三月事件とは(橋本・大川・小磯・宇垣のクーデター未遂)

三月事件とは、昭和6年の3月中旬を決行日として進められ、その実行直前になって頓挫したクーデター未遂事件のことを言います。

クーデターを首謀したのは陸軍大佐で当時参謀本部のロシア班長だった橋本欣五郎ですが、同人の手記(※頁末『橋本大佐の手記』)によれば、その実行は右翼団体の行地社を結成していた大川周明(※戦後の東京裁判でA級戦犯になった人)に一任されていて、軍務局長(陸軍省)の小磯国昭少将(※昭和19年に東条辞職を受けて首相になった人)を加えた大川・小磯の二人で計画が進められていったようです。

計画の目的は、三月中旬の国会開会中を狙って都内各所で爆弾等を使った騒ぎを起こし議会を混乱させて宇垣陸相を総理大臣に担ぎ出し、政党内閣を排除して一挙に軍部主導の体制を構築するところにありました。

当時の軍部では、ロンドン海軍軍縮条約で巻き起こされたいわゆる「統帥権干犯問題」を契機にして政府の弱腰外交に猛烈な不満が渦巻いていましたから(※参考→統帥権干犯問題とは(ロンドン軍縮条約の海軍省と軍令部の対立))、そうした国際協調路線の政治を廃し軍部主導の政治を実現させようと考えた陸軍参謀本部の急進的強硬派将校が中心となりクーデターによって国家改造を目論んだのが、この三月事件だったわけです。

三月事件の具体的計画

三月事件の具体的な計画の詳細は首謀者橋本欣五郎の手記や天皇側近木戸幸一の日記に記録がありますので確認しておきましょう。

一、日本各地より剣客を東京に集合せしめ、警官に対抗せしむ。
ニ、壮士をして其下宿に放火せしめ東京各地に火災を起こす。
三、拳闘会を開き、これに数々の同志を入れ一事に官憲方面に殺到せしむ。其他大衆の動員。
四、各所に爆弾を見舞う。

※出典:『橋本大佐の手記』中野雅夫 昭和38年発行 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 131頁より引用

一、三月中旬議会開会中、陸軍大臣官舎に於て小磯、建川〔美次〕、二宮〔治重〕少将を中心に橋本〔欣五郎〕・重藤〔千秋〕両中佐が其手足となり、大川周明が其間に介在し、大衆党と結び議会を混乱に陥れ、政変を来さしめんとする計画をなし、…(※以下当サイト筆者省略)

※出典:『木戸幸一日記』上 1966年4月20日発行 東京大学出版会|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 136頁より引用

これを読むと、クーデターが爆弾などを利用して都内各所に火災と騒ぎを起こし、暴徒を国会開会中の議会に殺到させて議会を混乱させ、前年11月14日の東京駅における襲撃事件で療養中の浜口雄幸に代わって首相代理を務めていた若槻礼次郎を辞任させ政変を一気に実現する計画で進められていたことがわかります。

爆弾事件の計画と実行

計画の実行には爆弾の入手が必要ですが、その供給を約束していた小磯が決行の段階になっても爆弾の交付に応じてくれません。そのため思案した橋本は歩兵学校の筒井少将に爆弾の買入を求めますが筒井にも断られたため、結局は歩兵学校副官の別の大尉を同志に引き入れて彼に購入書類を作成させ爆弾製造会社から五百発の爆弾を仕入れることになりました。

もっとも、橋本の手記によれば「其翌爆弾(抗力なく音声のみ)五百発を受取り露班に保存」と記録されていますので、爆弾は騒ぎを起こす目的で使用される予定で殺傷力はなかったものと思われます。

爆弾を入手した橋本は大川から受け取りを命じられてきた清水行之助に渡し、大川周明の下に届けられることになりました。

宇垣陸相の翻意とクーデター計画のとん挫

もっとも、こうしてクーデターの準備は着々と進められていったのですが、肝心かなめの宇垣陸相が決行直前になって決心を翻し計画から離脱してしまったことから、このクーデター計画は結局は未遂で終わることになりました。

右の如く爆発物は大川方面に無事に渡したるも宇垣不信にも其決心を翻したる為、遂に事件は決行するに至らず、爆発物は民間に残るに至る。

※出典:『橋本大佐の手記』中野雅夫 昭和38年発行 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 134頁より引用

宇垣陸相が決行直前になって翻意した理由はわかりませんが橋本大佐の手記には以下の記述があります。

右の如くにして計画は進行中、政情は漸次変化し、内閣瓦解の形勢を呈し、宇垣に大命降下説各所に擡頭たいとうす。ここに於て宇垣は決心を変したるが事件決行の数日前に至り、前言を翻し、東京攪乱を認めたる事実無し、と小磯建川等に言明せし為、実行行きなやみ、…(以下当サイト筆者省略)

※出典:『橋本大佐の手記』中野雅夫 昭和38年発行 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 132頁より引用(※ルビは当サイト筆者)

この橋本の手記から考えると、宇垣はクーデター計画に乗って首相になるつもりでいたものの、その決行直前になって前年の11月14日に東京駅で起きた襲撃事件で療養が続いていた浜口雄幸首相の後継として宇垣を推す噂が出てきたことから、正規ルートで首相になれるなら危険を冒してクーデターに乗る必要はないということで降りたのが実情かと思われます。

もっとも、4月に辞職した浜口雄幸の後継には同じ立憲民政党の若槻礼次郎が就任していますので宇垣が総理大臣にはなることはありませんでした。

三月事件の影響

三月事件はこうして未遂に終わりましたが、前年の濱口首相襲撃事件からこの三月事件、そしてその後の十月事件やのちの五・一五事件、二・二六事件という急進派若手将校の暴走へとテロの連鎖につながっていくことになります。

クーデターによる政変で軍部主導の体制を実現しようとする軍国主義の足音が高鳴り出したのがこの三月事件だったのかもしれません。

参考文献
・『橋本大佐の手記』中野雅夫 昭和38年発行 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 131~135頁
・『木戸幸一日記』上 1966年4月20日発行 東京大学出版会|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 135~137頁