三・一五事件とは、昭和3年(1928年)3月15日に治安維持法違反で共産党員の多数が一斉に検挙された事件を言います。
昭和2年(1927年)2月20日、帝国議会の衆議院議員選挙が実施されました。この選挙は生活扶助者などを除く25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられて最初に行われた普通選挙でした。
大正14年(1925年)に普通選挙法が制立するまでは国税を3円以上収めた25歳以上の男子にしか選挙権が認められていませんでしたが、この普通選挙法の成立によってその納税額制限が撤廃されたのです。
8議席を獲得した無産政党に危機感を覚えた田中民政党政権
当時の政権は政友会の田中義一内閣でしたから与党は政友会です。ただ当時は政友会と憲政会、政友本党が議席を三分している状態にあったうえ、選挙前に憲政会と政友本党が合同して民政党を結党していましたから、少数与党の政友会にとっては難しい選挙でした。
結局、この選挙で政友会は217議席を獲得し、民政党は216議席にとどまりましたから、かろうじて政友会は多数議席を確保できました。
しかし、その一方で無産者政党の各派に8議席(※社会民衆党4、労働農民党2、日本労農党1、民憲党1議席)を確保されてしまいます。ちなみにこの選挙には菊池寛も社会民衆党から出馬しましたが落選しています。
田中政権は選挙期間中から無産政党の演説を警官に差し止めさせるなど妨害していたのに、8議席も奪われてしまったのですから、保守政党の衝撃は相当なものだったでしょう。
こうした左派勢力が勢いを持ち、無産者政党が8議席を獲得したのが日本初の普通選挙だったわけです。
社会主義革命思想の広がりに危機感を覚えた田中内閣の共産党弾圧
無産政党が8議席を獲得した昭和3年2月の衆議院議員選挙でしたが、そこに共産党の議席がなかったのは、当時の共産党が官憲から非合法政党扱いされていたため独自の候補者を立てることが出来なかったからです。
そのため、2月の選挙で共産党は労農党を通じて党員の候補者を立候補させましたが、日本共産党でも共産党の署名入りのビラや檄文などを配って宣伝活動を展開しました。
そうした活動の結果が無産政党の8議席につながったわけです。
そのため、無産政党に8議席もの議席をとられた田中内閣は危機感を覚えます。社会主義革命思想の広がりを身近に感じた保守政党は、ソ連のような社会主義革命が起きるのではないかと脅威を感じたのです。
そのため、田中政友会政権は選挙期間中の宣伝活動を理由に「治安維持法違反」で共産党員の一斉検挙に乗り出します。これが三・一五事件の顛末でした。
三・一五事件の与えた影響
三・一五事件は捜査上の必要から当初は新聞等への記事掲載が禁止されていましたが、4月10日には一部解禁となり、司法省から事件の概要が発表されます。
そして政府は、特高警察の拡大や思想検察の新設、司法省刑事局における思想係職員の配置や文部省の学生部(のちの思想局)の新設など矢継ぎ早に国民の内心に介入する統治機構を整備していきました。
6月29日にはそれまで最高刑が懲役10年だった治安維持法を改正して死刑または無期懲役とする改正治安維持法を緊急勅令をもって公布施行してしまいます。
緊急勅令は帝国議会が閉会しているときに災害などで緊急の必要がある場合に天皇が法律に変わって出す勅令のことですが(帝国憲法8条)、そうした議会政治の抜け道を利用してまで治安維持法の厳罰化を行ったのです。
治安維持法は共産主義運動、無政府主義運動の弾圧を目的として施行されていた法律でしたが、この最高刑を死刑または無期懲役とする改悪をしたことで、共産主義運動のみならず、政府や軍部に批判的な思想を持つ言論人らを片っ端から治安維持法違反で拘引するなど、その後の軍国主義の台頭に積極的に利用されることになります。
この三・一五事件と治安維持法改正は、日中戦争から対米戦争へと続く抑圧体制への転機となった事件だったと言えるのかもしれません。
・池田克「三・一五事件の赤狩り旋風」『文芸春秋』臨時増刊 昭和メモ 昭和29年7月5日発行 文芸春秋新社|※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 148~158頁
・半藤一利「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 145~147頁
・半藤一利著「B面昭和史 1926-1945」平凡社ライブラリー 48~49頁