統帥権干犯問題とは(ロンドン軍縮条約の海軍省と軍令部の対立)

昭和の日本海軍を大きく揺るがした事件で統帥権干犯問題というものがあります。

これは、昭和5年に調印されたロンドン海軍軍縮条約にからみ、条約の調印に反対していた海軍軍令部が、調印を推し進めた海軍省に対して軍令部の統帥事項を侵したとの理由で海軍省や政府を糾弾し、海軍内部の海軍省と軍令部の間で対立が生じた事件です。

この統帥権干犯問題は「統帥権の独立」の名の下に軍部の専横を正当化させることにつながっていき、結果的に海軍から国際協調派の将校が排除され強硬派に要職を占めることになるなど、その後の日本の方向性に大きな影響を及ぼしました。

では、この統帥権干犯問題は具体的にどのような経緯で議論となり、具体的にどのような結末を迎えることになったのでしょうか。

統帥権干犯問題で登場する主要人物

統帥権干犯の話は登場人物が多く誰が何を言ったかわからなくなるので、あらかじめ主要登場人物をまとめておきます。ちなみに軍令部とは海軍において大元帥たる天皇の統帥を補翼する機関のことです。海軍の作戦を立案し指揮するのが軍令部で、陸軍では参謀本部がこれにあたります。

統帥権干犯問題で登場する主要人物
ロンドン海軍軍縮会議
・若槻礼次郎(首席全権委員)
・財部彪(海軍大臣・海軍大将)
海軍省(国際協調派・条約派)
・山梨勝之進(海軍次官・海軍中将)
・堀悌吉(軍務局長・海軍少将)
・古賀峯一(高級副官・海軍大佐)
軍令部(強硬派)
・加藤寛治(軍令部長・海軍大将)
・末次信正(軍令部次長・海軍中将)
・加藤隆義(作戦班長・海軍少将)
軍事参議院
・岡田啓介(軍事参議官・海軍大将)
・伏見宮(軍事参議官)
宮中
・鈴木貫太郎(侍従長・海軍大将)
・昭和天皇
政府
・濱口雄幸(内閣総理大臣・海軍大臣代理、立憲民政党)
立憲政友会
・犬養毅(議員)
・鳩山一郎(議員)
海軍重鎮
・東郷平八郎(日露戦争時の連合艦隊司令長官・海軍大将)

ロンドン海軍軍縮会議で調印に反対した軍令部

昭和5年(1930年)1月からロンドンで開かれた海軍軍縮会議はウォール街に端を発した世界恐慌の危機感もあって参加各国で積極的な軍縮が議論されました(ロンドン海軍軍縮会議の詳細については→ロンドン海軍軍縮会議とは(若槻全権委員対米交渉の過程と概要))。

日本は、大正11年(1922年)に行われたワシントン軍縮会議で戦艦や航空母艦など海軍主力艦の軍縮に合意していましたので、このロンドン会議では巡洋艦や潜水艦など海軍補助艦の削減が議題となります。日本は、アメリカとの重巡洋艦・総体の巡洋艦トン数・潜水艦の比率を「7割・7割・7万5千トン」とする案を閣議決定し、対米交渉に挑みました。

これを下回る基準で軍縮すれば、用兵上支障をきたしてアメリカの侵攻を防げないと軍令部に強く求められていたからです。

もっとも、首席全権委員として派遣された若槻礼次郎は、アメリカ側から大幅な譲歩があったことから最終的に「7割・6割・5万2千トン」の比率で妥協することを決定し、その許可を得るため東京に打電します。

ところが、これに反対したのが海軍の強硬派です。全権委員に随伴していた海軍将校の多数から反対意見が出されたうえ、東京の政府にも調印に反対する意見が出されたことから東京でも議論が紛糾することになったのです。

「政府方針の範囲で善処するよう努力する」でとりあえず纏まった海軍の軍令部と海軍省

もちろん、緊縮路線で国家財政の健全化を図りたい浜口雄幸首相はロンドンから打電された妥協案に沿った形で回訓案(ロンドンの全権への返答)をつくり天皇の裁可を経て調印したいと判断しますが、海軍内部は米英と敵対するのを避けて国際協調路線に立ちたい海軍省(国際協調派・条約派)と、用兵上の理由から「巡洋艦7割」に固執する軍令部(強硬派)とで意見が対立し海軍首脳の一致した結論が出せません。

もっとも、岡田啓介(軍事参議官)を中心に議論を重ねた結果、海軍としては「7割・7割・7万5千トン」の三大原則を求めはするものの、仮に浜口首相の回訓案が閣議決定されれば、それは「やむを得ないものとしてその範囲で善処するよう努力する」という趣旨の結論で意見が纏められていきます。

軍令部長の加藤寛治ひろはるから「それではアメリカの案を承認したようになる」との反対意見も出ましたが、岡田啓介(軍事参議官)から「(4月1日に開かれる海軍首脳会議で)私がその意味のこと(善処する云々の海軍方針)を濱口首相に言うから君はだまっててくれるか」と聞かれた加藤寛治(軍令部長)も「そうしよう」ということになって海軍の意見が纏まりました。

夕刻加藤軍令部長を部長室に訪い、明朝濱口は回訓案を説明する趣なり。其際君は此案を閣議に附せらるゝは止を得ず、但し海軍は三大原則を捨てる者にあらざるも閣議にて決定すれば夫に対し善所すべし位の事は言われんかと申したるに、それにては米案を承認した様になるからなあと云う。依て予は然らば其の意味の事を予より言うべし、君はだまって居てくれぬかと申したるにそうしようと云たるに付き辞去。

※出典:岡田啓介日記 昭和5年3月31日部分より『現代詩資料7 満州事変』昭和39年4月25日 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 67頁より引用

つまり、海軍のこの「政府が決定した回訓案の範囲で(海軍は)善処するよう努力する」という方針は軍令部長の加藤寛治も了承したうえで海軍の一致した回答として決定されたわけです。

そして岡田啓介(軍事参議官)は昭和5年4月1日、加藤寛治(軍令部長)、山梨勝之進(海軍次官)と共に官邸を訪れ、海軍大臣代理の浜口首相が同席する海軍首脳会議の席上でこの海軍の方針を濱口に伝えました。

閣議室の次の応接室に於て、加藤、山梨と共に総理に面会す。濱口総理より外交内政財政の事情を書類にて説明あり、回訓案の内容に及び、海軍の事情も十分説明を受け十分参酌して此の如く致したり。是より閣議に謀り決定せんとす。之を諒とせられたしとの事なり。依って予は此回訓案を閣議に上程せらるゝは止を得ず。但し海軍は三大原則は捨てませぬ。海軍の事情は閣議席上次官をして充分述べしめられ度、閣議決定の上は之に善処する様努力すべしと申述。加藤は米国案の如くにては用兵作戦上軍令部長として責任は取れませんと言明し、山梨は其回訓案は是より海軍首脳に謀り度、閣議上程は其後にせられ度旨希望し、総理より回訓案を受取る。

※出典:岡田啓介日記 昭和5年4月1日部分より『現代詩資料7 満州事変』昭和39年4月25日 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 67頁より引用

こうして浜口首相が決めた回訓案(補助艦の対米比率を7割・6割・5万2千トンとする案)が海軍省も含めた政府案として決定され、天皇の裁可を受けることになるのですが、この岡田の説明の後に続けて軍令部長の加藤寛治が「米国案の如くにては用兵作戦上軍令部長として責任は取れません」と付け足したことが後になって統帥権干犯の問題を惹起させることになります。

なぜなら、濱口首相だけでなく岡田啓介(軍事参議官)や山梨勝之進(海軍次官)がこの「米国案の如くにては用兵作戦上軍令部長として責任は取れません」との加藤寛治(軍令部長)の発言は単に岡田が述べた「海軍は三大原則を捨てない」という部分を補足したものに過ぎないと理解していた一方、加藤は岡田啓介(軍事参議官)は何の職責もなく権威もないので職責のある軍令部長の自分(加藤)が「米国案の如くにては用兵作戦上軍令部長として責任は取れません」と述べたことによって岡田の述べた「政府案が閣議決定されればその範囲で最善を尽くす」の部分は打ち消されたんだと考えていた(またはそういう理屈が成り立つようにあえてこの場でその発言を残しておいた)からです。

この時、加藤軍令部長がどのように考えていたかは加藤の遺稿をその子息がまとめた加藤寛治日記に記述があります。

軍事参議官の答え(予より先んず)
……(※当サイト筆者中略)海軍としてはこれにて最善の方法を研究致さすよう尽力します。
(註)責任者に非ず、職責もなき一軍事参議官をしてこれを言わしめたる海軍次官の作為は奇怪至極と言わざるべからず(予の推定なるも、他にかかる作為すべき人なし)従って岡田軍事参議官の初答はなんら権威なきものなるも、当日のことを明らかにするためここに併記す。
予軍令部長の否認
「国防用兵計画の責任者として米国案を骨子とする兵力量には職責上同意するを得ず」と確言し、岡田軍事参議官の答えに止めを刺せり。

※出典:加藤寛治日記 昭和5年4月1日部分より『昭和四年五年 倫敦海軍条約秘録 故海軍大将加藤寛治遺稿』昭和31年9月 |半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 81~82頁より引用

この加藤寛治(軍令部長)の主観に立てば、岡田啓介(軍事参議官)や山梨勝之進(海軍次官)は海軍軍令部の加藤寛治が反対するのを無視して勝手に「海軍は三大原則を捨てないけれども政府案が閣議決定されればその範囲で最善を尽くす」を海軍の統一方針として政府に出した、ということになりますから政府案が閣議決定されてもそれは天皇の統帥を補翼する軍令部を無視したものだという理屈が成り立ちます。

そのためこれが、政府の回訓案は天皇の統帥を補翼する軍令部を無視して決められたから「統帥権の干犯だ」ということで、大きな議論を巻き起こすことになるのです。

「軍令部長の上奏前に政府が上奏したのは統帥権の干犯だ」という加藤軍令部長の理屈

もっとも、浜口首相は海軍の了承があったと理解していますから、この海軍首脳会議で海軍側から諒解を得られた(※少なくとも浜口・岡田・山梨はそう考えている)回訓案は閣議決定で全会一致で可決となり、天皇に上奏されて裁可を受けるだけとなりました。

ところが、その政府の上奏直前になって加藤寛治(軍令部長)から上奏の手続きが出されてしまいます。加藤寛治(軍令部長)は政府から回訓案が上奏される前に軍令部の反対意見を天皇に直接上奏し昭和天皇に再考を求めようと考えたわけです。

しかし、その日(4月1日)の昭和天皇は終日予定が詰まっていたため許しが下りず、その日は参内できません。

十時頃加藤より本日上奏を宮中に願い置きたるも、側近者の阻止に遭う恐れあり、君侍従長に其辺の消息を問合せ呉れぬかと。依て十時半侍従長を官邸に訪問し聞合せたるに、本日は後日程既に一杯なれば或はむずかしからんも、上奏を阻止する等の事なしとの事なれば、其旨加藤に伝う。

※出典:岡田啓介日記 昭和5年4月1日部分より『現代詩資料7 満州事変』昭和39年4月25日 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 69頁より引用

こうして加藤の参内がかなわない中、結局は浜口がその日のうちに参内し、海軍の諒解を受けたものとされた政府の回訓案は天皇の裁可が与えられ、その日の夕方に政府の回訓案はロンドンに打電されました。

翌日の2日、参内が許された加藤軍令部長は軍令部の意見を昭和天皇に上奏します。もっとも、前日に鈴木貫太郎(侍従長)から「国政の責任者と統帥の幕僚長が相反する上奏をすれば陛下を苦しめる(陛下の判断を悩ませることになる)」と諭されていた(※頁末半藤書「昭和史の転回点」10~12頁)加藤は軍令部の強固な反対意見は封印して穏便な意見を述べただけで下がりました。

この点、昭和天皇独白録(26頁参照)でも、この時の加藤軍令部長の上奏を「内容は政府の意見と、ほぼ一致したもので、至極穏健なものであった」と記録されていますので、この時の加藤は政府回訓案に反対する意見を上奏しなかったのでしょう。

ただし、加藤軍令部長の上奏の後、当時宮内省御用掛として昭和天皇に軍事学を講義していた軍令部次長の末次信正(海軍中将)が陰謀をめぐらしてその講義の際に軍令部の反対意見を昭和天皇に直接伝えていました(※頁末「昭和天皇独白録」26~27頁参照)。ちなみにこうした暗躍が嫌気された末次は後で財部彪(海軍大臣)から更迭を決められこれが人事問題となって海軍省と軍令部の対立にまで発展します(※この点は後述します)。

もっとも、加藤の上奏の如何にかかわらず政府の回訓案はすでに天皇の裁可が与えられてロンドンに打電されています。当然、それに不満を持つ海軍の強硬派の憤怒は収まりません。激高した若手将校の中には、加藤に死諫や辞職を勧告する者まで現れてしまいました。