ポーランドに憲法9条があればナチスの侵攻を防げたのか?論の検証

憲法の平和主義と9条に対するステレオタイプな批判の中に「ポーランドに憲法9条があったらナチスの侵攻を防げたのか?」とか「ポーランドがナチスに侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」とか、あるいは「チベットに9条があったら中国に侵略されなかったのか?」などというものがあります。

実際、私がYouTubeで公開している憲法9条に関連する動画にも、少し趣は異なりますが同様の趣旨の次のようなコメントが付けられていますので、そうした意見を展開している人はネット上に多くいるのだと思います。

※YouTubeで大浦崑が公開している『憲法9条は軍隊を無くせば平和が実現できると思っているのか?』の動画に付けられたコメント

ではなぜこうした批判をする人がいるかというと、それは現行憲法の第9条として具現化されている平和主義の基本原理が、「平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している(※芦部信喜著『憲法』56頁)」からです(※参考→『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程』『憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由|憲法道程』)。

日本国憲法の基本原理である平和主義と第9条は、非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えるだけで平和が実現できると考えているわけではなく、中立的な立場から国際社会と協調して平和実現のために積極的に努力することの中に日本国民の安全保障が実現できると考えていますので、諸外国と信頼関係を築くことは不可欠です。

諸外国と信頼関係がなければ「平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的な行動をとる」ことができないからです。

しかし、軍事力で攻撃しようとする国が信頼関係を築くことなどできませんし、莫大な人的資源と経済的資源を浪費させる軍事力を保有することは財政的な面で国家の負担となりますから、世界の平和を実現させるための外交努力に国の人的資源と経済的資源を集中させる意味でも、軍事力を撤廃する必要があります。

そのため、日本国憲法は第9条で国家権力に対して「戦争をするな!(戦争の放棄)」「軍隊を持つな!(戦力の不保持)」「軍事力を行使するな!(交戦権の否認)」と歯止めを掛けたのです。

ですが、外交は相手国があって成り立つものですから、侵略を目的とした国外勢力に必ずしも戦争回避のための外交努力が成功するとは限りません。

そのため、先の大戦でナチスドイツとソ連からの侵攻を受けたポーランドや大戦後に中国からの侵略を受けたチベットなどを引き合いに出して 「ポーランドに憲法9条があったらナチスとソ連からの侵攻を防げたのか?」「ポーランドがナチスとソ連に侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」 あるいは「ダライラマが中国と信頼関係を築けたら中国に侵略されなかったのか?」などと批判する人が現れてくるわけです。

ですが、こうした意見は端的に言ってトンチンカンです。

なぜなら、歴史的事実を持ち出して「もし○○だったら」と組み立てる理屈は、ただのファンタジーに過ぎないからです。

歴史で「if」を論じるのはファンタジー

憲法の平和主義や9条に対して「ポーランドに憲法9条があったらナチスとソ連の侵攻を防げたのか?」とか「ポーランドがナチスとソ連に侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」 とか「ダライラマが中国と信頼関係を築けたら中国に侵略されなかったのか?」などと批判する人が勘違いしている点が一つあります。

それは「歴史」というものが、過去にあった事実を論じるものだという点です。

歴史は、過去の文献や遺物を調査し、その時その場所で事実として何があったのかを論じますから、そこに「あのときもし○○だったら」などと「if」を加えて論じるのはファンタジーにしかなりません。

この点、ポーランドやナチスドイツ・ソ連、あるいはチベットや中国に関して言えば

  • ナチスとソ連の侵攻を受けた当時のポーランド憲法に、日本国憲法の平和主義の基本原理や第9条のような規定はなかった。
  • ポーランドに侵攻したナチスドイツとソ連の憲法に、日本国憲法の平和主義の基本原理や第9条のような規定はなかった。
  • 中国の人民解放軍の侵攻を受けた当時のチベットに、日本国憲法のような平和主義の基本原理や第9条を規定した憲法はなかった。
  • チベットを侵略した当時の中国の憲法に、日本国憲法の平和主義の基本原理や第9条のような規定はなかった。

というのが歴史的事実です。

そうであれば、仮にポーランドやナチスドイツやソ連、あるいはチベットや中国で起きた歴史的事実を憲法の平和主義や第9条を論じるために利用したいと言うのであれば、

  • 日本国憲法の基本原理である平和主義と第9条を持たなかったポーランドが、ナチスドイツとソ連に侵攻された。
  • 日本国憲法の基本原理である平和主義と第9条を持たなかったナチスドイツとソ連が、ポーランドに侵攻した。
  • 日本国憲法の基本原理である平和主義と第9条を憲法として持たなかったチベットが、中国に侵略された。
  • 日本国憲法の基本原理である平和主義と第9条を憲法に持たなかった中国が、チベットを侵略した。

との文脈で論じなければなりません。

そうした論じ方が良いのか悪いのか、それは知りませんが、少なくともポーランドやチベットで過去に起きた侵略の事実を持ち出すと言うのであれば、事実を論じなければなりませんのでこうした文脈にならざるを得ないでしょう。

つまり、この文章を見てもわかるように、ポーランドやチベットで過去に起きた侵略の事実は、憲法の基本原理である平和主義と第9条を肯定的に評価する材料にはなっても、それを否定する理屈を強化する材料にはならないわけです。

つまるところ、憲法の平和主義や9条に対して「ポーランドに憲法9条があったらナチスとソ連の侵攻を防げたのか?」とか「ポーランドがナチスとソ連に侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」 とか「ダライラマが中国と信頼関係を築けたら中国に侵略されなかったのか?」などと批判する人は、歴史の使い方を根本的に間違っているのです。

歴史を材料として論じる際に「もし○○だったら」などと「if」を付け加えて論じるのは、ただのファンタジーでしかありません。

ファンタジーをいくら論じても憲法9条の議論は1ミリも進まないのですから、そうした論じ方は止めた方が良いのです。

ファンタジーを論じるとすれば

ところで、そうは言っても「ポーランドに憲法9条があったらナチスの侵攻を防げたのか?」とか「ポーランドがナチスに侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」などと憲法の平和主義と9条を批判する意見が絶えませんし、ナチスドイツとソ連におけるポーランド侵攻に「if」を付け加えて論じることもファンタジーとしては面白いと思いますので、もし当時のポーランドに日本国憲法における平和主義の基本原理や第9条のような規定があったとしたらどうなっていたか、妄想してみるのも暇つぶしには良いかもしれません。

もっとも、当時のポーランドを論じるのであれば前提としてポーランドの歴史を理解しなければなりませんが、ポーランドの歴史はかなり難解です。そもそもヨーロッパはたくさんの国や民族や宗教が入り乱れて栄枯盛衰を繰り返した歴史があり、それはポーランドも例外ではないうえロシアとドイツとオーストリアの三国に分割されて統治されていた時期があるからです。

この点、ポーランドの歴史については日本語の文献が少なくて調べるのに苦労しますが、白水社からアンブロワーズ・ジョベール著の「ポーランド史」(山本俊朗訳)が文庫で出版されていましたので、その文献を参考に当時のポーランドに「もし」日本国憲法の平和主義の基本原理と9条があって、当時のポーランドが憲法の平和主義と第9条を遵守することで国際協調主義に立脚し、ヒトラー(ドイツ)やスターリン(ソ連)と信頼関係を結べていたらどうなっていたか妄想してみましょう。

(1)第一次世界大戦から第二次世界大戦勃発までにおけるポーランドの歴史

ジョベールの「ポーランド史」(※以下「ポーランド史」)によれば、16世紀までに今のリトアニアやベラルーシ、ウクライナにまで版図を広げたポーランド王国は、17世紀から18世紀にかけて周辺諸国に徐々に国土を削られてしまい、19世紀には東のロシアと南のオーストリア、西のプロイセン(プロシア※ドイツ)の三つの大帝国によって分割されて統治されているような状態にあったとされています。

そんな状況に終止符が打たれたのが第一次大戦です。

a) 第一次世界大戦におけるポーランド成立とドイツ・ロシアとの国境戦争

1914年から始められたヨーロッパ戦争(第一次世界大戦)では、ロシア領に分割統治されていたロシア領のポーランド(いわゆる会議王国)が、1915年の大攻勢でドイツとオーストリアによって占領されました(ポーランド史111~112頁)。

もちろん、当時のポーランドはドイツ・オーストリア・ロシアの三帝国によって分割統治されていましたから、この戦争はドイツ領とオーストリア領に分割された旧ポーランドに住むポーランド人と、ロシア領に分割された旧ポーランドに暮らすポーランド人の同胞同士の戦争でもあったわけです。

ロシア領ポーランドを奪い取ったドイツとオーストリアは不足する戦力を補わせるためにその地域をポーランド王国として独立させようと考えますが、ワルシャワに駐在したドイツ総督のベーゼラーが臨時国務会議を設置してその陸軍部をポーランド人の軍人だったビウスツキに委ねようとしたものの、ポーランド軍の司令官と幹部がドイツ人に占められることを知ったビウスツキが身を引いたことからその計画は難航してしまいます(ポーランド史112~113頁)。

そんな中、アメリカのウィルソン大統領が上院にあてた教書の中で独立したポーランド国家の必要性を宣言したことを知ったワルシャワ市民は、アメリカ大使館前に集まって熱狂し独立への気運が一層高まります。アメリカがドイツとオーストリアに宣戦を布告したのはその数週間後でした(ポーランド史113頁)。

一方ロシアでは、三月革命で帝位を追われたニコライ二世に代わって権力を握ったリヴォフ公の臨時政府が、すでに支配権を失ったポーランド領においてロシアとの間で軍事同盟で結ばれたポーランド国家の建設をポーランド人に約束したことから(※少し話が飛びますが、ロシアが日露戦争で失った満州の放棄を宣言したカラハン宣言に似ています)、ロシアで軍務に就いていたポーランド人が臨時政府にポーランド国民軍の結成を要求しますが、革命軍の弱体化を懸念したリヴォフの臨時政府から拒絶されてしまいます(ポーランド史113~114頁)。

こうしたこともあったからか、ポーランド人社会におけるロシア(革命軍の臨時政府)への信頼が失われると、モスクワに召集されたポーランド政治会議はローザンヌに設立された民族委員会に加盟し、パリに移動して連合国の勝利を目指すポーランド人組織の統合に力を傾けるようになっていきました(ポーランド史114頁)。

この民族委員会はイギリスやフランスの政治家と交渉するために1915年からロシアを離れて活動していた組織ですが、アメリカと西ヨーロッパ諸国にポーランドの公式機関として認められると、すでにフランスで組織されていたポーランド軍に志願兵を募って強化し、師団を編成して前線に送ることで連合国の同盟者として大戦に参戦してドイツやオーストリアと戦いました(ポーランド史114~116頁)。

大戦が終結に近づくと、まずオーストリア帝国が解体されますが、ポーランド人が支配者となったクラクフと西ガリツィア地方(現在のウクライナの西側)では社会党のダシニスキ党首によってポーランド共和国臨時政府の成立が宣言されました(ポーランド史118頁)。

また、革命によって崩壊したドイツ帝国に代わってドイツ共和国が連合国と休戦条約を結ぶと、ワルシャワでは大戦中にドイツとオーストリアが失敗した臨時国務会議に代わって組織させていた摂政会議がすぐにピウスツキを総司令官に任命し権力を委譲しました(ポーランド史118頁)。

ワルシャワ政府から権力の移譲を受けたピウスツキは、憲法制定議会を開催するための選挙を布告し1919年1月に普通選挙を実施して成立した憲法制定議会に権力を渡しますが、議会は満場一致でピウスツキを国家元首に選任します。

もっとも、1919年2月に制定された小憲法では、国家元首は国会に対して責任を有し国務大臣を通じて行政権を行使するものとされていましたが、ピウスツキが総司令官の職を保持したままであったため、ピウスツキが総司令官として決定した事項が陸軍大臣の副署を経ずに実行される余地を与えていました。

こうしてピウスツキに権力が集中することになり、のちの国境紛争に際して軍の権限が極端に大きくなっていくことになるのです(ポーランド史119~121頁)。

ドイツとの国境線に関しては、1919年のヴェルサイユ条約によって1772年のポーランド・プロイセン国境がおおむね回復されることになりましたが、上シレジア(現在のポーランドの南西部)ではポーランド人とドイツ人の間で激しい戦闘が起りました。この戦闘は連合軍側の委員会の尽力で鎮静化されますが、多数を占めたオドラ川(オーデル川)流域の工業地帯の不可分性を主張するドイツ人側に対して、分割を主張するポーランド人政治家のコルファンティに指導されたポーランド人社会が一か月以上にわたって反乱を続けた末に、国際連盟の援助の下で国境が画定されることになります。

その結果、ドイツの中におよそ20万のポーランド人が残される一方、カトヴィツェ地方(現在のポーランド南部の都市)がおよそ23万のドイツ人と共にポーランドに戻されることになりました(ポーランド史121~122頁)。

一方、ポーランドの東北部では、撤退するドイツ軍部隊の後を追うようにロシアから侵入してきた赤軍によって国境地帯が占領されていたことから、ピウスツキは首相のパデレフスキを説得して北方に軍を派遣し赤軍を敗走させることに成功します(ポーランド史123頁)。

また、ピウスツキはポーランド軍を東南部のルーマニア国境まで派遣して東ガリツィア(現在のウクライナの西側)を占領させ、その国境線を連合国最高会議にロシアとの臨時国境として「問題なくポーランドに属する」と認めさせることで境界を確定させることにも成功しました(ポーランド史123頁)。

この時のポーランド軍による領土拡張の勢いは、ピウスツキがその著書の中で語った言葉がよく表していますのでその一文を紹介しておきましょう。

「私の軍隊は、装備は話にならないほどで、数も劣勢であったが、ほとんど損害を被ることなく、広大な領土を征服し、まるで無人の境をゆくように進んでいった」

※ヨーゼフ・ピウスツキ著「革命家より政治家へ」270頁|アンブロワーズ・ジョベール著 山本俊朗訳「ポーランド史」白水社 124頁より引用(孫引き)

さらにピウスツキは、赤軍と白ロシア軍の双方から追われてきたペトリョーラ(ウクライナの民族派指導者)を迎えて東ガリツィアの領有を認めさせて同盟を結び(1920年)、ポーランド軍をペトリョーラのパルチザンと共にキエフに入城させました(ポーランド史124頁)(※いわゆる「ポーランド・ロシア戦争」または「ソヴィエト・ポーランド戦争」)。

この侵攻は、赤軍から派遣されたトゥハチェフスキーを総司令官とする軍団によってワルシャワ近くまで押し返されますが、大規模な兵の徴集によって体制を整えたポーランド軍によってヴィスワ川下流域で撤退させることに成功し(いわゆる「ヴィスワ川の奇跡」)、1921年の平和条約によってブク川(現在の国境)の東およそ200㎞のところに国境を引かせることに成功しました。

また、1920年にソ連からリトアニア人に返還されていたビルニュス(リトアニアの首都)については、1921年の平和条約でソ連側が関心を持たない旨を宣言していたこともあって、リトアニア人とポーランド軍の間で国境の交渉が行われていましたが、ポーランド軍のジェリゴフスキ将軍が強襲してビルニュスを占領した挙句、勝手に中央リトアニア行政官に就任してしまう事件が発生します(ポーランド史125~126頁)。

当初、ポーランド政府はこのジェリゴフスキの勝手な行動に承認を与えていませんでしたが、1922年に中央リトアニア議会に承認させる形でビリニュスを併合してしまいました。

もちろん、こうした侵略は当時でも許されるものではありませんでしたが、ベルサイユ条約でポーランドの国境を定める権利を有していた連合国はその既成事実を前にして屈するほかなく、現在のリトアニアからベラルーシ、ウクライナの西半分におよぶ広大な領土が武力(軍事力)によってポーランドに征服されることになったのです。

そしてこの第一次世界大戦の戦乱に乗じてポーランド人が仕掛けたロシア(赤軍・ソ連)とドイツに対する侵攻(戦争・国境紛争)によって画定された国境線で建設されたのが、先の大戦でナチスドイツとソ連に侵攻を受けたポーランド共和国となるわけです。

なお、当時行われた第一回の人口調査ではポーランドの全人口における民族の内訳は次のようになっていたようです。

民族おおよその人口
ポーランド語を話す市民18,800,000人
ウクライナ人3,789,000人
白ロシア人1,059,000人
ドイツ人1,033,000人
ユダヤ人2,121,000人
その他の少数民族総人口の30%
※アンブロワーズ・ジョベール著 山本俊朗訳「ポーランド史」白水社 126頁を基に作成

b) ポーランド共和国の成立とピウスツキおよび軍部の独裁体制

こうして成立したポーランド共和国でしたが、1919年に制定された憲法は暫定的な基本法であったため改めて憲法を制定する必要がありました。この際、左派はピウスツキが大統領になると思っていたため大統領の独裁制を議会に提案しますが、ピウスツキを警戒していた右派はフランス第三共和国憲法を参考に代議院の権限を強化して代議院と上院が合同で大統領を選任するフランス流の議会制憲法を1921年に制定させました(1921年3月憲法)。

翌年選挙が行われましたが国民の予想に反してピウスツキが大統領の職に就くことを固辞したことから社会党のナルトヴィチが大統領に選任されますが、暴漢に殺されたため後継者として社会党のヴォイツィェホフスキが大統領に就任します。

ピウスツキはナルトヴィチ大統領に権力を譲ったその日に参謀総長に任命されますが、大統領選に敗れた右派がヴィトスに内閣を組織させると参謀総長の職からも退きました。

右派がヴィトスから引き継がせたグラブスキ内閣が倒れるとピウスツキは旧友だった大統領のヴォイツィェホフスキに自分の腹心の者を陸軍大臣に就かせるよう約束させますが、6か月後に再び組織されたヴィトス内閣はピウスツキの反対派だったマルチェフスキを陸軍大臣に任命しました。

すると将校団の徹底的な刷新を恐れたピウスツキは1926年5月12日に三個連隊を動かしてワルシャワ郊外のプラガとヴィスワ川の橋を占領。14日には首都を完全に制圧してクーデターを成功させます。

国民議会は多数の投票でピウスツキを大統領に選任しますが、ピウスツキは自らの勧告で社会党のモシツィツキを大統領に就任させて、自分は友人のバルテルを首相とする内閣の陸軍大臣に就任しました(ポーランド史130~131頁)。

そうしてクーデターによる政権が成立すると、国会の議決を経なくても政令で予算を公布できるとする憲法の修正を宣言する法律が布告されます(1926年8月2日大統領布告)。こうして大統領の権限が強化されると立法府の国会は軽視されるようになり、陸軍総督に任命されたピウスツキは軍を掌握することで真の支配者となっていきました。

ピウスツキの独裁制はその後も続き「政府協力超党派ブロック(BBWR)」(※以下「ブロック」)がつくられると政府は1928年の選挙でこれを支援し旧右派連合を激しく圧迫。独裁制に反対する中央・左翼連合の政党が独裁制の終結を要求するとピウスツキは国民議会議長となって議会を解散させ、中央・左翼政党の党首らを監禁するなどして弾圧しました(ポーランド史133~134頁)。なお、この頃から世界恐慌の影響で国内経済は不況に苦しめられるようになります。

また、1930年11月の選挙でブロックが大勝すると、議会はピウスツキが亡くなる1か月ほど前の1935年4月、反対派の抵抗を退けて憲法改正を行い、大統領に立法拒否権と議会解散権、上院議員の3分の2の指名権といった広範な権限を与える新憲法を発布しました(1935年4月憲法)(ポーランド史134~135頁)。

大統領のモシツィツキは友人の技師クフィアトコフスキを首相に任命しますが軍部から力不足を指摘されたこともあり軍部の意向を入れてその後継にスクワトコフスキ将軍を任命。スクワトコフスキ内閣は経済部門以外の大臣をすべて軍部から選任し、軍部による独裁色を強めていきました。

そうした中、国際情勢が緊迫してくると、外務大臣のベック大佐は1932年にソ連と、1934年にはナチスドイツとそれぞれ不可侵条約を結びます。

ナチスによるオーストリア併合とチェコスロヴァキアの解体が避けられないものと考えていたベックは、ミュンヘン会議によってナチスがチェコのズデーデン地方を併合すると即座にプラハに最後通牒を送り、1938年9月にシレジアのチェシンを奪いました。

その1年後の1939年9月1日、ナチスドイツが宣戦布告なしに航空機7対1・戦車40対1という圧倒的戦力差でポーランドに侵攻すると、その16日後の17日、1939年の独ソ不可侵条約でポーランドをドイツと二分する密約を交わしていたソ連が「ウクライナ人と白ロシア人を保護するため」との大義名分で大軍に国境を越えさせポーランドに侵攻。ポーランドは第一次世界大戦の前と同じく、他国に占領統治される状況に陥ってしまいます。

こうしてポーランドにおける第二次世界大戦がはじまったのです。

(2)ポーランドに日本国憲法の平和主義と9条があったなら?

白水社から出されているアンブロワーズ・ジョベール著の「ポーランド史」(山本俊朗訳)を参考に第一次世界大戦からナチスのポーランド侵攻までのポーランドの歴史を振り返ってきましたが、では、こうした歴史の中にあったポーランドに「もし」日本国憲法の平和主義や9条と理念を同じくする思想なり憲法なりがあったとしたら、ポーランドはナチスやソ連の侵攻を防ぐことができたのでしょうか。

冒頭でも述べたように、歴史を「if」で論じるのはファンタジーに過ぎず無意味ですが、「ポーランドに憲法9条があったらナチスの侵攻を防げたのか?」とか「ポーランドがナチスに侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」などと憲法の平和主義と9条を批判する意見が絶えないので、あえてそのファンタジーを確認してみることにしましょう。

ア)ポーランド人社会に「もし」日本国憲法の平和主義や9条と同じ理念があったら?

まず最初に、第一次世界大戦がはじまったころのポーランド人社会において「もし」日本国憲法の平和主義や9条と同じ理念が共有されていたらどうなっていたのか検討してみます。

この点、このページの冒頭でも説明したように、日本国憲法の基本原理である平和主義は、非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えるだけで平和を実現できると考えているわけではなく、中立的な立場から国際社会と協調して信頼関係を築き、平和実現のために積極的に努力することの中に国民の安全保障が実現できると考えており、それを具現化させるために9条で戦争放棄と戦力不保持を規定していますから、仮にそうした理念が当時のポーランド人社会で共有されていたとしたら、おそらくポーランド人が主体的に戦争に参加することはなかったはずです。

先ほど説明したように、当時のポーランドはドイツ・オーストリア・ロシアの三国に分割されて統治されており、ドイツ領に住むポーランド人はドイツ軍の兵士として、オーストリア領に住むポーランド人はオーストリア軍の兵士として、ロシア領に住むポーランド人はロシア軍の兵士として戦いましたが、「もし」仮にその時のポーランド人社会で日本国憲法の平和主義と9条の理念が共有されていれば、ポーランド人社会では日本と同じように軍隊と戦争が否定されるので、たとえドイツやオーストリア、ロシアの軍隊が志願兵を募ったとしても、ポーランド人がそれに応募することはなかったと考えられるからです。

もちろん、第一次世界大戦に当初参戦した列強国の中で徴兵制がなかったのはイギリスだけだったそうですから(木村靖二著「第一次世界大戦」ちくま新書60頁)、違法な徴兵逃れでもしないかぎり銃を持たない選択はできなかったでしょうが、少なくともフランスで組織されたポーランド軍のような形で主体的にポーランド人がポーランドとして戦争に参加することはなかったでしょう。

仮にそうなっていれば、ポーランド人が大戦後に軍隊を組織してドイツやロシア(ソ連)の領土を侵略することもなかったはずですから、ポーランドによってドイツやソ連の領土が削られることもなかったはずです。

第一次世界大戦でドイツやソ連がポーランドによって領土を削られていなければ、そもそもドイツとソ連が密約でポーランドに侵攻し領土を取り返す必要性自体が存在しなくなるわけですから、ドイツやソ連による1939年のポーランド侵攻自体がなかったとも言えるかもしれません。

この点、仮に当時のポーランド人社会が第一次世界大戦に軍隊を組織して参戦しなかったらポーランド国家自体が建設されなかったのではないかとも考えられますが、先ほど説明したように、1914年にドイツとオーストリアがロシア領だったポーランド(旧会議王国領)を攻め取った際にはドイツとロシアだけでなくアメリカや連合国もポーランド国家の建国を宣言していますので、仮に当時のポーランド人が軍隊を組織しなかったとしても、現在のポーランドの国境に近いワルシャワを中心としたいわゆる会議王国の領土については、第一次世界大戦の後に独立国として建国されていた可能性が高いと言えます。

そしてそのワルシャワを中心とした旧会議王国領の範囲については、当時のドイツとロシア(ソ連)が率先してポーランド国家の建設を進めようとしていたわけですから、ドイツとロシア(ソ連)がその範囲のポーランド国家の成立を否定することもなかったでしょう。

したがって、仮に「もし」当時のポーランド人社会で日本国憲法の平和主義と9条の理念が共有されていたとしたら、1939年のドイツとソ連によるポーランド侵攻がなかった可能性もあったと言えます。

また、先ほど説明したように、憲法の平和主義は中立的な立場から国際社会と協調して信頼関係を築き、平和実現のために積極的に努力することの中に国民の安全保障が実現できるという確信に基礎を置いていますから、仮に当時のポーランド人社会で日本国憲法の平和主義と9条の理念が共有されていたとすれば、当時のポーランド人社会は第一次世界大戦が起きてしまわないように欧州諸国に積極的に政治的な働きかけを行うことで大戦自体を回避できていたかもしれません。

仮にそうなっていれば、ナチスの誕生は第一次世界大戦における敗戦国のドイツに過酷だったヴェルサイユ条約への反発も一因だったとされていますから、第一次世界大戦自体がなかったら(または戦争が欧州全体に拡大しなかったりドイツが参戦しなかったりしたら)ナチスが生まれなかったばかりか、ヒトラーさえ政治家として世に出なかった可能性もあります。

仮にそうなると、第二次世界大戦自体が少なくとも欧州を舞台としては発生しなかった可能性まで出てきてしまいますが、もちろんそうなればポーランドが侵略されることはなかったのですから、仮に当時のポーランド人社会に憲法の平和主義と9条があったとしたら歴史は大きく違う方向に進んでいた可能性も否定できません。

イ)1919年小憲法以降のポーランドに「もし」日本国憲法の平和主義と9条があったら?

では、1919年の3月にポーランド共和国で制定された小憲法や、それ以降に制定ないし布告された1921年3月憲法、1926年8月2日大統領布告、1935年4月憲法などに日本国憲法の平和主義の基本原理と第9条があったらどうなっていたでしょうか。

この点、日本国憲法の平和主義と9条は軍隊と戦争を否定していますから、仮にそれらのポーランド憲法に日本国憲法における平和主義の基本原理と9条があれば、そもそも軍隊という組織はポーランドに存在していなかったということになります。

軍隊がなければ、軍隊を掌握することで独裁体制を敷いていたピウスツキは体制を維持できていなかったはずですから、ポーランドではそもそもピウスツキの独裁政権は誕生しなかったと言えますし、仮に最初はピウスツキが大統領に選ばれていたとしても、もっと早い段階で文民の大統領に代わっていたはずです。もちろん、1926年の軍事クーデターも起きなかったでしょう。

仮にそうして軍隊を持たないポーランド国家ができていれば、無駄な予算を軍備に使わずに済むことで1930年代の経済危機を回避できていたかもしれませんし、軍事予算を外交予算に使うことでドイツやソ連と良好な関係が築けていたかもしれません。

また、日本国憲法の平和主義の基本原理は、中立的な立場から国際紛争を解決するための助言や提言など国際社会で平和実現のための積極的な努力をしていくことを要請していますから、仮に当時のポーランドに日本国憲法の平和主義の基本原理があれば、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツと、戦勝国であった米英仏ソなど連合国との間の外交における架け橋となって両者の利害関係を調整し、第二次世界大戦が起きないような外交努力に尽力していたかもしれません。

仮にそうなっていれば、第一次世界大戦における多額の賠償金債務が事実上免除された1932年のローザンヌ会議(木村靖二著「第一次世界大戦」ちくま新書206頁)よりもっと前に、ポーランドの仲介によってドイツの賠償金債務が免除されていた可能性も生じてきます。

そうなると、先ほども述べたようにナチス誕生の一因はドイツに過酷だったヴェルサイユ条約への反発がナチスへの支持につながった点にあったとの指摘もありますから、賠償金債務が早い段階で免除されることでナチスが国民の支持を得られなかったり、もしかしたらヒトラー自身が政治家ではなく画家の人生を歩んでいた可能性だってあります。

もちろんそうなっていれば、ドイツがソ連と密約を結んでポーランドに攻め込むこともなかったでしょうから、「もし」当時のポーランドに日本国憲法の平和主義や9条があれば、ドイツと信頼関係を結ぶことで1939年のナチスドイツによる侵攻を回避できていた可能性もゼロではなかったと言えるでしょう。

これはソ連に対しても同じです。

仮に当時のポーランドに日本国憲法の平和主義と9条があれば、米英仏を中心とした自由主義勢力とソ連を中心とした社会主義勢力、あるいはソ連とドイツの間の橋渡し役となって両者の対立を解消させる努力をしていたはずですから、ソ連が欧州における領土拡張の方針を取りやめることでポーランドへの侵攻を考えなかったかもしれません。

あるいは、仮に当時のドイツにナチスが誕生していなければ、ソ連においてはドイツからの脅威が存在しなかったはずで、そうなるとポーランドへの侵攻に兵力を使うより、日本の満州を叩くべく兵を極東に集中させていたかもしれませんから、ソ連のポーランド侵攻がなかった可能性もあるとも言えます。

(3)歴史論に「if」を持ち出すファンタジーは意味がない

もちろんこれは歴史に「if」を持ち込んだファンタジーに過ぎませんから、仮に当時のポーランドに日本国憲法の平和主義と9条があったとしても、ポーランドがドイツやソ連と信頼関係を築けずに攻め込まれた可能性も否定できません。

いくら当時のポーランドが外交努力に尽力していたとしても、ヒトラーのナチスやソ連の侵攻を止められなかったかもしれませんし、軍隊を持たないことでドイツやソ連によって簡単に併合されていた可能性だってあるでしょう。

しかし当時のポーランドは、ドイツやソ連と信頼関係を築くどころかその逆に、第一次大戦で疲弊したドイツと、ロシア革命の真っただ中にあったロシア(赤軍・ソ連)に侵略し、国境紛争(戦争)を仕掛けて領土を奪い取ったわけですから、当時のポーランドが日本国憲法の平和主義の基本原理とは真逆の発想で周辺諸国に紛争をまき散らしたことは事実です。

そうであれば、日本国憲法の平和主義の理念を誠実に具現化することで、ドイツやソ連と信頼関係を築き、その戦争を回避できた可能性は否定できないでしょう。もちろんそれは何度も繰り返しているようにファンタジーに過ぎませんが…。

もっとも、だからといって「ナチスに侵攻されたのは自業自得だ」とか「ドイツやソ連の領土を奪ったポーランドが悪い」とかいう話ではもちろんありません。1939年のポーランド侵攻は攻め入ったドイツとソ連が悪いのは当然です。

ですが、歴史的には、

  • 第一次大戦後に軍隊でドイツから領土を奪ったポーランドが、その20年後にドイツの侵攻によって領土を奪われた。
  • 第一次大戦後に軍隊でロシア(ソ連)から領土を奪ったポーランドが、その20年後にソ連の侵攻によって領土を奪われた
  • 軍部独裁体制で軍事力を持っていたポーランドが、ドイツとソ連から侵攻されて領土を失った。

という事実があるわけですから、そうした事実を一切無視して

  • 「ポーランドに憲法9条があったらナチスの侵攻を防げたのか?」
  • 「ポーランドがナチスに侵攻されたのは憲法9条がなかったからなのか?」
  • 「ポーランドが侵攻されたのはヒトラーやスターリンと信頼関係を結べなかったのが原因なのか?」

などと日本国憲法の平和主義の基本原理や第9条を批判しても何の意味もないでしょう。

仮にどうしても歴史的事実と日本国憲法を関連付けて論じたいというのであれば、

  • 日本国憲法の平和主義の基本原理と第9条を持たないポーランドが、第一次大戦後にドイツとロシアの領土を武力(軍事力)で奪い取った。
  • 日本国憲法の平和主義の基本原理と第9条を持たないポーランドが、1939年にドイツとロシアから侵攻されて領土を奪われた。
  • 日本国憲法の平和主義の基本原理と第9条を持たないポーランドは、第一次大戦後にドイツとロシア(ソ連)から軍事力で領土を奪い取り、両国との信頼関係を破綻させた。

との文脈で論じなければならないからです。

そんな歴史的事実を無視したファンタジーで日本国憲法の平和主義の基本原理や第9条を批判したところで、憲法の平和主義と9条の議論は一ミリも発展しないのですから、そうした妄想は自分の頭の中で楽しめばよいのであって、他者に向けるべきではないのです。

蛇足

なお、冒頭に紹介したコメントに「植民地支配を目的に侵攻して来る様な国に信頼関係もへったくれもあるかよ(原文ママ)」とありますが、日本国憲法の平和主義の基本原理と憲法9条はそもそも「植民地支配を目的に侵攻してくるような国」が現れてしまわないように中立的な立場から国際社会と協調して世界平和の実現に貢献しその努力の中で信頼関係を築くことで「自国を侵略してくるような国」が出てきてしまう危険を未然に防ぐところに本質がありますから、この意見は「そもそも侵攻されてしまわないことで国民を守る」立場である憲法の平和主義と9条に対して、「侵攻して来る」ことを前提として論じてしまっている点で的外れと言えます(※この点の詳細は→憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程)。

憲法の平和主義と9条の本質を理解していないと、こういう的外れな批判をしてしまいがちですので憲法の平和主義と9条を論じる際は気を付けた方が良いでしょう。

参考文献

  • アンブロワーズ・ジョベール著 山本俊朗訳「ポーランド史」白水社
  • 木村靖二著「第一次世界大戦」ちくま新書
  • 黒川祐次著「物語 ウクライナの歴史」中公新書

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