張作霖爆殺事件の背景と経緯、事件の経過とその概要

昭和3年(1928年)6月4日午前5時すぎ、奉天郊外を走る一台の特別列車がありました。乗車しているのは満州に勢力を持つ大軍閥の頭領、張作霖です。

当時の中国は南京に首都を置く国民政府が中華民国を宣言して統治していましたが、広大な中国の隅々まではその権威はいきわたっておらず、大小の軍閥が地方に割拠している状態でした。そして北京の北側、万里の長城を超えた中国東北部の満州で勢力を誇っていたのがその張作霖です。

張作霖は満州では最大の勢力を持つ軍閥でしたが、地方には小さな軍閥が割拠していて張作霖と小競り合いを繰り返している状態にありました。

一方、満州鉄道の経営権や旅順・大連など港の使用権を持つ日本としても、満州の治安を維持して居留邦人の安全を確保し権益を発展させてソ連の脅威に対抗する必要性から満州の軍閥と協力関係を築くことが欠かせません。

当時の満州では日本から入植した大量の移民が満州人や蒙古・朝鮮・中国人の開拓した土地を強制的に奪い取ったり、安いお金で買い叩いて追い出したことで恨みを買い、反日・排日運動が絶え間なく続いていたからです。

こうした事情があったことから、張作霖を支援することで満州の排日運動を抑え権益の発展を図ろうとする日本政府や関東軍と、日本から援助を引き出すことで満州における敵対勢力を排除し勢力を維持拡大しようとする張作霖双方の利害関係が合致して蜜月関係が続いていました。

しかし、日本の支援を得て権勢が大きくなった張作霖は日本政府の要請を無視して満州鉄道に併行した新たな鉄道を建設し満州鉄道の経営を圧迫したり、日本政府や関東軍が止めるのを聞かずに蒋介石の北伐軍と交戦するなど、徐々に日本側の言うことを聞かなくなっていきます。

そうした事情があったことから関東軍の中では次第にいっそのこと張作霖を殺して満州を軍事的に占領してしまえという意見が大きくなっていきます。

そうした強硬論が関東軍に広がる中、蒋介石の第二次北伐軍に敗れた張作霖が軍勢を満州に引き上げてくることになりました。その張作霖が乗っていたのが冒頭の奉天郊外を走っていた特別列車です。

そしてこの特別列車が奉天駅の南1kmにさしかかった時、線路に仕掛けてあった爆弾が爆破され、張作霖が殺害されます。

これが昭和3年6月4日に満州の奉天でおきた、いわゆる張作霖爆殺事件です。

河本大作が張作霖爆殺に至った背景

張作霖を爆殺したのは、関東軍参謀として満州に派遣されていた河本大作大佐でした。

小倉連隊附の中佐だった河本は大正15年(1925年)3月、関東軍に派遣されますが満州に吹き荒れる反日の嵐に唖然とします。

奉天の市中では白昼から邦人が現地軍閥(張作霖軍)の兵士による強盗に遭ったり、満州の僻地(東寧やチチハル)では邦人が満州人から鞭打たれたり婦女子が侮辱されるなどの光景を視て、20万人を超える邦人の生命と財産が危機に直面してる状況に危機感を感じたのです。

もちろん、こうした反日行動の多くは、先ほど説明したように日本から流入した大量の移民から現地の満州人や朝鮮人、中国人などが畑や家屋を奪い取られて(または安くで買い叩かれて)追い出された恨みなどから発しているわけですが、日清、日露の戦役による幾万の将兵の血によって築いてきた満州の権益が失われようとしていることに河本は憤りを感じたのでしょう。

しかも、張作霖は満州鉄道と併行する鉄道を建設して満州鉄道の経営を圧迫したりしているにもかかわらず、軍事顧問として派遣された松井七夫中将や町野武馬中佐など軍人は張作霖の行動に見て見ぬふりをしている状況で、日本側が止めるのを聞かずに奉天から軍を率いて北京に進軍し蒋介石の北伐軍と戦うなど次第に日本政府や関東軍の言うことを聞かなくなっていきました。

こうした満州における権益の危機的状況と張作霖の行動に対する不信から、いっそのこと張作霖を殺して奉天軍に軍事蜂起させ、これを関東軍が鎮圧することで一気に満州を軍事的に占領し満州の諸問題を解決しようとの考えが、河本を含め関東軍の幕僚の中で支配的になっていきました。

軍閥の頭領である張作霖さえ殺してしまえば奉天軍の幹部は四散し第二の張作霖が出てくるまで満鉄などの権益を安定させることが出来ますし、各地の反張作霖派の軍閥が蜂起し満州で戦乱が生じれば、治安維持の名目で関東軍が満州全土に軍を進め、一気に満州を中国から分離独立させ傀儡政権で支配できると考えたからです(※後述するように張作霖爆殺事件ではこの計画は実現しませんでしたが、こうした考えが1931年の満州事変へとつながって実現されることになります)。

こうした背景が、河本大佐を張作霖の爆殺に向かわせたのです。

張作霖爆殺はどのように計画されたか

そうした経緯があった昭和3年5月ごろ、蒋介石の北伐軍に敗れた張作霖が奉天に引き上げてくるという情報がもたらされますが、張作霖の奉天軍30万の将兵が戦に敗れて満州に逃げ込んでくれば、満州は武装した敗残兵であふれかえってしまうことになりかねません。

仮にそうなれば、ただでさえ反日感情の高まっている満州ではたちまち武装蜂起が起こって居留邦人の生命と財産が危機に瀕してしまいます(※もちろん、もとをただせば満州人から奪い取った財産ですが)。

しかし、田中内閣は昭和2年の東方会議で現地保護主義と満蒙分離政策を決定し、対支強硬路線を明確に宣言した対支政策綱領を外相訓令として発表していたにも関わらず、日本の満州政策に懸念を持つアメリカ世論への気兼ねから軍の派遣に及び腰でした。

満州の関東軍は村岡長太郎司令官(中将)だけでなく幹部も軍事介入することで意見が一致していましたが、政府は二の足を踏んでいる状態だったのです。

東京の政府が軍事介入に踏み切りませんから、関東軍としても動くに動けない状況に苛立ちが募っていくことになります。

そうした状況の中で、関東軍の村岡司令官は張作霖を謀略によって抹殺すべく関東軍司令部の竹下義晴参謀(中佐)を北支派遣軍(北京方面に派遣されている関東軍の師団)に密使として派遣しますが、それを察した河本は関東軍や日本政府が謀略に関与したことがバレると欧米列強の干渉を招いて満州経営が余計難しくなるとの考えがありましたので、竹下に北京に赴くよう伝え張作霖の情報を逐一知らせるように依頼しました。

河本は、満鉄線が京奉線(北京~奉天線)の下をクロスする皇姑屯であれば、日本人がウロついていても不自然ではないので、そこに爆薬を設置して張作霖が乗ってくる列車を爆破し現地人の仕業に仮装すれば、日本人の仕業だとバレずに暗殺することができると考えたからです。

こうして河本は、北京から伝えられる情報で張作霖の動向を把握しつつ、爆殺の計画を実行に移していったのです。

張作霖爆殺事件の具体的な経過

張作霖の爆殺が具体的にどのように行われたのかについては不明な部分もあるようですが、河本大佐が戦後に出した手記や当時奉天総領事だった森島守人の回想録、また東京裁判で検察側の証人に立った田中隆吉陸軍少将の証言などを参考にすると次のような経緯で行われたと考えられているようです。

事件を首謀した河本大佐は昭和3年(1928年)6月2日、部下の参謀と諮ったうえで、奉天に支援に来ていた朝鮮軍工兵第二十連隊に所属する桐原貞寿中尉と当時独立守備隊附だった東宮鉄男大尉を前述した満鉄と京奉線のクロス地点に向かわせ、鉄橋に600㎏の爆薬(※参考文献の秦書では200㎏の黄色火薬)を仕掛けさせました。

そして河本大佐は関東軍の参謀や奉天独立守備隊の将校を主要駅に派遣し張作霖の特別列車が何時に通過しているから逐一報告させるよう段取りし、東宮大尉と桐原中尉は鉄橋から200m南方にある守備隊の監視小屋まで爆薬の電気コードを引き込んで張作霖の特別列車を待ちます。

当初、6月3日の夕方に来ると予想されていた張作霖の特別列車は4日の早朝5時過ぎになってようやく姿を現しますが、東宮大尉が点火ボタンを押しても爆破できません。

桐原中尉が予備の点火ボタンを押すとようやく着火し鉄橋に仕掛けた爆弾がさく裂。張作霖の乗った特別列車は轟音と共に破壊され、直撃を受けた張作霖はこうして殺害されました。

この事件に際して河本大佐は、爆殺を蒋介石北伐軍の便衣兵(民間人に偽装した兵士こと)の仕業に仕立て上げるため、人を介してアヘン中毒の浮浪人三名に金を渡し、日本人経営の浴場で身なりを整えさせて爆破現場で殺害させて、その死体の懐に蒋介石の北伐軍(国民政府軍)との関係を伺わせる密書を忍ばせて線路わきに放置させました。

ただし誤算があって、浮浪人3人のうち1人が身の危険を感じて途中で逃走してしまいます。

そして逃走したその浮浪人に、張作霖の長子である張学良の下に駆け込まれて事件の詳細を暴露されてしまいました。

当然、実父を殺された張学良は激怒しますが、張学良は復讐心をこらえて軍事行動を思いとどまります。張学良が関東軍に復讐戦を挑めば、居留邦人の安全確保を名目に朝鮮軍が越境して退去満州に侵入し、一挙に満州を軍事的に占領されてしまうからです。

河本大佐や関東軍幹部の当初の狙いは、張作霖を殺すことで奉天軍に蜂起させ、治安維持を名目に朝鮮から軍団を越境させて一気にこれを叩いて満州を占領し、満州を中国から独立させて満州問題を解決することでしたが、聡明な張学良はそうした関東軍の挑発に気づいていたのです。

こうして、河本大佐や関東軍幕僚の思惑は外れ、満州事変を起すことが出来なかったばかりか、張学良の恨みを買ってしまうという禍根を残したうえ、謀略の証拠を残してしまったことで日本が侵略国家であるとの汚名を中国国民と世界に残しただけで終わったのが、張作霖爆殺事件だったということになります。

張作霖爆殺事件は単なる関東軍の暴走ではなく陸軍中央(陸軍省・参謀本部)も積極的に関与したものであったこと

なお、張作霖爆殺事件はこのように河本大佐を首謀者として関東軍や朝鮮軍の工兵隊も深く関与したうえで行われていますが、これは関東軍の暴走だったというわけではなく、東京の陸軍中央(陸軍省・参謀本部)も一定の関与があったと考えられています。

たとえば、当時南京に駐在していた参謀本部附武官の佐々木到一中佐は昭和38年に発行された自伝(脱稿したのは昭和14年)の中で、「秘かに関東軍高級参謀だった河本大作大佐に書を送り」「この機会に一挙作霖を屠って」「一気呵成に満州問題を解決せんことを勧告した」「張作霖爆死事件なるものは、予の検索に基づいて河本大佐が画策し」などと、張作霖爆殺事件が自身の勧告によるものであったと述べています。

参謀本部では第二部長松井石根中将や佐藤安之助少々らが田中首相に満州への軍事介入に消極的な助言をしていましたが(※頁末河本書:半藤書180頁)、こうした事実からは参謀本部の中でも張作霖を殺して満州問題を一気に解決しようとする勢力が存在していたことがうかがえます。

また、半藤一利氏の著書によれば、事件後に関係者(事件当時の白川義則陸軍大臣(大将)、小川平吉鉄道大臣、工藤鉄三郎ら)で交わされた書簡に、爆殺に際して殺害された2人の中国人浮浪人の家族やその殺害者の中国人に渡す金が陸軍中央(陸軍省)から出されたことがわかっています(※頁末参考文献:小川平吉関係文書)。

こうした事実から、張作霖の爆殺事件が関東軍や河本大佐の暴走だけで行われたものではなく、東京の陸軍省や参謀本部といった陸軍中央も了承のうえで行われていたことが推測されるとも考えられているようです。

参考文献
・河本大作「私が張作霖を殺した」『文芸春秋』昭和29年12月号 文芸春秋新社|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 174~189頁
・森島守人「張作霖の爆死事件」『陰謀・暗殺・軍刀』昭和25年6月10日発行 岩波新書|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 203~210頁
・半藤一利著「昭和史1926-45」平凡社ライブラリー 30~44頁
・保坂正康著「昭和陸軍の研究」朝日新聞社 上巻56~74頁
・秦郁彦著「昭和史の謎を追う」文春文庫 上巻36~60頁
・佐々木到一著「ある軍人の自伝」昭和38年6月30日発行 普通社|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 190~193頁
・「小川平吉関係文書」編集代表・岡義武 1973年3月30日発行 みすず書房|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 211~212頁