軍隊と自衛戦争を否定した憲法9条は無責任…なのか?

日本国憲法は前文で自衛のための戦争も含めたすべての戦争からの決別を誓うことで憲法の基本原理が平和主義にあることを宣言したうえで、第9条で「戦争をするな!(戦争の放棄)」「軍隊を持つな!(戦力の不保持)」「軍事力を行使するな!(交戦権の否認)」と国家権力に制限を掛けることでその平和主義の基本原理を具現化させています。

もっとも、こうした憲法の平和主義と第9条に対しては、軍隊を持てず自衛のための戦争もできないことに不安を抱えた人たちから「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」などという意見も出されているようです。

たとえば、私が公開している記事やYouTubeの動画にも次のようなコメントが寄せられていますので、そうした意見を持つ人は少なからずいるのでしょう。

※大浦崑のTwitterアカウント(@ourakon)に寄せられたコメント
大浦崑がYouTubeに公開している『【自民党のヤバい憲法改正案〔第9条〕の問題点】政府が「自衛のため」と言いさえすれば無制限に戦争することができる国になってしまう』の動画に付けられたコメント

しかし、こうした批判は、憲法の平和主義と第9条に対する批判としては全く成り立ちません。

なぜなら、憲法の平和主義と第9条は、「攻めてくる」国外勢力に反撃する軍事力で国を守ろうとするのではなく、積極的な外交努力で自国に「攻めてくる」国が現れてしまう危険が生じるのを未然に防ぎ、そもそも自国を「攻められない」国にすることで国民を守ろうとする理念を基礎にするものであって、むしろ軍事力で国を守ろうとする思想こそ国民を戦争に巻き込む点で無責任と言えるからです。

憲法9条は「攻められない国」にして「攻められる」危険を未然に防ぐもの

ところで、日本国憲法はその前文で憲法の基本原理が平和主義にあることを宣言し、第9条を規定して自衛のための戦争も含むすべての戦争を放棄して軍事力の保持とその行使も否定していますが、これはただ非武装中立・無抵抗主義を貫くだけで国民の安全保障を実現できると考えているものではありません。

憲法の前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」としたうえで「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、また「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」としていますから、国際的に中立的な立場から紛争解決のための助言や提言、貧困解消のための援助など、積極的な外交努力を続けることで諸外国と信頼関係を築き、世界平和の実現に貢献していくことを要請しています。

つまり日本国憲法の平和主義と9条は、そうした世界平和の実現に貢献してゆく努力の中にこそ日本国民の安全が確保できるとの確信に基礎を置いているわけです。

こうした理念からは、国の安全保障を「原因療法的」な視点で捉えていることが分かります。

諸外国もそうですが、かつての日本は他国から「攻められた(侵略された)」ときに軍事力で反撃して国を守ろうとしましたから、それは安全保障のための人的資源と経済的資源を「他国が攻めてきた後」に反撃する軍事力に集中させ、自国を「攻め返せる国」にすることで国民の安全保障を実現しようするものでしたから、その安全保障の理念は「対症療法的」な視点で捉えられたものでした。

しかし、先の戦争で日本は300万人を超える陸軍と米英に次ぐ世界第二位の強力な海軍を持ち、満州や朝鮮半島・台湾などから莫大な人的・経済的資源を搾取出来たにもかかわらず、装備では日本にはるかに劣る中国との戦争すら終結させることができずに周辺諸国に戦禍をまき散らし敗戦を招きました。つまり先の戦争ではその「対症療法的」な視点に基づいた安全保障が全く機能しなかったことが歴然として証明されてしまったわけです(※この点の詳細は→日本が軍隊で国を守れない(戦争に勝てない)7つの理由)。

そのため戦後に制定された現行憲法では、そうした「対症療法的」な視点ではなく「原因療法的」な視点から、安全保障のための人的資源と経済的資源を「他国が攻めてくる前」の外交努力に集中させ、その積極的な外交努力に尽力することで日本に生じる危険を未然に防ぐことで、そもそも日本を他国から「攻められない国」に、他国が「攻めてこようと思わないような国」にして、国民の安全保障を実現しようとしたのです(※参考→憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由|憲法道程)。

憲法9条への「攻められない国にするなんて無責任」との批判はどこがおかしいか

憲法の平和主義と9条がこうした理念を基礎にしていることを理解したうえで、その憲法の平和主義と9条に対して「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」などと批判する意見のどこがおかしいのか検証してみましょう。

(1)「攻められない国」にする立場に「攻められたら」は成り立たない

この点、まず指摘しておかなければならないのが、憲法の平和主義と9条に対して「攻撃されたら」とか「攻められたら」などの批判は論理的に成り立たないという点です。

なぜそうした批判が論理的に成立しないかというと、それは先ほど説明したように憲法の平和主義と9条が日本を「そもそも攻められない国」にして国民の安全保障を確保しようとする立場に立つからです。

先ほど説明したように、諸外国や戦前の日本がとっていたような「対症療法的」な視点で安全保障を考える立場では、対立する国外勢力が「攻めてきた」ときに反撃するための軍事力を強化することで国を守ろうとしますので、それは「攻め返せる国」にして国民の安全保障を確保しようとするものです。

この立場では、国の安全保障のための人的資源と経済的資源の全てを「攻めてきた後」に始まる戦争で使う軍事力に集中させますから、その「戦争に勝つこと」が安全保障施策の目的となります。

つまり、軍事力で国を守る立場では、他国との「戦争に(事実上)負けたとき」に国家の安全保障施策が破綻したと認定されるわけです。

一方、現行憲法の平和主義と9条のように「原因療法的」な視点で安全保障を考える立場では、対立する国外勢力が「攻めてくる」ような危険を未然に防ぐことができるように外交努力を積極的に行うことで国民を守ろうとしますので、それは「攻められない国」にして国民の安全保障を確保しようと考えるものです。

この立場では、国の安全保障のための人的資源と経済的資源の全てを「攻めてくる前」の平時における外交努力に集中させますから、その外交努力によって「攻められる危険を未然に防ぐこと」が安全保障施策の目的となります。

つまり、憲法の平和主義と9条の立場では、他国が「攻めてきたとき」に国家の安全保障施策が破綻したと認定されるわけです。

ところで、先ほどから述べているように、軍事力で国を守る立場から憲法の平和主義と9条の立場に対して「攻撃されたら」とか「攻められたら」などという批判があるわけですが、この批判は憲法の平和主義と9条の立場に対して「国の安全保障施策が破綻したときの対処法」を尋ねるものになります。憲法の平和主義と9条の立場では「攻められない国」にして国を守ろうとするので、他国が「攻めてきたとき」に安全保障施策が破綻したと認定されるからです。

そうすると、軍事力で国を守る立場からそうした批判をすることが許されるなら、憲法の平和主義と9条の立場からも同じように、軍事力で国を守る立場に対して「国の安全保障施策が破綻したときの対処法」を尋ねることも許されなければなりません。

では、軍事力で国を守る立場が「国の安全保障施策が破綻したときの対処法」、すなわち「攻めてきた国との戦争に負けたときはどうするんだ?」との問いに答えることができるでしょうか。もちろんできません。

なぜなら、「国の安全保障施策が破綻したとき(戦争に負けたとき)」は国が取りうる手段は残されていないので(それが「破綻」ということだから)、その「破綻したときの対処法」は存在しないからです。

軍事力で国を守る立場では、先ほど説明したように「戦争に負けたとき」が「国の安全保障施策が破綻したとき」となりますが、「戦争に(事実上)負けたとき」には、相手国に蹂躙されるか、皆殺しにされるか、併合されてしまうか、その攻めてきた国の意向に委ねなければなりませんから「対処法」など存在しないのです。

つまり、憲法の平和主義と9条に対して「攻撃されたら」とか「攻められたら」などと問うて批判している人は、自分が答えられない問いを用いて批判していることになるので、そもそも批判として論理的に成立していないのです。

この理屈を説明すると長くなってしまうので、この点を詳しく説明した『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程』のページを読んでいただきたいのですが、論理的に成立していない問いで憲法の平和主義や第9条を批判しても何の議論も深まりません。

憲法の平和主義と9条に対して「攻撃されたら」とか「攻められたら」などと批判したり、その「攻められた」場合を前提として「軍事力を放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」などと批判している人は、そのロジックの組み立て方自体が間違っている点に、まず気付く必要があります。

(2)安全保障の資源を「攻められる前」のために使うのが無責任なら「攻められた後」のために使うのも無責任ということになる

憲法の平和主義と9条に対する「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」との批判は、そもそもそのロジック自体が矛盾を抱えてしまっている点も指摘できます。

なぜなら、仮に軍事力と戦争を放棄する憲法の平和主義と9条を「無責任」と言うのなら、軍事力で国を守るべきだとの考えも「無責任」となるからです。

先ほど説明したように、憲法の平和主義と9条は「原因療法的」な視点から「攻められない国」にして国民の安全保障を確保しようとしますので、安全保障のために必要となる人的資源と経済的資源の全ては他国が「攻めてくる前」の平時の段階の外交努力に集中して充てられます。

一方、諸外国や戦前の日本の立場では「対症療法的」な視点から「攻め返せる国」にすることで国を守ろうとしますから、この立場では安全保障のために必要となる人的資源と経済的資源の全ては他国が「攻めてきた後」の戦争段階で使う軍事力に集中して充てられます。

具体的に説明しましょう。たとえば、国民の安全保障のために使う予算が年に1兆円あったと考えてください。

この1兆円を、世界の紛争解決のための平和構想の提示や貧困解消のための援助など、世界平和の実現に向けた積極的外交努力のための費用に充てることで世界平和の具現化に貢献し、その世界平和構築の努力によって得られる国際信頼によって、そもそも日本が「攻められる」ような危険が生じてしまうのを未然に防ぐことで国民を守ろうと考えるのが「原因療法的」な視点で安全保障を捉える日本国憲法の平和主義と9条の立場です。

一方、この1兆円を、自動小銃や戦車や戦闘機やミサイルの購入費用に充てて、国外勢力から武力攻撃を受けた場合の反撃する軍事力を強化することで国民を守ろうと考えるのが「対症療法的」な視点で国民の安全保障を捉える諸外国や戦前の日本の立場です。

つまり、軍事力を放棄する憲法の平和主義と9条の立場に立っても、軍事力で国を守る立場に立っても、国の安全保障のために使う人的資源と経済的資源の総量は同じなのです。

違うのは、その安全保障のための人的資源と経済的資源を、他国が攻めてくる『前』の平時の外交努力のために使うのか、それとも他国が攻めてきた『後』の軍事力による戦闘のために使うのか、その目的や時間の違いだけに過ぎないのです。

そうであれば、他国が攻めてくる『前』の平時における外交努力に安全保障資源の全てを集中させる憲法の平和主義と9条の立場の安全保障施策だけが「無責任」ということにはなりません。仮に憲法の平和主義と9条の立場における安全保障施策が「無責任」であるのなら、その同じ総量の安全保障資産を異なる時間や目的のために使う軍事力で国を守る立場の安全保障施策も「無責任」と言わなければならなくなってしまうからです。

憲法の平和主義と9条を「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」と批判している人は、もしかしたら憲法の平和主義と9条が安全保障の対策を何も考えずにただ漫然と非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えるだけで「攻められない国」にできると考えている思想だと捻じ曲げて理解してしまっているのかもしれませんがそうではありません。

憲法の平和主義と9条は決して『無抵抗』なのではなくて、「攻めてくる前」の平時の段階において他国が攻めてこないように「外交努力」によって徹底的に抵抗するわけですから、軍隊で守る立場と憲法の平和主義や9条の立場では、「攻めてきた後」に「軍事力」で抵抗するか、それとも「攻めてくる前」に「外交努力」で抵抗するか、その『抵抗』する時期と手段が異なるだけなのです(※この点の詳細も『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程』のページで詳しく解説しています)。

このように、憲法の平和主義と9条に対しては、「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」という批判がありますが、その批判が成り立つのであれば軍事力で国を守る立場に対しても「無責任だ!」という批判が成り立ってしまいますので、論理的な矛盾を抱えてしまいます。

論理的に矛盾する理屈で批判しても憲法9条の議論は何も進みませんから、まずその矛盾に気付く必要があるのではないでしょうか。

(3)国を守らせるために国民を戦場におくる方がよほど無責任

憲法の平和主義と9条に対して「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」と批判する人は、憲法の平和主義と9条が軍事力を放棄して軍事力で抵抗しないことをもって「無責任だ」とか「無抵抗で死ねということか」と批判しているのだと思いますが、私は逆に、軍事力で国を守る立場の方がよほど「無責任」だと思います。

なぜなら、軍事力で国を守る立場では、戦争が起きないようにするための外交努力に全精力を傾けないまま、国民を戦争に巻き込むことになるからです。

先ほど説明したように、憲法の平和主義と9条の立場では他国が「攻めてくる前」の段階の外交努力に国の安全保障のための人的資源と経済的資源を集中的に投入しますから、戦争を起こしてしまわないようにするための外交努力に安全保障のための全精力を傾けようとします。

一方、軍事力で国を守る立場では他国が「攻めてきた後」の段階で戦う戦争で勝つための軍事力に安全保障のための人的資源と経済的資源を集中的に投入しますから、戦争に勝つための軍事力に安全保障のための全精力を傾けようとします。

つまり軍事力で国を守る立場では、戦争を起こしてしまわないようにするための外交努力を十分にしないまま、戦争に突入してしまうわけです。

もちろん、軍事力で国を守る立場であっても、例えば真珠湾攻撃前の日本政府がアメリカ政府と戦争回避のための交渉を続けたように、戦争を起こしてしまわないな外交努力はやるでしょう。

しかしその外交努力はあくまでも相手国との対立が生じた後の外交努力であって、対立が起きる前の平時の段階で国際社会と協調し信頼関係を築く中で世界平和の実現に貢献しようとする憲法の平和主義と9条が予定する外交努力とは性質を異にします。

軍事力で国を守る立場のように、相手国と対立が起きてしまった後に「ちょっとまってよ、話し合いで戦争を回避しましょうよ」と交渉して戦争を回避するのは極めて困難です。

だからこそ現行憲法の平和主義と9条は、そうした対立が生じないように平時の段階から外交努力に全精力を傾けることを要請して、そもそも戦争の種になるような対立が生じてしまうのを防ごうと考えるわけです。

こうして考えると、軍事力で国を守る立場の方が、戦争を回避するための外交努力を疎かにしているのが分かるでしょう。

軍事力で国を守る立場では、他国が「攻めてくる前」の段階で、やれることがたくさんある外交努力のほんの一部にしか安全保障のための人的資源と経済的資源を投入しないままの状態で、国民を戦争に駆り立ててしまうことになるからです。

それはすなわち、本来国民を守る立場にあるはずの国家が、戦争を回避するための努力を中途半端にしかしないまま国民を戦争に巻き込み、その国民から選抜した兵士に戦場で「国を守るために死ね」と言っているのと同じです。

その方がよほど「無責任」ではないでしょうか。

人が社会契約を結んで国家を形成するのは、あくまでも「国家に国民を守らせる」ためであって、「国民に国家を守らせる」ためではありません。

国家の責任は「国家に国民を守らせる」ところにあるのであって、「国民に国を守らせる」ところにあるのではないのです。

「国家に国民を守らせる」ために必要となるのが、戦争が起きてしまわないようにするための外交努力であって、「国民に国を守らせる」ために必要となるのが軍事力であって軍隊なのですから、人が社会契約を結んだ目的を具現化させるためには、軍事力よりも外交努力に国の責任を尽くしてもらうのは当然のことなのです。

それが分かっていないから、「国民に国を守らせ」ようとする国家権力の意図に気づかないまま、憲法の平和主義と9条を「無責任」だとか「無抵抗で死ねということか」と批判してしまうのです。

(4)勝てる見込みのない戦争に国民を巻き込む方が無責任

憲法の平和主義と9条に対して「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」と批判する人は、軍事力で国を守ることを前提としているのでしょうから、戦争に勝てると思っているということになります。

まさか日本が負けると思いながら「軍事力で国を守るべきだ」とは言っていないでしょうから、憲法の平和主義と9条を批判する人は、少なくとも「日本が戦争すれば勝てる見込みがある」と思っているはずです。

しかし、日本の戦争において「勝てる見込み」というものがあるのでしょうか。憲法の平和主義と9条を批判している人たちが考える仮想敵国がロシアなのか中国なのか北朝鮮なのか、それともアメリカなのか知りませんが、それらの国との戦争で日本が勝てる見込みがあるのでしょうか。私はないと思います。

例えば先の戦争では、日本と比較して甚だしく装備の劣る中国との戦争すら終結させることができませんでしたし、国家予算の80%以上を軍事費に充てながら装備の近代化を十分にできなかった関東軍はノモンハンで火力に勝るソ連軍にコテンパンに蹂躙されています。アメリカとの戦争に至っては連合艦隊を壊滅させられた挙句、最終的には国家予算の90%に近い軍事費を使いながら原爆を2発も落とされて敗けてしてしまいました。

しかも当時の日本は、中国の満州や青島などの権益や、自国の領土に組み入れた朝鮮半島や台湾や南樺太などから莫大な人的資源と経済的資源を搾取できたのですから、現在であれば日本と韓国と北朝鮮と台湾と中国の黒竜江省・吉林省・遼寧省あたりをすべて合計したぐらいの国力があったことになります。

それだけの国力があったにもかかわらず戦争に勝てなかったのですから、常識的に考えて国力の充実した今の中国やロシアやアメリカに「勝てる見込み」など想像できません。

「北朝鮮となら勝てるだろう」と思う人がいるのかもしれませんが、北朝鮮と戦争になれば中国やロシアが確実に支援しますので、米英が中国を支援した日中戦争のように終りの見えない泥沼の戦闘に巻き込まれてしまいます。そんな戦争に「勝てる見込み」などないでしょう。

歴史的事実を踏まえれば、日本に戦争で「勝てる見込み」などないのです(※詳細は→日本が軍隊で国を守れない(戦争に勝てない)7つの理由)。

そうした歴史的事実があるにもかかわらず、それを無視して根拠もなしに「勝てる見込みがある」と妄想して「軍事力で国を守るべきだ」と憲法9条を改正し、自分の子や孫の世代に「前の戦争では負けたし、併合した国も失ったし、今から戦争する敵国は昔よりはるかに国力が充実してるけど、俺はたぶん戦争に勝つ見込みがあると思うから、戦争に行って国を守れ」と銃を持たせる方がよほど「無責任」なのではないでしょうか。

(5)核戦争の時代において戦争を肯定する方が無責任

また、そもそも現代は核兵器がありますから、核戦争で「勝てる見込み」を想像すること自体困難です。

核保有国が戦争になって核兵器を撃ち合えば、双方とも無傷ではいられません。仮にどちらか一方が核戦争に生き残ったとしても相手国から発射されたミサイルをすべて撃ち落とすことは事実上不可能ですから、自国の領土に相当な被害が出ているでしょう。

しかも放射能の影響は数年で収まるものではなく、数十年、何世代にもわたって影響を及ぼしますから、たとえ戦争に勝ったとしても、その後何十年、何百年と国民に負担を強いることになるかもしれません。

それではたして「軍事力で国民を守った」とか「軍隊で国民を守った」と言えるでしょうか。

また、憲法の平和主義と9条を批判している人たちが考える仮想敵国がロシアなのか中国なのか北朝鮮なのか知りませんが、仮に日本が核兵器を保有してこれらの国と核ミサイルの撃ち合いをしたとして、相手から打たれるミサイルをすべて撃ち落としたとしても風は西から吹いてきますから、日本側がこれらの国に着弾させた核兵器によってまき散らされた放射能はすべて日本に降り注ぐことになります。

仮にそうなれば、日本の農業漁業は壊滅し食糧確保もままならなくなるなってしまいます。韓国や台湾やフィリピンなど周辺国に放射能汚染が広がれば、それらの国への賠償もしなければなりません。

その賠償額は天文学的な金額になると思いますが、そんな莫大な債務を負担した国が生き残ってゆけるのでしょうか。私はムリだと思います(※詳細は→日本が軍隊で国を守れない(戦争に勝てない)7つの理由)。

核戦争になれば、何世代にもわたって国民に甚大な負担を強いることになるのは避けられません。

それでもなお軍事力で国を守るべきだというのであれば憲法9条を改正して軍隊でも核兵器でも持てばよいと思いますが、そうして国民を核戦争に巻き込むことの方がよほど「無責任」だと思うのです。

(6)集団的自衛権で日本を「代理戦争の場」として提供する方が無責任

憲法の平和主義と9条に対して「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」と批判する人は、アメリカや欧州諸国との軍事同盟で国を守ろうとしているのかもしれませんが、仮にそうだとすればこれほど無責任なことはありません。

なぜなら、アメリカや欧州諸国と軍事同盟を結んで集団的自衛権を行使するというのなら、日本を超大国に「代理戦争の場」として提供しなければならなくなるからです。

憲法9条の改正を求めている人の多くはロシアや中国や北朝鮮が「攻めてきたら(侵略してきたら)どうするんだ!」と主張して軍隊の明記と自衛のための戦争を正当化していますから、仮に彼らの言うことが正しいとすれば、ロシアや中国や北朝鮮が「攻めてくる(侵略してくる)」ということになります。

では、仮にそれが正しくてそれらの国と戦争になるとして戦場はどこでしょうか。もちろん、その場合の戦場は日本海や東シナ海、尖閣諸島や北海道の近海あるいは日本の領土です。

つまり日本は、日本の領土と領海を戦場として戦争しなければならないわけです。仮にアメリカや欧州と軍事同盟を結んでそれらの国が助けてくれるとしても、アメリカや欧州がミサイルを撃ち込むのは日本の領土と領海なのです。

これはもちろん、アメリカや欧州が中国やロシアや北朝鮮と戦争になった場合も同じです。

アメリカや欧州が中国やロシアや北朝鮮と戦争を始めれば、日本は軍事同盟に基づいて集団的自衛権を行使しなければなりませんから、否応なく中国やロシアや北朝鮮と戦争しなければならなくなってしまいます。

そしてその場合の戦場も日本の領土と領海になるわけですから、日本がアメリカや欧州の戦争の矢面に立たされて中国やロシアや北朝鮮と闘わなければならないのです。

アメリカや欧州にとってこんな便利な国はありません。自国の領土と領海に何一つリスクを負わず、他国(日本)を戦場にして、他国(日本)の国民を盾にして戦争できるのですから、これほど楽な戦争はないでしょう。

つまり日本が憲法9条を改正して軍隊を持ち自衛戦争ができるようにするということは、日本の領土と領海を超大国の「代理戦争の場」として提供し、その「代理戦争の場」で殺し合う駒として日本の国民を提供するということなのです(※詳細は→日本が軍隊で国を守れない(戦争に勝てない)7つの理由)。

それが責任ある国家のやることでしょうか。わたしはその方がよほど「無責任」だと思います。

社会契約は「国民に国を守らせる」ために結ぶのではない

以上で述べてきたように、憲法の平和主義と第9条に対しては「自衛戦争も軍事力も放棄するなど無責任だ!」とか「日本が攻撃されたら無抵抗で死ねということなのか?」などという批判が聞かれますが、そうした批判は憲法の平和主義と9条に対する批判としては成り立たないと言えます。

こうした批判をする人は、おそらく国家の防衛というものが、軍事力によってのみ具現化されているものと勘違いしているのかもしれません。

しかし防衛は、なにも軍事力だけで具現化されているものではありません。たとえ軍事力を持つ国であっても、戦争が起きるまでの期間に対立国との間で戦争を回避するための外交努力に尽力するのであって、その戦争回避のための外交努力と軍事力の両輪によって具現化しようとするのが、軍事力を持つ国における国家の防衛です。

そうであれば、その両輪の一方の軍事力による防衛が機能しないことが歴史的に証明されている日本においては、むしろ率先して軍事力による防衛を放棄して、その軍事力のために用意した安全保障のための人的資源と経済的資源をもう一方の車輪である外交努力に集中することが、防衛を具現化するうえで最も適した手段となり得るはずなのです。

だからこそ敗戦当時の日本政府と国民は、自衛戦争も含めたすべての戦争を放棄して軍事力を撤廃し、安全保障のための人的・経済的資源を外交努力に集中させることによって「そもそも攻められない国」にすることで国民を守ろうと考える日本国憲法の基本原理である平和主義と第9条に承認を与えたのではないでしょうか。

先ほども述べましたが、人が社会契約を結んで国家を形成する目的はあくまでも「国家に国民を守らせる」ためであって「国民に国を守らせる」ためではありません。

そうであれば、国家の責任は「国家に国民を守らせる」ところにあるはずであって「国民に国を守らせる」ところにはないはずです。

軍事力で国を守るということは「国民に国を守らせる」ことに他なりません。軍事力で国を守ることができないことが歴史的に証明された国家が、それを国民に強いる方がよほど「無責任」だと思うのです。

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