田中メモランダム(田中上奏文)とは

田中メモランダム(田中上奏文)とは、満蒙の権益に関連して対中国政策が話し合われた東方会議の決定に基づいて田中義一首相兼外相が作成し天皇に上奏されたとされる怪文書のことを言います。

この田中メモランダム(田中上奏文)では「支那を征服せんと欲すれば、まず満蒙を征せざるべからず、世界を征服せんとすれば、必ずまず支那を征服せざるべからず…」との文章の英訳が南京政府などから欧米諸国に流布されたことから日本の侵略政策を証明するものとして東京裁判などでも日本側に不利に働きました。

もっとも、この田中メモランダム(田中上奏文)は実際には何者かが捏造したものであることが当初から指摘されていて今日では偽物であることが確定しています。

「田中メモランダム(田中上奏文)」は如何にして世界に拡散されていったのか

田中メモランダム(田中上奏文)は最初に出回った中国語版の外にも英語版やロシア語版、またそれらの日本語訳版など膨大な数が確認されていますが、何者かが捏造した怪文書にすぎませんので日本語で書かれたはずのオリジナル版は、もちろんいまだ見つかっていません。

その内容は出版された版によって内容に多少の異動があるそうですが、秦郁彦氏によれば「内閣総理大臣田中義一、群臣を行率し、誠惶誠恐セイコウセイキョウ謹みて、我が帝国の満蒙に対する積極的根本政策に関する件を奏す」の書き出しから始まり、本文約4万字のほかに付属文書として田中首相が一木喜徳郎宮内大臣に宛てた1927年7月25日付の「書簡」が添付されている点はどれも共通しているそうです(※秦郁彦著「昭和史の謎を追う」上巻 文春文庫16頁)。

この田中メモランダム(田中上奏文)が問題として提起された始まりは、昭和3年9月(※当ページ末尾の参考文献「秦」書では昭和4年10月と記載されていますが「半藤」書の有田著では昭和3年9月となっているので昭和3年9月としています)に京都で開かれた汎太平洋会議までさかのぼります。

汎太平洋会議とは太平洋に面する国々の民間有志が集まって太平洋の平和について話し合うためという建前で始められた会議で、政府とは関係のない民間団体主催によるものでした。

その年の会議には日本から松岡洋右(※第二次近衛内閣で日独伊三国同盟を締結したりした人)や有田八郎(当時のアジア局長で近衛~平沼~米内内閣で外相)、小村俊三郎や水野梅暁などが出席しましたが、中国の出席者が「田中メモランダム」なるものを提出しようとしているという情報が有田八郎に入ってきます。

有田はその情報とともに受け取った「田中メモランダム」なるものの写しを見せられて意見を求められますが、後述するように有田が見れば一見して偽物とわかる代物でした。

ただ有田は、その「田中メモランダム」なる文書をあえて会議に提出させて会議の席上でそれが偽物であることを指摘して捏造文書であることを明らかにし、その怪文書をどこで手に入れたか追及する方が面白いだろうと考えました。

そのため有田は中国側その「田中メモランダム」なる怪文書を出すなら出させてもいいのではないかとの意見を日本側の出席者に伝えますが、日本側が事前に中国側に連絡してその文書を会議に提出しないよう要請し、中国側もそれに応じたことで結局はその「田中メモランダム」なる文書は会議に提出されませんでした。

ところが中国側の代表団は、その「田中メモランダム」なる文書の英文訳を各国代表に配布するとともに新聞や雑誌などにも発表してしまいます。

そうなれば、いくら汎太平洋会議が民間有志の集まりに過ぎないとはいっても日本政府は黙ってみているわけにはいきません。

政府は南京の国民政府に正式に抗議を入れて「田中メモランダム」なる文書の取り消しを求めるとともに、米英など主要国政府にもその旨連絡して一応はその件は収拾をつけることが出来ました。

しかし、たとえ偽物であっても日本と敵対する国にとっては「田中メモランダム(田中上奏文)」の内容は日本の侵略主義を糾弾するために好都合でしたから、いったん出回った怪文書はその後も事あるごとに引用されることになります。

東京裁判でも日本の侵略主義を証明するための証拠として提出されるなど、長年にわたって蒸し返されることになります。

なお、東京裁判では後述する問題点が指摘されたことで検察側も納得し、証拠として採用されずに撤回されています。

もちろん、日中戦争や東南アジアと太平洋に戦禍を広げたあの戦争が侵略戦争だったことは紛れもない事実なのですが、この「田中メモランダム(田中上奏文)」については、今日ではまともな歴史家やジャーナリストの中で正式文書と考える人はいないようです。

「田中メモランダム(田中上奏文)」はなぜ偽物と分かるのか

この点、なぜ「田中メモランダム(田中上奏文)」が偽物と判断できるのかという点が問題となりますが、有田八郎は昭和34年12月25日に発行された『馬鹿八と人はいう(光和堂刊)』の中の「東方会議と田中メモランダム」の中で、おおむね以下の2つの点を挙げてその偽物性を立証しています。

まず一つ目は、その「田中メモランダム(田中上奏文)」が天皇への上奏の慣例に何一つ従っていなかったという点です。

天皇への上奏は「内大臣」経由で差し入れられることになっており宛名など記載されないのが慣例であるにもかかわらず、「田中メモランダム(田中上奏文)」には宛名が記されていてしかもその宛名が「宮内大臣」になっていました。

また上奏文は通常、一定の型が用いられて漢文調で書かれるのが慣例なのに、その慣例に従っていない点も有田には疑問でした。

こうした慣例を無視していた点で有田はすぐに偽物と気づいたわけです。

そして二つ目は、「田中メモランダム(田中上奏文)」に記載されている時系列や事実関係が実際と異なっている点です。

「田中メモランダム(田中上奏文)」では、田中義一がヨーロッパに行く途中に上海で朝鮮人の襲撃を受けたがヨーロッパで各国政治家と意見交換して帰国後にこの上奏文を陛下に上奏した、という趣旨の記述がありましたが、田中がその頃にヨーロッパに渡欧したという事実はなく、田中が上海で朝鮮人の襲撃を受けたのも、フィリピンのジェネラル・ウッド総統が来日した返礼にフィリピンを訪問した帰りのことであって、その事と混同していることが推認できました。

また、「田中メモランダム(田中上奏文)」には御前会議に山形有朋が出席したとの記述があるものの、当該御前会議が開かれる少し前に山形有朋は死去していることなどの間違いもあります。

こうした誤りが散見されたことから有田は「田中メモランダム(田中上奏文)」が偽物だとすぐに気づいたわけです。

なお、その他の問題個所については前に挙げた秦郁彦氏の「昭和史の謎を追う(文春文庫)」で詳しく検証されていますので興味がある人は読んでみることをお勧めします。

「田中メモランダム(田中上奏文)」が偽物であることは日本の侵略戦争を否定する根拠にはならない

なお、このように「田中メモランダム(田中上奏文)」が偽物であることは紛れもない事実なのですが、だからと言って先の戦争(日中戦争や太平洋戦争)が侵略戦争ではなかったという免罪符にはならないことに注意しなければなりません。

歴史修正主義者の人はこうした事実が出てくると短絡的に「それみろ!田中や当時の軍部が中国を侵略しようとしてたなんて嘘じゃないか!あの戦争は侵略じゃなかったんだ!」と言い出しますが、これは「田中メモランダム(田中上奏文)」が偽物だったというだけであって、先の戦争や日本の対中国・満州政策とは全く関係がありません。

もちろん、先の戦争が侵略を目的としたものであったのかなかったのかという議論はあってもよいと思いますが、満州事変や上海事変が陸軍の謀略だったことは歴史上の紛れもない事実ですし、アメリカの対日禁輸策に窮した日本が石油や鉄鋼その他の資源を確保するために仏印(ベトナム)や蘭印(インドネシア)その他の東南アジア諸国に兵を進め、現地の人に多大な犠牲を強いてしまったのも事実です。

そうした事実に蓋をして、この「田中メモランダム(田中上奏文)」を侵略戦争否定の根拠として持ち出すような恥ずかしいことだけはしないようにしなければなりません。

参考文献
・有田八郎 「東方会議と田中メモランダム」『馬鹿八と人はいう』昭和34年12月25日発行 光和堂|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 105~109頁
・秦郁彦著「昭和史の謎を追う」上巻 文春文庫 12~33頁