張作霖爆殺事件に張学良・田中義一・昭和天皇はどう対処したか

昭和3年(1928年)6月に起きた張作霖の爆殺事件は河本大作大佐を首謀者とする関東軍の謀略によって引き起こされましたが、『張作霖爆殺事件の背景と経緯、事件の経過とその概要』のページでも解説したように、河本大佐は日本軍の関与が疑われないようにするため蒋介石の北伐軍が関与したものとの偽装工作をしていました。

しかし、こうした日本軍の努力とは裏腹に事件発生の当初から日本軍の関与が疑われていて、関東軍の謀略だったことは中国の南京政府だけでなく日本政府の側でも徐々に明らかにされていきました。

では、こうした謀略の事実は具体的にどのようにして明らかとなり、また張作霖の後継者となった張学良や日本の田中義一首相、あるいは西園寺公望元老や昭和天皇は具体的にどのような対処をとっていったのでしょうか。

張学良・田中首相・西園寺元老・昭和天皇は張作霖爆殺事件の謀略をどのように知り、どのように対処したか

(1)張学良(奉天軍)

爆殺された張作霖の長子である張学良は事件の当初から爆殺が日本軍の謀略によるものであることに気づいていました。

張作霖爆殺事件の背景と経緯、事件の経過とその概要』のページでも解説したように、河本大佐が蒋介石の国民政府軍の関与を匂わすために連れてきた浮浪人3人のうち1人が逃亡して張学良の下に駆け込み、爆破の一部始終を暴露したからです。

当然、張学良は激怒しますが、関東軍の謀略だなどと気づいていないかの如く、素知らぬ顔で日本側の弔問に応じます。関東軍の謀略を知っていることが日本側に知られてしまえば、恨みを持つ張学良も危険視され日本側に排除される危険があるからです。

表面上は日本側と良好な関係を維持しつつ、張作霖に変わって満州の総司令官に就任し奉天軍を掌握しますが、もちろん、軍事蜂起して復讐戦を挑めば治安維持を名目に日本軍が満州に乗り出して満州全土を占領されてしまうので、軍事行動などは起しません。

こうして張学良は、張作霖に引き続いて友好関係を続けようとする日本側と表面上は良好な関係を維持していったのです。

もちろん、とはいっても父親を殺された恨みと謀略で侵略を企図する日本側に対する不信は消えません。

そのため、これ以降の張学良は徐々に蒋介石に近づき、国民政府と合流して反日姿勢を強めていくことになるのです。

(2)田中義一首相

張作霖の爆殺事件は日本でも当初から関東軍の謀略が噂されていましたが、関東軍の関与を示す確たる証拠はありませんでした。

しかし、次第に日本軍関与の情報が満州や朝鮮から入ってくるようになります。たとえば爆殺事件を蒋介石の国民政府軍の仕業に偽装するため利用した浴場の主人の証言です。

張作霖の爆殺に際して河本大佐は、人を介してアヘン中毒の中国人を日本人経営の浴場に連れて行き、身なりを整えさせて殺害し事件現場に放置して蒋介石の国民政府軍が関与したかの如く装わせましたが(※詳細は→『張作霖爆殺事件の背景と経緯、事件の経過とその概要』)、事件当日の朝、その浴場経営者の主人が好奇心に駆られて事件現場を見に行きました。

するとそこで、前日の夜に浴場に来ていた中国人二人の殺害された死体があるのを見てしまうのです。驚いた浴場の主人は関東庁警察に駆け込んで前夜の顛末を通報します。当然その情報は総領事館を通じて東京に伝えられますから、関東軍の関与が深く疑われるようになりました。

こうした情報が入ってきたことから田中首相は憲兵司令官の峯幸松少将を現地に派遣して調査させますが、それと前後して今度は爆殺に使用されたのが朝鮮軍工兵隊の爆薬装置だったことなどの事実が確認されて朝鮮から報告されます。

決定的だったのは、満州に派遣された峯少将の報告です。河本大佐に自白させるのは困難と考えた峯少将は爆殺現場で点火ボタンを押した桐原中尉を尋問し証拠を固めたうえで満州にいる河本大佐を尋問し、その全貌を自供させることに成功します。

この情報を峯少将が東京に持ち帰ると、当初は日本軍関与を疑っていた田中首相も「どうも日本の軍人らしい(※頁末原田書)」と関東軍の関与を確信するようになったのです。

(3)西園寺公望元老

張作霖の爆殺が日本軍の関与したものである疑いが濃くなっていた昭和3年(1928年)10月23日、田中首相は元老の西園寺公望の下を訪れて相談します。

「元老」とは天皇に国政に関して助言する総理大臣経験者のことで、明治憲法上で定められたものではなく慣例として認められていた機関のことを言います。後継の総理大臣を誰にするかなどはすべて元老が天皇に助言し決められていました。

当時はこの元老に権威がありましたので田中首相も助言を受けに行ったわけです。

これに対して西園寺は当初から「どうも日本の陸軍あたりが元凶じゃあるまいか」と思っていましたから、訪問してきた田中首相に対して「断然処罰して公規を維持しなければならぬ。たとえ一時は支那に対する感情が悪くなろうとも、それが国際的に信用を維持する所以である」し、そうすることで内政的にも「田中総理が軍部出身であるために軍部を抑えることが出来た」「政友会のような力強い政党であればこそこういうことができた」ということになるだろうから、世論に良い影響を与えるのではないか、と厳罰処分を強く助言し(※頁末原田書)、昭和天皇に厳罰の方針を上奏するよう伝えました。

この点、「岡田啓介回顧録」には以下のように記録されています。

そのころ西園寺(公望)さんは大変心配して、田中首相を呼び、「この事件の真相をいくら日本人にだけ隠したところで、舞台は満州であり、満人はもちろん、欧米人にまでこれを秘密にすることは不可能だ。いまのうちに責任者を厳罰に処してしまえば、張のむすこの学良も親のかたきを日本が討ってくれたと納得するだろうし、世界も日本の公正を認めることとなる。うやむやにすれば必ず将来に禍根を残すことは明らかだ。どんな反対があっても必ず決行するように」といわれたそうだ。

※出典:岡田貞寛編「岡田啓介回顧録」昭和52年12月25日発行 毎日新聞社|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 259頁より引用

こうして、西園寺から厳罰に処すことを強く言われた田中首相は軍法会議にかけて厳罰に処すべく一時は決意します。

しかし、政友会の幹部には「闇から闇に葬ってしまえ」という意見を持つ者も多く、閣僚からも厳罰に処すことで日本軍関与の事実が世界に知られてしまえば昭和天皇の顔に泥を塗ることになる、などと反対意見が噴出します(※頁末原田書)。もちろん、陸軍からの反対もありました。

反対論の理由は、軍法会議をひらけば、真相も公表されることになる。そうなれば日本軍人がよその国の主権者を暗殺した真実を、政府がはっきり認めたことになり、中国人の日本に対する敵意が高まる。そればかりか日本の駐在部隊の撤退を叫ぶようになるだろうし、アメリカはじめ世界も日本を非難することになるだろう、国内でも政府の暴露的な態度に憤慨して、どんなことをしでかすものが出るかわからぬ、結局事件の全責任を田中首相自身が負わなければならぬことになってしまう、というんだ。

※出典:岡田貞寛編「岡田啓介回顧録」昭和52年12月25日発行 毎日新聞社|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 260頁より引用

このように、真相追求と厳罰を求める昭和天皇や天皇側近と、事実を隠蔽して有耶無耶のうちに葬り去ろうとする陸軍や政友会幹部との間で正反対の意見が対立し、田中首相は板挟みになっていたわけです。

こうした状況の中で田中首相は昭和天皇に実行犯を厳正に処分する旨上奏するのを躊躇するようになりますが、西園寺からたびたび催促を受けたため、昭和3年(1928年)12月24日に参内します。

そして田中首相は、事件の概略を説明したうえで調査の結果日本軍の関与が明らかになれば軍法会議にかけて厳罰に処すことを上奏したのです。

なお、この上奏の際に田中首相が具体的にどのような内容の発言をしたのかは資料によって若干異なりますので、以下3つだけ参考までに挙げておきます。

総理も已むなく陛下の御前に出て、「張作霖爆破事件については、どうも我が帝国の者の中に多少その元兇たる嫌疑があるように思いますので、目下陸軍大臣をして調査させております。調査の後、陸軍大臣より委細申し上げさせます。」ということを陛下に申上げた。

※出典:原田熊雄「西園寺公と政局」第一巻 昭和25年6月30日発行 岩波書店|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 196頁より引用

この事件の首謀者は河本大作大佐である、田中〔義一〕総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野〔伸顕〕内大臣、西園寺〔公望〕元老、鈴木〔貫太郎〕侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云つたそうである。

※出典:「昭和天皇独白録」文芸春秋社刊 22頁より引用

首相は朕に対し厳重処罰すべきことを言明上奏したるのみならず、内大臣及び西園寺元老には尚詳かに事件を説明し、犯行者を軍法会議の審問に付すべきことを言明したる由なり。

※出典:聖談拝聴録原稿(木下メモ)②「立憲君主国に於ける君主の常道」:木下道雄著「側近日誌」文芸春秋社刊 213頁より引用

(4)昭和天皇

このように、昭和天皇は田中首相から張作霖爆殺事件に関する調査の状況と概要、仮に日本軍の仕業であれば責任者も含めて軍法会議を開き厳罰を処す旨の上奏を受けています。

もとより、昭和天皇は事件の当初から日本軍の関与が疑われ世界から厳しい目でみられていたこと(※頁末木下メモ)もあって厳重に処罰することを求めていましたから、田中の上奏は昭和天皇の意を汲んだものでもありました。

そのため田中首相は河本大佐を含む陸軍責任者を軍法会議にかけようとしますが、閑院宮を含む陸軍首脳は事実の非公表と責任者の処分反対で一致しており、鉄道大臣の小川平吉からも処分する場合は閣議決定にかけるよう説得される始末で、陸軍や閣僚からの反対は日増しに強くなっていきます。

ちなみに裏付け資料は見つかっていないそうですが(※頁末「昭和史の論点」28頁)、昭和天皇独白録によれば、軍法会議にかけるのであれば日本の謀略を全部暴露すると河本大佐から脅されたため軍法会議は取り止めになったとも言われています(※頁末独白録)。

いずれにせよ、陸軍や小川鉄道相らの閣僚、政友会の有力者などの反対意見は根強かったことから、結局は田中首相も真相不公表、軍法会議に付さず行政処分(爆殺は関東軍の仕業ではないが張作霖を警護する警備上の不手際があったという理由での行政処分)で済ませるとことに同意し、閣内一致で決定します。

そうして田中首相は昭和4年(1929年)5月6日に参内し、事件に日本軍の関与はなかったこと、また警備上の不手際はあったと言えるので行政処分で処理する旨を報告しました。

そこで五月の中頃になっていよいよ総理はこの顛末を上奏して、
「張作霖事件につき陸軍と関東庁と満鉄にも命じていろいろ取り調べましたけれども、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明致しました。しかしとにかくその事件の起ったことにつき当然警備上責任者の手落であった事実については、これを行政処分を以て始末致します。」
と申し上げて、後日に至り関東軍司令官を予備にし、下手人であった参謀を転任させたということで済ませておいた。

※出典:原田熊雄(述)「西園寺公と政局」昭和25年6月30日発行 岩波書店|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 232~233頁より引用

さらに6月27日にも最終報告のため参内しますが、その頃には張作霖爆殺事件に日本軍が関与していたことは周知の事実になっています。

昭和天皇は、前年末(昭和3年12月)の上奏では軍法会議にかけて厳罰に処すると約束しておきながら手の平返しで事件を有耶無耶のうちに葬ろうとする田中の姿勢に顔色を変えるほどに怒り「この前の言葉と矛盾するではないか」「説明は聞く必要がない」と述べて奥に引き戻ってしまったそうです(※頁末岡田回顧録)。

恐縮した田中首相はいったんは下がりますが、政友会の幹部に励まされた田中首相は翌28日には白川義則陸軍大臣を参内させて事実の不公表と行政処分という陸軍の処分案を報告させます。

これに激怒した天皇は、再び参内した田中首相に「辞表を出してはどうか」と告げて辞職を迫りました。

この点、資料によって若干の相違はありますが、「昭和天皇独白録」や木下道雄氏の「側近日誌」などの資料では、当時の昭和天皇の様子について以下のように記録されています。

そこで田中は再ひ〔び〕私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふことであつた。それでは前言と甚だ相違したことになるから、私は、田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。

※出典:「昭和天皇独白録」文芸春秋社刊 22頁より引用

事件拡大の兆しを察するや、首相は前上奏をもって朕に約するところに反し、改めて閣議決定をもって事を有耶無耶に付せんとする上奏を為し来れり。ここに於て朕は首相に対し其の食言を責め、辞表の提出を求めたり。

※出典:聖談拝聴録原稿(木下メモ)②「立憲君主国に於ける君主の常道」:木下道雄著「側近日誌」文芸春秋社刊 213頁より引用

いずれにせよ昭和天皇は真相を隠蔽して軍法会議に駆けもせず行政処分という書類上の決裁だけで有耶無耶のうちに事実を葬り去ることに決めた田中首相に(もちろんその背後にある閣僚や軍部にも)激怒し、辞職するよう迫ったわけです。

これに恐れをなした田中首相は「辞職する」と何度も口走るほど取り乱し、7月2日には辞表を提出し内閣は総辞職となります。

こうして、結局は陸軍や政友会の有力者らの思惑通り張作霖爆殺事件は公には日本軍の関与が否定され、責任者は軍法会議にかけられることもなく簡単な行政処分で真実は有耶無耶のうちに葬られることになりました。

そして2か月後の9月末にはこの時の心労がたったのか、はたまた一説には自決とも言われますが、田中義一は死去してしまうのです。

参考文献
・河本大作「私が張作霖を殺した」『文芸春秋』昭和29年12月号 文芸春秋新社|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 174~189頁
・森島守人「張作霖の爆死事件」『陰謀・暗殺・軍刀』昭和25年6月10日発行 岩波新書|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 203~210頁
・原田熊雄「西園寺公と政局」昭和25年6月30日発行 岩波書店|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 194~202頁、232~233頁
・「昭和天皇独白録」文芸春秋社刊 22頁
・聖談拝聴録原稿(木下メモ)②「立憲君主国に於ける君主の常道」:木下道雄著「側近日誌」文芸春秋社刊 213頁
・坂本多加雄・秦郁彦・半藤一利・保坂正康「昭和史の論点」文芸春秋社 25~31頁
・半藤一利著「昭和史1926-45」平凡社ライブラリー 30~44頁
・保坂正康著「昭和陸軍の研究」朝日新聞社 上巻58~60頁
・秦郁彦著「昭和史の謎を追う」文春文庫 上巻46~60頁、66頁