北原二等卒天皇直訴事件とは(軍隊の部落差別と司法官憲の弾圧)

北原二等卒天皇直訴事件とは、昭和2年11月19日に名古屋城東練兵場で行われた陸軍特別大演習の観兵式に参加した岐阜の歩兵第六八連隊に所属する北原泰作二等兵が、隊列を離れて閲兵中の昭和天皇の前に駆け寄り被差別部落差別の撤廃を願い出る訴状を差し出し逮捕された事件のことを言います。

天皇が統帥権を総攬する明治憲法の下で兵士は天皇の兵士になるため観念的には差別は存在しないはずでしたが、実際には被差別部落出身者に対する差別が軍隊内部でも根強く残り続けていました。

そうした差別に憤りを感じていた北原は部落解放運動を進める水平社に身を投じ差別解消運動に参加しますが差別は一向になくなりません。

そうした状況を思いつめた北原が差別の窮状を伝えるために観兵式を閲兵した天皇に直訴したのがこの天皇直訴事件でした。

軍の中でも横行していた部落差別

明治憲法は天皇に統帥権を置いていて天皇が統帥権を総攬しますから、日本の軍隊はすべて天皇の軍隊となります。

また明治憲法上、国民は天皇の臣民(臣下)でしたし、当時は万世一系の天皇を頂点として国民は天皇の赤子とする教育が徹底されていましたから、その赤子を差別するということは天皇の赤子を差別するということになるので、観念的には差別は存在するはずがありません。

しかし実際には社会では被差別部落出身者に対する差別が横行していて、それは軍隊の内部でも例外ではありませんでした。

たとえば、福岡の歩兵第二四連隊では一兵卒が気に入らない下士官に対して「あいつの素性はこれだ」と被差別部落出身であることを示すゼスチャーで侮辱するなどの差別事件がありましたが、こうした差別は全国の部隊で頻繁に目にされていましたし、埼玉のある村ではシベリア出兵で戦死した被差別部落出身の”英霊”の名前だけを忠魂碑に刻まないなどの差別もありました。

こうした被差別部落出身者に対する差別は、本来差別が存在するはずのない天皇の軍隊の中でも頻繁に行われていたのです。

北原が直訴に至った経緯

こうした被差別部落出身に対する差別が軍隊内部でも横行していたことから同じく被差別部落出身者であった北原は部落解放運動を組織する水平社に入団し活動しますが、差別はなくなりません。

その原因の一つには、差別を是正するどころか被差別部落出身者に対して弾圧的な軍当局や司法官憲の態度がありました。

前述した福岡歩兵第二四連隊の事件では差別を糾弾するために立ち上がった水平社が一般市民や労働組合、革新政党などの支持を受けて抗議運動を盛り上げましたが、官憲はこれにスパイを潜り込ませて「福岡連隊爆破陰謀」という犯罪をでっち上げ、水平社幹部十数名を検挙して懲役刑に処してしまいます。

こうした司法官憲の弾圧もあったことから、北原の中では差別に対する闘争に傾倒していくことになったのです。

そうした中、北原が岐阜の歩兵第六八連隊に入営してから2か月ほどたったある日のこと、所属する第五中隊で勤務を終えて数名で敗れたスリッパを修繕しながら雑談していた兵士の一人から聞こえよがしに「今日は○○○の仕事だ」と侮辱の言葉を投げつけられる事件が発生します。

北原はこの差別発言に堪えてその場は自分を抑えますが、他の中隊でもこうした差別事件が頻発していることは同じ部落出身者の仲間から聞き及んでいましたから、この事件の顛末を中隊長に報告して連隊幹部の適切な対処を求めました。

しかし北原は連隊長からその求めを退けられただけでなく「軍隊に入った以上は軍隊の秩序に服従するのが当然だ」と怒鳴られた挙句、外出と面会の禁止を命じられてしまったのです。

この連隊長の恫喝に憤った北原は泣き寝入りせずに闘うことを決意しますが、外出と面会を禁じられているので外に出ることはできず、軍隊を往来する手紙はすべて徹底して検閲されていますから、仲間に連絡を取る術がありません。

そこで北原は消灯後の隙をついて脱走を図ります。ただ当時の陸軍刑法で逃亡罪は平時であっても6日を過ぎると2年以下の懲役または禁錮とされていましたので、名古屋市内の仲間の家に隠れていた北原は6日目に帰隊しました。

部隊に帰った北原は当然、中隊長に脱営の経路や潜伏先についてきつく尋問されますが黙秘を貫いた北原は重営倉二十日間の処分を受けてしまいます。

それでも北原は差別に抗議するためハンガーストライキで抵抗しますが、飲まず食わずで通し続けた8日目に中隊長の要請で面会に来た父親の説得を受け入れハンストを中止しました。

そうして二十日間の重営倉処分を終えた北原は持病の悪化などもあってしばらく陸軍病院に入院したあと6か月後に第五中隊に復帰します。

そしてその頃、ちょうど濃尾平野で陸軍の特別大演習が展開されることになり、即位したばかりの昭和天皇も臨席するということを聞き及んだ北原は、演習に参加する中隊に残って天皇に直訴しようと思い立ち、その計画を実行するに至るのです。

観兵式における直訴の状況

こうして観兵式で直訴することに決めた北原は、文房具店で奉書紙を購入し部隊が演習に出ている隙に内務班に忍び込んで訴状を書きあげます。内容は次のようなものでした。

恐れながら及訴候

一、軍隊内における我ら「部落」民に対する差別は封建制度下のごとくきびしく、差別事件が頻発している。しかるに軍当局はこれが解決に誠意なく、かえって被差別者に対して弾圧的である。

一、全国各部隊のこの問題に対する態度は一律であるが、これは陸軍省当局の内訓、指示に基づくものと思われる。

一、歩兵第二四連隊内において惹起した差別事件のため、被差別者側の十数人のものが、警察の犯罪捏造によって牢獄に送られようとしている。

右の情状御覧察の上御聖示を賜りたく及訴願候 恐々排々

※出典:北原泰作「特集文芸春秋」今こそ言うー主役のメモー 昭和32年4月5日発行 文芸春秋新社|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 120~121頁

訴状を書き上げた北原はその訴状を背嚢の中に隠して持ち帰り、天皇の臨席する大演習を待ちます。

そして大演習の当日、訴状を軍服のポケットに忍ばせた北原は、連隊長の「捧げー銃!」の号令がかかると隊列を離れて最前列まで駆け出し、天皇まで十歩のところで「折敷け」の姿勢をとって「直訴!直訴!」と叫びながら直訴状を差し出しました。

もちろん、北原は直ちに周りの将兵に取り押さえられたため直訴状を昭和天皇に渡すことはできません。

そして取り押さえられた北原は、即座に憲兵に引き渡されて「請願令違反」の罪で軍法会議にかけられることになりました。

逮捕された北原の処分

事が事だけに社会の耳目を集めた軍法会議で北原は毅然として自身の正当性を主張しますが、弁論抜きで結審された裁判は検察の求刑どおり懲役1年という請願令違反の刑罰の中で最も重いものでした。

北原にその気はありませんでしたが、水平社の同志が弁論抜きの裁判に納得できないということで上告の手続きをとりますが覆るはずもなく、陸軍高等軍法会議にその理由なしとして上告は却下されます。

こうして北原は一審の判決どおり懲役一年の刑に服することになり大阪の衛戍エイジュ監獄に収監されることになるのです。

参考文献
・北原泰作著「観兵式場・直訴者の手記」『特集文芸春秋』今こそ言うー主役のメモー 昭和32年4月5日発行 文芸春秋新社|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 113~128頁