”憲法9条に「攻めてきたら…」は成り立たない”の記事への批判の検証

私が運営している”憲法道程”というサイトに『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由』という記事があるのですが、グーグルのアクセス解析(Google Analytics)を確認したところ、6月14日から15日にかけてこの記事への流入が少し多かったので流入元はどこだろうと少し調べてみました。

すると、どうやらTwitter上で何人かがその記事を添付してツイートしてくれたようで、そこでリンクされたツイートからアクセスして読まれていることが判明したのですが、そうして私の記事を共有してくれたツイートの中の一つに、連投ツイートで私の記事を次のように批判するコメントが付けられているものがありました。

読んでみましたが、極めてお粗末な内容でした。
片っ端から否定できるのですが抜粋します。 そもそも悪意を持って接してくる国に対して外交的解決を図ろうとする場合、パワーバランスがないと攻め込まれないための外交交渉など成り立たないという前提を完全無視されている点、予防的努力が全てでそれが破綻した場合は諦めるしかないとこのよのリスクマネジメントの概念を全否定するような大変おめでたい論理を展開されている点、抑止力を背景に、と対症療法的な国防を定義されている割に安全保障施策の発動が武力攻撃を受けた時点とされている点、結局のところ具体的な説明ができないものに対して説明が不可能と言っているが、説明可能な範囲のレイヤーが全く異なる点について一切説明していないので反論潰しに全く持ってなっていない点、などなど。
軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た平和的外交で解決を行う努力と、その限界が訪れた場合に対する対処が両立しない、させてはならない前提で書かれている時点で悪質なファンタジーです。
こんな文章を論理的に正しい、素晴らしいとお考えだったのですか??お話になりませんね。

頑張って読んだ割にゴミクズだった、時間返してほしい🤬🤬🤬

ちゃんと読んだらスッカスカの駄文だったので雑に反論したらだまっちゃった笑笑
所詮改憲反対論者なんてこんなもん。ファンタジー信じて真っ先に死ぬかと思いきや、いざとなれば他人を盾に差し出そうとするんだろな。だって、攻めてこられたら諦めろ、だよ?話にならんでしょwwwwww

〔すべて原文ママ〕

出典1https://twitter.com/DjPaooon/status/1539245506702249986
出典2https://twitter.com/DjPaooon/status/1539246265632161793
出典3https://twitter.com/DjPaooon/status/1539246952357183489
出典4https://twitter.com/DjPaooon/status/1539248608209682432
出典5https://twitter.com/DjPaooon/status/1539248883083386892
出典6https://twitter.com/DjPaooon/status/1540628534124630016

憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由』の記事(以下、単に『私の記事』という)の中で述べた理屈はそんなに難解なものではないと思うのですが、その理屈を理解できない人が多いのか、この”@DjPaooon”氏がツイートしたものと似たような批判がたびたび寄せられますので、以下、この”@DjPaooon”氏のツイートを例題として、この批判の具体的にどこが間違っているのか検討してみることにいたしましょう。

なお、この”@DjPaooon”氏のツイートは、私の記事について「片っ端から否定できる」として、次の①~⑤の5点を挙げて「悪質なファンタジー」と結論付けていますので、以下それぞれに分けて、この一連のツイートによる批判の具体的にどこが間違っているのか「片っ端から」指摘していきます。

① そもそも悪意を持って接してくる国に対して外交的解決を図ろうとする場合、パワーバランスがないと攻め込まれないための外交交渉など成り立たないという前提を完全無視されている〔原文ママ〕

② 予防的努力が全てでそれが破綻した場合は諦めるしかないとこのよの〔原文ママ〕リスクマネジメントの概念を全否定するような大変おめでたい論理を展開されている

③ 抑止力を背景に、と対症療法的な国防を定義されている割に安全保障施策の発動が武力攻撃を受けた時点とされている〔原文ママ〕

④ 結局のところ具体的な説明ができないものに対して説明が不可能と言っているが、説明可能な範囲のレイヤーが全く異なる点について一切説明していないので反論潰しに全く持ってなっていない〔原文ママ〕

⑤ 軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た平和的外交で解決を行う努力と、その限界が訪れた場合に対する対処が両立しない、させてはならない前提で書かれている

憲法道程『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由』の記事に寄せられた否定的意見の検証

(1)① の批判的意見について

まず、①の部分で、この”@DjPaooon”氏は

そもそも悪意を持って接してくる国に対して外交的解決を図ろうとする場合、パワーバランスがないと攻め込まれないための外交交渉など成り立たない

と主張して私の記事を批判していますので、この点から検討してみますが、この部分は次の「ア」「イ」の2つの点で間違っています。

ア)「悪意を持って接してくる国」が生まれるのを未然に防ぐのが平和主義と第9条

まず、前段の「そもそも悪意を持って接してくる国に対して外交的解決を図ろうとする場合…」との部分ですが、私の記事で何度も繰り返し書いているように、私は現行憲法の平和主義の基本原理と第9条について、積極的な外交努力によってそもそも日本に生じ得る危険を未然に防ぎ、日本が他国から「攻められない国」に、他国が「攻めてこようと思わない国」にすることで、国民の安全保障を実現させようと考えるものと説明しています。

現行憲法の平和主義と9条は、自国を攻めてきた国外勢力に反撃する軍事力によって国民を守ろうとするのではなく、国際協調主義に立脚した積極的な外交努力によってそもそも自国を攻めてくる国外勢力が生まれないようにすることで国民を守ろうとします

出典:憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由

現行憲法の基本原理である平和主義と憲法9条は、諸外国や戦前の日本のような『対症療法的』な視点ではなく、『原因療法的』な視点に立ち、積極的な外交努力を続けることでそもそも日本に生じ得る危険を未然に防ぎ、日本が他国から「攻められない国」に、他国が「攻めてこようと思わない国」にすることで、国民の安全保障を実現させようと考えます。

出典:憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由

つまり私は、憲法の平和主義の基本原理と第9条について、「悪意を持って接してくる国」との間の紛争や対立を外交で解決するものと説明しているのではなく、積極的な外交努力を続けることでそもそもそうした「悪意を持って接してくる国」が生まれてしまうのを未然に防ぐことで自国の国民の安全保障を確保するものと説明しているわけです。

現行憲法の平和主義は、「悪意を持って接してくる国」が生まれてしまってから「ちょっとまってよ、話し合いで解決しましょうよ」などという姿勢で国民の安全保障を確保することは困難だと考えているからこそ、憲法第9条で軍事力を否定して「悪意を持って接してくる国」が生まれてしまわないようにするために、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示を行ったり、紛争解決のための助言や提言であったり貧困解消のための援助など、世界の平和実現に向けた積極的な外交努力を行い続けることを要請しています。

この”@DjPaooon”氏の「そもそも悪意を持って接してくる国に対して外交的解決を図ろうとする場合…」の部分は、そうした憲法の平和主義の基本原理と第9条の要請を全く理解することなく、「悪意を持って接してくる国」が生まれてしまうことを前提としている時点で私の記事の内容を全く理解できていませんから、批判として成り立っておらず失当と言えます。

イ)「パワーバランス」で「外交交渉」を「成り立た」せるのは帝国主義思想

また、この”@DjPaooon”氏は、この①の部分の後段で「パワーバランスがないと攻め込まれないための外交交渉など成り立たない」としていますが、保有する武力(軍事力)を背景にした「パワーバランス」を「外交交渉」に利用することはできません。

その保有する武力(軍事力)を「攻め込まれないための外交交渉」のために用いることは憲法9条1項が禁止した「武力による威嚇」にあたりますが、これは国連憲章第2条4項でも禁止されているからです。

国連憲章 第2条4項

すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

出典:https://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/

また「外交交渉」を「成り立た」せるために、自国が「パワーバランス」のために保持した武力(軍事力)を利用するのは、先の大戦中、中国に対して”対華二十一カ条要求”を突きつけた大日本帝国を模倣するものであって、帝国主義そのものです。

しかし帝国主義は、第一次大戦でドイツ帝国やオーストリア帝国、オスマントルコ帝国やロシア帝国が滅び、第二次大戦で大日本帝国が滅んでいったことから明らかなように、現代社会ではすでに失敗が証明された思想です(※詳細は→「外交には軍事力による裏付けが必要」との憲法9条批判の検証)。

この”@DjPaooon”氏は「…という前提を完全無視されている〔原文ママ※おそらく「完全無視している」の間違い〕」と言いますが、なぜこの21世紀に100年以上前に失敗が証明された帝国主義的発想を「前提」に他国と外交したいのか、私にはわかりません。

「外交には軍事力による裏付け(パワーバランス)が必要だ」と主張する意見はネット上で散見されますが、そろそろ明治大正の帝国主義思想から脱却した方が良いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

なお「外交には軍事力によるパワーバランスが必要だ」との意見については『「外交には軍事力による裏付けが必要」との憲法9条批判の検証』のページで既に詳しく論じていますのでそちらを参照してください。

(2)② の否定的意見について

次に、②の部分で、この”@DjPaooon”氏は

予防的努力が全てでそれが破綻した場合は諦めるしかないとこのよの〔原文ママ〕リスクマネジメントの概念を全否定するような大変おめでたい論理を展開されている

と述べているのでこの点を検討しますが、この部分は次の「カ」「キ」「ク」の3つの点で間違っています。

カ)平和主義と第9条について「予防的努力が全て」とは書いていない

まず、この人は「予防的努力が全て」と、あたかも私が記事の中で憲法の基本原理である平和主義と第9条を「予防的努力しか考えていない」と説明したかの如く批判していますが、これも私の記事を全く理解できていません。私の記事は、憲法の基本原理である平和主義と第9条が考える安全保障施策について「予防的努力が全て」だ、などとどこにも書いていないからです。

おそらくこの人は、私の記事の次の部分などで「日本に生じる危険を未然に防ぎ」とあることから、それを戦争を「予防する」ためのものだと理解してしまったのかもしれませんが、記事にも書いているように、現行憲法の平和主義と第9条は『原因療法的』な視点から、積極的な外交努力で戦争に発展するような危険を未然に除去することを目指すものと説明しています。

戦後の日本は、国外勢力からの攻撃に武力で反撃する軍事力を強化するという従前の『対症療法的』な視点ではなく、中立的な立場から積極的な平和外交で得られる国際信用と平和実現への努力によって日本に生じ得る危険を未然に防ぎ、日本をそもそも「攻められない国」に、日本を「攻めてこようと思われない国」にすることで国を守るという『原因療法的』な視点で国民の安全保障を確立させることを決意し、そのためには軍事力があっては有害無益なので憲法の前文で平和主義の基本原理を宣言し、憲法9条で「戦争をするな!(戦争の放棄)」「軍隊を持つな!(戦力の不保持)」「軍事力を行使するな!(交戦権の否認)」と規定して、国家権力に歯止めを掛けたのです。

出典:憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由

つまり、現行憲法の平和主義と第9条は、そもそも戦争を起こすような国が生まれてしまえば戦争を防ぐことはできないという視点から出発して、単に戦争を「予防」するのではなくて、積極的な外交努力で戦争に発展するような危険を世界から根絶することで、紛争や対立の解決手段として戦争を選択するような国が生まれてしまうのを未然に防ごうと考えるわけです。

もちろん、仮に外交的に対立する国が生じてしまったときにその国から「攻められない」ようにする外交努力によって戦争を「予防」することも求めてもいるわけですが、いったん戦争によって紛争や対立を解消させようと考える国が生まれてしまえば、軍事力のよる抑止力だけでなく、外交交渉によっても戦争を「予防」することは困難です。

そのため憲法の平和主義と第9条は、そうした戦争の「予防」が必要になる事態が生じてしまわないように、そうした戦争の「予防」という視点から一歩進めて、『原因療法的』な視点から、積極的な外交努力でそもそもそうした紛争や対立の「種」になる要素、具体的に列挙するなら憲法前文で述べられた「専制と隷従、圧迫と偏狭」また「恐怖と欠乏」などを世界から除去していくことの中に日本国民の安全保障か確立できるという確信に基礎を置いているのです(※詳細は→「攻められない国にする方法を教えろよ」との憲法9条批判の検証)。

例えが適当かどうかわかりませんが、イメージとしては、病気(国外勢力による侵略)の原因となる病原体(紛争や対立)をマスクや手洗い(抑止力)で防ぐことで病気(侵略)を「予防」しようという視点でも、その病原体によって引き起こされる病気を薬や手術(軍事力/戦争)で治そうという視点でもなくて、その病原体(紛争や対立)が発生してしまう原因となるような自然破壊や公害など(「専制と隷従、圧迫と偏狭」また「恐怖と欠乏」など※憲法前文参照)をなくす努力に積極的に尽力することで(積極的な外交努力に尽力することで)、世界からその病原体(紛争や対立)を原因とした病気(侵略)をなくしていこうと考えるのが、憲法の平和主義と第9条なのです。

この点の違いが理解できないから「予防的努力が全てで…」などとトンチンカンな批判に繋がってしまうのはないでしょうか。

キ)平和主義と9条は「リスクマネジメントの概念を全否定」していない

次に、②の部分でこの人は「リスクマネジメントの概念を全否定する」とも述べていますので、この点を検討します

この点、おそらくこの”@DjPaooon”氏は、私の記事が次のような表やイメージ図を掲載して、憲法の平和主義と第9条が「他国が攻めてくる前(戦争が始まる前)」に安全保障のための人的・経済的資源を集中させる一方、「他国が攻めてきた後(戦争が始まった後)」には安全保障のための人的・経済的資源をまったく配置していないことから、「他国が攻めてきた後(戦争が始まった後)」のリスクマネジメントができていないではないか、ということを言いたいのだと思いますが、これも私の記事を全く理解できていません。

安全保障の内容諸外国・戦前の日本日本国憲法の平和主義と9条
施策の視点・対症療法的・原因療法的
施策の目的・戦争に勝つ・戦争を未然に防ぐ
施策の方針・攻め返せる国にする・攻められない国にする
施策の手段・陸海空軍その他の戦力・紛争解決提言/平和実現努力
施策の内容・反撃/先制攻撃/侵略・国際協調/信頼構築/対立解消
人的/経済的資源・軍事力に集中させる・外交努力に集中させる
施策の時間的重心・他国が攻めてきた後・他国が攻めてくる前
破綻の認定・戦争に(事実上)負けた時・戦争が(事実上)始まった時
破綻した時の対処法・ない(相手国の方針による)・ない(相手国の方針による)
破綻した後の選択・降伏または個人の武装蜂起・降伏または個人の武装蜂起
※「諸外国および戦前の日本」と「日本国憲法の平和主義と9条」における国家の安全保障施策の対比|大浦崑「憲法道程」

なぜなら、憲法の平和主義と第9条は、武力(軍事力)を中心として安全保障を考える立場とは、その「リスクマネジメント」の考え方自体が異なるからです。

私の記事は、憲法の平和主義と第9条が考える安全保障の立場を『原因療法的』な視点と、軍事力を用いる諸外国や戦前の日本が考える安全保障の立場を『対症療法的』な視点と呼んで論じていますので、ここでもそれに倣うことにしますが、『対症療法的』な視点で安全保障を考える立場では、「戦争」を「リスク」ととらえて、その「戦争」に勝つ(マネジメント)、あるいは負けない(マネジメント)ために「軍事力」に安全保障のための人的・経済的資源を集中させます。

一方、憲法の平和主義と第9条のように『原因療法的』な視点で安全保障を考える立場では、「戦争」ではなく「戦争」が起きてしまう原因となる外交上の「紛争や対立」を「リスク」ととらえて、その「紛争や対立」が生じてしまう危険を未然に防ぐ(マネジメント)ために、「積極的な外交努力」に安全保障のための人的・経済的資源を集中させます。

つまり、この”@DjPaooon”氏は「リスクマネジメント」と言いますが、『対症療法的』な視点と『原因療法的』な視点とでは、その安全保障における「リスク」と「マネジメント」の視点が異なるだけで、『原因療法的』な視点で国民の安全保障を考える立場でも「リスクマネジメント」はしているわけです。

ではなぜ、『原因療法的』な視点で国民の安全保障を考える憲法の平和主義の基本原理と第9条の立場では、「戦争」そのものではなく戦争に繋がってしまうような「紛争や対立」を「リスク」ととらえて、そこに「マネジメント」しようとするかというと、それはいったん「戦争」になってしまえば、国民を守ることができないことが先の戦争で証明されたからです。

これも私の記事で繰り返し指摘していますが、先の戦争で日本は軍事力では日本にはるかに劣る中国との戦争(日中戦争)すら終結させることができなかったばかりか、ソ連にはノモンハンでコテンパンに蹂躙されたうえ、アメリカには原爆を2発も落とされて負けてしまっています。つまり先の敗戦によって「戦争」をリスクとしてとらえてマネジメントする『対症療法的』な安全保障施策というものが全く機能しないことは明らかにされているのです。

この点は『日本が軍隊で国民を守れない(戦争に勝てない)7つの理由』のページで既に論じているので詳しくはそちらに譲りますが、アメリや中国など、資源も人口も経済力も他国を圧倒的に凌駕する(あるいは他国を凌駕できる潜在的な要素を持っている)国であれば『対症療法的』な視点に立って軍事力で国民の安全保障を確保することも可能かもしれませんが、日本のように資源も人口も経済力も他国を凌駕できる要素も持たない国が、軍事力で国民を守るなどファンタジーなのです。

これは今起きているロシアのウクライナ侵攻を見ても明らかです。ウクライナは日本国憲法の平和主義や第9条とは真逆の発想で国力に応じた軍事力を整備し、NATOとは1994年の早い段階から協力関係を築いていただけでなく、今回の戦争でもNATO諸国から大量の兵器の無償提供を受けることで事実上の集団的自衛権の利益を得ているにもかかわらず、国土はロシアに侵略されて戦禍に巻き込まれ、膨大な数の国民が戦闘であるいは戦闘外で殺害されています(※詳細は→ウクライナはロシアに侵攻されたから憲法9条は改正すべき…なのか)。

つまり、『対症療法的』な視点の安全保障施策は、アメリカや中国など他国と比較して強大な国力を持つ国で機能する余地があっても、そうした超大国に国力で及ばない他の国では機能しないのです。

だからこそ戦後の日本は、そうした『対症療法的』な視点ではなく、『原因療法的』な視点から、安全保障の「リスク」を「戦争」そのものではなく戦争に発展してしまうような「紛争や対立」ととらえ、その「紛争や対立」を未然に防ぐための外交努力に安全保障のための人的・経済的資源を集中させようと考えているのです。

この違いが理解できないから、この人のように「リスクマネジメントの概念を全否定する」などとトンチンカンな批判に繋がってしまうのです。

ク)安全保障施策が「破綻した場合」の対処法は存在しない

また、この人は②の部分で「破綻した場合は諦めるしかない」とも述べていますのでその点も検討しますが、これも私の記事を理解できていません。

なぜなら、私の記事でも散々述べているように、国の安全保障施策が「破綻」したときには、「諦める」以前の問題として、そもそもその対処法自体が存在しないからです。

憲法の平和主義と第9条は『原因療法的』な視点で国民の安全保障を考える立場であって、この立場では戦争が始まる「前」の外交努力に安全保障のための人的・経済的資源を集中させることが国民の安全保障施策となりますから、この視点に立てば仮に他国が「攻めてきた」としたらそれは「安全保証施策が破綻した」ということになりますので、もはや国家に取りうる手段はありません。「安全保障施策が破綻」したのであれば、もはや「国家として」やれることはないからです。

一方、諸外国や戦前の日本のように『対症療法的』な視点で国民の安全保障を考える立場は戦争が始まった「後」の戦争に使う軍事力のために安全保障のための人的資源と経済的資源を集中させることが安全保証施策となりますから、この視点に立てば他国が「攻めてきた」うえで戦争してその「戦争に負けたとき」が「安全保証施策が破綻した」ということになりますが、「戦争に負けたとき」にも国家に取りうる手段はありません。戦争に負けて「安全保障施策が破綻」したのであれば、もはや「国家として」やれることはないからです。

「国家の安全保証施策が破綻したとき」の対処法は、国民の安全保障施策について『対症療法的』な視点に立つ場合でも『原因療法的』な視点に立つ場合でも、いかなる立場でも答えられないのですから、「諦める」という以前に、そもそもその答えは存在しないのです。

仮に『対症療法的』な視点から『原因療法的』な視点に対して「外交努力が破綻したときは諦めるしかないではないか」との批判が成り立つと言うのであれば、『原因療法的』な視点から『対症療法的』な視点に対しても「戦争に負けたときには諦めるしかないではないか」との批判も成り立たなければなりませんから、この人のように『対症療法的』な視点に立ちながら憲法の平和主義と第9条に対して「外交努力が破綻したしたときは諦めるしかないではないか」と批判する人は、「戦争に負けたときに諦めないで軍事力で国民を守る方法」を答えなければなりません。

しかし「戦争に負けたとき」には、軍事力による安全保障は破綻してしまっているわけですから、もはや取りうる手段はありません。戦勝国にすべてを委ねないといけないわけですから、それに対する答えは存在しないのです。

このロジックは私の記事でも散々繰り返し説明したはずですが、この人は全く理解できていないのでしょう。

(3)③ の批判的意見について

次に、この”@DjPaooon”氏は③の部分で

抑止力を背景に、と対症療法的な国防を定義されている割に安全保障施策の発動が武力攻撃を受けた時点とされている〔原文ママ〕

と批判していますので、この部分を検討します。

この点、正直言ってこの部分は何を言いたいのかよくわかりません。おそらく書いた本人も何を言いたいのかわかっていないのではないでしょうか。

もしかしたら、先ほど挙げたイメージ図の中の『対症療法的』な視点のイメージで、安全保証施策の発動時期が「他国が攻めてきた時」としているにもかかわらず、その「前」の段階に「抑止力」の赤色部分があることから、『対症療法的』な視点に立つ場合でも「抑止力」を『原因療法的』な視点として使っているではないか、ということを言いたいのかもしれませんが、イメージ図の横軸は「時間」なので、軍事力によって生じる「抑止力」を、ただ単に戦争が始まる「前」の段階に配置しただけに過ぎません。

軍事力によって生じる「抑止力」を外交交渉に使うなら先ほどの(1)の部分で説明したように国連憲章違反となりますので、戦争が始まる「前」に配置した「抑止力」は、その下に置いた「対立時の外交」に重なってそれを助けるというイメージではありません。

『対症療法的』な視点に立って安全保障を考える立場ではその「抑止力」は国防に機能すると考えるので、戦争が始まる「前」の段階で、戦争を抑止する「期待が生まれる」というイメージです。

(4)④ の批判的意見について

次に、この”@DjPaooon”氏は④の部分で

結局のところ具体的な説明ができないものに対して説明が不可能と言っているが、説明可能な範囲のレイヤーが全く異なる点について一切説明していないので反論潰しに全く持ってなっていない〔原文ママ〕

と述べているので、この部分を検討します。

この点、この部分も何を言いたいのかさっぱりわかりません。「レイヤー」とは「階層」とか「積み重ね」とかの意味になるそうなので(※参考→レイヤーとは – コトバンク)、この部分は「説明可能な階層が全く異なる点について一切説明していない」とか「説明可能な積み重ねが全く異なる点について一切説明していない」という文章になりますが、いったい何を説明すればよいのか意味不明です。

もしかしたら、この人は私が記事で繰り返し書いている

憲法の平和主義と9条に対する『侵略されてもいいのか?』『他国が攻めてきたらどうするんだ!』との批判は、「国の安全保障施策が破綻した時の対処法」を問うものであり、それは国の安全保障において『対症療法的』な視点に立って軍事力で国を守る立場であっても答えることのできない質問ですから、その批判自体が論理的に成立しておらず、批判として成り立っていません。

出典:憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由

というロジックが理解できていないのかもしれませんが、その記事は14000字を越える字数を費やしています。

ロジックとしては、

 憲法の平和主義と第9条は「そもそも攻められない」ようにすることで国民の安全保障を確保しようと考えるので、この立場に「攻めてきたらどうする」と問う批判は「国の安全保証施策が破綻したときの対処法」を問うものとなるが、「国の安全保証施策が破綻したときの対処法」はたとえ軍事力によって国を守ると考える立場でも答えられない。なぜなら安全保証施策が「破綻」している以上、その対処法は論理的に成立しえないからだ。
 仮にその立場に「攻めてきたらどうする」と「国の安全保証施策が破綻したときの対処法」を問う批判が成り立つというのであれば、軍事力で国を守る立場では戦争に負けたときに安全保証施策が破綻したことになるので「国の安全保証施策が破綻したときの対処法」すなわち「戦争に負けたときの対処法」を答えなければならなくなる。しかしもちろん「戦争に負けたとき」にはもはや降伏するしかなくその対処法は存在しないので、それには答えることができない。
 「国の安全保証施策が破綻したときの対処法」はいずれの立場に立って安全保障を考える場合でも存在しないのだから、憲法の平和主義と第9条に対する「攻めてきたらどうする」という批判は成り立たっていないのだ。

というごく簡単なものなのですが、世の中にはこの簡単な理屈が理解できない人がいるのでしょう。

14000字を越える字数を費やして説明したロジックを理解できない人に理解させる文章力は私にはありませんので、私の記事を読んでそのロジックを理解できない人には永遠に伝わらないことなのかもしれなせん。

(5)⑤ の批判的意見について

次に、この”@DjPaooon”氏は⑤の部分で

軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た平和的外交で解決を行う努力と、その限界が訪れた場合に対する対処が両立しない、させてはならない前提で書かれている〔原文ママ〕

と述べていますので、この部分を検討しますがこの部分は次の「サ」「シ」および「ス」の3点で間違っています。

サ)「軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た…外交」は平和的外交ではない

まず、⑤の前半部分の「軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た平和的外交で解決を行う努力」という部分を検討しますが、冒頭から間違っています。

「軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た…外交」は、軍事力を背景にした「威嚇」あるいは「脅し」に他ならず「平和的外交」ではないからです。

この”@DjPaooon”氏は、武力(軍事力)を背景にした外交を「平和的外交」と考えているのかもしれませんが、第一次世界大戦前の帝国主義全盛時代ならいざ知らず、今の国際社会でそれを「平和的外交」と認めてくれる国はないでしょう。

また、(1)でも述べたように、仮に「外交」が「軍事力、それが持つ抑止力に助けを得た」とすれば、それは国連憲章が禁止する「武力による威嚇」を外交交渉に持ち込んだことになるので国際法違反です。

軍事力から派生する抑止力を「外交」に及ぼして外交交渉を有利に進めようと考えるのは、「武力による威嚇」に他ならず、先の大戦における大日本帝国のやり方そのものなのですから、こうした主張をする人は、まずその間違いに気づく必要があります。

仮に軍事力によって安全保障を考える立場であっても、その保有した軍事力によって生まれる抑止力からは自国に敵対する他国が紛争解決のための手段として戦争の選択肢を選ぶ確率を下げる利益のみを享受すべきであって、「外交」を「助け」るための脅しに使ってはならないのです。

シ)「通常の外交」と「憲法の平和主義と9条が要請する外交」は同じではない

次に、⑤の後半部分の「その限界が訪れた場合に対する対処が両立しない、させてはならない前提で書かれている」の部分を検討します。

この点、「その限界」は「外交の限界」を示しているのでしょうから、この部分はおそらく、憲法の平和主義と第9条が戦争回避の外交努力が破綻した場合に対処するための軍事力を否定して、戦争が起きてしまう前の外交努力に安全保障のための人的・経済的資源を集中させていると私が説明していることから、その安全保障のための人的・経済的資源を軍事力と外交努力の双方に割り当てる選択を排除している点を「両立させてはならない前提」と言っているのだろうと思います。

つまり、軍事力で国を守る立場であっても「外交努力」と「軍事力」の双方に人的資源と経済的資源を割り当てれば「外交努力」が破綻した場合に「軍事力」で対処することができるのだから、安全保障のための人的・経済的資源を「外交努力だけ」に集中させようとする憲法の平和主義と9条は(お前の説明は)おかしい、あるいは軍事力で安全保障を考える立場では安全保障のための人的・経済的資源を「軍事力だけ」に集中させると考えるのは(お前の説明は)おかしい、と言っているのでしょう。

しかしこの点も、私の記事を全く理解できていません。なぜなら、日本国憲法の平和主義の基本原理と第9条は、軍事力を用いない方法で国民の安全保障を確保しようと考える立場だからです。

この点、『「攻められない国にする方法を教えろよ」との憲法9条批判の検証』のページでも論じたように、諸外国や戦前の日本のように軍事力で安全保障を考える立場であっても戦争を回避するための外交努力は行いますから、安全保障施策として軍事力と外交努力の両方を両立させることは可能です。

たとえば、戦前の日本も日中戦争の発端となった盧溝橋事件や満州事変の前から中国側とは戦争回避のための外交交渉をしていましたし、真珠湾攻撃の前の段階でもアメリカとワシントンで交渉を継続していますから、軍事力で安全保障を考える立場であっても「外交努力」と「軍事力」の双方を両立させて、安全保障を確保する道はあると言えるでしょう。

しかし、憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請している「外交努力」は、そうした諸外国や戦前の日本がやっていたような「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」ではありません。

憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請しているのは、従前であれば軍事力に充てていた安全保障のための人的・経済的資源の全てを、世界から戦争の原因となる紛争や貧困などをなくすための紛争解決援助や援助などに使うことで世界平和の実現に貢献するための「外交努力」だからです。

この点も私の記事で再三説明していますが、憲法の平和主義の基本原理と第9条は、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示を行ったり、紛争解決のための助言や提言であったり、貧困解消のための援助など外交努力を積極的に行い、世界の平和実現に向けた努力を行い続けることの中に日本国民の平和と安全保障の確立が実現できると考えていますから、そうした世界の平和を実現するための外交努力を要請しています。

ですがそうした外交努力は、軍事力を用いる従前の『対症療法的』な視点に立って安全保障を確保する立場は取れません。軍事力の保有には莫大な人的資源と経済的資源を必要としますし、武力(軍事力)で国際紛争を解決しようと考える国が諸外国と信頼関係を築くことは困難だからです。

そのため現行憲法の平和主義の基本原理と第9条は、国家権力に対して武力の保持とその行使に歯止めを掛けることで、安全保障のための人的・経済的資源の全てを軍事力ではなく憲法の平和主義の基本原理が要請する世界平和の実現に向けた外交努力に尽力することを求めました。

これが憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する「外交努力」なのです。

そうであれば、この”@DjPaooon”氏の考えるように、軍事力で安全保障を考える立場において、「軍事力」と「外交努力」を両立させることはできません。

そこで言う「外交努力」は先ほど説明した「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」ではなく「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」になるからです。

軍事力で安全保障を考える立場から「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」をするというのであれば、当然それは軍事力を使ってはならず、軍事力に充てていた安全保障のための人的・経済的資源の全てを「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」に充てなければなりませんので、軍事力は持てません。

軍事力を持ちながら「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」をすることで戦争回避を試みる手段は両立できますが、軍事力を持ちながら「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」をすることで戦争回避を試みる手段を両立させることはできないのです。

この「外交」の違いが理解できていないから、この”@DjPaooon”氏のように「その限界が訪れた場合に対する対処が両立しない、させてはならない前提で書かれている」などというトンチンカンな批判にたどり着いてしまうのです。

こう説明してもこの”@DjPaooon”氏のような批判をする人は理解できないでしょうから、もう少し具体的に説明しましょう。私の記事では、国の安全保障予算を「1兆円」と例示して説明しましたが、それでは理解できないようなので、ここでは実際の国の予算で説明していくことにします。

昨今の日本における防衛予算はおよそ5兆円を超える程度(※2022年度の防衛予算は6兆円を超えると報道されています)、外務省の予算は外務省が公開している資料では6,900億円となっていますので(令和4年度予算の概要|外務省)およそ7千億円と考えてください。

これを先ほど挙げたイメージ図にこれを当てはめるとすると、緑色の丸と文字で表示した「平時の外交」の部分と、黄色の丸と文字で表示した「対立時の外交」の部分で使う人的・経済的予算がこの外務省の予算として計上されている7千億円ということになります。つまり、大使館職員の給与や大使館の経費あるいは外交上の経費としてこの7千億円を使うわけです。

一方、防衛費は赤色の丸と文字で表示した「安全保障のための人的・経済的資源」となりますので、”『対症療法的』な視点で考える安全保障”の部分の赤色の丸と文字で表示した「安全保障のための人的・経済的資源」の部分の予算が5兆円です。

※なお、憲法の平和主義の基本原理と第9条は”『原因療法的』な視点で考える安全保障”の立場ですから、本来であればこの5兆円は下のイメージ図の下段の”『原因療法的』な視点で考える安全保障”の部分の赤色の丸と文字で表示した「安全保障のための人的・経済的資源」の部分にあたることになるはずですが、戦後の日本政府は憲法の平和主義の基本原理と9条を真摯に実践することなく憲法が本来的に予定していない自衛隊という事実上の軍隊と日米安保条約という事実上の軍事同盟という軍事力によってもっぱら『対症療法的』な視点で安全保障を確保しようとしてきましたので(※この点の詳細は→「日本が平和だったのは憲法9条があったから」なのか?)、戦後の日本は実際には『対症療法的』な視点で安全保障を考えてきたことになる点に注意してください。

この点、『原因療法的』な視点で国民の安全保障を考える立場では、通常の外交予算の7千億円とは別に、安全保障のための人的・経済的資源となる5兆円を他国が攻めて来る「前」の”安全保障のための”外交予算として割り当てることになりますので、大使館職員の給与や経費あるいは外交上の経費となる通常の外交予算の7千億円とは別に、5兆円分の人的資源と経済的資源を「外交」に充てることが可能です。

『原因療法的』な視点で国民の安全保障を考える立場では、この5兆円を利用して憲法の基本原理である平和主義が要請した「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」に尽力することができますので、その5兆円の予算を使う外交努力によって日本を「攻められない国」にしようと試みるわけです。

もちろん、その外交は先ほど説明したように「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」ではなく「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」です。

具体的にそれがどのようになるか、たとえば今ある自衛隊の兵器を廃止してショベルカーや給水車などを整備し災害派遣など他国の災害復旧に派遣する”災害派遣隊”に改組したり、医療従事者を養成して”医療援助隊”を組織したり、あるいは農工業の技術支援を中心とした”産業援助隊”を派遣して経済発展に貢献するなど、今ある自衛隊を非武力の組織に変えて人道支援を行ったり、またそうした組織以外で他国の貧困解消や経済発展、紛争や対立の解消に寄与したり、その施策の具体的な内容はわかりませんが、そうした予算に5兆円を充てて、憲法前文が列挙した「専制と隷従、圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏」を根絶する努力によって世界平和の実現に貢献することで、日本を「他国が攻めてこようと思わない国」にするのが憲法の平和主義の基本原理と第9条が考える安全保障であって、これが先ほどから繰り返している「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」となります。

一方、『対症療法的』な立場で安全保障を考える立場では、安全保障のための人的・経済的資源となる5兆円は他国が攻めて来た「後」の「戦争時」に使うための赤色で表示した軍事力の部分に集中させなければなりませんから、「攻められない」ための外交努力、すなわち「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」は緑色の丸と文字で表示した「平時の外交」の部分と、黄色の丸と文字で表示した「対立時の外交」の部分に割り当てられる7千億円の範囲でしか行うことができません。

『対症療法的』な視点で国民の安全保障を考える立場では、外交に使える予算は通常の外交予算となる7,000億円しかありませんので、その範囲で賄われる人的資源と経済的資源の範囲でしか、他国が攻めて来る「前」の「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」に割り当てることができないからです。

戦前の日本でもそうだったように、仮に『対症療法的』な視点に立って軍事力で安全保障を確保する立場でも、他国が攻めてこないようにするための外交努力はしますから、国の安全保障予算の5兆円の全てを軍事力に割り当てる場合であっても外交努力をしないわけではありませんが(詳細は→「攻められない国にする方法を教えろよ」との憲法9条批判の検証)、それはあくまでも諸外国や戦前の日本がやっていたような「自国が戦争を回避するためだけの外交努力」(※上記のイメージ図の上では緑色で表示した「通常の外交」と黄色で表示した「対立時の外交」の部分で行われる外交)であって、憲法の平和主義の基本原理と第9条が予定している「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」(※上記のイメージ図では緑色で表示した「通常の外交」と黄色で表示した「対立時の外交」の上に配置した赤色で表示した「外交努力」の部分で行われる外交)ではないのです。

ここで述べている「憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請する外交努力」は、あくまでも安全保障のための人的・経済的資源を原資とした外交であって、諸外国や戦前の日本であれば軍事力(軍事費)に充てていた予算の全てを、軍事力ではなく憲法の平和主義の基本原理と第9条が要請しているような世界平和の実現のために充てることでおこなわれる外交ですから、その違いを理解する必要があります。

この点、もしかしたらこの”@DjPaooon”氏は、仮に『対症療法的』な視点に立って軍事力で国民を守る立場でも、安全保障のための人的・経済的資源の一部を「外交努力」に振り向けることは可能だと考えているのかもしれません。

たとえば、安全保障のための人的・経済的資源が5兆円分あるとしても、そのうち2.5兆円を「外交努力」に割り当てて、残りの2.5兆円をその外交努力が破綻したときの対処法となる軍事力に割り当てるなど、軍事力を充実させながら外交で国民の安全保障を図るという手段を執るべきだという考えです。

しかし、そうなると「外交努力」に投入する資源も、軍事力に投入する資源も、どちらもそれを一方に集中させる場合の半分しか投入できなくなるわけですから、「外交努力」に5兆円のすべてを集中させる憲法の平和主義の基本原理と第9条の立場より戦争を回避できる確率は低くなってしまいますし、軍事力に5兆円のすべてを集中させる諸外国や戦前の日本のような立場より戦争で勝つ確率は低くなってしまいます。

それは、いわゆる「戦力の逐次投入」という古来から忌避されてきた愚策を選択することになるので、いずれの安全保障施策も中途半端に終わってしまうことになるわけです。

おそらくこの”@DjPaooon”氏は、「『対症療法的』な視点でも外交努力はするのだ」と考えていて、それ自体は間違いではありませんが、国の人的資源と経済的資源は有限なものであって無限に湧いて出てくるものではないのですから、安全保障のための人的・経済的資源に割ける予算が5兆円しかないのであれば、『対症療法的』な視点に立ってその5兆円を軍事力に充てながら、戦争が起きる「前」の「外交努力」のためにさらにその5兆円を使うことはできないのです。

この”@DjPaooon”氏は、戦争が始まった「後」の軍事力に安全保障のための人的・経済的資源を割り当てたうえで、なおかつ戦争が始まる「前」の「外交努力」にも安全保障のための人的・経済的資源を充てることで「外交努力」が破綻した場合に軍事力をもってリスクマネジメントすべきだという意見なのでしょうが、それは国の安全保障のための人的・経済的資源が無限に湧いて出てくるという「お花畑思想」「ユートピア思想」を安全保障に持ち込んでいるか、あるいは「戦力の逐次投入」に他ならない愚策を安全保障に持ち込んでいることになるので、明らかに失当と言えるのです。

ス)軍事力で国民を守るという考えこそ「悪質なファンタジー」

なお、この”@DjPaooon”氏は、⑤の部分のあとに

…時点で悪質なファンタジー

と述べていますので、軍事力と外交努力を両立させることなく外交努力だけで戦争回避を試みる憲法の平和主義の基本原理と第9条を「悪質なファンタジー」だと考えていることがわかりますが、そうするとこの”@DjPaooon”氏は、軍事力と外交努力を両立させることで国民を守ることが現実にできると考えていることになります。

では、この”@DjPaooon”氏がいったい何から軍事力と外交努力によって国民を守ることができると考えているかが問題となるわけですが、この”@DjPaooon”氏は過去に次のようなツイートをしています(※参考→https://twitter.com/DjPaooon/status/1534410694736588800)。

出典:https://twitter.com/DjPaooon/status/1534410694736588800

この点、常識的に考えれば、このツイートで言う「今まさに侵略戦争を起こしている国」はロシアのことで、「尖閣にちょっかい出しにくる国」は中国で、「ミサイル撃ちまくりの独裁国家」は北朝鮮の事を指しているのでしょうから、このツイートからは、この”@DjPaooon”氏が、ロシアや中国や北朝鮮の武力攻撃から軍事力で国民を守ることができるのだと考えていることがわかります。

つまり、この”@DjPaooon”氏は、ロシアや中国や北朝鮮から武力攻撃があることを念頭に置いたうえで、憲法の平和主義の基本原理と第9条のように軍事力を否定して外交努力と軍事力を両立させずに外交努力だけで紛争を未然に防ぐべきだと考える立場を「悪質なファンタジー」と嘲笑し、軍事力と外交努力を両立させて国民を守る考えこそが「良質なリアリズム」だと考えているわけです。

しかし、常識的に考えて、この”@DjPaooon”氏の考えこそ「ファンタジー」です。なぜなら、仮にこの”@DjPaooon”氏が仮想敵国と考えているロシアや中国、北朝鮮からの武力攻撃があるとすれば、日本が軍事力で国民を守ることなど不可能だからです。

考えてもみてください。たとえば、この”@DjPaooon”氏が言うようにロシアが「攻めてきた」とした場合、おそらく戦場は北海道の近海あたりになるでしょう。

では仮に日本が憲法を改正して軍隊で国民を守るとして、その軍隊を北海道方面に集中できるかというとそれはできません。なぜなら、仮にこの”@DjPaooon”氏の言うことが正しいなら、中国や北朝鮮も「攻めてくる」可能性があるからです。

この”@DjPaooon”氏の「攻めてくる」というのが正しいなら、尖閣諸島や日本海側にも兵力を展開しておかなければなりませんから、北海道方面に展開できるのはせいぜい全兵力の半分程度でしょう。

一方、ロシアは極東にほとんどの兵力を集中できます。なぜなら、仮にNATO諸国の軍隊がロシアとの国境を越えてしまえばパリやロンドンに核ミサイルを撃ち込む正当な理由をロシアに与えることになるためNATOが欧州側からロシアに「攻めてくる(侵略してくる)」ことは常識的に考えてありえないからです。

ロシアは背後を気にせずに極東に兵を集中できますから、ほとんどの兵力を北海道方面に展開させて日本を叩きに来るでしょう。

つまり、この”@DjPaooon”氏の「攻めてくる」が正しいとすれば、日本は少なくともロシアと中国と北朝鮮の全てに同時に対処できる程度の兵力を常備しておかないと、ロシアと対等に戦争ができないわけです。

これは中国と戦争になった場合も同じです。

仮に中国と戦争になったとすれば、その戦場は尖閣諸島や沖縄周辺になると思われますが、この”@DjPaooon”氏の言う「攻めてくる」が正しいのならロシアや北朝鮮も「攻めてくる」危険があるということになりますので、日本海側や北海道方面にも兵力を配置しておかなければなりません。そうなれば中国の攻撃に対抗できる兵力は実質的に全兵力の半数程度です。

一方、先ほど述べたように日本が中国と戦争になったとしても欧州諸国やアメリカが中国に「攻めてくる(侵略してくる)」可能性は常識的に考えてありませんから、中国はそのほとんどの兵力を尖閣諸島や沖縄周辺に集中できるでしょう。

中国と敵対するインドあたりが小競り合いを起こすことはあるかもしれませんが、核戦争の懸念がありますので本気で攻め込むことは、まずあり得ません。

そうなると、中国と戦争になった場合にも日本は全兵力の半分の兵力で中国と対峙しなければなりませんので、中国と互角に戦おうとするだけでも、少なくともロシアと中国と北朝鮮の全てに同時に対処できる程度の膨大な兵力を常備しておかなければならなくなってしまいます。

北朝鮮と戦争になった場合も同じです。仮にこの”@DjPaooon”氏の言う「攻めてくる」が正しいのであれば、ロシアや中国も「攻めてくる」危険があるということになりますので、北海道方面や沖縄方面にもロシアや中国に対処できる兵力を残しておかなければなりません。

そうであれば、ロシアと中国の全兵力と同等の兵力を残しておかなければならないということになってしまいますから、ロシアと中国を合計した兵力をはるかに上回る膨大な兵力を常備しておかなければならないということになってしまいます。

もちろんこれは、あくまでも机上の空論なので実際にそれだけの兵力が必要になるかはわかりません。しかし、少なくともロシアや中国が日本への攻撃にほとんど全兵力を集中できるという”地の利”がある反面、日本は全兵力を一方に集中させて防衛できない点で地理的に圧倒的に不利な状態にあるわけです。

しかし、少し考えてみればわかりますが、日本がロシアと中国と北朝鮮が保有するすべての軍事力を凌駕するような軍事力を持つことなど不可能です。そもそもこれから少子化に向かう日本が、人口も経済力も圧倒的に日本を上回る中国に国力で対抗できるわけがないのです。

中国一国との間ですら対等な国力で均衡することができないのに、ロシアと北朝鮮を合わせた軍事力を圧倒できる軍事力を維持できるわけがないのは子どもでもわかります。

それにもかかわらず、この”@DjPaooon”氏は、それでも日本がこれらの国を軍事力で圧倒できると妄信しているのですから、それを「ファンタジー」と言わずにいったい何を「ファンタジー」と言えるでしょうか。

外交努力と軍事力で国を守るのだと考える人はこの”@DjPaooon”に限らず少なくありませんが、『日本が軍隊で国民を守れない(戦争に勝てない)7つの理由』の記事でも論じたように、日本が軍事力で国民の安全保障を確保することが不可能なのは、歴史的・経済的・財政的・地理的いずれの側面から考えてもすでに明らかです。

この”@DjPaooon”氏に限らず、軍事力で国民の安全保障を確保すべきだと考える人たちは、そろそろ「ファンタジー」に浸る「お花畑的発想」を止めて、現実を見据えた安全保障を考えてみてはいかがでしょうか。

(6)”@DjPaooon”氏の①②③④⑤は全て批判・反論になっていない

以上で説明してきたように、この”@DjPaooon”氏は私が運営している”憲法道程”というサイトに掲載した『憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由』という記事を「片っ端から否定できる」「極めてお粗末」「ゴミクズ」などと批判していますが、その批判は(1)から(5)で指摘してきたように、全て理由がなく読解力不足で私の記事を歪曲した「極めてお粗末」な代物です。

この”@DjPaooon”氏は読解力が決定的に不足していますから、他人の記事を「ゴミクズ」などと罵倒する前に、小説を読むなどして読解力をつけた方が良いでしょう。

また、この”@DjPaooon”氏は私の記事を「悪質なファンタジー」と言いますが、「(5)ス」で述べたように、中国とロシアと北朝鮮が保有する軍事力をまとめて圧倒できる軍事力を日本が維持できると妄想するこの”@DjPaooon”氏の考えこそ「ファンタジー」なのですから、現実を見据えた国防を考えた方が良いと思います。

なお、念のため指摘しておきますが、この”@DjPaooon”氏は私の記事を「否定」したつもりなのでしょうが、この”@DjPaooon”氏の一連のツイートは全く「批判」「反論」として成立していません。

この”DjPaooon”氏が指摘した①②③④⑤の文章を読み返してもらえばわかりますが、「片っ端から否定できる」と言いながら、理由を明示して論理的に否定したものが一つもないからです。

例えば①では、私の記事に対して「…という前提を完全無視されている〔原文ママ〕」としていますが、なぜその「…という前提」が無視されていたら「否定」できるのかその理由が一切書かれていませんし、しかも「完全無視されている」と感想を述べているだけで「否定」さえもしていません。

しかし、私の記事を「否定(批判)」するのであれば、なぜその「…という前提」を無視したら間違っていることになるかを説明しないと批判として成立しませんから、この①の部分は「否定(批判)」になっていないのです。ただの感想文です。

②も同様です。②では「…ような大変おめでたい論理を展開されている」と述べていますが、なぜ私の記事の論理が「おめでたい論理」なのかの理由もなく、その「おめでたい論理」を「否定(批判)」する根拠も何も示していません。これもただの感想文です。

③では「…安全保障施策の発動が武力攻撃を受けた時点とされている」と述べていますが、これもただ読後の感想文に過ぎず「否定(批判)」にも何もなっていません。

④はそもそも文章が意味不明なので置いておきますが、⑤も「…前提で書かれている」と述べているだけでそれを「否定(批判)」する理由も根拠も理屈も何も書かれていません。これもただの感想文です。

つまり、この”@DjPaooon”氏は「片っ端から否定できる」と連投でツイートしていますが、論理的に「否定」した箇所は一つもなく、ただ「…無視されている」「…展開されている」「…時点とされている」「…書かれている」と、私の記事を読んで感じた感想を述べただけなのです。

この”@DjPaooon”氏は私の文章を「スッカスカの駄文」とこき下ろしていますが、この人の一連のツイートこそ「スッカスカ」で「駄文」ではないでしょうか。

憲法9条の記事を書いたり動画をつくるとトンチンカンな批判が度々寄せられますが、そうした批判のほとんどはこうした批判や反論になっていないものばかりです。

しかし、そうして非論理的な嘲笑をあびせても、憲法9条の議論は一ミリも進みません。

憲法9条の改正を望むなら、専門書を読むなどして憲法を真摯に学び、知的誠実さをもった議論を展開すべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

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