戦争と犯罪、軍隊と警察をパラレルに論じる憲法9条批判の検証

日本国憲法は憲法の基本原理として平和主義を採用し、その平和主義を具現化させた規定として第9条に軍事力とその行使を否定する条文を置いています。

しかし、こうした平和主義の基本原理や第9条に対しては「お前は家に鍵を掛けないのか」とか「お前は家族が殴られても黙って見ているのか」とか、あるいは「警察無しでどうやって泥棒を防ぐんだよ」などと批判する意見が後を絶ちません。

実際、私がYouTubeに投稿している動画にも同趣旨の次のようなコメントがいくつか見られますので、同じような考えを持った人は少なからずいるのだと思われます。

コメント①

※YouTubeで大浦崑が公開している『自衛戦争を放棄する憲法9条は世界の常識からズレているのか?』の動画に付けられたコメント

コメント②

※YouTubeで大浦崑が公開している『自衛戦争を放棄する憲法9条は世界の常識からズレているのか?』の動画に付けられたコメントに付けられたコメント

コメント③「話し合いで暴力を止められるなら、警察は要らんのじゃwwwwwwwww」

※YouTubeで大浦崑が公開している『ウクライナ人留学生の憲法9条改正議論がまったく相手にされない理由』の動画に付けられたコメント

ではなぜ、これらのコメント主のように憲法9条に対して(※正確には憲法9条を尊重している私(当サイト筆者の大浦崑)に対して)こうした批判をする人がでてくるかというと、それはもちろん憲法の第9条が戦争と軍事力の一切を否定しているからです。

憲法の第9条は第1項で戦争を放棄し、第2項で戦力の保持を規定して交戦する権利も否定していますから、憲法の第9条を遵守するのであれば陸海空軍その他の戦力を保持することができませんし自衛のための戦争もできません。

しかしそれでは、他国から軍事力の攻撃を受けた時に反撃する術がありませんから、憲法9条では自国を守ることができないようにも思えます。

そのため、憲法9条に対して軍事的に無防備な状態を放置しているかのような印象を持った人たちが、あたかもそれが「鍵をかけない家で泥棒に入られるような」あるいは「警察のいない社会でならず者に殴られるような」危険を抱いてしまうことで、「お前は家に鍵を掛けないのか」「お前は家族が殴られても黙って見ているのか」「警察無しでどうやって泥棒を防ぐんだよ」と怒り出してしまう状況が現れてしまうわけです。

しかし、憲法9条を批判するためにこうした意見を述べるのは、端的に言って無意味だと思います。

なぜなら、戦争と犯罪、軍隊と警察という性質の異なるものをパラレルに論じても、憲法9条の議論は一ミリも深まらないと考えるからです。

戦争と犯罪、軍隊と警察の本質的な違いとは

このように、憲法9条に関しては「お前は家に鍵を掛けないのか」「お前は家族が殴られても黙って見ているのか」「警察無しでどうやって泥棒を防ぐんだよ」と批判する人がいますが、こうした意見は戦争と犯罪とを、また軍隊と警察とをパラレルに論じていることになりますので、こうした意見を述べている人は、その両者が本質的に同質だと考えているものと思われます。

しかし、戦争と犯罪、また軍隊と警察では、次のような点で本質的な違いがあります。

(1)戦争と犯罪の本質的な違い

戦争と犯罪の本質的な違いはいくつかあると思いますが、たとえば次のような点で異なることを指摘できます。

ア)戦争は国家主権の意思決定、犯罪は個人の意思決定

戦争は国家が行いますが、その国家の意思決定は主権者である国民の主権に基づきますので、国民主権国家が行う戦争は、主権者の意思決定によって行われると言えます。

この点、主権者は個人ですが、個人の意思がそのまま主権者の意思となるわけではなく、主権者の意思決定は世論や選挙における多数決、また政府の合議制による意思を反映したものとなりますので、国民主権国家が行う戦争は、必ずしも個人の意思とは一致しない主権者の意思によって行われるものと言えます。

一方、犯罪はその犯罪を犯す個人や組織(団体)が行いますが、その意思決定はあくまでも個人の意思決定に基づきますので、犯罪は個人の意思によって行われるものと言えます。法人や組織の犯罪は、その法人や組織に属する共同体の意思となりますが、その法人や組織の意思決定は取締役や組織幹部など個人の意思によりますので、結局は個人の意思によって決定されると言えます。

したがって、戦争が主権者の意思決定に基づいて行われるものである一方、犯罪が純粋に個人の意思決定に基づいて行われる点で、両者は本質的に異なると言えます。

イ)戦争は合法、犯罪は違法

戦争の本質は究極的には殺人の合法化です。殺人は本来違法ですが、その殺人の違法性を国際的な法的合意で阻却して合法にしてしまうのが戦争と言えます。

もちろん、侵略目的の戦争は国際法的にも違法ですが、侵略であると公言して戦争を始める国はありませんので全ての戦争はたとえ違法な侵略戦争であろうと合法的な自衛戦争です。つまり戦争は合法です。

一方、犯罪は本来違法である行為を、違法に犯す行為です。行為者が合法だと公言しても違法な犯罪であることに変わりません。つまり、あたりまえですが犯罪は違法な行為です。

戦争が合法である一方、犯罪が違法な点で本質的に異なります。

ウ)戦争は回避努力が前提、犯罪は行為者の意思による

戦争は、ある日突然始まるものではなく、まず国際的な紛争が生じ、その紛争解決のための外交交渉が行われ、その外交努力が破綻した後に始まります。外交交渉が纏まれば戦争を回避することができますので、戦争は外交交渉に左右されます。

火星人なら対立する紛争もなく外交交渉なしにある日突然侵略を始めるかもしれませんが、地球上の人類が現代において、組織する国家やそれに準じる勢力が、戦争を起こす原因となる対立関係もなく、紛争解決のための外交交渉もなく突発的に戦争を起こすことは、仮に侵略を目的としたものとしても考えられません。

つまり戦争は、その原因となる対立を解消して戦争を回避する外交努力が前提となっていて、その外交努力が決裂した結果として起きるものと言えます。

一方、犯罪は行為者の意思決定によって引き起こされるものであって、被害者との交渉を前提とするものではありません。

たとえば、空き巣事件の被害者は、泥棒と空き巣回避のための事前交渉をしてその交渉が決裂した翌日に空き巣に入られるわけではありませんし、通り魔事件の被害者も、通り魔と殺傷回避のための事前交渉をしてその交渉が決裂した翌日に交差点で刺されるわけではありません。

もちろん、特殊な事件で事前交渉をはさむ事例がもしかしたらあるかもしれませんが、犯罪が回避努力を前提としたうえで起きるものでないことは変わらないでしょう。

戦争が回避努力を前提としている一方、犯罪が回避努力を前提としていない点で本質的に異なると言えます。

(2)軍隊と警察の本質的な違い

軍隊と警察の本質的な違いもいくつかあると思いますが、たとえば次のような点で異なることを指摘できます。

A)軍隊の目的は防衛、警察の目的は治安維持

軍隊の目的は、国外勢力からの武力攻撃から国土と国民を防衛するところにあります。

一方、警察の目的は、国内の治安維持です。

軍隊の目的が国外勢力からの防衛にある一方、警察の目的が国内の治安維持にある点で本質的に異なります。

B)軍隊の役割は破壊、警察の役割は公共の安全と秩序の維持

先ほど述べたように戦争の本質は究極的には殺人の合法化ですが、その合法化された殺人は破壊行為によって貫徹されますので軍隊の役割は破壊にあると言えます。

一方、警察の目的は治安維持なので、警察の役割は公共の安全と秩序を維持するところにあります。

警察も、治安維持のための殺人(例えば立てこもり犯を射殺するなど)でその違法性が阻却されますが、それはあくまでも公共の安全と秩序の維持ための行為であって役割が合法的な殺人(破壊)にあるのではありません。

軍隊の役割が人命も含めた破壊にある一方、警察の役割が公共の安全と秩序を維持するところにある点で、本質的に異なります。

C)軍隊の実力は無制限、警察の実力は必要最小限

軍隊の行使する実力は軍事力です。軍事力には国際法的な枠組みがありますが(たとえば化学兵器が禁止されるなど)、基本的にその実力に制限はかけられません。

一方、警察の行使する実力は治安維持のために必要な限度に限られます。

軍隊の実力に制限がない一方、警察の実力が治安維持に必要な範囲に制限されている点で本質的に異なります。

D)軍隊が行使するのは物理的破壊力、警察が行使するのは法的強制力

軍隊は、陸海空軍その他の戦力という軍事力を行使してその目的を達成しようとしますから、軍隊が行使するのは陸海空軍その他の戦力となる物理的破壊力(軍事力)と言えます。

一方、警察は、法律に基づく法的強制力によって犯罪を捜査し、犯人を逮捕しますので、警察が行使するのは法律の持つ法的強制力(警察力)と言えます。

この点、警察も犯人の制圧に身体的なコンタクトを用いたり拳銃を使用したりしますので、その腕力や拳銃の物理的な攻撃力を行使しているようにも見えますが、それはあくまでも警察が法律の強制力を行使するために使用する道具の一つであって、警察権力の力の源はあくまでも法的強制力です。

たとえば、違法薬物の密売人を摘発した際に犯人が捜査員に従うのは、違法薬物を取り締まる法律の強制力に抗うことができないからであって、警察官の持つ拳銃の攻撃力に抗えないから手錠に手を差し出すわけではありません。

したがって、軍隊が行使するのが物理的破壊力である一方、警察が行使するのが法律の持つ法的強制力である点で、両者は本質的に異なります。

戦争と犯罪、軍隊と警察をパラレルに論じる意見の検証

以上のように、戦争と犯罪、軍隊と警察では本質的に異なる部分がありますが、これを踏まえたうえで、冒頭に挙げたコメント①②③の具体的にどこがおかしいのか検討してみましょう。

コメント①の検証

まず、冒頭に挙げたコメント①です。コメント①は

国家は外側には軍隊、内側には警察がいないと成り立たない。警察にお前は厄介にならないのか?家の鍵は閉めずに、開けっ放しで誰でも入っていいのか?(※原文ママ)

の部分で軍隊と警察をパラレルに論じています。

もっとも、そもそもこのコメントが付けられた動画は、「自衛戦争をも放棄する日本国憲法の平和主義と9条の思想が、決して日本国憲法固有のものではなく、当時の世界では大西洋憲章など国際的な枠組みにも存在する国際社会で広く認知された思想だった」というようなことを説明したものであって、その思想が「良い」とか「悪い」とか「正しい」とか「正しくない」とか「軍隊を持たなくても国を守れる」とか、そういうことを述べたものではありません。

ですから、そもそもこの動画にこのコメントのような憲法9条の思想が間違っているというような趣旨のコメントを付けること自体トンチンカンなのですが、その頓珍漢な部分はひとまず置いておくとして、このコメントが軍隊と警察を混同して論じている部分の妥当性を検証してみましょう。

a)「国家は外側には軍隊、内側には警察がいないと成り立たない」の部分の検証

この点、まずコメント①前段の

国家は外側には軍隊、内側には警察がいないと成り立たない(※原文ママ)

の部分を検証しますが、そもそも、人が社会契約を結ぶ際に本来的に持っている権限を委譲することによって形成されるものが国民国家という概念であり、その社会契約の際に移譲する権限が行政権・立法権・司法権のいわゆる三権で、これが統治権にあたります。

つまり、その社会契約を結ぶ当事者が統治権を委譲すれば国家は形成されることになるわけです。

もちろん、社会契約を結んだ主権者が軍隊や警察を必要だと考えれば、その主権者から統治権の移譲を受けた国家が軍隊や警察を組織します。しかし、その国家によって組織される軍隊や警察が国家を成り立たせるための要素になるわけではありません。

軍隊や警察があろうとなかろうと、軍隊や警察を主権者が欲しようと欲すまいと国家は成り立ちますので、この「国家は外側には軍隊、内側には警察がいないと成り立たない」との部分は理由がないと言えます。

b)「警察にお前は厄介にならないのか?」の部分

次に、コメント①中段の

警察にお前は厄介にならないのか?(※原文ママ)

の部分を検証します。

この部分は何を言いたいのか判然としませんが、おそらく「おまえは警察に守ってもらわなくてもいいのか?」という意味だと思いますので、「国内で警察に守ってもらう必要があるなら、国外からの攻撃を軍隊に守ってもらう必要があるのはあたりまえ」とか「警察に守ってもらっておきながら軍隊に守ってもらわなくていいと言うのは矛盾している」ということを言いたいのだと思います。

しかし、先ほど説明したように警察と軍隊とでは目的も役割も実力内容もその行使する力の源もすべて異なります。

警察が対処するのが国内の治安を乱す個人または団体であるのに対し、軍隊が対処するのは国外勢力です。また、警察の役割が公共の安全と秩序を維持するところにある一方で、軍隊の役割は破壊です。警察が行使しているのは警察官の持つ有形力(警察官の腕力や拳銃の攻撃力)ではなくて法律の持つ法的強制力ですが、軍隊が行使するのは軍事力なので有形力そのものです。

そしてそもそも、このコメント①は「警察に守ってもらわなくてもいいのか?」と述べていますが、市民を守っているのは本質的には警察官ではなくて法律の持つ強制力です。

たとえば、覚せい剤から市民が守られているのは覚せい剤を違法と位置付けた法律に強制力があるからであって、警察はその法律の持つ強制力を執行している機関の一部に過ぎません。警察官の持つ有形力(腕力や拳銃の攻撃力)そのものが覚せい剤から市民を守っているわけではないのです。

また、国外勢力の武力攻撃から国土や国民の生命財産を守る役割は軍隊だけに委ねられるわけではありません。先ほど説明したように戦争はある日突然始まるものではなく、その国外勢力との間で生じた対立関係を解消するために重ねられる外交交渉が破綻した時にはじめて始められるものだからです。

戦争は、開戦前に当事国間で行われる戦争を回避するための外交交渉が前提となったうえで、その外交努力が破綻した時にはじめて戦争状態となるわけですから、その外交努力こそが国外勢力の武力攻撃から国民を守る最も重要な役割となるのであって、軍隊だけの役割ではないのです。

このコメント①の部分は、防衛が軍隊だけに委ねられていると錯覚し、そこから戦争回避のための外交努力が全く抜け落ちている点でも、全く同意できません。

c)「家の鍵は閉めずに、開けっ放しで誰でも入っていいのか?」の部分の検証

最後にコメント①後段の

家の鍵は閉めずに、開けっ放しで誰でも入っていいのか?(※原文ママ)

の部分を検証します。

この部分はおそらく、憲法9条が軍事力を否定していることで国外勢力からの武力攻撃に無防備になっている点を「(それで)いいのか?」と述べているものと思われますが、先ほどから繰り返しているように、戦争はある日突然始まるものではなく外交努力が破綻した時にはじめて始まります。

国家の防衛手段は軍事力だけではなく、外交努力がもっとも重要となるのですから、それが完全に抜け落ちてしまっている点で、この部分は憲法9条に対する批判として成り立っていません。

また、そもそも憲法の基本原理である平和主義と第9条は、中立的な立場から国際社会と協調して国際紛争を解決するための助言や提言等を積極的に行い世界平和の実現に貢献することの中に日本国民の安全保障を確保することができるという確信に基礎を置いているのであって、決して非武装中立・無抵抗主義を貫くだけで平和が実現できると考えているわけではありません(※この点の詳細は→『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程』『憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由|憲法道程』)。

コメント①のこの部分は、憲法の平和主義と9条が積極的な外交努力を要請しているにもかかわらず、それを全く理解することなく、「開けっ放しで」などとあたかも憲法の平和主義と9条が安全保障を何も考えていないように錯覚している点で、憲法の平和主義と9条に対するまっとうな批判として成り立っていません。

憲法の平和主義と9条を理解しないまま批判しても、それは自分の頭の中で作り出した架空の憲法の平和主義と9条を批判しているだけに過ぎません。それはただのファンタジーです。

コメント②の検証

次に、コメント②を検証します。コメント②は私(当サイト筆者※大浦崑)のコメントをコピペして引用したのに続けて

警察にしろ、軍隊の自衛戦争にしろ、物理的な力に物理的な力で対抗するって本質は変わらない。そもそも暴力に暴力以外でどうやって対応するのかって話をしてんだよ。低能。こういう質問の本質的な内容には答えず、軍隊と警察は組織が違うという阿呆みたいな反論にもならない反論で誤魔化すしかできないんだろうな。9条真理教狂信者は。(※原文ママ)

と述べた部分で、戦争と犯罪を、また警察と軍隊をパラレルに論じています。

a)「物理的な力に物理的な力で対抗する」のが軍隊と警察の本質ではない

まずこのコメント②の前段の

警察にしろ、軍隊の自衛戦争にしろ、物理的な力に物理的な力で対抗するって本質は変わらない(※原文ママ)

の部分を検証しますが、「物理的な力に物理的な力で対抗する」のが警察や軍隊(軍隊の自衛戦争)の本質ではありません。

先ほども説明したように、警察の目的が治安維持でその役割が公共の安全と秩序を維持するところにある一方、軍隊の目的は国外勢力からの武力攻撃から国土と国民を守ることでその役割は国際的な合意によって合法とされる殺人を含む破壊です。また警察権力が行使するのが法律の持つ法的強制力である一方、軍隊が行使するのは軍事力という有形力です。本質的に両者は違うのです。

仮に「物理的な力に物理的な力で対抗する」のが軍隊と警察の本質だとして、その両者をパラレルに論じてよいと言うのであれば、尻相撲や指相撲、あるいは乃木坂工事中でやっていたポカポカドボン(丸太の上にまたがってスポンジの棒で落とし合うゲーム)も「物理的な力に物理的な力で対抗する」ところに本質がありますから、尻相撲や指相撲、ポカポカドボンと戦争をパラレルに論じても良いということになってしまいます。

乃木坂46のまなったんとまいやんが対戦したポカポカドボンと戦争をパラレルに論じることで、いったい憲法9条の議論の何が深まるのでしょうか。私にはわかりません。

b)警察の本質は「暴力(物理的な力)」にあるのではない

次にコメント②中段の

そもそも暴力に暴力以外でどうやって対応するのかって話をしてんだよ。低能。(※原文ママ)

と述べられた部分を検証します。

もっとも、この部分も先ほど言及したコメント①と同じですが、そもそもこのコメントが付けられた動画は「自衛戦争をも放棄する日本国憲法の平和主義と9条の思想が、決して日本国憲法固有のものではなく、当時の世界では大西洋憲章など国際的な枠組みにも存在する国際社会で広く認知された思想だった」というようなことを説明したものであって、「暴力に暴力以外で対応する」とかそれが「良い」とか「悪い」とか、そういうことを述べたものではありません。

ですから、そもそもこのコメント自体が動画のコメントとして的外れなのですが、その的外れな点はひとまず置いておくとして、その妥当性を検証しましょう。

この点、まずこの部分は、警察が犯罪に「暴力で(物理的な力で)」対抗していると考えてしまっているところに事実誤認があります。

先ほども説明したように、警察は法律の持つ法的強制力で犯罪に対抗しているのであって、必ずしも「暴力で(物理的な力で)」対抗しているわけではないからです。

もちろん、犯人側が警察官に暴力を行使してきたときには警察側も暴力(腕力や拳銃の攻撃力)で対抗しますが、警察の本質は暴力(物理的な力)ではなくてあくまでも法律の持つ法的強制力を利用した警察力です。

軍隊の本質は軍事力という暴力(物理的な力)ですが、警察はそうではないのでそれをパラレルに論じる意味が分かりません。

c)憲法の平和主義と9条は「暴力に対抗」するのではなく「そもそも暴力をなくす」思想

また、このコメント②の部分は

暴力に暴力以外でどうやって対応するのかって話(※原文ママ)

と述べていますので、武力を否定した憲法9条において「(他国からの攻撃を受けた場合の)暴力(軍事力)に暴力(軍事力)以外でどうやって対応するのか」と述べているものと思われます。

しかし、この部分は憲法の平和主義と9条の理念を全く理解できていません。

なぜなら、先ほども説明したように、そもそも憲法の基本原理である平和主義と第9条は、中立的な立場から国際社会と協調して国際紛争を解決するための助言や提言等を積極的に行い世界平和の実現に貢献することの中に日本国民の安全保障を確保することができるという確信に基礎を置いているのであって、決して非武装中立・無抵抗主義を貫くだけで平和が実現できると考えているわけではないからです。

憲法の平和主義と9条は国外勢力から攻撃(暴力※軍事力)を受けた場合の反撃力(暴力※軍事力)で国を守ろうと考えるのではなく、積極的な外交努力を重ねることで、そもそも自国に対する攻撃(暴力※軍事力)の起きるのを未然に防ごうという思想なのです(※この点の詳細は→『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程』『憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由|憲法道程』)。

このコメント②の部分は、憲法の平和主義と9条がそもそも「暴力(物理的な力)」を受けないようにすることで安全保障を確保しようとするものであるにもかかわらず、それを全く理解することなく「暴力(物理的な力)」を受けることを前提として論じている点で、憲法の平和主義と9条に対する批判として成立していないと言えます。

また、先ほども説明したように戦争はある日突然始まるものではなく、まず戦争の原因となる対立関係を解消するために戦争回避のための外交努力が行われるものであって、その外交努力が破綻した時にはじめて戦争が行われるわけですから、その外交努力を全く無視して「暴力(物理的な力)」という軍事力が突発的に行使されると考えている点で戦争の本質を全く理解できていません。

その点でも、憲法9条に対する批判として成立していないと考えます。

d)文章読解力の欠落

なお、このコメント②は最後に

こういう質問の本質的な内容には答えず、軍隊と警察は組織が違うという阿呆みたいな反論にもならない反論で誤魔化すしかできないんだろうな。9条真理教狂信者は。(※原文ママ)

と述べていますが、このコメント②がコピペして引用している私(当サイト筆者の大浦崑)のコメント部分に「目的や内容の異なる2つの組織」とあることからも分かるように、私は警察と軍隊の「目的や内容」が本質的に違うと述べています。

つまり私は、軍隊と警察の「組織が本質的に違う」からパラレルに論じるべきではないと言っているのではなくて、軍隊と警察の「目的や内容が本質的に違う」からパラレルに論じるべきではないと言っているわけです。

このコメント②の部分は、私の文章を勝手に読み替えて、自分の頭で考え出した架空の文章を論じてしまっている点で、そもそも的外れと言えます(※ちなみに、このように相手の主張を歪めて引用し、その歪められた架空の主張に反論する論法を「わら人形論法」と言うそうです)。

コメント③の検証

最後に、コメント③を検証します。コメント③は

話し合いで暴力を止められるなら、警察は要らんのじゃwwwwwwwww(※原文ママ)

の部分で、戦争と犯罪を、また軍隊と警察をパラレルに論じています。

しかし、先ほどから何度も繰り返しているように、戦争と犯罪、軍隊と警察は、その本質的な部分で重なり合うところがありません。本質的に異なる2つのものをパラレルに論じることで、いったい憲法の平和主義と9条の議論の何が進展するのか私にはわかりません。

また、このコメント③は「話し合いで暴力を止められるなら」と述べていますが、先ほど説明したように、 憲法の平和主義と9条は国外勢力から攻撃を受けた場合の反撃力で国を守ろうと考えるのではなく、積極的な外交努力を重ねることでそもそも自国に生じる危険を未然に防ごうという思想です(※この点の詳細は→『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由|憲法道程』『憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由|憲法道程』)。

憲法の平和主義と9条は、他国から軍事力を行使された場合に「ちょっと待ってよ、話し合いで解決しましょうよ」という姿勢で自国の安全保障が確保できると考えているわけではなくて、外交努力を重ねることで世界平和の実現に貢献し、そこで得られる国際信頼に基づく話し合いで、そもそも自国に軍事力を行使するような国が現れてしまうような危険が生じてしまうのを未然に防ごうという思想です。

「話し合いで暴力を止めよう」というだけの思想なのではなくて、その「暴力」の種を未然に防ぐことで『そもそも「話し合いで暴力を止め」る必要が生じるような対立を防ぐ』ことによって自国の安全保障を実現しようとしているわけです。

その憲法の平和主義と9条の本質を全く理解できていない点で、このコメント③の部分は憲法の平和主義と9条に対する批判として成立していないと言えます。

戦争と犯罪、軍隊と警察をパラレルに論じてしまう人は、憲法の平和主義と9条の本質を全く理解できていない

以上のように、憲法の平和主義と9条に対して(※正確には憲法の平和主義と9条を尊重する私(当サイト筆者の大浦崑)に対して)、それを批判する意見として戦争と犯罪、軍隊と警察をパラレルに論じてしまう人がいるわけですが、本質的に異なるそれらをパラレルに論じることに価値はないと思います。

戦争や軍隊を論じるために、なぜ本質的に異なる犯罪や警察を持ち出さなければならないのでしょうか。

本質的に異なるAとBを並べて、Bの外見がAの外見と似ている面を取り上げて「BはあたかもAのようだ」と比喩的に例えるならまだしも、Aと本質的に異なるBを持ち出して「BがXだからAもXだ」と組み立てる理屈がなぜ理屈として成立するのか私にはわかりません。

また、こうして振り返ってみると、戦争と犯罪、軍隊と警察をパラレルに論じて憲法9条を批判する人が総じて憲法の基本原理である平和主義と第9条の本質を全く理解できていないことがわかりますが、憲法の平和主義と9条の本質を全く理解できていない状態でそれを批判することに、いったい何の価値があるのか甚だ疑問です。

憲法の平和主義と9条の本質を理解しないまま批判している人たちは、自分の頭で妄想した架空の平和主義と9条を批判しているだけであって、それはただのファンタジーに過ぎません。

憲法の平和主義や9条を批判したいのであれば、憲法の基本書を読むなり憲法学者の話を聞くなりして、憲法を真摯に学ぶのが先ではないかと思うのです。

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