なぜ関東軍は張作霖を爆殺するに至ったのか

昭和の歴史を学ぶ上で外せない事件が昭和3年にありました。張作霖の爆殺事件です。

張作霖は中国東北部、満州の地域に勢力を持つ軍閥の頭領ですが、当時の日本はその満州に満州鉄道や遼東半島の旅順・大連の港の使用権などの権益を持っていましたので、権益の安全を確保するため張作霖とは有効な関係を築いていました。

当時の日本は張作霖を利用して満州の統治を安定させることで権益を守ろうとしていたわけです。

しかし、昭和3年になると張作霖は陸軍の河本大作大佐の謀略によって爆殺されてしまいます。もちろん、これは河本大佐個人の犯行ではなく、軍部が深く関与したテロでした。

ではなぜ、陸軍は一時は蜜月関係にあった張作霖を謀略によって殺害することにしたのでしょうか。

張作霖と日本政府・陸軍の利害関係が一致した蜜月時代

陸軍が張作霖を殺害した理由を考える前に、まず当時の中国がどのような状態にあったのかという点を確認してみましょう。

当時の中国はイギリスやフランス、日本など列強の武力を背景に不平等条約を結ばされて権益などで虫食い状態にされていました。日本も上海や青島、満州などに権益を持っていましたから、当然それに不満を持つ中国国民から排外運動の標的にされます。ちょうど、攘夷の嵐が吹き荒れた幕末の日本のようであったかもしれません。

もっとも、幕末の日本と異なるのは、中国では中央政府の統治が隅々までいきわたっていなかった点です。

幕末の日本では攘夷の熱は高まっても幕府の権威は各藩に対して健在でしたから治安を維持することはある程度できていました。

しかし当時の中国は辛亥革命を成功させた孫文が南京に首都を置いて中華民国を建国していたものの、各地に大小の軍閥が割拠して勢力争い続けているような状態でしたので中央政府(南京政府)の統治は国土の隅々までいきわたりません。

中国は広いので各地の軍閥が割拠し、内戦状態に陥っていたわけです。そうした内乱に付け込んで欧州や日本などの列強が権益を拡大させていく、そんな時代でした。

こうした状況は満州でも同様で、最も大きな勢力を持つ張作霖が各地の小さな軍閥と争いを繰り返しているような状況でした。

そうした軍閥同士が争うような状態では治安も維持できませんから、満州に権益を持っていた日本は何らかの手段を講じる必要があります。そこで当時の日本は張作霖を支援することで友好関係を築き、満州の権益を守ろうとしたわけです。

一方の張作霖も各地に割拠する小軍閥に悩まされていましたので日本の支援は好都合です。

こうして満州における日本と張作霖の利害関係が合致したこともあって、張作霖との蜜月関係が構築されていったわけです。

次第に日本側の指示を疎ましく感じるようになった張作霖

しかし、こうした蜜月関係も長くは続きません。日本側の支援を受けて張作霖が満州で力をつけていくと、今度はあれこれ口を出してくる日本が張作霖にとって邪魔になってきたからです。

そこで張作霖は、満州鉄道と並行して線路を引くことを計画します。満州の経済は鉄道を中心に回っていましたので、満州鉄道と並行して線路を引いて価格競争で優位に立ち経済を掌握すれば日本に頼らなくても満州を統治できると考えたわけです。

当初の日本は張作霖にそんな財力はないと高を括っていたので傍観していたのですが、張作霖は満州の地方にある不要の線路などの鉄道資材を持ってきて地ならししただけの地面にはがしてきたレールを敷いたり、鉄橋など掛けずに井桁に組んだ材木の上にレールを敷くなどして日本側の予想に反して急ピッチで併行線を完成させていきました。

当初は有蓋貨車(屋根扉のある貨車)に木製の腰掛がいくつか並べられているだけの二等客車や、畑の中の百姓家に旗が立ててあるだけの駅で営業していた併行線も年々整備されてそれなりの鉄道になっていきます。

そうなると日本側も黙ってみていられません。満州の北部で取れた大豆を奉天経由で胡蘆島コロトウに運びそこから海外に輸出しようというのが日本政府の計画でしたが、併行線など敷かれて大豆の輸送を取られると満鉄の経営が破綻してしまいかねないからです。

当然、日本側は張作霖に抗議して鉄道の建設をやめさせようとしますが張作霖は言うことを聞きません。

満州鉄道の総裁に就任した仙谷貢がチェコスロヴァキアの公使をしていた元アジア局長の木村鋭市を満鉄の理事に迎えて交渉させてもうまくいきませんでした。

また、蒋介石が国民政府軍を率いて北伐を開始した際にも日本側が止めるのも聞かずに張作霖は北京まで軍を進め、満州に帰って満州の経営に専念するよう求めた日本側の要請を無視して北伐軍と銃火を交えるなど次第に日本側の言うことを聞かなくなっていきます。

そうした経緯があったことから、陸軍内部でもいっそのこと殺してしまえという声が高くなっていったのです。

参考文献
・有田八郎 「東方会議と田中メモランダム」『馬鹿八と人はいう』昭和34年12月25日発行 光和堂|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 105~109頁