山東出兵とは(蒋介石の北伐と政友会田中内閣の強硬政策)

山東出兵とは、昭和2年から3年にかけて日本が中国の山東省に「居留民保護のため」という名目で軍隊を派遣し青島を軍事占領した事件のことを言います。

青島は山東半島に位置しますが、当時の青島は日本が権益を有していました。もともとはドイツが租借地としていましたが、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツから日本にその権益が引き継がれましたので、当時は日本の権益になっていたわけです。当然、青島には日本人の居留民も多く居住していました。

そうした中、中国の統一を目指す蒋介石の国民政府軍が「北伐」を開始して北京に軍を進めます。当時の中国は各地に軍閥が割拠し勢力争いを繰り返す内戦状態にありましたが、南京に首都を置く国民政府軍の蒋介石が軍を率い、統一に乗り出したのです。

この国民政府軍の北伐は軍閥の張作霖が勢力を持つ北京にまで達し、中国北部は国民政府(中華民国)の勢力下に置かれますが、そうなって困るのが満州や青島に権益を持つ日本です。

中国の統一が進みナショナリズムが高まれば、不平等条約によって国土を虫食い状態にされている現状に不満を持つ中国国民の排外活動も広がることになり、満州その他の中国の権益の返還運動にまで発展しかねません。

そうなれば明治から日本が大陸で取ってきた政策がすべて水の泡になってしまいますから当時の日本は強い危機感を抱きます。そうして時の政権だった田中義一内閣が青島への出兵を決定し軍事力で青島を占領することになったのです。

国民政府軍が北伐に至る過程

山東出兵の話に至る前に、その時代の中国の置かれた状況と当時の時代背景について理解する必要がありますので簡単に説明しておきましょう。

当時の中国が内戦状態にあったことは先ほども述べましたが、そうした荒れた内政は列強の干渉を招きますので、中国の沿岸部を中心とした地域、具体的には香港や上海や青島と言った地域は武力を背景にしてイギリスやフランス、ドイツなど列強によって租借地とされていました。台湾も日清戦争で日本に割譲されています。

また中国東北部の満州あたりは帝政ロシア(のちソ連)によってロシアの権益化とされていましたから、こうした列強によって中国は荒らされ放題になっていたのです。

そうした中、日本は朝鮮半島に進めた兵に国境を超えさせ満州に進出してロシアと対峙します。そしてそれが日露戦争となって満州鉄道や遼東半島の旅順・大連の港などの権益はすべて日本に譲り渡されることになりました。

つまり、日露戦争で日本が勝ったことによって、満州からロシアが退場させられることになり、日本が中国における権益を持つ支配者としてロシアに取って代わることになったわけです。これによってロシアは中国の権益をすべて失いました。

こうした中国の主権を無視した列強の利権の奪い合いは当然、中国国民の反発を招きますから、当時の中国では排外運動が広がっていくことになります。

もっとも、注意が必要なのは当時は排運動ではなく排運動だったという点です。当初は日本だけでなく、イギリスやフランスなど中国に権益を持つ列強も含めたすべての外国列強が標的とされていました。

ところが、大正4年(1915年)に日本が中華民国政府に突きつけた「対華タイカ二十一カ条の要求(※南満州鉄道や安泰鉄道の経営権や関東州の租借権その他の特殊権益の期限を100年程度延長するなどを要求したもの)」の屈辱的な内容が中国国民の怒りの炎に油を注ぎます。

このころから、従来は列強諸国に向けられていた排外運動が、次第に日本を標的にした排日運動に趣を変え激しくなっていったのです。

ソ連からの共産主義思想の流入

こうして中国は日本を中心とした列強の浸食にさらされますが、レーニンの社会主義革命によってソビエトが誕生すると、ソ連から共産主義思想が流入してきます。

とは言っても、社会主義革命が起きた1917年(大正6年)ごろの中国では共産党の勢力はそれほど強くはありませんでした。当時の共産党は北京大学を拠点にした勢力が活動するぐらいにすぎません。

しかし、ソ連でカラハン宣言が出された1919年頃になるとその影響力も強くなります。

カラハン宣言とは、ソビエト連邦が過去に帝政ロシアがとってきた中国における侵略政策を批判する形で中国における権益をすべて放棄することを約すとともに、列強に対して中国における権益を放棄すること、また中国民族の独立を完遂させることを呼びかけるような内容の宣言を言います。

もちろん、先ほど説明したように当時のソ連は中国における権益をすべて日本に奪われていましたから、この宣言に意味はなくインチキなのですが、列強のソ連が中国の列強からの独立を後押ししているということで、それに熱狂した人たちが共産主義に共鳴していったのです。

こうした共産主義が中国国内で広がりを見せつつある時代に蒋介石が統一に向けて動き出したのが国民政府軍の北伐だったということになります。

共産党を利用した蒋介石の北伐

こうした共産党の広がりを利用したのが蒋介石です。

大正13年(1924年)に来日した孫文は国民革命を実現させるために政府の要人や民間の有力者に協力を要請しますが、当時の日本政府は満州に権益を持っていて満州に勢力を持つ軍閥の張作霖を支援していましたので、満州を支配する張作霖の討伐を含むその要請に乗るわけにはいきません。

犬養毅など一部には孫文の国民革命に理解を示す政治家などもいましたが、色よい返事はもらえなかったのです。

そうした経緯があったことから孫文の後継者だった蒋介石は日本ではなくソ連に援助を求めました。蒋介石はソ連の支援で広東に設立した軍官学校の校長をしていましたが、スターリンの支援を受けて三個師団をつくり北伐を開始することにしたのです。

スターリンがわずか三個師団(※一個師団は1万人前後)しか支援しなかったのは、北進の途上で農民や学生を取り込んでいけば過大な兵力は必要ないと考えたからです。

蒋介石は共産主義を嫌っていましたがソ連の支援がなければ国民革命は実現できません。そのためスターリンの指導を受けた蒋介石は1926年(大正15年)の7月から三個師団の兵力で北に軍を進めました。

そうしてスターリンの教えを実践した蒋介石は共産党と協力し農民や学生を糾合して勢力を拡大します。そうして共産軍と連合した国民政府軍が北京まで達しようとしていたのが昭和2年から始められた蒋介石の北伐だったのです。

蒋介石の北伐が国民革命か共産革命か探らせる田中政権

こうした蒋介石の北伐は上海や山東にある列強の権益と衝突しますから、必然的に権益を有していたイギリスや日本など列強の居留民への排外運動も激化していきます。

また、満州の張作霖も中原に出て統一の号令を掲げようと北京まで兵を進めています。

こうして中国国内が内戦に揺れる中、憲政会(※昭和2年に政友本党と合併して民政党)の若槻(礼次郎)内閣で外務大臣を務めた幣原喜重郎は中国の内政に干渉しない融和政策(いわゆる幣原外交)を取っていましたから、当初は日本政府も蒋介石の北伐に不介入の方針を取っていました。

しかし、昭和2年(1927年)の3月に国民政府軍が南京の日本総領事館を襲撃した南京事件などが起きると、強硬策を望む国民や軍部からの幣原外交への風当たりも厳しくなっていきます。

満州にまで国民政府軍がなだれ込むようなことになれば、明治以降に日本が満州で築いてきた中国における権益をすべて失うことになるからです。

そうした中、昭和大恐慌の失策で退陣した若槻内閣(※詳細は→『昭和の金融大恐慌とは(若槻礼次郎内閣総辞職の経緯と概要)』※ただし若槻内閣下ろしの本当の目的は対中国の軟弱外交の路線変更にあったともいわれています)の後を受けて昭和2年の4月に政友会の田中(義一)内閣発足すると、政友会がもともと中国における強͡硬外交路線を提唱していたこともあって「居留民の現地保護」を名目に国民政府軍の北伐に介入する方針を取ります。

もっとも、田中義一首相は国民政府とむやみに争うのではなく、張作霖を満州に戻して張作霖をうまく利用し、満州における日本の権益の安全を確保することを優先的に考えていました。

満州の権益に口を出して来ない限り北京より南(万里の長城より南)における国民政府軍の行動には介入せず、張作霖を利用して満州の地盤を固めた方がソ連に対する国防の側面からしても重要だと考えたのです。

一方、張作霖の方も日本の影響力を利用して満州の地盤を固める方が得策との考えを持っていましたから、田中内閣と張作霖との思惑はうまく合致していたと言えます。

しかし、その一方で、蒋介石の国民政府軍は共産党の協力を得て北に勢力を拡大させていましたから、おいそれと蒋介石の北伐を看過することもできません。仮に蒋介石の国民政府軍が共産革命を目指したもので、中国が共産党によって統一されてしまえばソ連と連携されて満州や朝鮮半島、あるいは日本本土の防衛に脅威となる懸念があるからです。

そこで田中内閣は、陸軍の鈴木貞一少佐(※当時参謀本部作戦課に所属、東京裁判でA級戦犯となり終身刑となり昭和30年に出所)を中国に派遣して蒋介石の真意を探らせることにしました。

蒋介石の国民政府軍が国民革命を目指すものなのか共産革命を目指したものなのか判断がつかないので、鈴木を蒋介石に派遣して北伐の真意を確認させることにしたわけです。

そうした経緯で中国に派遣された鈴木は1926年(大正15年※昭和元年)の暮に九江で蒋介石に会い、蒋介石が共産党を嫌悪していて、ソ連を頼ったのも日本からの援助を受けられないと考えた末のことであって目指しているのは共産革命ではなく国民革命であることを知ります。

そして昭和2年(1927年)の5月に帰国した鈴木はその旨を田中首相に報告しますが、先ほど説明したように政友会は対中強硬策をとっていましたし、強硬策を求める軍部も抑えなければなりませんから、田中首相は5月28日に「在留民を保護するため」という名目で山東への出兵を決断します。

そうして旅順に駐屯させていた部隊から2千人が海路で山東半島の青島に派遣されますが、この部隊は青島を軍事的に占領してしまいます。これが第一次山東出兵です。

共産党と袂を分かつことにした蒋介石

こうした日本の山東出兵は中国の主権を無視するものに他なりませんから、張作霖も蒋介石も抗議の声明を出します。

ただ、北伐が北京にまで至る頃になると、もともと共産主義を嫌っていた蒋介石は危険を感じ始めます。

そのまま共産党の協力を得て勢力を拡大し中国東北部に勢力を持つ張作霖を追い詰めて統一を進めれば、いずれ勢力を拡大した共産党に取って代わられる恐れがあるからです。

わずか三個師団で北伐を実現させるためには共産党の協力は不可欠でしたが、北伐軍が勢いを増すにつれて勢力を増していく共産党に蒋介石は不安を抱くようになったのです。

そのため蒋介石は共産党と袂を分かち、共産党を今のうちに討伐することを決定します(※いわゆる国共分裂)。

そして蒋介石は国民政府軍の北伐は北京までとすることで張作霖と合意を取り付ける妥協工作に乗り出すことにしました。

こうして国民政府軍の北伐(第一次)はいったん収束に向かうことになるのです。

日本軍の山東からの撤退と張作霖の説得

こうした蒋介石の動きがあったことから日本政府は昭和2年(1927年)8月30日に山東からの撤退を発表し、9月8日には撤退を完了させます。

撤退が進められる一方、先ほど述べたように田中首相は張作霖を援助して満州の権益の安全を確保し満州の地固めを確立することを第一と考えていましたから、鈴木少佐は部下を張作霖の下に派遣して「満州を日本と一緒に開発して満州の王になれ」と張作霖に満州に帰還するよう説得に乗り出しました。

これに対して張作霖は国民政府軍を共産主義者だと認識していて「国民政府軍は中国を赤化しようとしている」「自分が赤化防止のために戦っているのは中国だけでなく日本や東洋平和のためでもある」と考えていましたのでなかなか撤退に応じません。

結局、張作霖は翌年の昭和3年(1928年)に再び北伐を開始(第二次北伐)した国民政府軍に敗北するなどしたこともあってようやく5月に入って満州への帰還に応じる意思を表明するのですが、この点は後述することにいたします。

いずれにせよ、こうした蒋介石の国共分裂の動きと日本の思惑がうまくかみ合ったこともあって第一次山東出兵は収束することになったのです。

蒋介石の下野と日本での田中義一との密約

こうした日本軍の撤退が行われている一方で蒋介石も共産党の討伐を進めますが、武漢の国民党との間で内紛が生じ蒋介石は下野して日本に逃れることになり、南京には汪兆銘を首班とする南京政府が誕生します。

一方、日本に逃れてきた蒋介石は、松井石根の協力などを得て箱根で田中義一や森格らと会談し、満州における日本の権益を承認する代わりに国民政府が行う中国統一を日本も承認する、という形で合意(密約)を交わします。

こうした合意を取り交わした蒋介石の下に、南京の汪兆銘から連絡が入ります。蒋介石が日本に亡命した後の南京政府内部で起った権力争いの収拾がつかなくなった汪兆銘が蒋介石に帰国を求めたのです。

こうして蒋介石は昭和2年の暮に再び中国に渡り、長続きしなかった汪兆銘政権の後を引き継いで第二次北伐へと行動を移すことになるのです。

国民政府の第二次北伐と日本の第二次山東出兵

中国に戻った蒋介石は昭和3年(1928年)の春に入って二回目の北伐を開始します。

すると、田中首相は蒋介石の北伐を援助するということで山東に再び一個師団を派遣します。これがいわゆる第二次山東出兵です(※第二次山東出兵については→済南事件とは(蒋介石の第二次北伐と田中内閣の第二次山東出兵))。

しかし蒋介石は密約はあっても日本が軍隊を派遣してくるとは思っていませんから中国の排日運動は再び激化していくことになりました。

一方、北京の張作霖も蒋介石の北伐を迎え撃つべく行動を起こしたりしますが、前述したように日本政府の要請や国民政府軍との戦闘で負けたこともあって5月に満州への帰還を発表します。

そして、その満州への帰還の途上で張作霖は関東軍の謀略によって爆殺されるわけですが(張作霖爆殺事件)、それは別のページで詳しく解説することにいたしましょう。

参考文献
・鈴木貞一著『北伐と蒋・田中密約』「別冊知性5」12月号 秘められた昭和史 昭和31年12月10日発行 河出書房(※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 86~97頁)
・半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 82~85頁
・保坂正康著「昭和陸軍の研究」朝日新聞社 58~59頁
・秦郁彦著「昭和史の謎を追う」上巻 文春文庫 42~46頁