東方会議とは(その後の満州政策を決めた対支政策綱領)

東方会議とは、それまでの中国に対する政策を改め、現地保護主義と満蒙分離政策に基づいて強硬路線の政策を打ち出すために田中義一首相(外務大臣兼任)や森格外務次官などが出席して昭和2年に東京で開かれた会議のことを言います。

会議の出席者は、外務大臣を兼任していた田中義一首相と外務次官の森恪、匿名駐支公使の芳澤謙吉、奉天総領事の吉田茂、陸軍からは陸軍次官の畑英太郎、参謀次長の南次郎、関東軍司令官の武藤信義、海軍からは海軍次官の大角岑生、軍令部次長の野村吉三郎などが出席しました。

この会議の最終日には8つの項目からなる「対支政策綱領」が決定され外相訓令として発せられています(※対支政策綱領の詳細は→東方会議の「対支政策綱領」に関する田中義一外相訓令)。

東方会議が開かれた背景には蒋介石の北伐があります。大正15年(1925年)に南京に首都を置く国民政府が統一に向けた軍事行動を開始すると、軍を率いる蒋介石は瞬く間に勢力を拡大して北京にまで迫りました。

この蒋介石の北伐は列強との不平等条約からの開放を旗印に民衆の支持を得ていきましたから、上海や青島などに権益をもつイギリスやフランス、日本など列強の利益と衝突し排外運動も激化していきます。

特に満州に権益を持つ日本への排斥運動も激しくなりますが、憲政会(昭和2年に政友本党と合併して民政党)の若槻礼次郎内閣は対中国不干渉の政策(いわゆる幣原外交)を取っていましたので、当初は積極的な介入には消極的でした。

しかし、金融恐慌の失政などもあって若槻内閣が退陣し政友会の田中義一内閣が発足すると政友会がもともと対中国強硬路線を唱えていたこともあって政府は蒋介石の北伐に介入する方針を採用します。

昭和2年の5月には旅順の部隊から2千人を山東に派遣して青島を武力で占領しました。いわゆる第一次山東出兵です。

もちろんこれは中国の主権を侵す侵略行為に他なりませんでしたが「居留民保護のため」という名目で外形上は正当化させました。

蒋介石の北伐はいったん終息に向かいますが、昭和3年の春になって再び蒋介石が北伐を開始すると(第二次北伐)、日本政府も再び「居留民保護のため」との名目で本土から部隊を派遣します(第二次山東出兵)。

こうした背景があったことから中国の統一運動から満州その他の中国における権益を守るために田中義一や森恪などが中国における国家方針を議論したのが東方会議だったわけです。

この東方会議では現地保護主義と満蒙分離政策を中心に方針が決定されました。

具体的には、それまで取られてきた「満州と蒙古は中国の一部」という幣原外交を180度転換して、万里の長城から北の満州・蒙古と長城から南の中国本土を明確に区別して(いわゆる満蒙分離政策)、満州の有力者(張作霖)を支援して満州の権益を守ること、また満州その他の日本の権益や在留邦人の生命財産が侵害される虞があるとき、あるいは治安を乱す不穏分子がある場合は断固として自衛の措置を執ること(いわゆる現地保護主義)、つまり日本の権益が侵される恐れがあれば躊躇なく軍隊を派遣して対処する事などが決定されたのです。

もっとも、田中義一の構想としては満州を征服する意図はなく、満州の張作霖を支援してアメリカ資本を満州に導入し、経済的利権を拡大させるという比較的穏健なものだったともいわれています。

そして、先ほど説明したようにこの東方会議の最終日には「対中国政策要綱」が出されるわけですが、こうした強硬路線の内容は従来から政友会で議論されてきた対支強硬路線を明確にする程度で真新しいものではありませんでした。

しかし、いずれにせよ、この対支政策綱領の満蒙分離政策と現地保護主義に基づく政策決定は以後の日本における対中国政策となっていき、満州事変や日中戦争へとつながっていくことになったのです。

参考文献
・半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 98~104頁
・秦郁彦著「昭和史の謎を追う」上巻 文春文庫 17頁