昭和の金融大恐慌とは(若槻礼次郎内閣総辞職の経緯と概要)

昭和2年1月26日、帝国議会の衆議院に震災手形整理法案が提出されました。

震災手形とは、大正12年9月1日の関東大震災で借金の返済が困難になった債務者を救済するため、震災地を支払地とする一切の手形について日銀が割り引いて補償するものとして出された勅令においてその勅令の条件を満たす手形のことを言います。

関東大震災は関東一円に多大な被害を及ぼしましたから、当然関東の被災地では銀行から借金していた多くの債務者が返済困難な状態に追い込まれました。

そうした債務者は被災地では莫大な数に上りましたから、銀行への返済は次から次に止まることになります。そうなると今度は銀行の経営が立ち行きません。

銀行は貸し付けた債務者から利子も含めた返済を回収することで資金を回しているため、いざ貸し付けた債権の返済が滞ると銀行の現金がなくなって預金の払い戻しもできなくなってしまうからです。

銀行が預金の払い戻しもできないとなると企業の給料も支払えなくなってしまいますから、仮にそうなれば経済全体が大混乱に陥ってしまいます。

そこで政府は何らかの対応を迫られるわけですが、議会を開いて法律を作る時間はありませんのでとりあえず緊急勅令で9月いっぱいのモラトリアム(債務の支払い延期)を出すことにします。

緊急勅令とは帝国議会が閉会しているときに災害などで緊急の必要がある場合に天皇が法律に変わって出す勅令のことで、大日本帝国憲法第8条を根拠として出されるものを言います。

大日本帝国憲法第8条
第1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第2項 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ

しかし、支払いを猶予させてもその期限が満了すれば結局は支払いを迫られるわけですから、震災被災者がそうそう返済可能な状態にまで復興できるわけではない以上、このモラトリアムだけでは解決しません。

そのため政府は9月の末に関東の被災地を支払地とする一切の手形について日銀に持ち込めば無条件で割り引き(換金し)、仮に不渡りが出て日銀が損失を被っても一億円までは国が補償するとした勅令を出すことにしたのです。

そうなると今度は最終的には日銀が割り引いてくれるということで、勅令の条件を満たす手形が債務者の信用に関係なく市中を出回ることになるわけですが、勅令の期限が満了すればたちまち紙屑になってしまいます。

政府は二度にわたって緊急勅令の期限を延長しますが、結局は昭和元年末までに四億三千万円を超える手形が日銀に持ち込まれた一方、昭和2年時点でその半分に近いニ億七百万円を超える手形が決済されずに残ってしまいます。

そして、昭和2年の9月には勅令の期限が満了するということで、勅令をさらに延長するのか別の手段を講ずるのか、政府は決断を迫られることになりました。

そのため時の政権であった若槻礼次郎内閣がその後始末に着手することになり、そこで帝国議会に出されたのがこのページ冒頭の震災手形整理法案だったわけです。

野党の政友会・政友本党と休戦し解散を回避した若槻首相

こうして帝国議会に提出された震災手形整理法案は、当初は目立った反対もなく審議が進められて行きます。

なぜ野党の反対がなかったかというと、それは首相の若槻礼次郎が法案提出前に野党の党首と内々に党首会談を開き、政争を休戦することで合意していたからです。

昭和2年の年が明け議会が開かれると朴烈事件松島遊郭疑獄事件を理由に野党の若槻下ろしが激しくなり野党の政友会から弾劾上奏案(不信任案)が出されてしまいました。

この不信任案に対しては与党(憲政会)議員の中から解散して選挙に打って出ろという意見もありましたが、若槻礼次郎は選挙に弱いと自認していましたので解散には踏み切りません。

露骨にいうと、私は金の出来ない総裁であった。これは世間でも、党員などでも、みな認めていた。選挙というものは、金を使わなければならん。金を持って行けば、大体選挙は勝てるであろうが、その金が出来ない。金のない総裁が、空威張りをして選挙をやって、大みそをつけちゃたまらん。というのが、その頃の私の肝の中であった。

※出典:『古風庵回顧録』若槻禮次郎自傅-明治、大正、昭和政界秘史 昭和25年3月25日発行 読売新聞社刊(※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 64~65頁)

どうしたかというと、若槻は当時野党だった政友会総裁の田中義一(※のち若槻内閣総辞職後に首相になった人)と政友本党総裁の床次竹二郎(※博徒を集めて暴力団(右翼)の国粋会を作ったりした人)に面会を求めて内々に党首会談を開き、頼み込んで上奏案を撤回してもらうことにしたのです。

私は両君に対して、今は陛下御即位の初年であるから、何とかして予算を成立させたい、上奏案を引込めてくれんかと、政争の中止を申込んだ。これに対して両総裁も、予算を成立させようという考えは同感である。しかしわれわれが上奏案を出したのにも相当な理がある、といろいろという。こういう場合に議論しては、纏まるものも纏まらなくなって、それで別れる外はなくなるから、私はそれを論駁しないで、それらは君らの方にもそれぞれ理由のあることは、よく知っているが、とにかく上奏は撤回してもらいたい。それに対してこちらもいろいろと考えようと云うと、それでは撤回しようということに話が纏まった。

※出典:『古風庵回顧録』若槻禮次郎自傅-明治、大正、昭和政界秘史 昭和25年3月25日発行 読売新聞社刊(※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 62~63頁)

この三党首会談は若槻の回顧録にあるようにうまく纏まり、とりあえず議会に提出された弾劾上奏案は撤回してもらえることになりました。

そして議会が開かれて震災手形整理法案が提出されると、大蔵大臣の片岡直温が野党の総裁を訪問して協力を要請しますが、今説明したように野党の政友会と政友本党は休戦に応じていますので特段の反対もなく野党も法案に合意します。

こうした事情があったことから、震災手形整理法案は当初は野党の反対もなく審議が進んだわけです。

震災手形整理法案に手の平返しで猛反対した政友会の裏事情

ところがこの震災手形整理法案が衆議院の特別委員会を通過した翌日の3月3日に衆議院の本会議が始まると、それまで特段の反対意見を述べなかった政友会が一転して批判に転じます。

政友本党は憲政会と休戦したままなので衆議院は通過しますが、3月23日に貴族院で可決されるまで政友会はあらゆる手を尽くして批判を繰り広げたのです。

ではなぜ若槻の説得に首肯して休戦に応じていた政友会が一転して反対に転じたかというと、それは政友会を蚊帳の外に置いて憲政会と政友本党が盟約を結んでいたことがわかったからです。

与党の憲政会は、震災手形整理法案が衆議院で審議されている2月末、野党の政友本党との間で互いに政権をたらい回しにする(ことを予想させる)密約を結んでいました(※内海丁三著「金融界の大混乱」-「文芸春秋」臨時増刊 三大特ダネ読本 昭和30年10月5日発行 文芸春秋社刊※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 74頁)。この提携を「憲本連盟」と呼ぶそうですが、こうした憲政会と政友本党の裏切りがあったことから政友会は一転して法案に反対の論陣を張ることになったのです。

台湾銀行の破綻危機で窮地に立たされる若槻政権

そのため帝国議会は紛糾しますが、こうした荒れる議会はマスコミの恰好のネタとなりますので、報道各社も嬉々として報じます。

特に追及の種になったのが台湾銀行の不正貸出事件に絡む問題でした。

当時鈴木商店という貿易商社があったのですが、大正7~8年ごろ、台湾銀行は当時一商社に貸し出す金額としては異例の一千万円をその鈴木商店に融資しました。しかし、鈴木商店が経営難に陥ってしまったおかげでその貸付債権が焦げ付いてしまいます。

無理な融資で窮した台湾銀行は貸し倒れを防ぐために次々と鈴木商店への融資を重ね大正15年(昭和元年)には貸付の累計総額が2億円にまでなってしまいました。

この融資は原敬の内閣(大正8~11年)から高橋是清(大正11~12年)、加藤友三郎(大正12年)と前の政権時代に行われていたことなので若槻内閣に責任はありません。

しかし、昭和2年時点に日銀で決済できずに残っていたニ億七百万円の震災手形の約半分が台湾銀行のものだと報告されていて(※のちに政府は貴族院で震災手形整理法案が台湾銀行救済のために必要であると説明します)、政府と鈴木商店のあらぬ関係まで疑われたこともあり政友会から執拗な追及を受けてしまいます。

また、3月14日の予算委員会で政友会の議員から追及を受けている最中、大蔵次官から「あかじ銀行が店をしまいました」と書かれたメモを受け取った大蔵大臣の片岡直温が「君らがあまり騒ぐから渡辺銀行が店を閉めたじゃないか」と口走ってしまったことで銀行の取り付け騒ぎが起きてしまいます。

当の渡辺銀行は3月14日に出した不渡りを何とかやりくりをして営業を再開していたのですが、片岡蔵相の発言で翌日に休業(事実上の破綻)を発表してしまったためパニックに陥った預金者が中小の銀行に殺到したのです(※ただし蔵相の失言がなかったしても渡辺銀行の破綻は時間の問題であったとも言われています)。

こうした金融恐慌の火に油を注ぐ閣僚の政治的な失言もあって議会は紛糾し荒れに荒れていきました。

図らずも若槻内閣を総辞職に追い込んでしまった枢密院

こうした政友会の追及はあったものの、憲政会と政友本党は密約があり多数議席を保持していますから、震災手形整理法案は衆議院を経て貴族院も通過し議会は3月31日に閉会します。

しかし、3月半ばごろになって台湾銀行の経営危機が取り沙汰されてきました。

先ほど説明したように台湾銀行が資金繰りに窮していたことはその前から知られていましたが、当時資金繰りに窮していた台湾銀行はコール市場(日貸しの資金を銀行間で融通し合う取引)を利用して何とか資金を廻していました。

ところが、三井銀行がそのコールを強引に引き揚げてしまったことから他の銀行も追随して次々にコールを引き揚げてしまいまい、台湾銀行に対する取り立てが急激に増加していったのです。

台湾銀行はコールで借り入れた資金を他のコールの返済に回す自転車操業ですから、そうなるとにっちもさっちもいかなくなってしまいます。台湾銀行は震災手形整理法の恩恵を受ける前に支払い停止の危機に陥ってしまったのです。

事態を重く見た政府は台湾銀行へのコール取り付け騒ぎを防ぐために二億円を限度とした損失補償を立法化しようとしますが、議会は3月31日に閉会したばかりで臨時国会を開くにしてもそれまでの間に市中が大混乱に陥ってしまう危険があり時間的な猶予はありません。

そこで政府は、緊急勅令によって国庫による損失補填を付けたうえで日銀から台湾銀行への二億円の融資を実現させようとしました。しかし、勅命を出してもらうには枢密院の決議が必要ですので、台湾銀行の支払い停止のリミットが4月18日だったこともあり政府は急いで手続きを進めます。

ところが、金融恐慌を甘く見た枢密院は4月17日にその緊急勅令案を否決してしまいます。

そうなると若槻内閣は万事休すです。

昨今の自民党政権はどんな不祥事が明るみになろうと辞職などせず政権にしがみつきますが当時の政治家はまともですので若槻内閣は即日に総辞職します。つまり枢密院にその意図はなかったものの、結果的に枢密院が内閣を総辞職に追い込むことになったわけです。

もちろん支払い停止に陥った台湾銀行は翌日18日に破綻に至ります。そしてその金融不安はドミノ倒しに拡散し、21日に当時最大の資本金を有していた十五銀行が休業するなど全国にその金融恐慌の連鎖は広がり昭和大恐慌はクライマックスを迎えました。

田中義一内閣の後処理

こうして枢密院の悪手から国内は大混乱に陥りましたが、若槻内閣の後を継いだ政友会の田中義一内閣は、手の平返しで緊急勅令に応じた枢密院の承認を受けて3週間のモラトリアムを実施する緊急勅令を出したのに加え、臨時国会を召集して全国の銀行救済法案を矢継ぎ早に成立させていきます。

こうして徐々に混乱は収まり、昭和の金融大恐慌は終息に向かったのです。

参考文献
・『古風庵回顧録』若槻禮次郎自傅-明治、大正、昭和政界秘史 昭和25年3月25日発行 読売新聞社刊(※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 61~69頁)
・内海丁三著「金融界の大混乱」-「文芸春秋」臨時増刊 三大特ダネ読本 昭和30年10月5日発行 文芸春秋社刊(※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 69~81頁)