ワシントン会議/海軍軍縮条約とは(五・五・三の軍縮条約)

ワシントン会議とは、1922年(大正11年)にワシントンで行われた国際軍縮会議を言います。

この会議では、戦艦や航空母艦といった海軍の主要艦の比率をアメリカとイギリスが5、日本のそれを3として軍拡競争を制限するワシントン海軍軍縮条約が結ばれました。

つまり、米英にとっては、日本の主要艦の比率を対米英比率で6割に抑えるための会議がこのワシントン会議であったわけです。

一般的には「五・五・三」の比率で結ばれた軍縮条約として広く知られています。

ワシントン会議が開かれた背景

このワシントン会議が開かれたのはもちろん、第一次世界大戦の反省があったからです。

第一次世界大戦がそれ以前の戦争と異なるのは、戦争が総力戦に変わったところにあります。それまでの戦争は武器を持った兵士が局地的な戦場で戦うものであって、失われる命もそのほとんどは戦場で戦う兵士に限られるのが普通でした。

しかし第一次世界大戦からその性質は一変します。戦場は民間人の住む市街地にも広がり、飛行機を利用した爆撃や毒ガスなどの兵器も登場します。そうして死傷者は戦場の兵士だけにとどまらず多くの民間人にも広がっていったのです。

また兵器の機械化が進むことでそれを製造するための工場や労働者も戦争のために動員されていき、いわゆる「銃後」として国家のすべてが戦時体制に集約されることになります。

そして、それを実現させるための政治や法律の整備、あるいは教育や報道の利用などあらゆるものが戦争に組み込まれるようになっていったのです。

つまり、個々の戦場で強いものが勝利するだけだった従来の戦争が、政治や経済、教育といった国家のあらゆる要素を戦時体制に組み込み、その国家の総力が強い方が戦争に勝利するという「総力戦」という形に変えられたのが第一次世界大戦だったわけです。

しかし、こうした総力戦は国民の生活を疲弊させました。戦争遂行のための重税は経済を蝕み、徴兵や徴用が市民の命と生活を破壊したからです。

そのため、戦後の世界では、軍縮の機運が高まっていくことになり、こうした軍縮のための国際会議が積極的に行われていくようになったのです。

対米英比率「7割」にこだわる軍令部と「総力戦」の意味を理解して国際協調に立つ海軍省の対立構造

こうした背景があったことや国際協調の必要性もあって日本もこの会議に参加するわけですが「対米英比率6割」という点が海軍の中で議論になります。

海軍の作戦を立てる軍令部では主要艦の対米英比率が「7割」以上ないと国防を図れないと考えていたからです。

なぜ「7割」かというと、アメリカはハワイやフィリピンなどに、イギリスは香港などに植民地や権益を持っていたわけですが、両国は大西洋にも艦隊を置いておかなければなりませんので太平洋に派遣できる艦隊には限りがあるからです。

迎撃する側の日本は地の利(日本で言えば南洋諸島や台湾などの空港や港を利用できるという地の利)がある一方、攻める側は迎撃する側の2倍の兵力を必要とするという考え方が近代戦にはありましたから、米英が仮にそれぞれ7割の艦隊を太平洋に派遣したとしても総数は14にしかならないので、迎撃する側の日本に7割の艦隊があれば南西諸島の空港や航空戦力を使えば戦力が拮抗して勝てはせずとも負けないということで対米英比率は「7割以上」というのが軍令部の主張だったわけです。

一方、軍政を担う海軍省は対米英不戦論に立って国防論を考えていて国際協調の立場を堅持しますし、先ほど説明した「総力戦」の現実がありますから軍縮は避けられないと考えていて米英の求めに応じて「五・五・三」の比率で条約を結ぼうとします。

結局、全権大使として出席した海軍大臣の加藤友三郎(大将)は「金がなければ戦争はできぬ」ということで対米英比率6割のワシントン海軍軍縮条約にサインするわけですが、先ほど説明した近代戦が「総力戦」になったことを理解できない軍令部はこれに納得できません。

こうして海軍内部で軍令部を中心とした強固派と、海軍省を中心とした国際協調路線とが対立する構造が出来上がっていくのですが、こうした対立がのちの対米戦争突入へとつながっていくことになるわけです。

ちなみに蛇足になりますが、「軍令部」とは大日本帝国憲法第11条で規定された天皇の統帥権を執行する機関で(※陸軍の場合はこれが参謀本部となります)、帝国憲法第4条で規定された天皇の統治権を輔弼(帝国憲法第55条1項)するのが「海軍省(海軍大臣)」、そしてこれらをまとめて「軍部」と呼んだりします。

【大日本帝国憲法第4条】

天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

【大日本帝国憲法第11条】

天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

【大日本帝国憲法第55条1項】

国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス

なお、このワシントン海軍軍縮条約の後も軍縮の話し合いは続き1930年(昭和5年)のロンドン会議に至りますが、そこで合意した軍縮条約がのちに統帥権干犯問題として政界を揺るがすことになって日本は対米戦争への道を歩んでいくことになるのですが、それはまた別のページで解説することにいたしましょう。

参考文献
・半藤一利著「昭和史の転回点」図書出版社刊 6~9頁
・半藤一利著「昭和史 1926~1945」平凡社ライブラリー 27~28頁
・保坂正康著「昭和陸軍の研究」上巻 朝日新聞社刊 39~40頁