張作霖爆殺事件がその後の日本に及ぼした4つの影響

昭和3年(1928年)6月に満州で起きた張作霖爆殺事件は河本大佐を首謀者とする関東軍の謀略でしたが、日本政府は日本軍の関与を公には認めず、現地の責任者を「張作霖の警備に不備があった」という理由の行政処分で片づけ、事実を有耶無耶のうちに闇に葬りました。

しかし、事件当初から日本軍が関与していたことは国内外で噂されていましたから、日本の信用は地に落ちます。

また、政府内部でも事件を闇に葬りたい陸軍と責任者を厳罰に処して国際的な信用を保ちたい田中首相や西園寺元老、あるいは昭和天皇などとの間で意見が対立し、大きな禍根を残すことになりました。

では、こうした事柄はその後の日本に具体的にどのような影響を及ぼすことになったのでしょうか。

張作霖爆殺事件の後、昭和の日本は満州事変や上海事変などを経て真珠湾攻撃にと世界を相手にした戦争へ突き進みますが、昭和の幕開けとして起きたこの張作霖爆殺事件がその後の日本どのような負の影響をもたらしたのか、検討してみましょう。

張作霖爆殺事件がその後の日本に影響を及ぼした4つのこと

張作霖爆殺事件がその後の日本に及ぼした影響は様々な角度から考えられると思いますが、個人的には次の4つの点が戦争から敗戦へと突き進む日本を方向づけたと考えます。

(1)日本が侵略国家であるとの疑惑を世界に広めてしまったこと

まず言えるのが、張作霖爆殺事件という謀略を日本軍が起こしたことによって、日本が侵略国家であると世界に印象付けた点です。

張作霖爆殺事件は陸軍の河本大作大佐を首謀者として実行されましたが、それは河本大佐個人の暴走なのではなく、現地の関東軍や東京の参謀本部と陸軍省など陸軍中央も深く関与したことがわかっています(※参考→張作霖爆殺事件の背景と経緯、事件の経過とその概要)。

もちろん、爆殺に当たっては現地の中国人を殺害して実行犯に仕立て上げ蒋介石の国民政府軍の犯行に見せかけるなど偽装工作を行い日本に火の粉が降り注がないようしていましたが、様々な落ち度が重なって事件当初から日本軍の関与が疑われていました。

そうした日本軍関与の噂は当初から世界に伝えられていて、事件当時の昭和天皇も「当時世界の与論は囂々として日本軍に非難をあびせ来れり(※木下道雄「聖談拝聴録原稿(木下メモ)」※頁末木下書)との懸念を漏らすほど当時の日本が世界から謀略を好む侵略国家であるとの批判を受けていたのです。

昭和4年(1929年)6月に政府は日本軍が関与したとの事実の不公表と軍法会議ではなく行政処分で内々に済ませる方針を決定し、対外的には日本軍の関与を否定しましたが(※参考→張作霖爆殺事件に張学良・田中義一・昭和天皇はどう対処したか)、爆殺に日本軍の関与があったとの噂は(もちろんただの噂ではなく事実なのですが)、瞬く間に広まったのでしょう。

こうした日本が侵略国家であるとの印象は、戦時中だけでなく戦後の現在においても続いています。たとえば、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件や日中戦争の発端となった盧溝橋事件です。

柳条湖事件は張作霖爆殺事件と同様に陸軍の謀略でしたので日本の謀略だという悪評が広まっても仕方ありませんが、盧溝橋事件の方は偶発的な発砲が発端となりそれが大規模な戦闘につながっていったという説がある一方、日本軍の謀略だったという説や中国共産党の陰謀説もあって明確な真相は明らかになっていません。

しかし、当時は張作霖爆殺事件や柳条湖事件など関東軍の謀略が続いていたこともあって、日本政府内部でも「また関東軍がしでかしたのか」と疑う声がありましたし、現在でも台湾や中国では盧溝橋事件に関しては日本軍謀略説が主流となっているそうですから、世界的には日本軍陰謀説を信じている人は多いでしょう。

実際、私なども今では昭和史関連の書籍を読み込んだ結果、偶発的発砲が引き金となったんだろうという説に落ち着きましたが、昭和史を勉強するまでは「どうせ日本軍の謀略だったんだろう」と思っていましたから、そう思っている人は少なくないと思います。

もちろん、当時の日本は満州事変や上海事変など謀略をもって中国に兵を進めて国土と市民を蹂躙し、南仏や蘭印、フィリピンなどに兵を進めて対米英戦争に突入し現地の人的あるいは物的資源を搾取して戦禍に巻き込んだのですから、あの戦争に侵略の意図があったことは間違いありません。

しかし、真相が明らかになっていない盧溝橋事件まで日本軍の陰謀と決めつけられてしまうのはやはり日本人として残念な思いがあります。

もちろん、これは張作霖爆殺事件をうまく有耶無耶にできた陸軍が、それに倣って満州事変(柳条湖事件)や上海事変など謀略を繰り返していったことで日本の信頼を失墜させていったことが要因なのですから、この張作霖爆殺事件という謀略事件がその後の日本に与えた負の影響は限りなく大きいと思います。

(2)中国のナショナリズムを刺激して結果的に国共合作への道筋を与えたこと

2つ目に言えるのが、張作霖爆殺事件が中国のナショナリズムに火をつけて、結果的に国共合作から抗日民族統一戦線につながっていったという点です。

爆殺事件で父親の張作霖を殺された長子の張学良は、爆殺が日本軍の謀略だったことに事件当初から気づきながら、素知らぬふりをして日本側と応対しつつ、徐々に南京の蒋介石に近づき、やがて南京に逃れて国民政府に合流しています。

また、そうした軍閥の国民政府軍のへの合流と日本軍の謀略を利用した侵略に危機感を抱いた中国共産党と蒋介石の国民政府は、やがて合流して抗日民族統一戦線を組織し国共合作を実現します。

こうしたナショナリズムの高まりが中国を一つにして日本から見れば終りの見えない泥沼の日中戦争に追い込まれていったわけですから、張作霖爆殺事件は当時の日本側に立ったとしてもデメリットしかなかったように思います。

また、歴史に「if」はないので与太話になりますが、仮にあの時、陸軍が謀略などに走らず国際的な合意の枠組みの中で満州問題を処理しておけば、蒋介石の北伐軍は共産党を駆逐して中国を統一しようとしていましたので、その後の中国は今の台湾のような民主主義国家として統一され、共産党一党独裁体制の中国は存在していなかったかもしれません。

仮にそうなっていれば、天安門事件もなかったでしょうし今の香港で行われているような弾圧もなかったでしょう。もしかしたら文化大革命だってなかったかもしれません。

もちろんこれは歴史の「if」を想像したファンタジーに過ぎないわけですが、張作霖爆殺事件がそうした未来の可能性までをも潰し、結果的に中国における共産党独裁政権への道筋を開いてしまう一助になってしまった点は、残念に思えます。

(3)元老や侍従長など天皇側近の助言が「君側の奸」などとして陸軍の恨みを買い二・二六事件などのテロにつながっていったこと

3つ目は、張作霖爆殺事件の厳罰を求めた元老の西園寺公望や天皇の側近が「君側の奸」として陸軍から恨まれることになり、これが二・二六事件など陸軍のテロに結び付いていった点です。

張作霖爆殺事件に張学良・田中義一・昭和天皇はどう対処したか』のページでも述べたように、張作霖爆殺事件は政府の調査から日本軍の関与は決定的でしたから、昭和天皇は元老の西園寺公望や侍従長の鈴木貫太郎、内大臣の牧野伸顕など側近の助言もあって田中義一首相に軍法会議で厳罰に処すよう伝えていました。

それにもかかわらず田中首相は陸軍出身(田中は元陸軍大将)の首相でありながら陸軍を抑えることができず、その圧力に堪えかねて陸軍が当初から求めていたように事実の不公表と軍法会議を開かず行政処分で処理し事実を有耶無耶のうちに葬り去ってしまいます。

これに激怒した昭和天皇は田中に辞職を求め、結果的に田中首相は内閣総辞職に至るわけですが、こうした天皇の行動を当時の陸軍は西園寺元老や鈴木侍従長など天皇の側近がいらぬ陰謀をめぐらした結果だと考えました。陸軍は宮中の陰謀で陸軍出身の田中内閣が退陣に追い込まれたと受け取ったわけです。

そしてこれを契機に陸軍内部では天皇の側近たちを「君側の奸」という呼ぶようになり、これが天皇の側近をも標的にした二・二六事件にもつながっていきます(※実際、鈴木貫太郎はこの時の恨みもあって二・二六事件で襲撃されていますし西園寺公望も襲撃対象にされています)。

また、昭和天皇も二・二六事件以降は陸軍のクーデターを終始意識するようになり、戦争には反対の気持ちを持ちながら陸軍に対して配慮して言動を制限するようになりました。

こうした影響が、ますます陸軍の政治介入を増長させ日本を対米戦争から敗戦へと破滅に導いたようにも思えます。

(4)これ以降の昭和天皇が閣内一致で決めたことに否と言わない「NOと言わない天皇」となってしまったこと

最後の4つ目は、張作霖爆殺事件で田中内閣を退陣に追い込んでしまったことを悔いた昭和天皇が、これ以降「語らざる天皇」となり内閣が一致して上奏してきたことにノーと言わなくなっていったという点です。

先ほど述べたように、張作霖爆殺事件が関東軍の関与によるものであったことが明らかになっていたにもかかわらず、田中首相が陸軍の圧力に根負けして事実の不公表と軍法会議にかけず行政処分で済ませるという方針を決定したことに激怒した昭和天皇は田中首相に辞職を促し、結果的に内閣は総辞職しています。

しかしこれは天皇が内閣を倒してしまったことになりますから、その手法は専制君主的であって立憲君主的ではありません。

田中首相に辞任を求めたのは元老の西園寺公望や牧野伸顕、鈴木貫太郎など天皇側近の助言を受けてのことなのですが(※頁末半藤書「昭和史探索」参照)、昭和天皇は田中首相を辞任に追い込んだ自分の言動が立憲君主制を謳う明治憲法(大日本帝国憲法)を逸脱するものだと考えるようになり、閣内一致で上奏されてきた案件に対しては決して何も言わずに決裁することに決め「君臨すれども統治せず」に徹しようと決意したのです。

立憲君主国に於て、国務と統率との各最上位者が完全なる意見の一致をもって上奏し来りたる事柄は、かりに君主自身内心に於ては不賛成の事柄なりとも、君主はこれに裁可を与うるを憲政の常道なりと確信す。もし君主に於て自己の意に満つるときは裁可し、満たざるときは拒否するに於ては、これ名に於ては立憲君主なりといえども、実に於ては専制君主というべきなり。
朕をしてこの確信を得さしめたるは一つの苦き経験なり。それは即位後間もなく起りたる彼の満州における張作霖爆死事件なり。

※出典:聖談拝聴録原稿(木下メモ)②「立憲君主国に於ける君主の常道」:木下道雄著「側近日誌」文芸春秋社刊 213頁より引用

その結果、これ以降の昭和天皇は、閣内一致で上奏される案件にはNOとは言わず、御前会議でも質問はすれど会議で決まったことについては自分の考えに反するものであったとして否とは言わない天皇になってゆきました。

二・二六事件と終戦を決めた御前会議のいわゆる英断の2回だけ例外的に軍部の意向に逆らって自分の意思を貫きましたが、それ以外は「語らざる天皇」であることに徹していったのです。

そしてこれが、天皇の統帥権を思うように利用したい軍部に都合の良い結果となり、軍部は対米戦争において無謀な作戦を連発し周辺諸国に多大な犠牲を強いたうえ日本をも破滅へと導いていくことになるのです。

もちろん、仮に昭和天皇が自分の意思を貫き、軍部のやることに反対し続けていれば、軍部から退位を迫られたり、悪くすれば殺されていたかもしれません。

仮にそうなっていれば、終戦時の英断もなかったでしょうから本土決戦に突入して国土は荒廃し、戦後の復興はもっと遅れたかもしれませんので、こうした昭和天皇の決断はかえって良かったとも思えます。

しかし、その決断が立憲君主制に忠実であろうとした結果であったとしても、結果的に軍部に都合よく利用されてしまった側面があることは、残念に思います。

張作霖爆死事件は、こうして敗戦まで少なからぬ影響を与えていったのですから、昭和の歴史にとって極めて重要な事件であったと言えます。

参考文献
・坂本多加雄・秦郁彦・半藤一利・保坂正康「昭和史の論点」文芸春秋社 80~91頁】
・聖談拝聴録原稿(木下メモ)②「立憲君主国に於ける君主の常道」:木下道雄著「側近日誌」文芸春秋社刊 213頁
・半藤一利著「昭和史1926-45」平凡社ライブラリー 30~44頁
・半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 234~262頁