を批判する記事が掲載されていて、あるときには陸軍の将校が満員電車で絡まれて労働者風の男に殴られたりするなど、軍部は肩身の狭い思いをしていたそうです。

一夕会のメンバー

そんな状況に危機感を抱いた将校の有志が、そうした窮状を打開しようと研究会を開いたのが「一夕会」のはじまりです。土橋の回顧録によれば次のような将校が名を連ねていました(※期は陸軍士官学校の卒業期)。

十五期 山岡重厚・河本大作
十六期 永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・磯貝康介・板垣征四郎
十七期 東条英機・工藤義雄・松村正員・飯田貞固
十八期 山下泰文・岡部直三郎・中野直晴
二十期 橋本群・草場辰巳・七田一郎
二十一期 野尻量基・石原莞爾・横山勇
二十二期 村上啓作・鈴木率道・本多政材・北野憲造・鈴木貞一・牟田口廉也
二十三期 清水規矩・岡田資・根本博
二十四期 沼田多稼蔵・土橋勇逸・深山亀三郎・加藤守雄
二十五期 武藤章・下山琢磨・田中新一・富永恭次

※出典:土橋勇逸「軍服生活の四十年の想出」昭和60年3月10日発行 勁草社出版サービスセンター|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 266~273頁を基に作成

張作霖爆殺事件を首謀した河本大作や対米開戦時の首相だった東条英機、「マレーの虎」でおなじみの山下泰文や満州事変を起した石原莞爾、無謀なインパール作戦を強行した牟田口廉也なども入っていて、昭和史に疎い私でも知っているような錚々たる将校が名前を連ねているのがわかります。

ちなみに十九期が抜けているのは、この期が日露戦争末期にあたり多くの生徒を士官学校に入学させた期で「中学出身者は利巧すぎて信用が持てぬ(東条英機)」と思われていたのが理由だそうです。

一夕会の目的

一夕会の目的は主に次の三つにあったようです。

① 陸軍の不公正人事を是正して軍部の重要ポストに会から人材を配置すること
② 満州事変の解決
③ 林鉄十郎(八期)、荒木貞夫(九期)、真崎甚三郎(九期)の三大将を守り立てて強力に国策を推進する。

※出典:土橋勇逸「軍服生活の四十年の想出」昭和60年3月10日発行 勁草社出版サービスセンター|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 269頁を基に作成

一夕会は河本大作や板垣征四郎、石原莞爾を関東軍の高級参謀として満州に送りましたが、河本大作は張作霖爆殺事件を首謀し、板垣や石原は満州事変を起こしていますから、一夕会の思惑通りに満州の経営が進められていったとも言えるかもしれません。

もっとも、陸軍人事は公正でないからこれを正すのだと言いながら、山口や大分、石川県出身者を遠ざけたり、前述したように十九期を排除するなどしていたそうですから、人事不の是正などは詭弁でしょう。そもそも関東軍参謀の人事に介入している時点で一夕会自体が人事不公正を好み派閥人事を助長していたと言えます。

後に陸軍は皇道派と統制派に分かれて派閥争いを行い二・二六事件などに発展しますが、そうした萌芽はこの頃から始まったのでしょうか。

参考文献
・土橋勇逸「軍服生活の四十年の想出」昭和60年3月10日発行 勁草社出版サービスセンター|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 266~273頁