済南事件とは(蒋介石の第二次北伐と田中内閣の第二次山東出兵)

済南事件とは、昭和3年(1928年)に開始された蒋介石の国民政府軍による第二次北伐の際、中国山東地方の済南において現地居留邦人保護の名目で派遣された日本軍と蒋介石の国民政府軍が軍事衝突した事件のことをいいます。

昭和2年に引き続いて開始された国民政府軍の北伐は大小の軍閥を駆逐して山東の済南にまで及びましたが、満州に勢力を持つ張作霖は前年の第一次北伐以来、北京にまで軍を進めて来ていましたので、済南まで蒋介石の北伐軍が迫れば済南や山東各地が戦闘に巻き込まれてしまう危険があります。

もちろん、そうなれば列強との不平等条約に不満を持つ民衆のナショナリズムも高まりますので現地の在留邦人などの安全が急務となってきます。

当時の山東には日本の権益があり青島や済南、山東鉄道沿線には2万人近くの邦人が居留していましたから、その居留邦人の安全確保の要請が日本政府の内部で迫られることになったわけです。

時の政権は政友会の田中義一内閣でしたが、政友会と田中義一は権益を守るためには武力行使も辞さないという対支強硬路線をとっていましたし、陸軍も強硬策を支持しますから、「在留邦人の安全を確保するため」との名目で部隊を派遣することを決定します。これがいわゆる第二次山東出兵です(※第一次山東出兵については→山東出兵とは(蒋介石の北伐と政友会田中内閣の強硬政策))。

この点、昭和天皇はシベリア出兵の際に尼港事件など居留邦人が虐殺される事件が起きていたことに不安を抱き、また同じことが起こるのではないかと山東出兵に反対でしたから、出兵への決済をもらうため参内していた参謀総長の鈴木荘六大将の説明を聞いても署名できずに考え込んでしまいました。

しかし、侍従武官から鈴木に再度説明を聴くよう勧められた昭和天皇は、最終的には納得して書類を決裁します。

こうして統帥権を総攬する大元帥の決済を受けた田中内閣は、まず天津から一個中隊(200人程度)を、また4月19日には本土から第六師団(1師団は2万人程度)を派遣したのです。

しかし、山東はそもそも中国の領土ですから「居留民保護」の必要性があるからなどという理由で外国の軍隊が進駐してくることは中国側としては許容できません。民衆からの不満も高まります。

そのため蒋介石は、治安維持を徹底して居留邦人の安全確保には責任を持つことを約して日本軍に即時撤退を求めますが、国民政府軍の一部が暴徒化して済南市内で略奪を始め日本人十数人が殺害されるなど城内は混乱の極みに達してしまいます。

そうなると日本軍も指をくわえてみているわけにはいきませんから、その鎮圧のため軍事行動を開始します。

こうして済南で日本軍と蒋介石の国民政府軍との間で戦闘が始まりました。これがいわゆる済南事件の始まりです。

最終的に国民政府軍は済南城から撤退することになり、のちに昭和天皇の意向もあって日本側も撤退することになりますが日本軍はこの戦闘で済南城を軍事的に占領してしまいます。

結局、この済南の戦闘では在留邦人45人が虐殺されており、昭和天皇が当初抱いた不安は現実のものとなってしまいました。

参考文献
・甘露寺受長「ただ国民の上を」『背広の天皇』昭和32年9月21日発行 東西文明社|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 140~144頁
・半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 137~139頁